仲間入り
「こちらへ」
マアムに案内されて入った勇者の部屋。やはり国家の重要人物。さすがにルルの部屋よりも数段広い。
まず、ルルの部屋を全て合わせたものの半分ほどの大きさの、玄関ホールのような部屋。そこからトイレやおそらく寝室、居間に応接室、と接続されている。
ルルの部屋であれば部屋同士が直接扉で繋がっているが、勇者の部屋にはきちんと廊下がある。それでいて壁には所々に窓があり、風景こそ見えないものの外の光が直接入ってきているということは、それ用のごく小さな中庭のようなものがあるのだろう。さすがに直射日光は来ないだろうが。
既に昼過ぎ。廊下の窓からは、壁に反射し白んだ間接光がぼやっと差し込んでいた。
調度品の良い悪いはあまりわからないが、傾向としてはやはり王城内の廊下に置いてあるものと同じタイプのもの。花瓶を置く台やその花瓶そのものなど、類似点がある気がする。
腰壁は板張りで、その上には漆喰の壁が続く。粒子が細かく、鏝の跡も見えない熟練の業。触って確かめてはいないが、触るとつるりとした感触すらありそうなほどの。
そして通された部屋は、ダンスホールのような部屋。
調度品は壁際にしかなく、毛足の短い絨毯が敷かれていた。
……その中央から少しずれたところの絨毯が少しだけ擦れて傷んで見えるのは、多分勇者がここで剣の素振りでもしたのだろう。
その床の傷から少し離れたところに置かれている燭台。マイクスタンドのようなそちらは、本来乗っているべき蝋燭が立てられていない台だけの姿だった。
部屋の片隅に、転がるように置かれている剣。鞘付きで、何となくその曲刀が、この世界で見慣れない形の気がした。
「まず、自慢したいんですけど」
へへ、と笑いながら勇者がその剣に駆け寄り持ち上げる。そして僕の目の前に掲げるように出すと、笑みを強めた。
「俺の! 剣です!!」
「へえ……」
受け取ってもいいのか、と思ったが一応勇者もその気らしい。更に腕を伸ばして僕が受け取るように催促する。僕がそれを受け取ると、その鞘の形から想像されるよりもわずかに軽い重みが僕の腕に伝わった。
長さは僕の腕より少し長いくらい。鍔は扁平で刃と峰の方向にしか伸びていない金属製。だがやはり、剣先が少し軽い。柄を持ってみれば、重心が普通の剣よりも大分手元に寄っている。
そしてまあ気になるのは、柄の先から伸びて、先が巻かれて縛られてまとめられている紐の存在。指よりも細く、中に鋼線のようなものが編み込まれているようだが、伸ばせば多分十歩分くらいはあるだろう。……そこまではないかな?
これを持って振り回す、とかするのだろうか。実際使われているのを見たことはないが、鎖鎌か何かのように。
「抜いても?」
「どうぞ!」
親指に力を込めて鍔を持ち上げ鯉口を切る。柄の装飾はただ糸が巻かれた簡素なもの。
そして鞘から出てきた刃の部分に、僕は息を飲んだ。
「……鉄、じゃないですね」
「よく知りませんけど、なんか凄い珍しい金属が使われているらしいです」
色はほんのわずかに赤みがかって見える磨りガラスのような白。なのに質感としては金属に近く、光沢もガラスというよりもやはり金属だ。
形としては片刃。だが、鞘を全て抜き放つとその切っ先だけは両刃になっており、まるでレイピアのような刺剣のように見える。
そして剣先から鍔まで視線を動かすと、床がその刀身を透かして映っていることに気が付いた。
僕も金属には詳しいわけじゃない。けれど、たしかこれは……。
「緋々色金……じゃなくて、その精錬前の……ええと、青生生魂……でしたっけ?」
「そんな風に言ってたと思います」
僕は爪の先でその刀身を軽く叩く。澄んだ音すら響かないその金属は、緋々色金を凌ぐ剛性を持つと聞く。
ムジカルでも何度か見たことはある。ただし、僕が見たのは小刀や寸鉄で、それらも刃先のほんのわずかな部分にのみ割り込み加工されているようなものだった。それだけでも金貨数枚は必要な高価なものだったが。
これはおそらく、茎まで含めた刀身や、目釘まで全てその金属。緋々色金には及ばないものの、どれほどの値打ちがあるんだろうか。
窓に透かすように剣をかざせば、その窓の形がはっきりと見える。きっとこれは、美しい、という形容詞が似合っているのだろう。
……この形が日本刀に似ているのは、ほんの少しだけ気に入らないことだけれど。
「形も切っ先両刃作りにしてもらったんです。俺、そのほうが使いやすいので」
勇者が先ほどと逆に、空手で僕の前に手を差し出す。今度は、返せというサインだろう。もちろん僕はそれには逆らわず、鞘に刃を収めて手渡した。
そして戻ってきた剣を胸に抱くようにして、勇者はしみじみと目を細める。
「……この前、ルルさんと街に出たときに、……カラスさんはついてきていたんですよね?」
話題の転換……でもないと思う。だが唐突な言葉に、僕は静かに頷く。
「はい。勝手ながら、お嬢様の警護を人に任せきりには出来ませんので」
「俺、そういう決まりとかよくわかんなくて……じゃなくて、今はその話じゃなくて……」
勇者がまた剣を少し抜いて、親指だけで元に戻すことを繰り返す。扱いには慣れている、という気がする。
おそらく模擬剣は振っているのだろう。抜刀術のために。
「その時も言ったんですけど、こういう刃物とかって、俺の国だと持っちゃいけないんです。持つには、役所に届け出を出して、登録証を貰ってって、面倒だし、……それに、祖母ちゃんが俺に握らせてくれませんでした。まだ早いって」
「危険だからでしょうか」
「どうでしょう。俺だって、むやみに振り回しちゃいけないってことくらいわかってるつもりなんですけどね」
はは、と力なく勇者は笑い、鞘に収めた剣を持った手をだらりと下げる。
「でも、だから、俺この世界に来て初めて、俺の剣を手に入れたんです。といっても、俺が買ったわけでもなくて、貰っただけなんですけど」
寂しそうに最後は呟き、勇者はやや俯く。そして、「それでも」と口にしながら顔を上げてこちらを見た。
「俺の剣なんです。この世界の人にはわからないかもしれませんが、ようやく手に入れた俺の剣」
「……嬉しそうですね」
「はい!」
その興奮している様子は、心からのものだろう。そして嬉しいのも本当。
この城に初めてきたときとは雲泥の差で、僕と初めて話したときとも全く違うその様子。
魔術以外に楽しみが出来た。もはや帰れない祖国ではなく、この世界で日々の楽しみを見つけた顔……それはきっと本当に喜ばしいことなのだけれども。
「本当に見事な剣ですが……、すると、勇者様が習得した魔法というのは、やはり剣を使ったものなんでしょうか?」
「あ、は、はい」
僕は強引に話を戻す。自慢話も結構だが、用件を教えてほしい。相談があるという話だが、それも魔法とは別件で、そして魔法のことを片付けなればきっと勇者も話さないだろう。
そして、勇者の魔法というのも気になる。
実はそれなりに、僕の好奇心も刺激されている。エウリューケのように激しくはないが、それでも未知のものを探る楽しみというのは僕にもあるらしい。
「この剣で、素振りをしていたときに発見というか、出来るようになったんですけど……」
勇者が部屋の壁に歩み寄る。だがその歩みは動き出したマアムに遮られて途中で止まる。
マアムが部屋の腰壁をこするように引っ張ると、そこが戸棚のようになっていたらしく引き戸のように開いた。
「……何か的は……」
「蝋燭をお使いくだされば」
そして裾を払いながら立ち上がり、燭台に火のついていない蝋燭を立てる。
「壁の方へどうぞ」
マアムが僕へ壁際を示す。離れていろということだろう。僕は頷き勇者から離れるように、燭台とも距離を取るように壁際に寄った。
勇者は立つ。先ほど自慢した剣の鞘を抜いて地面にそっと置いて。
「……見ててくださいね」
それから一旦深呼吸をして、息を整える。それから中段の構えをとり、蝋燭を見据えた。
燭台までの距離としては五歩以上。もちろん剣を思い切り遠くまで振っても、全て空振りになるはずだが……まさか。
おそらく、蝋燭への攻撃を見据えている。
僕はそんな推測をして、その方法を考えるが、正直あまり考える余地もない。
先ほど柄尻から紐が伸びていた。あの紐を持って振り回す、ということも考えられるが、その構えからはしまい。
ならば、原理はともかく、考えられる現象は一つ。
もう一度勇者は深呼吸をする。
「…………行きます」
そして言葉を吐くと同時に剣を静かに振りかぶり、勢いよく振り下ろす。
剣は振り切られることなく蝋燭を向いたところで急制動しピタリと止まる。
その剣の先で、蝋燭が縦に割れて床に落ちた。
「…………!?」
思った通り、だが僕はその目の前の光景に驚愕し言葉を失う。
剣が触れていないにもかかわらず、離れた場所の蝋燭が切れた。
確かに魔法のような光景。いや、確かにこれは魔法だ。飛ぶ斬撃とでもいおうか、紛れもない、魔法の一撃。
「どうやって……?」
「俺もわかんないんです」
僕の思わず口にした呟きに、構えを解いた勇者が恥ずかしげに笑う。だがきっとこれは、もっと喜び、そして誇っていいことではないだろうか。
「……剣風とか、そういうものですか?」
「俺、そういうの出来ませんから」
とうとう勇者が恥ずかしそうにはははと笑う。
「でも、何でか知らないけど、切れるんです。本当に、何でかわからないんですけど」
言いながら勇者は落ちた蝋燭の欠片を拾い、元に戻すように断面を組み合わせる。確かにその蝋燭は、一刀両断、という姿に変じていた。
僕は恐る恐るとそれを受け取り、断面を確認するがそれは変わらない。衝撃を加えて割れたとか、折ったような断面ではない。明らかに、斬ったものだ。
「申し訳ないんですが、……もう一度見せてもらっても?」
「いいですよ」
勇者に了承をとり、僕は新しい蝋燭をマアムから受け取り燭台にセットする。燭台にも当然仕掛けのようなものはない。ならば、やはり。
確かめるために、僕は薄く魔力圏を伸ばす。ごく薄く、勇者からは何も感じられないほど薄く。
勇者と蝋燭の間の空間。その間に、何が通ってもわかるように。
「じゃ、もう一回」
先ほどと全く同じに勇者は構える。中段、この構えは、これで固定なのだろうか?
今度は先ほどよりも呼吸は乱れず、同じように剣が振られる。そして僕はそこで、風か何かが剣から飛ばされているのかとも思っていたが。
蝋燭は、刃が食い入ったかのように跳ねて、そのまま床に落ちる。今度は割れていない。中程までは深々とした傷が入っていたが。
「あ……ごめんなさい、……失敗しました」
「いえ」
蝋燭を拾い上げて、燭台に載せながら僕は今魔力圏から感じられた感触を思い出す。
何も通らなかったわけではない。だが、風とか何か通常の物質が飛んだわけではない。
ただ、勇者から魔力波が飛んだ。指向性もなく、方向的には部屋全体に広がるように。
距離的にはそんなにはない。それこそ今の勇者と燭台の間程度の距離で、僕もマアムも範囲外だ。だからこそ、初回で僕は気づかなかったのだろう。
そして、もう一つ特異的なことを見つけた。
勇者が振った剣。その剣は、魔力波ではなく魔力圏で覆われている。勇者の手足すらも、まだ魔力圏はなさそうなのに。
それだけならば一応驚きはない。生物でなければ、大抵の物質には魔力は簡単に通せる。
けれども……。
「もう一回やります!」
「お願いします」
元気よく勇者が剣を構える。そして最初のように集中して、蝋燭を見据えた。
けれども、不思議ではある。
たとえ魔力の通る物質であろうとも、自分の体よりも魔力の通しやすいものはない……と僕は思う。魔力圏を出せるのであれば、それは自分の体から出す方がどうしてもやりやすい。
長く使っている道具だからだろうか? 聞いてみたわけではないから、勇者がそれを意識的にやっているかどうかはわからない。けれどもし無意識だとしたら、それは『剣』だから、……とか。
もう一度勇者が剣を振る。今度は綺麗に斜めに断ち切られ、下半分を残し蝋燭が床へと滑り転がり落ちる。
それを見ながら僕が無意識に感嘆の息を吐くと、得意げに勇者はまた、切れた蝋燭を示して笑った。
それから僕のリクエストに応えて何度か勇者は剣を振る。結果は毎回同じようで違い、きちんと蝋燭は切れて落ちたり落ちなかったり切れなかったりした。
魔力波を遮っても、蝋燭の切れる切れないに影響はなさそうだったのが不思議なところだが。
そろそろ、と僕は引き際を感じて検証を取りやめる。使った蝋燭は五本程度。しかしそろそろ反感が出る頃だろう。さりげなく『もう充分』だと勇者に伝えると、勇者も気が済んだのか素直に剣を鞘に収める。
「魔法使いは、魔法を『最初から使える』もしくは『気づいたら使えていた』のどちらかだそうです。勇者様は後者だったようですね」
「俺もこれで魔法使いの仲間入りですよね! カラスさんと同じ!!」
「……ええ」
同じ、と言われて一瞬ギクリとしたが、そういえば既に勇者には僕が魔法使いだと言っている。……ならばそろそろ、闘気との両立の矛盾が出てくると思うが。
闘気と魔力が両立しないのは、ある一定以上の階級には常識だ。ゆえにあえて教えることをしないのかもしれないが、先代勇者の特徴ということで必ず教育はされると思う。
今思いついたが、勇者に対しては嘘を吐くのはどうだろう。クロードとの演武では、魔法を使って闘気を使える真似をした、とか。
現に、再現ならば出来る。体から立ち上る白い光、その程度であれば。
実際に打ち合ったクロードや、聖騎士たちは誤魔化せずとも勇者ならば。
うん、と僕は内心頷く。
そのときにはそうしようか。それを……ディアーヌには使えなかったが、ルネス相手に思い浮かばなかったのが悔やまれる。
簡単なことだ。
余人の、僕への悪口を本当のことにする、というだけの。
僕は真っ二つになっている蝋燭を拾い上げ、その片割れと合わせる。
「ただ、魔法使いの証明というか、魔法使いには共通の合図があるらしいです」
「合図?」
左手でまとめて蝋燭を持ち、合わせ目の下に右手の人差し指をかざす。
「指先に、火を灯すこと」
そしてその右手の人差し指から上げた炎で蝋燭を炙り、接合していく。
さすがにそれだけでは綺麗には直らないが、くっつけるくらいならわけない。
僕は昔、グスタフさんにその方法で魔法使いであることを示した。
後に知ることにはなったが、その時には知らなかった。勇者の英雄譚……その子供向けの物語にも出てきた勇者の仕草が、魔法使いを示す由緒正しきものだったなんて。
そしてその由緒正しき合図が、人間たちには伝わらないなんて。
表面を固め、一周。内部には空洞があるが、それでも元の一塊になった蝋燭を勇者に手渡す。
「ヴァグネル様は、それが出来なければ認めてくれなかったりするかもしれません」
「……それはまだ無理っす」
「ならまだ精進するんですね」
ふふん、と僕はからかうように笑いかける。これでいい気になっては困る。遠間の斬撃は戦闘では大いに有効だろうが、それだけでは戦えない。
戦場に出る勇者の武器が頑丈な剣とその魔法だけでは、心許ないにも程がある。
それに、別の理由でも、いい気になられても困る。
そういえば、と僕は一つのことに思い至る。魔法使いとなった今、もう僕の助力はいらないだろうか。
「甘露はもう不要ですか?」
「ああ、はい。まだ飲んだ方がやりやすいんですけど、慣れてきたので……」
「なら、今ある分で最後ですね」
「はい。あと、二本……かな?」
甘露。強制的に魔法使いと似た身体状況を作り出す薬。あれから数度調合してきたが……。
勇者の成長も早いものだ。十日以上とはいえ、もう魔法使いの体を使いこなし、魔法を使って見せた。これも、召喚陣の効果だろうか。
僕が感慨に耽っていると、視界の端でマアムが溜息混じりに声を上げる。
「勇者様、そろそろ」
「あ。はい」
勇者はそれに応えて、マアムの方を向く。
「先に準備して……外で待っていてください。すぐに行きます」
「…………かしこまりました」
マアムは少しだけ躊躇うように沈黙し、それでも頭を下げて部屋を出ていく。その向こうで、別の使用人に僕への対応を申しつけている声が聞こえた。
そして足音が消えていく。その代わりに、申しつけられた使用人だろう誰かが、部屋の前で待機した。
「用事があるのでしたら……いえ、魔術訓練の時間ですね。でしたら私はお暇致します」
多分、僕を呼んだ勇者の用事は完遂していない。しかし時間であれば仕方ないだろう。
僕も頭を下げて、踵を返そうとする。
だが、そこに待ったがかかった。
「い、いえ、違うんです。いや違くはないんですけど……」
勇者が僕を引き留めるように早口で言う。それから少し言いづらいようで、俯いた。
そしてグ、と拳を握り、僕を見た。
「これで、あの、……最初に会ったときのこと覚えていますか?」
「はい」
忘れもしない。プリシラの誘導で、屋根の上で出会った夜。
「あの時ずっと、帰りたいってカラスさんに言っていた気がします」
「そうでしたね」
僕は躊躇いなく頷く。何で自分なんだ、と泣きそうな顔で言っていた。
その気持ちはわからなくもない。多分今でもそう思っているだろう、と思うのだが。
「……それでその後、魔術とか魔法のことを聞いて、やってみたいって思って……」
勇者は顔を燭台へと向ける。先ほど魔法の的にした蝋燭が散乱している中に、ぽつんとまだ立っている細長いそれを。
「ようやく出来て……」
勇者が僕へと顔を戻す。少しだけ恥ずかしそうに。
「俺、ようやくこの世界に来て、よかったと思えるようになってきたみたいです」
「それは……おめでとう、と言ったほうがいいんでしょうか」
「魔法が使えて、俺の剣が持てて……」
僕の合いの手が聞こえていないような風で、勇者が手を見つめる。そして握っていた剣を見て、唾を飲んだ。
「それで……、……ですね」
消え入るような声の後、また唾を飲む。
そして勢いよく顔を上げて、僕を清々しい顔で見た。
「好きな人が出来たんです。この世界に来て、嬉しいことの一番が、それで……」
「…………」
「カラス、さん」
僕の名前が呼ばれる。
思わず僕が告白されるのかとも思ってしまいそうな雰囲気だが、まあ違うだろう。その先の言葉を予想し、僕は苦笑いを押し留める。
勇者は息を大きく吸って、また恥ずかしそうに告白する。
「俺、ルルさんのこと、好きなんです」
僕は苦笑いが堪えきれなくなり、唇が無意識に動く。
それを僕へと告げてどうしようというのだろう。
だがそんな僕の反応には勇者は構わない。
「多分一目惚れで、……でも、俺、ルルさんのことほとんど何も知らなくて……」
「……一目惚れですからね……」
なんと応えればいいのだろう。そもそも僕へそういう相談事は向いていないのに。このままアネットやオルガさんらに……いや、彼女たちも駄目だ多分。
「だから、あの、カラスさん……協力してくれませんか?」
「協力、ですか?」
それは僕には向いていない。そんな反論を必死で押し留める。……これは押し留めなくてもいいかもしれない。
「私には向いていない話題なんですけれども……」
「何でもいいんです。ルルさんの好きな食べ物とか、好きな話題とか、教えてくれませんか?」
「教えられるほど詳しくも……」
勇者の言葉に、僕は腕を組んで首を傾げる。本当に、教えられるほど詳しくない気がする。
先ほど好きな果物は聞いた。料理が気分転換になる程度には趣味。
読書が好き。お気に入りの本の一つは、アリエル様の書いた『散歩の末に森に迷い込んだ少女』。
自分の前髪は上げるより下ろした方が好き。疲れているときは紅茶に黒糖を一つ入れる。
考えてみても、今ざっと思い浮かぶのはそれくらい。
勇者が聞きたそうな話題は……。
そこまで考えて、ふと思考が止まる。
なんだろう、どれも、何となく話したくない気がする。
何故だろう。
まあいいや。
「……詳しくもないので、いっそご自分で聞いてみたらいかがでしょう?」
「え、いや、それはまだハードルが高いというか、メール……手紙とかないし面と向かって聞くって難しくないすか!?」
「手紙、いいじゃないですか? 文字を書けば、読む練習にもなりますし」
「練習……あ、そういう口実もつけられますね!」
「それもありますし、英雄譚も読めるようになりますから」
適当に僕ははぐらかすように口にする。正直、そういった恋愛関係を僕に相談されても困る。
そんな経験は、長い人生で未だかつてないと思うし。
「残念ながら、そういった方面では力になれないと思います」
「でも、応援はしてくれるんですよね?」
「…………ええ」
「じゃあ、こんな心強い味方はいませんって」
僕のやんわりとした断り文句も、ポジティブに勇者は転換していく。
これは駄目だ。この雰囲気……昔、メルティに会ったときのハイロと同じだ。こういう人の対応本当苦手なんだけど。
僕は、落ち着かない様子で「どうしようかなぁ」などと呟いている勇者を見て、内心溜息を吐いた。
また使用人が呼びに来て、勇者が準備に入る。
午後は本来魔術訓練の時間だ。そのために一応衣装を変えたりするそうだが、その着替えに向かう移動に乗じて僕は挨拶をして勇者と別れる。逃げるように部屋を出た、というのは読み取ってもらえているだろうか。
品のいい男性の使用人は僕を静かに玄関まで案内する。世間話もなく、無言で。
何だろう。ほとんど数歩しかない、こんな短い廊下がとても長いものに感じる。
何だろう。僕は、何か気落ちしているのだろうか。
玄関を出ると、見送るために出てきた使用人が、勇者を待っていたマアムと顔を合わせる。
マアムは僕の姿を見ると、クスリと微笑んだ。
「……本日はご足労頂きありがとうございます。どうやら、勇者様のお気持ちも決まったご様子」
「何を話すかご存じだったんですね」
マアムの微笑みに、以前話したときのような親しみやすさはない。おふざけは終わり、という雰囲気がどこからか醸し出されていた。
「勇者様への協力は、ご了承して頂けましたか?」
「……私は向いていないので、お断りしたいくらいですが」
「それならそれで構いません。私から、勇者様には取りなしをさせて頂きますので」
優しげな言葉の最中にも、マアムは微笑んだまま。しかしそれは、無表情に笑みを貼り付けたような印象だった。
「ですが」
その笑みが強まる。押しつけるような、強い笑み。僕が何となく嫌いな。
「邪魔はしないように、お願い致します」
「勇者様へ進言したのは、貴方ですか?」
「…………。……そろそろ勇者様のお支度も出来るでしょう。どうかお帰りを」
勇者が僕へ相談したのは、マアムの進言からか。
そう聞いた僕の問いには答えない。その沈黙は僕が踵を返すまで続き、使用人と共に頭を下げたマアムの顔は、それきり見えなくなった。