閑話:遠当て
完全にフレーバー
王城内の一室。
明かり取りの窓を半分閉ざし、勇者ヨウイチ・オギノが剣を手に佇む。
簡素な鞘に収まった短い剣。その剣を見る度に、ヨウイチの頬が無意識につり上がった。
全長三尺の片手剣。勇者の世界では小太刀と呼ばれるものとほぼ同等の大きさを持ち、振りやすくするためにその重心は手元側に近い場所にある。
柄糸は汚れを目立たせない焦げた黒。その柄尻からは、同じ色の太い紐が、編み込まれた鋼線とともに伸びていた。
鯉口を切り、その刀身を露わにすれば、わずかに当たった日の光が刀身に反射し、部屋の中を一瞬明るくする。
材質は青生生魂と呼ばれる金属。この貴重な金属は、これを精製した緋緋色金には劣るものの、この剣に使われているだけで小さな家ならば丸ごと買えるだけの価値がある。
性質としては、緋緋色金と比べて弾性は落ちる。しかしその分しなりもなく頑強。針金ほどの細さにしても竜が一頭持ち上げられるとされ、並の者では傷一つつけることすら敵わず、加工も難しい。加工できるのは、最高峰の職人を十数人抱えるこの城でも二人のみだった。
日本刀のような層構造には出来なかったものの、ヨウイチはそれでも満足していた。
何より美しいのは、その輝き。
リドニックの王城、その最深部を守っているとされる緋緋色金の壁が透き通っているように、この刀身も透けている。ほんのわずかに紅が差した白い刀身はその裏側までもおぼろげに映し、裏から添えた指の形を見せた。
すらりと抜き放ち、鞘を落とす。
その切っ先を、部屋の中央からずれた位置に置いた燭台へと向けると、その鋭さがよくわかった。
ほんのわずかに反った刃。ともすると直剣にも見える曲剣は、ヨウイチも慣れ親しんだ日本刀と同じもの。
さらに彼の要望で、もう一つ形には特徴があった。
刀身の先、三分の一ほどだけが両刃の作り。勇者の世界では小烏造とも呼ばれるその鋭い刃は、彼の修める佐原一刀流の剣術を引き出すもの。
目の前に刀身をかざし、剣全体をボウッと見つめ、ヨウイチは感嘆と歓喜の息を吐く。
「……すっげ……」
これは自分の刀だ。
法律により、日本にいたときは持つことを許されなかったもの。
何度夢見たことだろう。触れることを祖母に禁じられた家宝の刀。床の間に飾られて、正月の行事でしか抜かれるところを見たことがないその刀を、自身が握り、振る瞬間を。
形も長さも、出来る限り家宝の刀に揃えてもらった。残念ながら拵えは同じとはいかなかった上、刀身の素材も違うものの、これでも充分だ。
そういった意味では代用品、だがしかし、これで充分。それに、これは家の、祖母の刀ではない。これは自分の刀だ。
ヨウイチの所有物。
誰に憚ることもない。師である祖母にすら、これを取り上げることは許さない。
手首を返せば、木剣や竹刀などとは違う、真剣特有の粘り着くような重さが手に伝わってくる。そのまま手首をまた返すようにしながら踏みだし虚空を突けば、薄暗闇の中に風を切る鋭い音が響いた。
理不尽な目に遭ったと思った。それもそうだろう。訳もわからぬままに登校途中に連れ去られ、勇者と崇められて戦えと言われる。
友人や後輩たち、それに家族である祖母とももう会えないと告げられて、この城に留まることを強要された。
ミルラが、自分が過ごしやすい環境を作ろうと尽力してくれているのはわかっている。この城の人間たちは冷徹な血も涙もない誘拐犯ではなく、情も痛みも知る人々なのだということはわかっている。
だが、これで二つ目。
この城に来て、この世界に来てよかったと思ったこと。その二つ目の出来事。
刀を手に入れた。
自分だけの刀。憧れだった本物の刀剣。
その喜びのままに剣を振れば、それだけでも心が浮き立つ気がした。
もちろん、ただ楽しむだけに剣を手に取ったわけではない。
何となく予感があったのだ。剣術家として。未熟ながらも剣士として。
ヨウイチが、剣を手にしてピタリと構える。中段の構え、もしくは正眼の構え。剣道でも彼の修める剣術でも、もっとも基本的で鍛錬でも多用するもの。
剣先には燭台で揺らめく炎。
そのまま剣を両手でゆっくりと振り上げて、勢いよく振り下ろす。
風切り音。それに応えるように、燭台の炎が揺らめいた気がした。
素振りの手応えに、ヨウイチは内心頷く。
思った通りだ。
現在ヨウイチは、エウリューケ・ライノラットに強制的に開眼させられた魔力による体の動作で身体操作を行っている。そんな生活の中で、気が付いた感覚があった。
初めはほんの違和感だった。そしてそれも違和感と言語化してしまうのもおかしな感覚。
体を動かす前までは堪らなく難しかった日々。けれども、動かし始めてからは、体の調子がよい気がする。まるで自分の思うとおりに動くような、思い通りに動くような感覚。
調子がいいと言ってしまえばそれまでだ。そう思い、その時はあまり意識はしなかった。
けれど、それはある日突然現実味を帯びた。
魔力を放出する。その動作を投射というのだと魔術の師ヴァグネルからは聞いている。
その投射が出来るようになって、その『調子の良さ』は具現化したように感じた。
自分の体が自分のものではないようだ、という感覚は、誰しもがどこかで覚えがあるだろう。しかしヨウイチは、その逆を如実に感じた。
魔力を体外に出し、放出した瞬間。魔力の通った先が、まるで自分の体のように感じた。その空間の温かさや湿り気、物があれば、その性状や感触に至るまでを感じることが出来ることに気が付いた。
そしてその物体が、まるで自らの手足のように感じた。
投射では、それはほんの一瞬だ。まるで掌で掬い上げた水をばらまいたような短時間。けれどもその瞬間は、まるで床は足の裏に繋がっており、服は外側にある肌になった。
もう一度、ヨウイチは剣を振る。燭台に向けて、静かに勢いよく。
その感触に、やはり同じだ、と思う。
手で触れていれば、魔力波を流し続けることが出来る。そして、その『物』を包むことが出来る。
そんな扱いに慣れてきたそのとき、考え、そして今それが実証されたと感じた。
「……ははっ……」
楽しくなって笑いが出る。唇がつり上がる。まるでまだ物心もついていないときに、初めて木剣を握らされたときのように。
上手く振ること切ることなど、何も考えずにただ木の棒を振るだけで楽しかったときのように。
今のこの剣は、自分の手足だ。そう、ヨウイチは感じた。
この刀は手の延長にあり、そして自分の体の一部だ。その証拠に、刃先に当たる風を読める。刀が何を見ているか、刀が何を聞いているか、それがよくわかる。
静かに噴き出し笑いながら、刀を掲げては振り下ろし続ける。
聞こえているのは刀の声だけではない。
理想の刀の振り方。それは、昔から祖母によく言い聞かされている。そしてそれを目指し、素振りをし、巻藁に打ち込んできたはずだ。
なのに。
楽しくなり、そして情けなくなる。
なんて無様な姿だろう。そんな自嘲にさらに笑みがこぼれる。
刀の重量を活かしきれていない。刃筋も乱れ、ぶれがある。無駄な力が入っているところもあり、逆に力を入れるべきところに入っていない。
重心の移動がお粗末だ。握力を入れる瞬間が半瞬遅い。
振る度に思い知らされる。理想とはほど遠い自分の姿。
インターハイは確実に勝てるだけの力があった。優勝を狙えると自惚れていた。しかし、本当にそうだったのだろうか。
頬に一筋の汗が垂れる。
修正すべき点は大量にある。誉められる点などほとんどない。
一振りする度に修正すべき点が見つかり、そして次の一振りで修正すると、違う修正箇所が見つかる。
もちろん、既にヨウイチの剣術の腕前は相当なものだ。指導者たる祖母が見ても、まだまだと言いつつも、明確に直せる点などもはやそうそうない。
しかし、この世界における魔力という概念の固まり。それが、ヨウイチに元の世界では見えぬ世界を見せていた。
素振りは続く。
もちろん子供相手の剣術道場などでは行わないものであったが、佐原一刀流の剣術の素振りでは、燭台を使う。
離れた位置に燭台を置き、それを見つめて素振りを繰り返すのだ。
その目的は多岐にわたる。目標を定めておくことによる姿勢の安定。蝋燭が燃え尽きるまでという時間制限を設けることで、オーバーワークを防ぐこと。その他様々に、現代へと受け継がれる合理的な理由があった。
振って修正する。振って、振って、修正する。そう繰り返して、袖の先から汗が飛ぶ。
一振りするごとに練るように洗練されていく動き。しかしそれでもまだまだ、とヨウイチはやめない。
動きは鋭く速くなり、修正の思考さえも自動的になってゆく。
理想の一振りを探しているのではない。
知っているのだ。彼の体は。
幼い日から続けてきた剣術の修行。
嫌になった日もあった。どうして友達は休日に遊園地に遊びに行けるのに、自分はいつもと何も変わらない修行の日々なのだろう、と。苦しい日もあった。まだ靱帯が太くなる前に、野球肘と診断されるような痛みの中で剣を振り続けた日もあった。
そしてそれでも続けてきた剣の修行。型の修練。それは既にヨウイチの体の中に染みこんでおり、顕在化せぬまま眠っているだけだった。
ただひたすらに、理想の剣を追い求めて体の求めるままにヨウイチは剣を振る。
柄糸が汗で湿り、乱れた呼吸が姿勢を乱す。その姿勢の乱れまでも直しながら、ひたすらに同じ動作を繰り返していく。
佐原一刀流の、燭台稽古。
その目的の一つに、炎を見つめることによる催眠効果というものがある。
もはや無意識にヨウイチは剣を振る。
幼い日から染みこませ続けた剣の型を、何度も何度も何度も何度も。
その口元の笑みを消さぬままに。
どこか遠いところで、自分が剣を振っている。
そういう光景を眺めている、とヨウイチは感じる。腕の筋肉は震えており、眼に入った汗は痛みを走らせたが、それすらも自分ではないどこかの誰かが感じているものに思えた。
燭台稽古。その繰り返しの最中で、祖母に何度も言われたことがある。
曰く『剣で炎を斬れ』。
佐原家に伝わる文献によると、その稽古法は、武士であった初代が上覧試合の戯れとして、燭台の炎を遠間から剣で掻き消したという芸に端を発していた。
当然、離れた位置から触れずに剣で物を斬るということは不可能だ。それを祖母もわかっている。初代も、おそらく手品のような何かをしたのだろう、とも。
つまり、それはただの『そのつもりでやれ』という心得のようなものだ。
だが、この世界ならば、ともヨウイチは考える。
この世界。人が鳥と話し、紙が鳥の形を取って飛び、指先に火や水が現れるこの世界ならば。世界を飛び越えて、自分をここに連れてこられるという技術がある世界ならば。
理想の剣を振りながら、ヨウイチは考える。
どうすればそれが出来るだろう。
遠くから炎を斬る。そんなこと、出来るはずがないのに。
いいや、出来るのだ。止めかけた思考を元に戻し、ヨウイチは剣を振る。
きっとこの世界ならば出来る。そう信じるべきだ、と本能的に知っていた。
どうすればいいだろう。ヨウイチは考える。
剣の先の風。古の剣士は剣風でかまいたちを起こす、と聞いた。ならば自分も出来るだろうか?
いいや、違う。それならばそれでも出来るかもしれないが、きっと何かが違う気がする。
剣を伸ばして。違う。
剣から何かを飛ばして。違う。
剣を振りながら、無心の境地に至りつつ、考えるという矛盾。
そんな矛盾も気に留めず、ヨウイチは炎を切り続ける。
そして、そのうち、全てがどうでもよくなった。
何も考えつかない。
離れた位置から剣を振り、炎を斬るなど出来るわけがない。
剣を振って風を飛ばすなど出来るわけがない。
なにかの漫画の必殺技のように、エネルギー弾を飛ばすなど出来るはずがない。
いや、きっとこの世界ならば出来る人間がいるのだろう。
他ならぬ先代勇者は、剣で空と地面を分けたという。そして魔法使いに魔術師たち。彼らならば、きっと何かしらの手段で出来るのだろう。
だが、今の自分には出来るわけがない。
魔術は勉強中の身。いつかは出来るかもしれないが、それは決して今ではない。
いつかは出来るようになるけれど、彼らの真似はまだ出来ない。
ならば、自分が今出来ることをするべきだろう。
いつものように、剣が空を切る。
ただひたすらに炎を見つめて、炎を斬るように気迫を込めて。
悩むのが間違いだった。
今の自分に出来ることは、剣を振ること。ただひたすらに、それだけだ。
そう定めたヨウイチは、ひたすらに無心に剣を振り続ける。
骨が軋もうとも、筋肉が悲鳴を上げようとも。
炎を斬る。目の前の炎を。手の届かないことなど、一切考えることなく。
振り続ける。
そしてそんなうちに、突然部屋の明かりが消えた。
誰が消したわけでもない。
風が吹いたわけでも、蝋燭が尽きたわけでもない。
なのに、何故。
突然訪れた薄暗闇に、ヨウイチは剣を止める。目標を失ったような、そんな一抹の不安をわずかに覚えて。
「……え」
しかし、その夜目の利く眼が蝋燭を捉えて、しばしの驚きと、そして歓喜を覚える。
そこにあったのは、芯が周囲の蝋ごと中程まで断ち切られ、火の消えた蝋燭。
もちろん、手の届く距離ではない。
それは、剣に込められた魔力とヨウイチの想念が生み出した現象。
物理法則に縛られ、魔力の使えなかったヨウイチには決して起こせなかった魔法。
祖母を含めて、歴代の佐原一刀流の剣士が為し得なかった偉業。
「…………は?」
驚く声しか発せない。自分でも、何を起こしたのかわからない。
それはきっと、魔法使いにしか出来ないささやかなこと。
遠当て。三間先の物を斬る。
無心と忘我と集中の果て。
佐原一刀流、本来習得できないはずの、幻の極意習得の瞬間だった。