お嬢様の側に
数瞬遅れて、ようやく違う話題が見つかる。言おうとしてから、こういうことは最初に思いつきそうなものだと自嘲した。
「今お嬢様が読まれているのは、どういう話でしょう?」
今度は僕が気を遣う番だ。興味だってあるが、それでもどうにかして話題を逸らしたかった。
ルルも小さく咳払いをして、持っていた本の表紙を僕に示した。
「……これは、海原冒険記です」
「さっき仰っていた、読みたかった本ですか」
「そうです」
言いながらルルが、まだ読んでいないであろう後半部分までパラパラとページをめくる。その内容まで読める速さではないが、そんなことをしてもいいのだろうか。
僕の心配をよそに、またルルは本を閉じた。
「アウラ……とはちょっと違うんですけど、そういうアウラとは関係ない海がある世界の話です」
ルルが、視線を僕からも逸らし、斜め上を見る。天井を見ているわけでもなく、多分彼女の視界のその辺りには、その情景が浮かんでいるのだと思う。
「人と同じ背丈の美しい鳥を連れた少年が、海辺の街を放浪するんです。いつか、海の向こうまで行ってやるぞ、って言いながら」
言いながら徐々に、ルルの声が暗くなっていくのを感じた。
なんとなくわかる。この話題も、失敗だったか。
「鳥には『いつ行くの?』って何度も聞かれるんですけど、少年は『いつか』としか言わないんです。それで、砂浜の砂を洗う仕事とか、大道芸とかをしてその日暮らしでいつまでも海を見て過ごすんです」
結末はルルも知らないのだろう。想像の景色は多分そこで終わり、ルルは目を閉じる。長い瞬きをして、僕を見た。
「……ムジカルへは、本当に行かないおつもりですか?」
「突然ですね」
唐突な話題の変換。最初からその話題に繋がる予感はあったのだろう、ルルの方はスムーズだった。だが僕の方も、返答として迷うことはない。
「ええ。行きません。この前お話ししたとおり、行きたい理由がありません」
だがそれでも納得できないように、一瞬言葉に詰まりながらも、ルルはわずかに悲しそうに目を伏せて言った。
「戦争に出れば、カラス様は英雄にでも何でもなれるのではないでしょうか? クロード様と戦えるのであれば、話に聞く五英将にでもなんでも……」
「私はそんな器ではありません。なる気もないですしね」
五英将。ムジカルでは畏怖畏敬を集めている存在ではあるが、なりたいとは思えない。なりたくない、とも言えないが、そもそも興味がないのだから仕方ない。
「では、聖騎士ならば……。クロード様に口利きなどを依頼しても、受け入れて頂けるのでは」
「そちらも別に、興味などはないですし」
笑い飛ばすように笑い声混じりになってしまったが、やはりそれも本音だ。
……この話は続くのだろうか。
思わず視線を逸らしながら小さく溜息をつくと、視界の端でルルがわずかに肩を震わせる。彼女が悪いわけではないのに。
彼女としては、やはりこれも気遣いなのだろう。この前のルネスとの話を考えると、僕が戦えるのに、何故戦争に出ないのかと。その腕を評価してくれる場所に行くべきではないかと、そう思ってくれているのだと思う。自惚れでなければ。
僕は首の横を掻いて、わずかに悩む。
今からする行為は、決心が必要だ。彼女の気遣いに応えるため、これ以上煩わしい話題を出させないため……とでも理由をつければ、僕は動けるだろうか。
いや、一番の理由がそれだし、いいだろう。これ以上この話題を話したくはない。ここで決着をつけよう。
何より、彼女は僕に打ち明けてくれたのだから。
「戦争に行きたくない、というわけではないんです」
この話題に関することを、僕から口にしたことはない。
だからだろう。ルルが、わずかに「え」と声に上げて、ほんの少しだけ目を見開いた。
「前はたしかに、そう思っていました。戦争が煩わしい、というのはずっと同じですけど」
僕はいいながら、先ほど返した本に視線を向ける。寓話集、その中の一編を思い浮かべながら。
「つまらない話ですけど……聞いて頂けますか?」
僕の質問にルルは何も喋らず、ただこくりと頷いた。
といっても、何も整理していない。ほぼアドリブだけれども、上手く伝えられるだろうか。
僕は少しだけ悩んで、ようやく言葉を切り出せた。
「…………昼に飛ぶ烏、ってご存じですよね?」
「はい。もちろん」
「質問を重ねるようですが、この前、カンパネラと名乗るムジカルの工作員と話した事件、僕がイラインで襲われた話は覚えていらっしゃいますか?」
「……もちろん」
深刻そうに、ルルが頷く。その時のカンパネラの行動から連なる話だ。覚えていない方がおかしいというのは言い過ぎだろうか。
でも、覚えているのならば話は早い。もっとも、補足くらいはしよう。
「私は、昼に飛ぶ烏と同じ目に遭いました」
ルルが唾を飲んだ音が聞こえる。気のせいだけど。
明らかな緊張。
「といっても、私が石を投げつけられたりはしていません」
「そう、聞いています」
「飛んできたのは矢で、当てられたのは私の数少ない友人です」
明らかな緊張に、憐憫が混じる。その痛みまで想像したのだろうか、顔を顰めて。
「何で、そんなことに……」
「嫉妬らしいです」
言いながら、少し違うと僕は思う。
事実としてではなく、彼ら人間達の中ではの話で。
「こちらは知らないかもしれません。私は孤児です。生まれてすぐに森に捨てられて、それから近くにある開拓村に潜んで暮らしてきました。一人で」
「…………?」
「そして、イラインの貧民街に出て、そこで生活し始めた。……貧民街のことは覚えてらっしゃいますよね」
「行ったことはありませんけど……」
「なら、わかる気もするのではないでしょうか? 貧民街の人間が当時のお嬢様達……街の人間に、どう思われているのか」
ルルは応えない。
だがその表情に、何かを思い浮かべているのは如実にわかった。僕には向けられていないものの、きっと思い浮かべているのは、厨房に出る鼠かなにか。
「そんな私が探索者としてこのように身を立てた。それが、気に入らなかったらしいです。どれもこれも、『らしい』ですけれど」
ここからも、本当は僕は多分真に理解しているとは思えない。
だから、『らしい』が続く。どうしても、それはやめられない。
「イラインでは、人間扱いされていない私。それでも、無名のうちはそれなりに認められていた……と思います。少なくとも私は、そう思っています」
昔。まだ、旅に出る前の話。グスタフさんから本草学を学んでいたあの頃は、まだ僕も『イラインの人間』だった気がした。
「ですが、いつの間にか。成長した私がムジカルから戻った頃には、状況は一変していました」
オトフシ曰く、僕の『手が伸びた』頃からの話。闇夜の烏が、ついに人里に現れてしまってからの話。
思い出す度に腹が立つ。この感情が本当にそうかはわからないが、多分憎しみが募る。
「どうやら人間達は、自分たちより下だったはずの存在が成功するのが心底腹立たしいらしいです。何度も暗殺者を送り込まれました。〈狐砕き〉という名声は、それだけ目障りなんでしょう」
僕が本来歯牙にもかけない程度の暗殺者。それでも、数が揃えば鬱陶しい。そして、そんな程度でも、僕以外には大変なことだった。
「そんなこと、くらいで……」
「そんなことでもないらしいんですよ。いいえ、彼らの中ではそれは関係ないんです」
「……どういう意味でしょう?」
「先ほどの理由は私の恩師やその部下の推測で、私のところに来た暗殺者を雇った人間達が言っていたのは、また違うことなんです」
その先を口にしようとして、僕は少しだけ躊躇する。
ルルはどう思うだろうか。ここまで来て、言わないわけにもいかないけれど。
僕は揃えた手の先で、自分の胸を指す。
「私は極悪人。探索ギルドではろくな実力もないくせに縁故を使い成り上がり、何らかの仕掛けにより魔法使いのフリをしている詐欺師。誰かの功績を横取りし、街の人間を騙して金品を巻き上げ、周囲を震え上がらせている手のつけられない乱暴者、です」
「…………」
自虐、と思われているのだろうか。ルルがわずかに唇を尖らせるようにして、思い直すように瞬きを三度した。
僕は自身を示していた手を振って力を抜き、笑い話に変えるようにおどけてみせる。
「当然、全て身に覚えがありません。それを声高々に告発する人間とは、会ったこともないこともしばしばでした」
リコの事件前。送られてきた暗殺者には、幾人かから話を聞けている。
拳を握れば、思う以上に力が入る。僕は多分今、また苛ついているのだ。
「私がやってもいない、身に覚えもない罪を御旗に、正義感溢れる人間達が僕を罰しようとわざわざ暗殺者を雇うんです。本当に私が何かをしているのであれば、衛兵に相談すればいいものを」
本当に僕が何かをしていて、そして衛兵が来たのであれば僕はおとなしく従おう。以前、ネルグ北の街で衛兵に従って拘禁されたように、まあ当時なら誰一人傷つけることなく従っただろう。今ではそんな気はさらさらないが。
無意識に机が、僕の爪で引っかかれる。ガリッという音がして慌てて止めた。まさか、先ほどの爪痕もこういうことだろうか。
「そしてそんな暗殺者の一人が、私と背格好の似ている友人と私を間違えて、さらにその場にいただけの別の友人に矢を当てました」
血の感触が掌に蘇る。気のせいだとしても、思わず確認してしまうほど生々しく。
「……死ぬところだった……」
色や温度などに多少差はあれど、どんな動物の血もあまり違いはない。
しかし、この世で一番嫌な感触の血はと問われれば、親しい人間の血だろう。それを僕は、この前知った。
「その、ご友人は」
「生きています。ルネス様がつけていらっしゃった、手袋の制作者ですよ」
「ああ、あの」
どうなった、と続きそうな言葉に応えると、納得するように、安心するようにルルが息を吐く。
これだけ言えば、充分だろう。
もちろん僕の視点での事件のあらましだ。事件単体ではなく、その背景が主な問題。そしてその背景は、僕の都合で歪められたものだけれど。
「……だから私は今、人間達が嫌いです」
「まるで、カラス様が人間ではないような……」
「その暗殺者や、私の悪口を言う方々はみんなそう言うんですよ。化け物、と」
これは自虐も混じっている。その自覚はあるが、やめられない。
『人が自分を化け物と呼ぶ』というふうな言葉は、以前スヴェンも言っていたことだ。もしかしたらスヴェンも、こういうことを経験したのだろうか。
「昨日、お嬢様は私に、『みんなが自分にはわからない絵を誉め続けて、描き続けている』と言いましたよね」
実際には何も変わってはいないが、それでも明るく話題を変えるように僕はルルに笑いかける。上手く笑えているかはわからないけれども。
ルルは、同意していいものかわからないよう、おずおずと頷く。
「……はい」
「正直、私も同じ思いです。みんなは街で普通に暮らせているのに、私はみんながやっていることを真似できない」
気持ちがわかる、と言おうとしてそこまでは言えなかった。レイトンの言葉が耳に残って邪魔をした。
そして、そうなる原因も多少はわかる。『生まれ』という絶対的なもの。
それを変えればそうはならないのだろうか。もしも嘘をつかずにそれを変えるとしたら、生まれ直すくらいしか考えられないけれど。
アリエル様を責めはしまい。僕が捨てられるのは、アリエル様も予想外だったのだから。……いや、一度くらい文句言ってもいいかな。
「戦争について、話を戻しましょう」
「はい」
安堵のような、覚悟するような顔でルルが僕の言葉を待つ。
僕はその顔が何となく悲しく思えて、また口を閉ざそうとして、それを堪えた。
「正直に打ち明けましょう。私は、戦争に関して、行きたいとも行きたくないとも思いません。もちろん今の話がある以上、どちらかについて戦争しろと言われればムジカルに行った方が気が楽ですけど」
ムジカルの敵になるのは構わないが、エッセンの味方はしたくない。
やりたいこととやりたくないこと。これも、『やりたくない』だけだろう。
「なら」
「でも」
ならどうして行かないのか。そう疑問を口に出そうとしたルルの言葉を遮って僕は続ける。
「エッセンとムジカルの人間達が争って、殺して殺される。それは『どうでもいい』『関わりたくない』が本音です。手出しはしたくない。殺したければ殺せばいいし、死にたければ勝手に死ねばいい。その結果もしもイラインの住人が全滅したら、『ざまあみろ』と笑うだけです」
むしろ、手出しはしたくない。そうすれば僕が直接殺すよりも遙かに労力が軽く、そして多分罪悪感も薄い。よけいに僕の胸がすくだろう。
ルルが口を開く。
だが何か言葉を喋ろうとして、選ぶように喘ぎ、また口を閉ざす。それを二度繰り返し、ついには俯いてしまった。
受け入れられないことだろうか。
いやまあ、冷静に考えればそうだろう。今まで普通に話してきた従者が、『街が全滅すると気持ちがいいです』と言っているのだ。いい気分はしまい。
「……変な話をしてしまったようです。どうか、忘れて」
「でも」
今度は僕の言葉が遮られる。俯いたままで、それでもルルの語調が強い。
「……でも、ご友人がいらっしゃるんですよね」
「…………そうですね」
そして、その言葉には僕は同意する。やはり、レイトンの言葉通り、彼女とレイトンは似ているのだろうか。レイトンに言われたことと、ほぼ同じこと。
僕はルルと逆に、天井を見上げてまた息を吐く。
「もちろん、そんな都合良く物事が運ぶとは思っていません。私の友人だけが生き残り、その他が全滅、そんなことには絶対にならない。全滅するのであれば彼らも死ぬでしょうし、もしかしたら逆にエッセンが領土防衛を完璧に成し遂げ、イラインは無傷で終わるかもしれません」
経験上、大抵の物事は、僕の都合の悪い方へと進んでいく。仮にイラインが戦渦に巻き込まれ、避難も出来ずに民間人が死ぬ事態になったとしたら、立場の弱いその友人達から死んでいくだろう。
弱い者から死んでいく。
だから、戦争は嫌いだ。
「私が戦争に出るため、つくとしたらムジカルです。しかし、そもそも戦争には出たくない、ですから、ムジカルには行きません。ムジカルに行けば必ず戦争に出ることになりますから」
この説明をしたいがために、余計な回り道をした気がする。
俯いたままのルル。また心労をかけてしまっているだろう。
どうして僕は、こんな話をしてしまったのだろう。ほとんど全て口にしてから、今更ながら後悔する。後でないと後悔できない、というのはよく言ったものだけど。
本当に一言で済ますなら、簡単なことだったのに。
「ここでお嬢様の側にいるほうがずっといい」
ただ、そう言えばよかったのに。
僕が話を終えても、ルルは悩むように俯いたまま動かない。
もう、本は読まないのだろうか。読める雰囲気でもないとは思うので、仕方ないとも思う。
僕は素知らぬ顔で、また空気を読まないで行動するべきだろうか。
いや、そうしよう。僕の方が勝手に負担をかけておいて、これ以上心労はかけられない。
「とまあ、長々と語ってしまいましたが……秘密にしておいて頂けますか?」
「……秘密、ですか」
「はい。人に聞かれては不味いことを口にしてしまった気もするので」
言うまでもなく、僕が語ったのは明らかに危険思想だ。僕の手でどうにかしたい、とは言わないまでも、仮に思えばそれが出来る力があるのもルルは知っているだろう。
……よく考えたら、僕はルルの話をレイトンとしてしまっているけれど。……まずいな。大半はレイトンが察してくれていたけど、僕が明かしてることもあった気がする。
僕がそんな罪悪感と焦燥感に苛まれていると、ルルの口が動く。
「……わかりました」
「助かります」
ようやく会話が終わった。
そんな安堵を感じることもなく、僕の額からは冷や汗が溢れていた。