最後の休日
ルルと一緒に王城を回った二日後。
僕とルルとサロメは共に王城の外を歩いていた。
早朝というわけではないが、まだ早い朝の時間。この前歩いたときもこんな時間だったが、まだ住人というよりも商売人で活気のある街。
僕たちの横を、果物を載せた台車を引いた老人が、威勢良く駆けていった。
「しかし、簡単に許可が出ましたね」
僕は前を行くサロメにそう声をかける。
実は昨今、王城へと集められた令嬢たちの中にも外出している者がそこそこいる。王城内の窮屈な生活に飽きたからだとか、自身の領地では手に入らないものを買いにだとか、様々な理由はつくが要は遊びに出ている。
だから、『外出許可』というものがあるのは知っている。
しかしルルは勇者のお気に入りだ。
何かしらの理由をつけて、王城から出さないとも思っていたのに。
そしてそれは、サロメも承知していたはず。
サロメは得意げに鼻を鳴らすと、横目でこちらを覗き見ながら、自分の身体を抱くように得意げに腕を組んだ。
「オルガ様に相談したところ、あっさり出たそうでございます。色々と手は使ったらしいですけれども」
「色々と?」
「はい。届けへ承認印を捺す係が老齢の人間に代わったところを狙ったり、その他の書類が重なり忙しくなってきたところへ紛れ込ませたりと」
「狡っ辛い手を……」
「そのおかげで外出できているのですし、オルガ様に感謝ですね」
僕が笑いながら呆れるように言うと、庇うようにルルが話に入ってくる。いやまあ、僕もそれが悪いこととは思っていないけれども。言っていないものもあるだろうが、オルガさんのすることだし、おそらくどれも工夫の範疇だ。
そうですね、と答えつつ僕らは歩く。ルルの要望で、この前勇者と来た通りは選ばずに、わざわざ違う道を選んで。
そして王城から伸びるような小さな道を一つ通り過ぎ、また違う大きな通りの前でルルが足を止める。
僕らもそれに従い足を止めると、おずおずとルルが振り返ってサロメを見つめた。
「それで、ここからの案内は……サロメ頼りなんですけれど……」
ルルの言葉に一瞬答えずに、サロメはふと笑う。
「お任せください。私も不勉強ではございますが、詳しい者に聞いて参りましたので」
この場で眼鏡をかけているのは僕だけだ。
なのに何故か、サロメの存在しない手が、存在しない眼鏡のずれを直したように僕には見えた。
今日王城を出て街に来たのは、遊びに来たわけではない。
一応仕事でも何でもないので遊びには違いないのだが、目的もなくぶらつきに来たわけではない。
それはこの前の王城内を散歩した日にルルと話したことの続き。
一昨日、ルルが夕食後にサロメに要望したのだ。自分で食べる食事を久しぶりに作ってみたい、ということを。
もちろんこれは道楽だ。
ルルたち招待された令嬢は、食事ならば王城で最高級の料理人が作った品を食べられる。つまり、大多数の人間、貴族令嬢に限らずこの国の多くの人間が作るよりも、まず間違いなく美味しい料理を何の苦労もなく口に入れられるはずだ。
貴族令嬢として生きるのならば、不必要な行動。貴族令嬢を『やっている』ならば、しないであろう行動。
だが、これは道楽だ。
許される理由がある勉強混じりの読書にしか今まで興味を示さなかったルルが、久しぶりに口にした『わがまま』。
本来ならば、それは忌むべきことだろう。
わがままは多少ならば許されるかもしれないが、度を過ごせば目に余る。その貴族のわがままで、被害に遭った人も僕は見たことがある。
けれども、彼女ならば。
一昨日、ルルからそんなわがままを聞いたサロメはやけに高揚した様子だった。もちろんルルには隠していたが、おそらくルルも気が付いているだろう。
サロメにとっては喜ばしいこと。
それ故に、サロメは準備を欠かさなかった。
今日早朝に城を出たのもそのためだ。材料を買いに揃えるための、仕入れの時間。
遊びに来たわけではない。息抜きに来たのだ。
……料理を息抜きに出来る、というだけでもやはりルルは恵まれていると思う。日常的に家族のためなどで義務で料理をしている者は、たとえどれだけ料理が好きでも、いつかは飽きて苦痛になるものだと思う。僕ですら、たまに手抜きをして生魚を丸のまま囓ってしまうことだってある。
それはきっとルルの資質も関係しているのだろうが。
そもそも自分で料理を作れる貴族令嬢などほとんどいない。
趣味としてならば一応存在するが、それは編み物や裁縫などと同様、料理や製菓の技能を持つだけで希有な存在といえよう。
「ええと、すぐに見える路地の中に青果店が一軒ございますが、こちらは店主が横柄なので、避けたほうがよいと……」
まずは青果店。そう聞いていたサロメは、ルルの横でメモ書きを覗きながらそう辿々しく説明する。サロメも王城近くの街はあまり歩いたことがないそうで、全て他家の使用人からの情報頼りだった。
「そこから少し離れた二つ目も、大玉のものは中々品揃えがいいのですが、胡桃などの小粒なものは店主が見栄を張れないのでそんなに……と……」
一応聞こえないように、小声でルルにそう告げる。聞いたルルも心得ているのか、そのメモ書きを見ながらコクコクと頷いていた。
「ただ、たとえばまだ走りですが、水瓜などの大物はやはりここが一番なので、ここで買うべしと」
「いいえ。なら、違うところの方が」
「かしこまりました」
ルルと相談しながら、ええと、とサロメがメモ書きを捲っていく。目に見える範囲には穀物の粉や何かを売っている店など存在するが、まず果物と野菜らしい。
そもそもこういったものは王城にも備蓄があるが、自分の目で見て買いたいというのも彼女の要望だった。
やがて辿り着いた青果店で、いくつかの果実をルルはじっと眺める。
そして目を留めたのは、少し前にも同じものを見ていた気がする果実。毛のないキウイのようなもの。卵と同じくらいの大きさで、ルルが軽く手に取り揺すると、卵よりもやや重たそうに揺れていた。
ルルがうんと頷く。
「これとこれ、……あとその右から二番目の箱に入った八つ目茄子を二つ。それと……」
そして店主に、少しずつ所望する品を告げていく。欲しい商品の種類を口にし後は店主に任せたりするのではなく、その場にあるどの果実や野菜が欲しいのか明確に示して。
これはあれか、目利きというやつか。いつもとは少し違う鋭い目に、真剣さを見た。
「へい……毎度……」
何となく元気なさげに店主が大きな経木のようなものに包んだ商品を、僕が受け取る。荷物持ちはいないし、僕が持っても問題あるまい。
まだ片手で持てるくらいの小さな包み。いつも僕が担いでいる袋……今日はほぼ空にしてあるが……に入れても、何ら変わりないほどの少量だった。
「次、行きましょう」
店主から元気を吸い取ったように、ルルがいつもより元気よさげに僕とサロメを促す。
そこに、とと、とサロメが追いすがっていくのが、何となくいつもと違って面白く感じた。
「お兄ちゃん?」
小さな川が流れている路地。そこに面して、肉屋と魚屋は並んでいた。
そしてその魚屋を訪れたところ、そこから出てきた小さな女の子と目が合った。
褐色の長い髪。特徴的な無表情、平坦な声音。見たことがある。……ええと、エウリューケが見つけた『二人目』だ。クリンといったっけ。
既に魔法使いではなくなってしまった子供。
彼女は今日も、ワンピースのような少し汚れた木綿の服を着て、鼻水を拭いた袖が光って見えた。
「お久しぶりです」
「ん」
僕の挨拶には、コクリと頷き応える。最初の言葉からも、覚えてくれてはいるらしい。好かれてるとか嫌われているとか、何かしらの感情はやはり読み取れないが。
「お知り合い、ですか?」
僕と同じく、一応だろう、小さな子供にもルルは丁寧語を使う。どちらかといえば僕に対して使ったのだろうが、ルルの行為に、小さな子供に向けて丁寧な言葉を使う違和感が何となく湧いてくる思いだった。それでもまあ、完全にやめることは出来ないが。
クリンに話しかけるためにわずかに屈めていた背を伸ばし、僕はルルに向き直る。
「少し前に知り合いました」
「露天商のお姉ちゃんのところで、ばったり」
少し言葉足らずな気がする。
「以前話した元治療師のところです」
露天商のお姉ちゃん、というのがわからないだろうと僕はルルとサロメに補足する。そこまでいって、ようやくルルたちは「あー」と納得するような息を吐いた。
しかし、納得できないような顔で、クリンは首を傾げる。不思議そうに。
「お兄ちゃん、今日は違う奥さんを連れているの? お父さんみたい」
「おっ、奥……?」
「この前もいいましたけど、あの人とは結婚もしていませんからね?」
少しだけルルが慌てるように反応するのに取り合わず、僕はクリンに言い聞かせる。
「それに、この人にはそういうことを言わないようにね。結構失礼なことをしていますから」
「失礼?」
「はい。いずれ大人になったらわかると思いますけど」
言い聞かせるように言い含めるが、納得は出来ないらしい。それでも「んー」と何かを考えた後、自分の中で決着はついたのか、「わかった」と頷いてくれた。
「じゃあ、今日はお客さん?」
「私……」
クリンが僕を見てそう問いかけるが、答えようとして言葉に詰まった。この前適当に使ったレイトンの口調、そちらに切り替えるべきだろうか。
いやまあ、切り替えよう。悪いことでもないだろうが、丁寧語の方が違和感がある気がする。
「……僕ではなく、こちらのお姉さんがね」
「いらっしゃいませ」
まったくタイムラグなく、クリンがルルに向かって頭を下げる。
「今日は白鱒がほうりょうです。石割貝も一昨日から湧いているので、そちらもおとくです」
そして商品を指さしながら、そうつらつらと流暢に紹介していく。
僕には王都の相場がわからないが、そうなのだろうか? そう思いサロメに視線を向けると、サロメにもわからないようで首を横に振られた。
というか、この態度ということは……。
「そういえば、この辺りに家があるんでしたっけ」
「ここ私の家」
愛想なく、クリンがそう言い切る。たしかに、エウリューケと一緒に話を聞いたときにはこの辺に家があると言っていた気がするけれども。
一応店主もいるのだろう。店先にはいないが、商品の奥で大人の重さの誰かが動いた音がした。
ルルが、そんなクリンの姿を見てクスリと笑う。微笑ましい、という言葉が聞こえた気がした。
そして、声をかける。ただし、先ほどまでの店主に対する目つきとは大分違う、優しい顔で。
「蟹はどうですか?」
「ええと……」
クリンがルルの言葉に答えようとして店先を見渡す。氷も被っていない魚たちがちょこちょことおがくずの上に並べられ、若干の魚臭さが漂っている店。
その奥で、ごそごそと何やら小さなものが動いている気配。水槽のような、木の枠を樹脂で補強したところに水と一緒に大きめの虫のような姿がざわざわと蠢いていた。
クリンはそこに歩み寄る。
それから、少し高めの台なのか、六歳の身長には辛そうに、縁に顎を載せるように中を覗き込んだ。
「ええと、登り蟹に、玉蟹がいます。桜蟹もいますが、留め物だし傷物なのでやめておいたほうがいいです」
「見せてもらっても?」
「はい」
ルルも水槽に歩み寄る。クリンとは違って普通に覗けるそこを見て、また目の色が変わった気がする。
水槽の中にはまた小さな木箱がいくつも沈められており、そこに何匹かの小さな蟹たちがそれぞれまとめて入っていた。
蟹たちの脱走防止のためだろう、足は曲げた状態で甲羅ごと紐で縛られていた。しかしそれでもどうにかして脱走しようと、身体を揺すって蠢き続けていたが。
「…………?」
僕も水槽に歩み寄っていたが、ふと後ろを見ればサロメが遠い。いつものように佇んではいたが、いつも以上に離れた位置で立って待っている彼女。その姿に何かの違和感を覚えた僕は、首を傾げてサロメをじっと見る。
サロメも当然僕の視線に気が付くが、何も答えず不自然な笑みのまま固まっていた。
ルルは僕がサロメを見ていることに気が付くと、少し考えたように首を傾げて、それからまた「ああ」と小さく呟いた。
「……苦手だったんですか? サロメ」
「い、いえ、そういうわけでは……!!」
事も無げに尋ねられたサロメは、肩を震わせて答える。明らかに嘘だと僕にもわかる動作で。
それを見つめながら、袖まくりをしたルルが一杯の蟹をつかみ出す。それをサロメに見せるように向けると、やはりサロメは一歩後ずさった。
サロメの動作にクスとまた笑ったルルが、つかみ出した蟹をひっくり返して眺めてまた戻す。
「苦手なくらい、いいのに」
「申し訳ありません。その……調理されていればいいんですが、昔から、見た目が、その……」
まるで叱られているように、バツの悪そうな顔でサロメがとうとう白状する。サロメは蟹が苦手か。この反応だと魚介類全般もありそうだけど。
ということは蜘蛛も苦手……でもないな。以前、部屋に現れたハエ取り蜘蛛を素手で捕まえて外へ逃がす姿を見たことがある。ルルと真逆、ということだろうか。
「お姉ちゃん、何をしてるの?」
「ん?」
他の蟹も眺めては戻して、を繰り返していたルル。そこに、クリンが問いかける。不思議そうな顔で。
「これは、雄か雌かを見ているんです。卵はどれも持っていないみたいですから」
「ぱっと見わかる?」
「わかります。この裏側の筋の形で」
ふむふむとクリンが頷く。何故か小さな女の子が店番をしている形だが、客に教えられているようだけどもいいのだろうか。こういうのこそ、親が教えるべきだと思うが。
「玉蟹の場合、お腹の下に走っている筋が、三角っぽいのが雌。四角っぽいのが雄です」
「これは、……雌?」
「そう。慣れてくると顔でわかるんですけどね。卵を食べられるわけでもないので、今回は身が美味しい雄の多い箱を探しています」
「……ええと……」
クリンが、懸命に手を伸ばして蟹を掴もうとする。箱の中すらあまり見えない背丈では、水の屈折もあり、中々掴めないでいたが。
「そういうのは、あとでお父さんかお母さんに教えてもらった方がいいですよ」
「……ん。わかった」
そして掴めないので諦めて、ルルの言葉に素直に頷く。
というかその親はどうしたのだろう。奥で動いている音はしていたが、店番はいいのだろうか。
クリンもその疑問に思い至ったようで、ルルの言葉に、何かに気が付いたかのように顔を上げる。
それから奥の方を向いて、息を大きく吸い込んだ。
「おとーさん! おきゃくさん!!」
クリンの声を聞いて、ようやく重い腰を上げたのか、……いや、これは客が来たと気が付いていなかったようだ。わずかに驚いたように、椅子をガタリといわせながら立ち上がった音がした。
「はいはい」
それから急ぎ顔を見せたのは、まだ少し若い茶色い髪の店主。頬がこけるように痩せた男性だった。
煙草を吸う習慣があるのだろう。それに健康に気を遣っているわけでもないらしい。前歯が一本抜けて、残った歯も黄ばんでいた。
だが、威勢のいい声。そう張ってもいないのに、響くような声だった。
「これは別嬪さんに……野郎もか。何かお探しで?」
「この蟹の箱、一番右端のをください。それと、……」
ルルが、拳の掌部分を口に当てて少しばかり悩む。そのままもごもごと呟いた。
「……白鱒はまだ旬じゃないみたいだしなぁ……。石割貝も上がってるのが多いし……」
「お客さん?」
店主が、促すように声をかける。その声に、ん、と決意したようにルルが店の一角を指さした。
「その氷魚、腹に傷が入っているので、少し安く……あっ……」
だがその声は、即座に消え入るように小さく消えて、ルルはそれを打ち消すように首を横に振った。
「その氷魚を、三尾お願いします。左端の傷物は入れないでくださいね」
「……はいよ」
値切ろうとしたこと、それに商品につけられた注文に少しだけイラッとしたのだろうか。だが短気に見える店主はそれ以上何も言わず、蟹と鮎のような魚を手に取る。それから手際よくおがくずを緩衝材にして、葉っぱ色をした経木のようなもので包んで縛る。蟹の包みからは、水が少しだけ滴り落ちた。
品物を僕が受け取ると、サロメが代金を店主に支払う。
細かな計算はしないらしく、おおざっぱに銅貨三枚で会計は済んだ。
「まいど」
僕たちが踵を返すと、溜息を隠そうともせずに店主が吐き捨てるように言う。
正直、商品はどうだかわからないが、それ以外はあまりいい店とは思えない。クリンには悪いけど。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんたち、またね」
だがクリンにそんなことを伝えたくはない。それは僕もルルも同じだったのだろう。僕はクリンに手を振って、ルルは小さく頭を下げて応えた。
歩きつつ、荷物を整理するように僕は蟹の包みを持つ。
すると、まあ先ほどの話の続きだろう。ガサゴソと少し動いた蟹の音に、サロメが少しだけ早足になるように距離を離した。
「そんなにですか?」
「せ、生理的にと申しましょうか。どうも私とは相性が悪いようで……」
明らかに、僕の手の先の包みに怯えているようにサロメが警戒している。『それ以上近付けるなぁ!』と全身で主張していた。
ルルが、心配そうに眉を顰める。
「もしかして、食べられないんですか?」
「調理されて、形が変わってしまえば問題はございませんが……」
「……では、まあそういう品も作りましょう」
サロメの言葉に、だったら何とかなる、とルルが頷く。今からでもメニューの変更がきくのだろうか。それとも、まだ考えていなかったのだろうか。これだけ食材を買ったのに。
川沿いには、先ほどの魚屋の他に肉屋もある。血や廃棄物などを流しやすいからだろう、そういった動物性の生鮮食品は、この街では主に川沿いで売られているらしい。ムジカルではそもそも生鮮食品が少なかったが。
「そういえば、カラス様は、アウラにも行ったことがあるんですよね?」
「ええ……そうですけど……?」
突然ルルが、そう口にする。別に隠すようなことでもないし、前に何気なく言ったこともあったと思うが。
「だからですよね。蟹のことを、沢蟹って言ったの」
歩くペースを少し落とし、ルルが僕の横に並ぶ。まるで隠し事を暴いたかのような得意げな顔で、少しだけ笑っていた。
「……あ」
そして僕はルルの言葉に気が付く。
そうだ。この海のない国では、『蟹』と言えば川に住む蟹を示しているのに。
いや、一応はそういう表記もある。『沢蟹』という生物はいないが、魚を『川魚』と『海魚』に分けるように、川に住む蟹を沢蟹と言うことはある。
「やっぱり、アウラの海に住む魚とか、蟹とかは味が違うんですか?」
「……そういう風に味わってはきませんでしたが……」
海の魚だ! とは味わってはいない……と思う。もちろん住んでいる場所が違うのだし、違う種類の魚を食べられると喜んではいたが。
正直あまりもう覚えていない味。それでも懸命に思い出し、舌におぼろげに浮かんだ味を確かめて僕は唾を飲み込む。
「やはり、新鮮なものは美味しかったと思いますよ。店でも、生で食べたりしていましたし」
「生で?」
今度はルルが驚く。内陸部にあるエッセンでは、魚を生で食べる文化が発達していないからだが。
川魚を生で食べると、寄生虫の問題がある。それは以前の世界と同じらしく、それをやってしまって治療師の世話になる者もたまに出ると聞く。
本草学でも虫下しはいくつも種類がある。生水を飲んでも起こるわけだし、それだけ皆危険視しているのだろう。
もっともこの世界、海の魚だから寄生虫がいないわけでもない、というのが頭が痛い問題だが。
まあどれも、僕にはあまり関係がないのだけれど。
「魚を切り分けて、生のまま醤か塩で食べるんです。ああ、それも、アウラの場合は海の水から精製した塩を使っているんですけどね」
そういえば、陸上に住む僕たちは置いておいて、アウラの海中に住む人間たちは塩のしょっぱさを感じられるんだろうか。海中にあったそういう人種のための料理屋は、どういう料理を出していたんだろう。そもそも行けなかったしわからないことばかりだ。
「大丈夫なんでしょうか……?」
「アウラの魚は、そんなに体の中に虫を飼っていないらしいです。慣れていないと当たるらしいですけど、私はそんな心配もいらないので」
寄生虫とも病気とも、もう今はあまり関係がない体。何でも食べられるのは正直ありがたい。
「まあ当然、この国のものはやめておいたほうが賢明だと思いますけど」
「……ですよね」
納得しながらも、どこか残念そうにルルが呟く。
それからすぐに肉屋へと到着し、ルルは一抱えの豚の背中肉を買った。
何品作る気だろうか。
僕は料理は得意ではないからだろうとも思うけれど、作る料理の見えない全容。それを僕は思い浮かべつつ、ルルの食材こぼれ話をサロメと共に聞き入りつつ、王城へと舞い戻るのだった。




