仲間はずれ
もはや習慣も一時途切れたらしい。挨拶もせずに、すれ違う人を器用に躱すルル。
少々小走りをしてみたり、花瓶にぶつかり倒しそうになって焦ったり。窓に反射しない自分の姿を見て、ぺたぺたと不思議そうにそれを撫でていた。
そんな風なルルを連れて、僕は庭園を目指す。
近づくにつれて、その目的地がわかってきたのだろう。ルルの顔が少しだけ沈むが、僕はそれを見ないフリをして無視した。
「ここは……」
ルルが足を止める。立ち並ぶ使用人達に混ざるように僕も足を止めて振り返る。その横では、澄ました顔でルネスの侍女がカートの前で待機していた。
「ルネス様のお茶会です。もちろん、このままでは参加できませんが」
そして示した先には、数人の貴族令嬢たち。
中に混ざっているのは、カノン・ドルバック。ジーナ・クレルモン、そして、ルネス・ヴィーンハート。僕でも名前が空で出てくるほど見慣れた面々だった。
その巻かれた髪がカップに入らないような優雅な仕草で、ルネスがお茶を傾ける。
「たまに聞こえてきますわよ。ジーナ様の手琴の音」
「耳汚しで申し訳ありません」
「いいえ? 見事なものだと誉めているのよ。ね?」
周囲に対してルネスがそう問いかける。視線を向けられた伯爵家の令嬢は、小さく頷いて応えていた。
「嘘です」
僕の横に来たルルが、その様を見て強く断じる。
視線は今頷いた令嬢を見ており、歯ぎしりでもしそうな程の渋い顔をして見えた。
「今度私にも教えてもらえないかしら。手琴は触ったことなくて、私笛しか吹けませんの」
「嘘です。本当は、教えてほしいなんて思っていません」
「わかりました。今度のお茶会で持っていますね」
「あらそうしたら、ちゃんと爪の手入れをしておかないと」
ルネスの言葉にジーナが応え、茶々を入れるように、恥ずかしいわ、とカノンが笑う。
ルルはそれを無表情で見つめていたが、その不機嫌さはそちらを見ずとも伝わってきている気がした。
そんな風に当たり障りのない会話。
それだけでお茶会は続いていく。
ジーナの楽器のことのあとは、最近始めた編み物の話。それに絡んでルネスのつけていた宝石に話題が移り変わり、そこから各個人の好きな宝石に話が飛んでいく。
ルルの機嫌が悪くなるというか、苛ついているのがよくわかった。
だが、そんな風に苛ついていた雰囲気が、突然緩む。
ルルを見れば、楽になった、というよりは、諦めたかのような雰囲気で少し俯いていた。
「……不思議ですね」
「なにか?」
ぽつりと呟かれた言葉の先が予想できずに、僕は問う。ルルは握っていた拳を解き、僕に向かって笑みを浮かべた。
「私は、お茶会が嫌いです。今も、ずっと」
「昨日お聞きしました」
「でも、参加していないからでしょうか?」
俯いていたルルが、顔を上げてルネスたちを見る。朗らかに笑みがこぼれるお茶会。のどかに続くそれは、何も考えずに見ていたら、楽しげで微笑ましいものだけど。
それを微笑ましいと思っているのではないだろう。笑みを変えずに、ルルが呟く。
「カラス様がさっき仰っていた、『勝手にすればいい』という言葉。それが今、何となくわかります」
見下しているとかそういうことではないだろう。
だが、無関係でいられること。それが今多分、ルルを安心させているのだろうと思う。
僕と同じで。
「そんなに美味しいのでしたら、次はジーナさんの家にお菓子を担当して頂きましょう」
ふふふ、とルネスが大きめの声で言う。
「かしこまりまして」
ジーナも楽しそうにそれに応える。宝石から、今度は宝石のように美しいお菓子、というものに話題が移り変わっていた。ジーナの家の料理人が、新しく作ってみたという菓子。話を聞くに、蜂蜜で味をつけた寒天を固めたもの……琥珀羹みたいなものだろうか?
少しだけ食べてみたい。
「甘さ控えめなのもお願いしますわ」
カノンもルネスに従う。
「え?」
「あまり美味しいと私も太ってしまいそうです。そういうことで、あまり甘くないのもお願いね」
だがジーナはそれを聞き逃していたようで、ルネスが続けた言葉から類推したのだろう、ルネスの言葉に応えつつ、カノンにも向かって頷いた。
そして今度はジーナがルネスに話題を振る。
「そういえば、ルネス様の麦畑の様子などはどうなのですか?」
そろそろ収穫ですね、と続けると、ルネスが渋い顔をした。
「ああ、……全っ然、駄目ですわ。西方渡りの種があるなどと、とんだ山師に掴まされてしまったみたい」
お菓子から、その素材に話題が変わったのだろうか。正直僕がこの中に入っていれば、くるくる回ってついていけないと思う。
「…………?」
カノンは知らない話、とばかりに澄ました顔でただ聞いている。楽しみにしてたのに、と話すルネスは、そこに目を留めると、小さく「ああ」と誰にも聞こえない声で呟いた。
「去年ね、お父様にお願いして郊外に小さな畑を用意して頂いたの。お抱え商人から、珍しい種があると話を聞いたので、たまにはそんな道楽もいいだろうと」
「まあそんなことが……それで、駄目だったのですか?」
「ええ。芽吹いたものすら少ないのです。気候か土が合わなかったとも言われましたけど、どうでしょうかね」
珍しく不機嫌そうに、ルネスがそう吐き捨てる。それから一息に紅茶を飲みきると、ふう、とひときわ大きな溜息をついた。
「『きみはいつも、外から見ているんだよ』」
「…………?」
僕は、ルネスから視線を逸らさずに、レイトンに聞いていた言葉を繰り返す。あの隠し部屋で、入れ知恵をされたときに添えられた言葉。
ルルを見れば、きょとんとした顔。その顔をどうにかしたくて、僕は続けた。
「正直に申し上げます。秘密をバラした気はありませんが、お嬢様がお話ししてくれた秘密、私の知人も同じ悩みを抱えていたそうです」
やや早口になってしまったが、それもそのはず、とてもこの話はしづらいものだ。
秘密をバラした気もないけれど、それでも、ルルに『秘密』だと約束したのを破ってしまっているようなものだ。
叱責ならばこの後受けよう。けれども、それには今のところ気が付かないでほしい。
「不思議な男です。他人が嘘をついたらすぐに見破れる……というか、気持ち悪いくらいに考えが読まれる男です」
「気持ち悪い、ですか?」
とりあえずルルも付き合ってくれるらしい。僕は頷くと、出来るだけ神妙な顔でルルを見た。
「その男は。人の心が読めると勘違いしてしまうほどの精度で喋るんです。『ああ、そうだね』『いや、それは違うよ』『ぼくもそれはそう思う』と、私が無言でいても、内心に返答されて会話がずっと続くくらいに」
こればかりは、実際に話してもらわないと正確には伝わらないだろう。
だが傍から見れば一人芝居にも見えるだろうあれは、きっと僕以外にもそう受け止められるだろうと信じている。
「それは、たしかに……」
「いやまあそれは、今はいいんですけど」
だが今はレイトンの悪口を言う時間ではない。そう感じた僕は、頷きかけたルルを止めるように声を出す。
「お嬢様の気持ちがわかる、と言っていました。私とお嬢様の会話を見ていただけで、そう」
いや、それも気持ち悪い。一歩間違えれば勘違いのストーカーだ。言ってしまってから後悔して、僕は小さく首を横に振って仕切り直した。
「とにかく、そんな知人が、お嬢様に見せてあげるといい、と言った光景がこれです」
また僕は、ルネス達に視線を向ける。
お茶会。ルルにとっては苦痛でしかなく、そして今はルルがいないお茶会。
そしてここからは、レイトンの指示にはないことだ。
「あえてここで、ルネス様の弁護をさせてもらっても?」
「……どうぞ」
眉を寄せ、わずかに不満げな顔を見せたルル。だがそのルルも、ルネスの方へと向き直って僕の言葉を待った。
「お嬢様は、ルネス様が嘘を聞いて喜んでいる、と仰いました。でも、本当にそうでしょうか?」
「どういうことでしょう」
ルルの声が冷たく聞こえる。先ほどまでとは、もう既に違う。
怖くてそちらを向けないほど。しかし僕はそんな声に負けないよう、足に力を込めた。
「立場上、このお茶会ではルネス様が一番上でしょう。しかし、ただ楽しんでいる、という訳でもないと思います」
僕はルネスを見ながら、他の人間の話にも耳を傾ける。
そして、混ざっている伯爵家令嬢の退屈そうに動かされる手。それを確認し、おそらくルネスも同時に気づいたのだろう。
「次、話を振る相手を変えます」
「イルマさんは、カノンさんの絵をご覧になったことはありませんでしたよね?」
「はい、そういえばございませんね」
畑、から畑の絵の話。関連がわかりづらいが。
そこから広がっていく話。それもまた、僕にはわからない芸術作品の話だろう。
しかしそれも。
「でも私が買って頂いた『青の水盆』の方が、評価が……」
「あの青、発色が悪いと評判ですが……」
次第に、自分の持っている何かしらの作品が一番だと張り合うようになっていく。それなりに体裁は整えているが、このままだと険悪になる程度には。
多分、そろそろだろうか。
「そろそろ、ルネス様がご自分の所有物を自慢なさいます」
見ていると、ルネスが扇子を開き、高笑いするように目を細める。そして僕の言葉の通り、喧嘩し始めたイルマと呼ばれていた令嬢と、ジーナの言葉に割って入った。
「それを言うなら、私所有の『貴婦人の戯れ』がもっとも美しいですわ」
「…………」
二人ともが『まあ、それは……』とばかりに矛を収める。実際にはそう思っておらずとも、反論が出来ようはずもなく。
「よく、おわかりになりますね」
ルルが感嘆の息を吐く。呆れも混ざっていそうだが。
「私はお嬢様とは違い、いつも外から見ているからでしょう。ルネス様の会の進行は、お手本のようなものですから」
「進行?」
「はい。ルネス様は、進行役です。面倒な役目」
それは以前も感じたこと。
ルネスは皆に接待を受けている、というのは正しいのだと思う。しかし、ルネスが一方的に接待を受けているわけではない。
むしろ彼女の役割としては『司会』で、会が円滑に進むようにどうにかして話題を回しているのだ。
煌びやかな宝石や、美しい衣装。新しい手袋。そういったもので、どうにかして話題を作って話を止めないようにしている。
浅い会話、というのはわかっているだろう。誰もが本当のことなど言っていないと。
でもそれは、彼女らにとって重要でないから……。
「それにしても嬉しいですわ。カノン様も、呼べば来ていただけるくらいになっていただけて……」
「最近、体調がいいので……」
へへ、とカノンが笑う。先ほどまで浮かべていたお淑やかな笑みからは、少し違う元気な笑みで。体調が改善している。それは僕も嬉しいことだ。
「彼女も、大変だから、と……?」
ルルの声に、わずかに苛立ちが混ざっていると感じる。まるで僕が、人間達の話をするときのような。
「そういうわけでは……いえ、そう言っているようなものですけど……」
そんな声に、言葉に詰まる。着地点を決めずに話し始めるといつもこれだ。人と話すのが辛い、というのももはや治せない欠点だろう。
「だから、何なんですか?」
怒られているように感じる。いや既に怒られているのだろう。先ほどまでの楽しげな雰囲気も消え失せて、また気まずい雰囲気が戻ってきていた。
「だから……」
言葉に窮し、僕は一度唇を閉じる。そんな様に気づくこともなく、ルネス達は楽しげに話し続ける。
「今度、一緒に遠乗りでも出かけましょうか」
「はい、ご一緒させてください」
カノンが、嬉しそうに応える。これもまた嘘だというのだろうか。
「カノン様とは初めてですわね」
ふふふ、と扇子で口元を隠して応えるルネスの言葉も。
いいや、違うな。
急激に視界が広がった感覚がある。考えがまとまった、とそんな気がする。
ジーナとカノン。今日のお茶会だけでも、少しだけヒントはあった。
「ジーナ様、座っているのはいつもルネス様の左側でしょうか?」
「…………?」
ルルが僕の言葉に悩み、やや上を向いた、気がする。思い出しているのだろう。
「……そんな気もします」
「ですよね」
僕の記憶の中でも多分そうだ。今まで全く気にもしていなかったけど。
そして、カノン。彼女は、いわゆる『付き合いが悪い』女性だ。
当然それは仕方がない。治らない貧血で、時には治療師を呼ばなければいけないほど恒常的に弱っていた彼女。体調不良により、きっとこの会への出席率も悪い。いいや、悪かったのだろう。
そして、ルルも。
彼女も、積極的にお茶会に出るようなタイプではない。
なるほど。
「……上手い表現が浮かばずに申し訳ありませんが、……彼女は、仲間はずれを作らないようにしているんです」
「仲間はずれ?」
ルルが僕を見て、またルネスを見る。訝しむように、探るように無言で。
まずい、僕の中で、これ以上の弁護が出来なくなった。
僕は笑う。それ以上の言葉が出ない自分に向けて。
「本当に申し訳ありません。これ以上の弁護が私には」
このお茶会は、ルネスの善意の結晶なのだろう。
初めて会ったときから知ってはいたが、ジーナは耳が悪い。おそらく日常的に楽器を左側に構えて演奏しているからだろう。左側の耳が悪く、人と話すときには無意識に右側の耳を寄せている。
多分、大人数で話すのは苦手だ。そして多くの人間は、あまりにも聞き返されることが多いと腹立たしく感じはじめ、そしていつしか話しかけようと思わなくなっていく。……ルネスのようなお節介を除いて。
そしてカノンも。
虚弱体質、ということで人前に出る機会は少なかった。お茶会なども出席率が悪くなれば、話題についていけずそもそも交友範囲も広がらない。何らかの形で接触しなければ、友人も出来ないだろう。そうすれば、公的なものはともかく私的なものには呼ばれなくなっていく。
ルネスの開くお茶会を除いて。
善意の結晶。ルネスは彼女らの中で、仲間外れになりそうな者に、積極的に声をかけて集めている。そしてルルと僕のすれ違いで怒ったように、その力になれればと思いながら。
正直僕ですら、何様のつもりだ、と思ってしまいそうなことは否めない。
その優しさは彼女のような侯爵家という地位の下行っている行為で、偏った目で見てしまえば、施しや哀れみという側面もあるだろう。
きっとこれを、手放しで褒め称えられるのが『良識』というものなのだと思う。
そしてまだ僕は、そんな良識を持っているとは言えない。
「まずお茶会を。そして王城の中、適当なところを姿を隠したまま見せてあげるといい、というのがその男の言葉でした」
追及されないように、強引に話を戻す。もうルネスの話もしづらい。
「そしてそうすれば、ここでお嬢様にかけるべき言葉が勝手に見つかるだろう、とも。……でも」
「でも?」
レイトンの知恵はそこまでだった。貸さない、というわけではない。僕にわからなければきっと無理だろうと、そう言っていた。
ならばこれ以上はもう無理だ。
「でも、正直これ以上はわかりません。僕は何をお伝えするべきだったのか。僕は本当は何を、読み取るべきだったのか」
ルルが知らない男の話。そんな男の話をして申し訳ないが、それが今回の結論だ。
みんなが見ている絵。それをどうして誉められるのかわからない。それもまた、ルルと僕は同じだったのだろう。
降参宣言。
僕は、ルルにとっては頼んでもいないのに王城を連れ回し、そしてよくわからないことをずっと喋っていた従者だろう。だがそれも仕方ない。
ルルは僕の言葉に応えず、お茶会の光景を見つめ続ける。
視界の端で飛んでいた鳥が、テーブルの上のお菓子を見て「あれ食べたい」と言って母親に叱られていた。
肘を押さえるようにして、ルルは微動だにしない。
帰ろう、という時期も逃した。そんな気がする。
しかし、唐突にルルが口を開く。
「次、ジーナ様が紅茶を飲み干すと思います」
「え?」
確信を持って、僕ではなくルルがそう口にする。そして言葉の通り、ジーナが紅茶を飲み干して、侍女がそこに紅茶を注ぐべく静かに駆け寄っていった。
ルルがこちらを向く。
怒っているのかと思っていたが、穏やかな笑みを浮かべて。
「私と同じ悩み、でしたか? その男性は」
「……そう聞いています」
視界の端で、侍女が紅茶を注いで回る。カノンが黒糖の粒をもらっていた。
そんな光景を見ながら、ルルが溜息をつく。力を抜くように。
「その人がカラス様に言わせたかった言葉。私にもはっきりわかるわけじゃありませんけれど、……私は、何となくわかった気がします」
「…………そうですか」
僕がわからないのはもう仕方ない。しかし、レイトンから、僕を通じたメッセージはたしかに伝わったらしい。やはり彼らには、通じるものがあるのだろうか。
「参考までに、どういったものか教えて頂きたいです」
「それは……」
ふふ、と楽しげに笑いつつ、ルルが口を開こうとする。
しかしその前に、思いとどまったように何かに気が付き、口だけを開閉させた。
「……その前に!」
そして、元気よくそう叫ぶように言う。僕に一歩近づきながら。
視界、斜め下から、ルルが頬を膨らませて上目遣いに睨んだ。
「カラス様。私とお話ししたことを、人に話しましたね?」
「………………」
突きつけられた人差し指に、僕はまた言葉に詰まって、視線を逸らす。
それは僕の過失で、怒られても仕方ないことだと思っていたけど。
しかし、あれは……。
「い、言い訳をさせて頂けるなら……」
「聞きません」
僕の言葉を遮り、ルルが背中を向ける。怒ってはいない口調なのが、更に怒る前兆っぽくて怖い。
これに関しては僕が全面的に悪いので、いくらでも謝罪する用意があるけど。信用を失うということ。それは、こういうことから始まるのだと思う。
腕を組んで、頬を膨らませたままルルがそっぽを向いて鼻息を荒くする。
「申し訳ありませんでした」
そんなルルに謝ろうと、言って頭を下げる。
だがそれ以上の言葉が中々降ってこずに、どうすればいいのかと若干悩み始めた頃、ようやくルルが口を開いた気配がする。
「夕食の時間まで私が戻らなければ、多分さすがにサロメも心配すると思うんです」
「……はあ、多分……」
僕はいいつつ、少しだけ頭を下げていた角度を戻す。見上げる視界の端っこで、ルルがこちらをちらりと見ていた。
戻る時間は伝えていないが、夕飯には間に合うと彼女には伝えている。許可は取っているが、一応気は揉むだろう。
「戻ったら、……戻ったときにサロメが怒っていたら、一緒に謝ってください。そうしたら、許してさしあげます」
「…………」
つまりそれは、サロメが怒るくらいの時間まで、この王城を巡るということだろうか。
まあ、その程度ならば。
「その程度ならば、喜んでさせて頂きます」
僕は安堵するように、もう一度深々と頭を下げる。
そして顔を上げた真正面では、ルルが恥ずかしげに笑みを作って待っていた。
さて、とルルがお茶会に背を向けて一歩歩く。
今度は僕がそこに付いていくように、よろめくように追いすがった。
「今日は、王城の中でならどこへでも連れていってくれるんですよね?」
「はい、そのつもりです」
書庫に行く前にルルに語った言葉は真実だ。そこに行きたいかどうかは置いておいて、王族の寝室まででも連れていこう。
ルルは振り返り、日の光を眩しく思うように目を一瞬細める。そしてそれから、斜め上、上空と思わしき場所を指さした。
「なら、まずあそこまで行けますか?」
指が止まる。その先はこの王城にいくつかある高い塔のうちの一つで、今指さされているそこはおそらく、周囲の監視などのために作られているのだろう。
まあ、何も問題はない。
「畏まりました」
僕は恭しく頭を下げてから、そこを見る。見上げるような高さにはあるが、少しばかり離れている。一直線……に作っても問題なさそうだ。
作るのは先ほどと同じ階段。僕とルルの周囲だけ、煌めく光が形作った透明に近いもの。
目の前に現れたそこに僕が足をかける。
そして二歩ほど上がったところで、ルルが上がってこないことに気が付いた。
振り返り、何事かと視線で問いかけても、ルルは何も答えない。
その代わり、掌を下に向けて、そっと手を差しだしてきていた。
「さすがに怖いので……お手を、お願いできますか?」
「承知しました」
僕がその手を下から受け止めるように取ると、わずかに握り返される。
ルルが一歩一歩と階段を上り始めた。
「そういうときには、『喜んで』と言うらしいです」
「そうなんですか」
そこまで歯の浮くような言葉は言えない。貴族に生まれなくて良かったと思うことの一つだけど。
とぼけるように僕が言うと、それ以上ルルは何も言わずに、階段をしっかりと踏みしめて歩き始めた。
数分後。塔の上まで到着した僕たちは、とりあえず立てそうな水平な足場を見つけて降り立った。
円周上の屋根の縁、というべき狭い場所だが、それでも五歩程度はあるだろう。
さすがに急な階段をずっと上るのは辛かったのだろう。ルルは肩で息をしている。今は何の薬も持っていないからどうも出来ないけど。
「……まるで、飛んでるみたいでしたね」
そうルルは楽しそうに額の汗を袖で拭きながら言うけれど、それを聞いて僕も少し反省する。
「飛んでもらえばよかったですね」
そもそも僕が運べばよかったのだ。失念していた、というのは言い訳にはなるまい。
「いいんです、これで」
僕の言葉を笑い飛ばすように、ルルが足場の上を数歩歩く。高所恐怖などはないらしい。
そして、眼下を見下ろし溜息をつく。街全体を見下ろし、その先にある畑や北にある森まで見渡せるような高さ。その中では、人間がうじゃうじゃと蠢いている。
「いい景色」
「ここまでは中々来れませんからね」
「カラス様は、簡単に来られるんでしょう?」
「もちろん。ここより高い場所まで飛んだこともあります」
「どれくらい?」
「この王城が、塵のようにしか見えなくなるまで」
自慢するように僕は言う。ムジカルで、遙か上空の標まで飛んでいったこと。
いつかルルにも話してみようか。天空に住む蟹の話。
ルルが深呼吸する。空気を味わうというよりも、緊張を解すように。
それから、意を決したように勢いよく僕の方へ振り返った。
「さっきの話ですけど」
「はい」
わずかに面食らいながら、僕はどうにか返答する。反射的に、胸の前で手を広げるように構えつつ。
「カラス様は、人間が嫌い、と仰ってましたね」
「…………」
何故か一瞬言葉に詰まり、それでも小さく頷くように僕は答える。
「……はい」
「では……」
もう一度、ルルが深呼吸する。隠しているようで、全く隠せていないけど。そして、息をまた大きく吸って、吐息と同時に言葉を吐いた。
「私のことは、……お嫌いですか?」
「…………」
また言葉に詰まり、僕は唾を飲む。乾いた口の中に、唾は出てこなかったけれど。
でも、……そう、その答えなら、先ほどと矛盾している気がする。
「いいえ」
僕が答えると、ルルが残っていた息を吐き出す。
そして安心したように、また下界を見下ろした。
「なら、多分、カラス様に言わせたかった言葉というのは、いつかきっとわかると思います」
視線の先には先ほどのお茶会。
誰だかわからないが、一人増えているのは途中参加だろうか。
犬鷲が塔の天辺に止まる。僕たちを一度じろりと見下ろして、僕の顔を見た。
この前、蜥蜴を上げた犬鷲のようだ。
犬鷲が、僕とルルを見て、鼻を鳴らした気がする。
そしてそれから、「もうすぐ雨が降るぞ」とだけ言って飛び去っていった。
僕が犬鷲の言葉を聞いたことに気づいたのだろう。犬鷲と僕を交互に見て、ルルが上目遣いに尋ねてきた。
「雨が来そうですか?」
「らしいですね。あまり、そういう感じもしませんでしたけど」
僕は犬鷲の言葉に空を見上げる。初夏から夏に変わりかけたこの季節、夕立はたまにあるけれど。
温かい風が顔を撫でる。
見上げた先には、発達しつつあるらしい黒っぽい雲。
僕は一度下を見て、戻るルートを考える。
「では時間もありそうですけど、雨が降らないうちに戻りましょうか。屋内では、どこに?」
「厨房とかどうでしょう? 一度王城の厨房に入ってみたかったんです」
「わかりました。どこへなりともお供致します」
サロメが怒るまで、僕は今日付き従う。ルルがそう願うなら、そうしよう。
そして塔の中に一度入り、階段を下り始めたところでルルが「そうだ」手を叩く。
「お茶会ではありませんけど、料理を久しぶりに作りたくなったんですけど……。腕が鈍ってるかもしれないんですけど……」
けど、けど、と何度も続ける。要領の得ない話。しかし。
「貴族の娘なのに、と思われるかもしれませんけど、今度、作ってみたら食べていただけますか?」
沢蟹とか、とルルが続けて僕を見る。
僕はその言葉に、「喜んで」と応えた。
今章はあと閑話一つ(まだ書けてない)で終わりです。




