入れ替わり立ち替わり
クロードは去っていった。
室内に沈黙が満ちる。ルルはカップの中に残っていた紅茶の滴を飲み干して、一息吐いた。
サロメも溜息を吐く。壁際から離れ、クロードのカップを片付けるべく持ち上げて。
「対策を練らなければならないでしょうか」
「だろうな」
オトフシは壁際から離れずにそれに同意する。彼女ならばルルの評判について知っていそうなものだけれども。
やや心配そうな目をしてサロメがオトフシを見返す。
「今のところ実害はない、けれどもこれから実害があることは予想に難くない。社交界で力のある誰か……ルネス・ヴィーンハート様にでも相談するべきだと私は進言致します」
後半はルルに向けて、静かにオトフシはそう言う。それには僕も同意だ。
今のところ、ルルには実害はない。そもそも僕たちが気づかなかったくらいだ。王城の遠いどこかで誰かが騒いでいた、という程度のことで今のところはいいと思う。
けれどもこれからはわからない。
『ルル・ザブロックを城から立ち退かせろ』と誰かが言っている。それが怒りからなのか、それとも悪意からなのかがクロードの話からだと判別がつかないのもちょっといやらしい。
仮にそれが怒りからならば。自分が勇者に選ばれずにいるのにルルが選ばれそう、という状況への屈折した怒りからならば、中々立ち退かないルルに向けて更に怒りが募るだろう。ミルラ王女が仲立ちに入ろうとも、それもより怒りの炎に油を注ぐだけだ。
これならばまだやりやすい。目的としてはルルの追い出し、となる。
社会的な嫌がらせも、精神的な嫌がらせも、絶対に取らせないが肉体的な嫌がらせも、追い出すことを目的とした比較的穏健なもので済むだろう。
しかし悪意からならば。……もはや嘘の陳情があったというだけでこちらと断定してもいい気がするが、まあこちらならば。
こちらの目的は、ルルをより困らせることにシフトしている。
結果的にルルがこの王城を出ていくことになるかもしれないが、その行動は『結果的に』そうなるだけだ。
どちらとしても嫌がらせであることは変わりないし、僕やオトフシが防がなければいけないことに変わりがない。
しかしまあ、本当に。
本当に不快だ。競い合うなら競い合えばいいのに。剣闘士を、闘技場から排除することを目指すなど。
やはり人間たちの場所など、暮らすべきではない。
「最悪、本当に帰ることまで考えておくべきではないでしょうか」
僕の言葉にオトフシが噴き出す。その笑いを、自分の肘を叩いて抑えていた。
「レグリス様が何と言うかによるがな。まあそれよりも先に、ミルラ王女が許すまいよ」
「何か事件が起きてもですかね?」
「最優先は、勇者だ」
勇者。その言葉に、対策や何かが全て無に帰させられる気がした。
この城では、権力は絶対だ。そして本人が望む望まない、さらに使える使えないにかかわらず、勇者が絶大な権力を持っている。現在その権力の下では、僕たちの行動など象の前の蟻のようなものなのだ。
もっとも勇者もその権力は振るえないだろう。貴族や王族、身分の前では。
「ならもうミルラ王女に助力を請えば」
「ミルラ王女も、王女であるから故に手を出しづらいだろう。それだけこの城の派閥間政治は複雑だ。また、原因の半分である勇者自身に伝えるのも避けたほうがいいな。勇者が何かしらの手を出せば、より事態が複雑化する」
「面倒な」
クロードも努力はしてくれるようだが、政治力のなさが最後に足を引っ張る。ミルラも派閥間政治により手をこまねく。
僕は溜息を吐く。政治や社交界のことなどよく知らない僕だが、やはりこういう話題では僕は何も力にはなれないのだろう。
……なら、やはり頼れるのは一人だけか。
「だからルネス・ヴィーンハートなのだ。侯爵家の身分に、社交界の顔も広い。完全ではないが盾にはなろう」
「……ルネス様に、ですね……」
ぽつりとルルが呟く。空になった紅茶のカップを両手で握りしめながら。
まだ苦手なのだろうか、彼女が。僕にはわからなかったレイトンからのメッセージを読み取った後でさえも、なお。
「含むところがあるのは承知しております。仮に助力を請願したところで応えていただけないかもしれないし、助力されるということは今よりより深い付き合いになるということ。しかし、考慮しておいて頂ければ」
「……いえ……」
オトフシは進言を続けて、ルルは何事かを答えようとした。態度としては否定的にも見えるが、今回は仕方のないことだと思う。
しかし、と僕はあまり関係がないことをふと考える。
助けを求めるといったところでどうすればいいのだろう、と僕ならば考えてしまう。
お茶会の流れで、とかで話せるものなのだろうか。それともやはり、呼び出して一対一で静かに話すことなのだろうか。
本当に、こういうときは石ころ屋は便利だった。
グスタフさんはいつもあの店に座っていて、訪ねればいつでも話を聞いてくれたから。
今はもういない老人の顔を思い出して感慨に耽っていた僕の視界の中で、ルルが顔を上げる。
「……三人とも」
ルルの静かな声に、僕もサロメもオトフシも身を正す。威厳ではないが、決意が見えた。
「これから大変になるかもしれません。私のせいで嫌な思いをすることもあるかもしれません。……最悪、帰ることも考えておきますが、それでもひとまずは私はここで頑張ろうと思います。三人とも、どうかよろしくお願いします」
言葉を切り、ルルが僕たちを一人一人見て、それからサロメに視線を止めた。
「サロメ。ルネス様のところへ、今日も茶会を開くか確認しておいてください。そして開かれるなら、参加したいと」
「かしこまりました……しかし……」
了承したサロメが言い淀む。その顔に浮かんでいるのは、心配。
当然だろうとも思う。ルルが呼ばれていない以上、今日のお茶会は開かれるとしてもいつものメンバーではない。そしてルルは、人付き合いが得意な方ではない。
だがサロメの反応は予想に入っていたようで、ルルは応えずに視線を切り、オトフシに目を向ける。
「私も、他の人に話を聞きたいです。万が一にも何事もないと思いますが、オトフシ様には今日早速、何かあったら頼るかもしれません」
「了解した。それが私の仕事だ」
なるほど。午後の警護の当番はオトフシだ。
まあ理屈はわかる。カノンやジーナなどならば、おそらくルルには好意的な反応しか返さないから、ということだろう。
……さすがに、お茶会中にオトフシの出番があるようなことはないだろうとも思うけれども。怪我をするようなことでもない限り、こういう直接的なことには僕たちは無力に近い。
たとえば肉体的接触を伴う嫌がらせ……足を踏んだり、肩をぶつけたりなどならばどうにでも出来るが、罵られたりしても僕たちにはほぼ何も出来ない。
出来るとしたら、声を消すくらいで……そういえば、相手が一人二人ならば完全に姿を消すことは出来る。その時にはルルには落ち込んでいるフリでもしてもらって……。
「カラス様には……」
最後に僕、とばかりにルルがこちらを見る。
だが、言われれば何でもするつもりではあるが、一応今日の午後は非番だ。
ルルもそれに思い至って仕事が浮かばなかったのだろうか、一度顔を背けるようにして少し悩む。それからこちらに顔を向けようとしたところで、視線をまた逸らしてから完全にこちらに顔を向けた。
「……暖炉の炭になって頂ければ」
「燃えていろと」
僕が応えると、ルルが顔を背けて口元に手を当てる。サロメが噴き出し、ルルからはクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。
いやまあ、意図はわかる。僕もふざけすぎた気がする。僕は右手で首の左側を掻いた。
「……オトフシの方から報告は聞きますが、何かございましたら、お嬢様からもお話し頂ければ」
「お願いしますね」
要は愚痴を聞けということだろう。それくらいならしよう。もっとも、僕の当番の時には警護にも力を入れるけれど。
「では、行って参ります」
話が一段落し、女性陣の化粧直しが終わった後。
サロメがぺこりと頭を下げる。侍女代わりでもないが、今からオトフシがルルのお付きだ。
僕はどうしようか。ルルの話し相手、と言っても今のところ話題はない。ならばとりあえずいつものように待機をして……。
……いや、僕も何かをすべきだ。僕でも出来る何かがきっとあるだろう。
考えを切り替える。僕に何が出来るだろうか。やはりそもそもそういった政治には疎い僕にはほとんど何も有効な手立ては浮かばないのだが。
ふと思った。
だから、皆この城の中でも政治をするのだ、と。
先ほども考えたが、この国では権力や身分の前では個人の力はないに等しい。もちろんクーデターや革命などを考えればむしろ個人の力はとても重要だが、個人的な話に収まっているうちは喧嘩の強さなど何の役にも立たない。
だから皆、法律や決まり事を上手く使う。味方を増やして敵の力を削いで、決して自分に瑕疵がないように立ち回る。
今のルルがいい例だろう。勇者から見初められるという一般的には幸運な出来事。それを素直に享受など出来ず、それに起因する嫌がらせを受けても反撃する手段を持たない。
だから、僕も出来ない社交というのはとても重要なのだ。
仮に勇者に見初められたのがルネスならば、彼女ならばきっと上手く乗り切る。困っていれば、必ず助けてくれる誰かがいる。自分が誰かに手を貸しているように、きっと。
しかし。
……僕が今まで手を貸した誰かは、僕を助けてくれるのだろうか。
何が違うのだろう。彼女と。
思考を戻し、今後を考える。
下手なことは出来ない。一応まずはオトフシと相談をして……
僕はオトフシに目を向ける。だがオトフシも、僕と同時に視線を交わすべくこちらに向けた。
顔を見合わせ一瞬停止する。いつものことだ。僕は耳で、オトフシは紙燕で視界を確保して誰かが近づいてきたのを察知した。
どたどたと走るような音。もちろん大きな音を立てているようではないが、早歩きにそんな印象があった。
どなたです、と問いかけようとした。しかしそれよりも先に、オトフシが口を開いて顎で玄関を示す。
「勇者様だ。扉を開けてやれ」
「…………?」
誰が扉を開ける、とは一応些細な問題だ。
だが僕は非番中で、オトフシは警護の任に当たっている。……どちらかというとオトフシの仕事な気がするんだけど。
まあ僕の方が近い。言い争っても何の益もない。
僕はおとなしく静かに扉へと向かい、その前に待機した。
勇者らしき足音が扉の前で止まる。それから、息を整えるような深呼吸の音。
まだ少し離れたところから、また静かな滑るような足音が聞こえてくる。こちらは女性で、侍女のどちらかだろう。
侍女が追いつくよりも先に、勇者が扉を叩く。響くようなそれを聞き終えてから、僕はゆっくりと扉を開いた。
「お、恐れ入ります……!」
静かに扉を開けた先には、やや興奮気味の勇者の顔があった。廊下はさすがに走らなかったのだろうが、それまでは……どこで走ったのだろう、激しい運動の後という感じがする。
そこでようやく侍女……マアムが追いついてきた。本来は彼女が扉を叩くはずなのだろうが。
勇者が、ええと、と一瞬悩む。こういった場合の挨拶などは覚えさせられていないのだろうが、懸命に何かをシミュレートしているように見えた。
「恐れ入ります。カラスさんはいらっしゃいます……ね?」
「はい。本来取り次ぐ者が不在ということで、ご無礼を失礼致します」
本来僕が出るべきではない場。僕が一応とばかりに頭を下げると、それにも困るようで勇者が息を詰まらせた。まあ、ここも本来はマアムの役目だし。
「お嬢様ならばおられますが……」
そして中に招き入れるべきかと振り返ろうとしたところで、僕も一瞬言葉に詰まった。
在室であるか尋ねられたのは、僕、のみ?
向き直り、勇者の横に出たマアムに向き合う。
「失礼ながら、どういったご用件でしょうか?」
「あの、カラスさんに報告が!」
しかしマアムは応えず、代わりに勇者が吠えるように言う。用事は僕へらしい。ルルではないのか。
「……とりあえず、中へどうぞ」
「いえ、ここで見せるのは、その……」
見せる。何を見せるのだろう。勇者は僕の肩越しに中を覗き、ルルの顔を確認したらしく顔を背けた。
それから意を決するように僕を見て、息を吸い込んだ。
「お、俺、魔法が、使えるようになったみたいなんです」
「……おめでとうございます」
報告、ということか。まあめでたい半分心配半分の出来事だが、僕はとりあえず寿ぐ言葉を口にする。嬉しいのだろう。上気した頬の半分はそれか。
「本当は朝来たんですけど、いないみたいだったんで、この時間ならいるかなって」
「それは申し訳ないことを」
ルルの買い物の時間だろうか。その後下女たちから報告がなかったということは、……普通に職務怠慢だ。あとでサロメから叱ってもらわないと。
いやまあ、それよりも早くここから立ち去るかとりあえず中に入ってほしい。玄関先で勇者が興奮した様子で話しているというこの現状、あまり人に見られたいものではない。特に今は。
「私よりも、ミルラ王女かヴァグネル様にお話をするべきでは?」
「ヴァグネル先生には、これから魔術の指導があるので、そっちで……で、その、ミルラさんにも、それから……」
辿々しく勇者は言葉を紡ぐ。一番に僕に報告に来た、とばかりだが、……喜んでいいのだろうか、これ。
「それと、ちょっとお願いがあるので……」
そして多分、そちらが本題なのだろう。……エウリューケのこと、かな?
僕が内心推測を続けると、勇者は自分の言葉を否定するように首を振る。
「いや、それよりまず、俺の部屋で、使えるようになった魔法を、見てもらいたいんです!」
「一人で、ですか?」
「出来れば一人でお願いします」
マアムが付記するように付け加え、牽制をするように室内をじろりと見る。誰に対する牽制だろう。
僕は振り返り、二人を見る。ルルは困惑して首を傾げ、オトフシは『行け』と手を払うように振っていた。




