閑話:頭痛の種
どうしたものだろう。
ある日の昼餐会。壁際に立つミルラ王女は会場内を見渡し、この日何度目かもわからない溜息を吐いた。
いつものような自由参加の昼餐会。既に会場内には十数人の貴族令嬢や令息たちがおり、使用人も含めれば盛況といってもいい程の人出がある。
その主賓、勇者オギノヨウイチの周囲では今幾人かが挨拶をし、ヨウイチもそんな行事にそつなく応えている。
だがときたま会場内を漂わせる視線はミルラと同じ理由であり、そして内心の溜息も、種類は違えど同じような理由からだった。
理由とは簡単なもの。伯爵家令嬢、ルル・ザブロックの不在である。
この昼餐会。昼餐会というのは建前のもの。本来この場は令嬢たちが勇者であるヨウイチに自分を売り込むための場で、そしてもちろん令嬢たちもそれは心得ている。
なのに、ルル・ザブロックは来ない。
無意識に、ミルラの爪が背後の壁を掻く。
ルルの来ないその理由の二つを考えて、ミルラは頭が痛くなる思いだった。
「一緒に行きましょうよ」
「いや、その、俺馬には……」
ミルラの視線の先にいる茶色い髪の女性。勇者と長々と話しているのは、ネッサローズ侯爵家次女、ヴィンキー・ネッサローズ。それとその取り巻き二人。
彼女らが、理由のまず一つ目だ。
「この国のために戦っていただくんですもの。でしたら、この辺りのことをよく知っていただかないと」
ふふ、とヴィンキーが笑う。横にまとめて垂らした髪がそれに合わせて微かに揺れ、垂らされた香油の匂いがわずかに周囲に漂った。
ヨウイチとの会話は挨拶に始まり、それから今は遠乗りへの誘い。
この王都からわずか北に進むと、ネルグと比べるとほんの小さな森がある。小さなといっても、獣もいれば川や池もある、それなりの生態系が築かれた立派な森であり、子供が深く入れば危険な場所だったが。
彼女はその森の手前、ネッサローズ家所有の庭園までヨウイチを誘っていた。
近場、しかしそれでも遠乗りである。
馬車で行ってもよいが、それでは趣がない。ヨウイチが馬を駆り、そこへ乗せて欲しいとヴィンキーは何度も頼んでいたが、ヨウイチの反応は芳しくなかった。
「馬は乗れないので、その、ごめんなさい」
「あら残念。でしたらば、馬車でご一緒に」
「いえ、あの、俺まだ訓練とかそういうのがあるので……」
ヨウイチが、何度もやんわりと断る。
馬に乗れないから。訓練が忙しくて時間が取れないから。
その理由自体は真実だ。ヨウイチは未だに馬を駆るような訓練も積んでおらず、そして日本でも乗馬の経験はない。馴れた馬ならば乗る程度は出来るものの、操作もできずに乗るのは危険極まりない。
訓練も同様。未だに続く午前の聖騎士に混じる部隊教練と、午後の魔術の訓練はほぼ休日なく続けられており、そして休日は勇者が希望しない限りとれないもの。
そんな、もっともらしい断り文句。
だがその使い方に、やはりと笑みを浮かべたまま、ヴィンキーは忌々しく目を細めた。
(頷いてただついてくればいいものを……)
気に入らない。笑みの裏で、そんな感情が渦を巻く。
「申し訳ないですが、また今度お誘いしてもらえれば嬉しいです」
「あら、残念です」
落胆の演技も演技ではない。そして、扇子で隠した口元は、わずかな屈辱で歪んでいた。
しかし扇子を取り払ったときにはその口元もきちんと修正され、平静と優雅さをその顔に纏う。
「だったらせめて、今日の晩餐のおもてなしを当家でさせていただけませんこと? もう少し勇者様のことを知ってみたく存じますわ」
もちろん『その後』も。そう内心舌なめずりをしながら、気品ある笑顔で申し出る。
婚前交渉などありえない、という貴族たちの常識。そんな形骸化した常識を、ヴィンキーも守る気はないし、もはや守ってもいない。
そして行為に及べば必ず勇者は自分に溺れるだろう。この女性経験の無いであろう立ち居振る舞いは、それを示すのに充分だ、とまで考えていた。
「それもちょっと……」
「あら、何か先約がございまして?」
地位の高い令嬢の例に漏れず、ヴィンキーも自分の容姿に絶大な自信を持っている。誘った男性は断らず、そして周囲の皆は自分を褒めそやす。そんな環境の中に身を置いている彼女は、特に。
なのに目の前の勇者は、自分の誘いを断り続ける。ビャクダン家の令息すらも溺れさせた自分に屈することなく。それが堪らなく不愉快だった。
もっとも、彼女の自信の根拠、ジュリアン・パンサ・ビャクダンも、遊びだと思い応えているだけだったが。
「そういうわけではないんですけど、俺、かしこまって誰かとご飯食べるの苦手で……」
「でしたら、こういう風な立食形式にいたしましょうか?」
「それも……」
うーん、とヨウイチは困ったように笑う。ように、ではなく実際に困っていた。
恋愛経験のほぼない彼にとっては、女性からの食事の誘いというのは重要な意味を持つ。
簡単には頷けないのだ。
しかし、はっきりと断ることも出来ない。ヨウイチは、そんな術を知らない。小学校のうちは女性の友人はいたものの、中学で段々と皆疎遠になり、高校に上がってからは、話せる女性は部活の先輩後輩のみとなった。
あとは、実家の道場に通う子供たち程度。
ヴィンキーのような、明らかな『男女関係』を意識させる女性には、ヨウイチは一切の免疫を持ち合わせてはいない。
故に、断らざるをえない。それも、配慮という名の遠回しの表現でしか。
はっきりと断らない。そんな煮え切らない態度のヨウイチに、ヴィンキーは内心苛立ち始める。
慣れていない、ということは読み取れる。それ故に踏み出せないということも、見方を変えれば初心で可愛くすら思える。
だが、自分の誘いに乗らない。それは、ヴィンキーにとって堪らなく不愉快だ。
どうにかして勇者を自分のものにしたい。そうヴィンキーは願っている。
何せ、勇者だ。
見るからに気弱で、頼りなく、この国や家を任せられる男ではない。だが、勇者だ。
令嬢たちの社交界。
まだ婚姻前の集まりでは、仲良しこよしでいられることもある。話題は習い事や領地の出来事、また親たちの地位のこと。そんな自分たち自身とはあまり関係のないことを話し、まだ上下関係もそう厳密には求められていない頃。
だが、これからは違う。
ヴィンキーももう二十を数える頃。これからは周囲や自らも結婚し、令嬢ではなく誰かの夫人として扱われていくことだろう。
そんなときに、夫のことで周囲に下に見られるわけにはいかない。
子供の頃から付き合っていた者たちには、既に結婚している者もいる。既に園遊会やお茶会で、その相手の自慢をされることも増えてきていた。
ヴィンキーは、既に侯爵家の娘だ。同格はいても、上には公爵家もしくは王族しかおらず、彼女自身の価値は些かも損なわれてはいない。
けれども不満だった。腹が立った。
今まで使い走りのように扱ってきた伯爵家の令嬢が、同じ伯爵家に嫁いで名字を変えたこと。そしてそれを幸せそうに自慢してくる。
老けづらい元聖騎士を婿に取った子爵家の令嬢が、旦那と仲睦まじく腕を組んで歩く姿を見る。
そんな幸せそうな姿を見る度に、ヴィンキーの胸に言いようのないむかつきが現れた。
地位ある家に生まれた。ならば自分は彼らよりも上にいるはずであり、そして彼らこそが自分を羨むことになるはずだ。
まるで逆ではないか。奴隷は王を刺さない。人にはそれぞれに、相応しい場所があるはずなのに。
だからこその、勇者だ。
先代の勇者は神話の時代。世界を救うという偉業を成し遂げた希代の人物。そこまでは及ばないだろうが、今代の勇者も名声という点ではそう大差はあるまい。
彼を婿に迎えれば、もしくは彼が爵位を得てそこへ嫁ぐことが出来たのならば。
羨むのは彼らで、羨まれるのは自分。
そんな正しい関係に、戻れるはずなのだ。
「やめたまえよ、ネッサローズ様。勇者様も困っておいでじゃないか」
「…………!」
どうにかして勇者へと接触の機会を持ちたい。そう何度も誘い続けていたヴィンキーに声がかかる。
不快な声。自分と同格、侯爵家に生まれ育った変わり者。
扇子を広げて歪む口元を隠しながら振り返れば、そこには彼女ともう一人、侯爵家の令嬢がいた。
明るい栗色の髪に、何の洒落か小さな帽子を被せている。黒と白の服にはそこかしこにひだ状の縁飾りがされており、裾や袖の短さも相まって優雅さなど微塵も見えない。
対してもう一人は正当な清楚な衣装。細かな花柄により、白地のはずが木綿色に見えるような丈の長い衣服。地味なその服が、巻いた金の髪を殊更に目立たせていた。
「……クロックス様、ヴィーンハート様、ごきげんよう」
「ごきげんよう。そろそろ順番を譲ってはくれないのかい」
「ご機嫌麗しく、ヴィンキー様」
ざっくばらんに返すティリーと、恭しく丁寧に優雅に改めて挨拶をするルネス。その対照的な仕草に、ヴィンキーは何故かまた苛つきを覚えた。
もっとも、二人の作法は大間違いだ。声をかけるだけならまだしも、挨拶はこの場でもっとも立場が上の勇者に対してまずするべきだった。
それに気づいたヴィンキーは、にやりとした笑みを隠そうともせずに声を上げた。
「あら……」
「勇者様におかれましては、ご機嫌麗しく存じ上げます」
だが、その言葉の途中でティリーが頭を下げる。
自分など全く眼中にない、という態度に、ヴィンキーはまた目元が崩れた気がした。
ヨウイチは、二人を見てホッと溜息をつく。
ヴィンキーからのしつこい誘い。相手が意中でなくとも仲のよい女性なのであれば嬉しいものも、知り合い程度の仲ではなかなか断りづらく受け入れづらいものだ。
ティリーはもはやヴィンキーに一瞥もくれず、会場を見回して泣きぼくろを掻いた。
「いやはや、しかし、参加者も少なくなった」
「……そう、ですね」
後ろで「ちょっと」と小声で止めるルネスを無視して、ティリーはへらりと笑う。
「まあ仕方もない。私たちも仕事がないわけじゃないし、そもそも情も脳もある人間だからね。強制参加でもない昼餐会に出続けられるほど熱意も暇もあるやつも少ない」
「熱意や暇……っすか……」
ヨウイチは、ティリーの言葉を反芻する。そのどちらかがないと来ない、のであれば。
今、ここに来ていない彼女の、来ていない理由は……。
「そだ」と、ふと何かを思いついたかのように、ティリーがその気怠げな目を開く。
「そろそろ、勇者様も嫁は決まったろう? どうだい? それが誰だか私にこっそり聞かせてみちゃあ」
「ぃっ……!?」
勇者がティリーの言葉に固まる。嫁という言葉に。そしてルネスは、溜息をつきながら幼馴染みの言動に眉をしかめた。
「やめなさい」
「え? いやだって、勇者様だってそのお役目を忘れたわけじゃあないんだろう?」
だが、ルネスの言葉にもティリーは動じない。「まさかぁ」とやや困惑した目だけを見せて。
「……まあ、そうだね。もし仮に勇者様に意中の誰かがいたとして、もう粉はかけてるだろうし、もちろんミルラ様もご存じだろうしね。既に内密に婚約を済ませていてもおかしくはない」
うん、と一人でティリーは納得するように腕を組んで頷く。
「今芽がない私たちは、もう眼中にないもんね。わかるよ」
「いや、そういうわけじゃ……」
ヨウイチは、その言葉を否定していいのかわからずに戸惑う。ティリーとしては本音を話しているだけだったが、それが皮肉にも聞こえて、やはり否定するべきだろうかとも悩んだ。
そんなヨウイチに、ティリーがぐいと顔を近付ける。林檎の香水の微かな匂いが、ヨウイチの鼻に届いた。
「じゃあ、私にもまだ好機はあると見ていいのかな? どうかな? 我が家に婿入りすると、とても良い特典がついてくるよ」
「特典、ですか?」
「そう。特典。我がクロックス侯爵家は代々王都や副都の時計鍾の管理を仰せつかっている家でね。その意味がわかるだろう?」
「…………いえ?」
拍子を取るための相槌ではなく、本当に意味がわからずヨウイチは首を傾げる。そんなヨウイチの顔が面白く、ティリーは人差し指を立てて得意げに笑みを浮かべた。
「当家当主になれば、王都や副都の時間は思いのまま。朝寝坊だって絶対にしなくなる。なにせ、勇者様が起きたその時が朝で、寝るその時が夜なんだから。朝ご飯だって何度でも食べられるよ」
「出来るわけないでしょう」
そろそろ本当にやめさせないといけない。
そう感じたルネスが、閉じた扇子でティリーの立てた指を軽く叩く。
「もしもそれが本当に出来るなら、貴方が起きてる時間はどうなってますの」
「仕方がないだろう。私は当主じゃないんだから」
叩かれた指を軽く払いながら、ティリーが文句を口にする。
ティリーも、よく家人に文句を言われているのだ。まだ日も昇らぬうちから目を覚まし、庭に出て花の世話をすることを。
空気に耐えられなくなったヴィンキーが、盛大に溜息をつく。勇者にもルネスにもティリーにも聞こえるように。
「とりとめのない話をするんでしたら、この場から消えてからお願いしたいですわ」
「おや、ネッサローズ様、貴方の話はとりとめがあると?」
かかった。そう判断したティリーが、ヴィンキーの言葉に応える。
「そういう意味ではありませんわ」
「ではどういう意味なんだ?」
ん? とティリーが質問を重ねる。もちろん直接的な罵倒などは出来ないが、出来る限り不興を買うように。
少々険悪になってきた雰囲気。それに戸惑い、ヨウイチは事態を静観する。
この二人の関係がよくわからなかった。親しくない、ということはわかる。けれども、元々仲が悪かったのだろうかとそんなことを考えつつ。
「お二人とも、そこまでに」
さすがにそろそろ止めなければまずいだろう。会場の端から顛末を見ており、そして警戒をしていたミルラがそこに歩み寄って止める。
ティリーもヴィンキーも、一歩下がりつつ頭をわずかに下げる。
その不満がまだ顔に残っているヴィンキーへの対応をわずかに考えつつ、ミルラは勇者を見た。
もとよりミルラもヨウイチに止められるとは思っていなかった。しかしそれでも何とかしてほしかったというのも本音だった。
「これは失礼した。ネッサローズ様、ごめんね」
「……謝られている気がしませんわね」
ティリーの言葉に、ふん、とヴィンキーが鼻を鳴らす。ヴィンキーは謝罪する気など一切なかった。むしろ、何を謝罪しなければいけないのだろうとすら考えていた。
ミルラは溜息をつく。
「…………お二人とも、熱心なのは良いことですが、あまりに露骨にやり過ぎるのもどうかと」
「失礼失礼」
ティリーの王族へ対するあまりに不遜な態度。それが先の自分を軽んずる態度に混ざり、ヴィンキーは更にそれが腹立たしく感じた。王家への敬意など、一切持っていないにもかかわらず。
畳んだ扇子が軋む。
ミルラはティリーに対して何も言わない。ここで身分についてを殊更に責め立てるのは、勇者の不興を買う行為だと理解して。
「……ごきげんよう。失礼致しますわ」
ヴィンキーがヨウイチに対してかろうじて笑みを作り、踵を返す。何もかも上手くいかず、ただ不機嫌になり。
取り巻きたちも追従する。常に周りでただひそひそと話をしていた彼女らも。
足音がついてくるのを聞きながら、ヴィンキーが奥歯を噛みしめる。
どうしたものだろう。
ティリー・クロックスは勇者を本当に狙っているわけではない。そうヴィンキーは理解している。あれはただの自分への当てつけで、そして自分の滑稽さをその身を以て示しているだけなのだろう。
怒れば器が小さく見える。だが、我慢出来ない。この自らの努力を嘲笑うようなあの姿や言動が。
彼女も排除すべきだろうか。そう、ヴィンキーは唾を飲む。
彼女は敵ではないが目障りだ。あれが視界に入らないだけでもそこそこ胸がすくだろう。
しかし、出来るだろうか。
あの伯爵家の娘は上手くいったらしい。取り巻きたちに彼女の素行不良という嘘の証言をさせて、陳情を並べて抗議を入れた。聖騎士たちも巻き込む嫌がらせ。
結果として、ここ二日ほどは部屋から一歩も出ていないらしい。ならばもう敵ではないのだろう。
けれどもティリー・クロックス相手にはそうもいかない。ルル・ザブロックよりも高位の貴族の娘。大貴族というほどではないが、時計鐘の管理という名誉ある仕事を任せられるほどの名家。取り巻きたちも、彼女とは積極的に敵対したくはないだろう。
それに、彼女の幼馴染みであるルネス・ヴィーンハートも馬鹿には出来ない。ティリーや自分以上に顔も広く、味方も多い彼女と敵対するのは得策ではない。
忌々しい。忌々しい。
勇者を手に入れるのは私と決まっているはずなのに、邪魔者が雲霞の如く湧き出てくる。
「開けなさい」
扉の横にいた従僕に、昼餐会会場の扉を開けさせる。まだ食事に手をつける前だということも忘れて、帰るために。
恋ではない恋。今や視界に映る女性全員が、ヴィンキーにとっては恋敵に見えていた。
ヴィンキーを見送り、ヨウイチが溜息をつく。
今日、ヨウイチは溜息が多い。それに気づくのは近くにいる時間が長い者でなければ無理とも思えるが、その理由を知っているミルラ達は全員がそれに気づいていた。
ヴィンキーが消えた安堵、だけではない。
ヨウイチはルネスの方を向く。いつも、『彼女』と一緒にいた彼女に。
「ルルさん、何か都合でも悪かったんでしょうか」
先ほどティリーに聞いた言葉。熱意と暇。それを思い浮かべて勇者は内心首を横に振る。彼女にどちらもない、とは考えたくない。そして特に今まで感じたこともない前者は。
聞かれるとは思っていた。その答えも用意していたが、ルネスは一瞬答えに詰まる。ここで全てを話してしまえば、ディアーヌの言うように事態は好転するようにも思えて。
しかし、ルルとカラスの言い分もわかる。なにより、一応はこちらがルルの希望だ。ならば、そうせねばなるまい、と聞こえぬように生唾を飲んだ。
「少し体調を崩しておりますの」
「……悪いんですか?」
「いいえ。そうでもないんですけれど、……うつる病かもしれないから、しばらく誰とも会わないようにするそうですわ」
閉じこもっている理由が貴方です、とヨウイチには言えない。ミルラもそれを望んではない以上、理由を言わないかでっち上げるか、しかない。
それが嘘だとわかりつつも、ミルラはその場で頷いてそれに同意した。その間に、自分が何とかするから、とも、誰にも言わずに決意していた。
「未来の嫁が気になるなら、会いにいけばいいんじゃないか?」
「貴方っ……!」
「ょ……!?」
会わないようにする、という言葉をルネスが吐いた直後に、ティリーがそう口にする。その言葉に、その場にいた全員が絶句していたが。
「冗談だよ。でも、会えないなら文でも認めればいいだろう?」
「ははは、冗談きつくないですか? いやでも、……」
乾いた笑いを発しながら、ティリーの言葉に、カラスにも薦められたとヨウイチは思い出す。
「……手紙、ですか……」
あれから文字の練習はしているが、まだ一向に上手くなったとも思えないけれども。
「……じゃあ、頑張ってみます。とりあえず、お大事に、と伝えてもらえますか?」
「わかったよ」
会えないのに、どう伝えろというのだろうか。そして、どう伝えるというのか。
そんな疑問がルネスとミルラに湧き起こるが、当人達が気にしていなさそうだったのでそれはあえて無視した。
とりあえず文字の練習を。
そうヨウイチは考える。またマアム達に習いつつ、格式張った文でなくともせめて平易な文は書けるようにしたい、程度には決意する。
未だ文法は、一切理解できてないのも問題なのだが。
(……あれ……?)
そんな決意の最中、ヨウイチはふと思う。
ルルは病、らしい。ならば治療師などにはかかっていないのだろうか。
いや、治療師でなくとも。
カラスは、名の知れた腕の立つ薬師……薬剤師のような職業らしい。ならば、彼ならばすぐにでも。
「では、勇者様、私たちも退散するよ。ごきげんよう」
「……あ、はい、どうもでした」
もはや取り繕えることもなく、勇者は思考を止めてティリー達へと挨拶を返す。
今し方考えていたことも忘れ、次に来た令嬢の対応をするべく気を引き締めていた。
ルネスたちの背中を見つつ、ミルラは考える。
ルルの来ない理由の一つ目は、ヴィンキー。彼女による嫌がらせでルルは外へと出なくなった。
そしてもう一つの理由。カラス。
ミルラにとっては思いも寄らなかった。だが、マアムたちの進言に間違いはないのだろう。王城の外へと出たりする度に、ルル・ザブロックと探索者カラスの仲は深まっている。
以前話したときも感じたこと。ルルの心根は平民だ。青い血たる高潔な貴族ではなく、情に染まった赤い血の平民。
だからなのだろう。本来障害たることもないはずの彼の存在が、ルル・ザブロックと勇者を結びつける際の大きな障害となってしまっている。
それでも青い血を半分受け継いだ身か、と叱ってやりたくなる。
使用人に誑かされ、騒動を巻き起こす令嬢や令息はままあるものの、それをミルラは認められない。
物語の中ならばいいだろう。そのような話は見るものを楽しませて、破滅するにしても栄達するにしても、それは架空の出来事だ。
だがこれは物語ではない。
彼女はこの世に生きる人間で、そしてその選択には彼女の一生がかかっている。
いいや、選択する権利などないのだ、本来は。
もはや察しはついている。
部屋から出ないのは、勇者との婚姻に否定的だから、と。
たしかにあのカラスは忌々しいことに見目麗しいこともあり、使用人たちからの人気もある。ならば、主従の関係であろうとも、目を引かれてしまうというのは理性では理解出来る。
ルル・ザブロックが部屋から出ないのは、それもあるのではないかとミルラは推察する。
それが正しければ愚かしい話だ。芸術品を外に出さずに、衆目から隠すような真似。それこそ、夢物語に耽る幼い少女が取るような行動。
マアムの話では、カラスの方もルル・ザブロックには好意的だという。
だが一応、ミルラの印象からならば、彼は身を弁えている。何があろうとも、直接的な行動にはでないだろう。
けれども彼が横にいるだけで、勇者からの接触の邪魔にはなる。
どうしたものだろう。
最も簡単な解決策は、『事実』を作ってしまうことだ。
勇者をその気にさせて、王命として彼らの結婚を命じる。そうすれば否応なくルル・ザブロックは勇者の嫁になるだろうし、カラスも邪魔は出来ないだろう。
しかし、それが勇者のお気に召さないのも感じている。
勇者は、恋愛がしたいのだろう。お互いに親密になり、やがて夫婦となる庶民のような真似をしたいのだろう。
下らない話だ、ともミルラは思う。
そんなこと、結婚をしてから存分にやればいいのだ。みなそうしている。現在夫婦仲の良いとされる貴族ならば、皆。
だがそれが勇者の意向だ。急ぎ、ルル・ザブロックとの仲を取り持たなければ。
戦争は目前に迫っている。今はまだ半端でしかない勇者の戦う理由をこの国に作らなければ。
そのためには、彼を、引き剥がさなければ。
ルル・ザブロックとカラスを、とりあえず物理的に。
どうすればいいだろう。
それを考え、改めてミルラのこめかみが痛んだ。
そして、そのこめかみに添えようとした指の先、爪が傷んでいる。
ひっかくようなその感触に、何かを思いついた気がした。