見失った場所
次の話で終わりと書きましたが、長くなったのでやっぱり四つに割ります
ルル「…………」
「注意点があります」
「はい」
ルルが机の上に本を置く。三冊ほど。青に黄色、緑とくすんだ色の表紙はどれも違うが、どれもが文庫本のように小さく、やや薄めの本だった。
その内の一冊を手に取り身体に寄せて、椅子にストンと腰掛ける。
「この隠行は万能じゃありません。誰かが近づいてきたら、椅子から立ち上がっていただけますか」
「何故でしょう?」
「椅子ごと消えて見えてしまうんです。等間隔に並んでいる椅子が、一脚だけなかったら変でしょう?」
「……そういうことでしたら」
うん、と重々しくルルが頷く。手に取った一冊を膝の上に置いたままで。
少々これは面倒くさいが、やってもらうしかない。
ちなみに実は、机の上に本を置いて読む姿勢、つまり机に密着した姿勢では、机も歪んで見える。横から見たら縁が正確な直線ではない、という程度ではあるが、気づいた者がよくよく見れば違和感は覚えるだろう。
まあそれはそれこそ、立ち上がってもらえば何の問題もない。
ルルが居住まいを正す。背筋を伸ばして椅子に深く腰掛けて、咳払いまでして感慨深げに両手で持った本の表紙を眺めた。
それも一瞬のこと。ぱらりとページが捲られる。和紙ではないが、和紙のように柔らかい紙で作られた表紙は、静かに音を立てて開かれた。
「…………」
空気が変わった、と思う。ルルの目が、文章を追うためにゆっくりと左右に動き始める。
そんな何かしらの儀式のような真面目な雰囲気に、邪魔をしてはいけないという義務感のようなものが僕の心に芽生えた気がした。
ルルを見ていても仕方がない。
本を持ってこなかった僕は、ルルの向かいに座って静かに息を吐く。
静かな部屋だ。下の階にいる司書や、資料を探す者たちの足音などがパタパタと遠くで響く中、ルルがページを捲る音がよく聞こえる。もちろん、ルルの立てた音は周囲に漏れてはいないが。
上を見れば、天窓から漏れた間接光で白っぽく染まった石の天井。そしてその天窓を見て、天窓から直射日光が当たる床まで視線を動かせば、相対的に暗い室内を背景に、埃が舞ってきらきらと輝いていた。
ふと、机の上にのせていた僕の指が、天板に引っかかりを感じる。
木の机。毛羽立ち棘がささくれているのかと一瞬思ったが、そうではない。……これは、爪痕?
傷跡は四本。鋭いわけでもない爪で、何度も何度も引っ掻いたような短いもの。
大きさからすると虎や熊よりも一回り小さい気もするが、人間がこんなことするだろうか。もちろん、この書庫に猛獣が来るわけがないから、人間なのだろうけれど。
そんな正体不明の傷跡を手持ち無沙汰に撫でながら、僕は周囲を見渡す。
壁際に置かれた本棚。どれもぎっしりと資料らしき本が詰まっており、この書庫の歴史をそれだけでも感じさせる。
今視界の中に入っている本棚だけでも三十以上。そもそも視界に入っていなかったり、角度で見えないだけのものまで含めるとそれ以上はある。
それぞれが先ほどの物語の棚と同じと考えると、十万冊は軽く超える蔵書。
もちろんそのほとんどは、『本』という単語を僕が聞いたときに思い浮かべる物語の書かれたものではない。歴史書や、辞書のような資料。それに会計などの記録などもあるだろう。
だがそれでも、そういったものまで含めて全てを僕が確認しようと思うと、何年かかるのだろうか。
先ほどの物語の棚は、一日一冊として十四年以上かかるとルルは言った。僕とは読む速度も違うだろうし、ありえない話ではあるが全ての本を同じペースで読むのなら、その十倍以上かかるだろう。
見えている範囲だけでも百五十年はかかる。普通の人間ならば、一生をかけても到底読み切れない量の本。
一瞬、考えた。
ここで百五十年の時間を潰してもいいかもしれない。
食事はどうする、睡眠はどうする、と考えても、僕は魔法使いだ。シャナと同じく、その気になればきっとそのどれも必要がない種族。まあ別に寝る分にはそもそも困らないけど。
とまあ考えはしたが、無理だろうとも思う。
本がある、とはいえそのほとんどが僕には興味のない数字の羅列や歴史の記録だ。物語は何度か読み返してもいいかもしれないけど、そちらは一度読めば飽きるどころか一度目すら読みきれるかどうかもわからない。
そして、やはり。
それは『前』と同じ生活だ。ただ本を読んで日々を過ごして、平坦な人生を慰めて、いつかストンと死ぬ生活。……一応、それでは死なない身体になってしまったけれど。
やはり、それはしたくない。
図鑑を読むのは楽しい。これだけの本があるのだ、この書庫にも多分、博物誌のようなものはあるだろう。けれどそれならば、僕はやはり本物を見たい。
ルルの警護の任を解かれ、ここを離れたら、森で暮らそうと思う。
前もやっていたことだ。ネルグの森で、季節の果物を採って、たまに獲物を狩って食べて暮らす。
ネルグの森ならば、人間は中々来ない。深層は聖獣クラスも闊歩しているだろうし安穏とはしていられないまでも、中層程度であれば特に気を張る必要もない。
川で身体を洗って、木のうろで雨を凌いで。もうあまり成長しないだろうし、服も破かないように注意しておけばいいだろう。最悪、スヴェンのように傷ついた衣服を再生する手段も考えれば。
そこから、僕はどこかへ行くのだろうか? それとも森の中で、永久に過ごせるのだろうか?
三年前、ムジカルに渡った当時。スケルザレの用意した何もない部屋で、僕は外が見たくなった。今もその気持ちは多分変わりない。
でも何故だろう。今はやりたくないことばかりだ。やりたいことなんてそうはないのに。
クス、と少しだけ笑ったような吐息が聞こえる。
発したのは目の前のルル。まだ本に夢中で、その世界に浸っていた。
僕は、思わずその様をじっと見てしまう。
楽しそうだ。真剣な表情、というカテゴリーの中で、次々に変化するその表情。
本を読んでいる人間というのは、微動だにしないわけではない。面白い場面では表情は緩むし、悲しい場面ではそれなりの表情へと変わる。退屈なシーンでは身体の動きが多くなる。そういったことは読書の際に本の中の世界に浸かる類いの人間ならば顕著だけれど、ルルはその典型らしい。
中身は知らないし、見えないのでルルの仕草からの完璧な想像だが、物語は多分今最初の山場を迎えている。
本筋に至るまでもない、読者を飽きさせないための最初の小さな山。主人公、もしくは主人格が何かしらの困難に出会い、その行動により状況が変化する最初の場面。
ルルの頷きは、多分そういうことなのだろう。
そんな姿をじ、と見つめていると、ルルが先ほどまでよりも素早くページをめくる。
おそらく今見ているのは、短い文章しか載っていないページ。挿絵があるようなものにも見えなかったので、章の区切りか何かでそういうところがあったのだろう。
そしてそんなページを乗り越えて、次に現れた長文の文頭を読み始めたところ。読み始めたところでルルは、何かに気が付いたように顔を上げた。
「……あ、あの、すみません、何か話しかけましたか?」
「いいえ?」
ルルが申し訳なさそうに短い眉の根を寄せて、本で顔の下半分を隠す。
僕が答えても、安心できなかったように僕をちらちらと見たまま固まっている。
……多分、以前話しかけられていたのに本に集中していて気づかず、そのことを注意されたことがある、とみた。しかし今回は潔白だし、存分に集中していてほしい。
僕は大げさに両手を胸のまえでひらひらと振り、釈明するように口を開く。
「楽しそうだな、と見とれてただけです」
「た、楽しそう、ですか?」
「ええ。とても」
「……ぁぅ……」
見られていたのが改めて恥ずかしくなってきたのか、ルルは本で顔を完全に隠す。そこまで恥ずかしかったか。いやまあ、プライベートの気を抜いているところと考えればわかる気もするけれど。
「申し訳ありません。お気になさらず」
しかし迷惑、というのはわかった。ならば気にせず読書を続けてもらおう。
無関心に戻る、と示すように、僕はルルの持ってきた本のうち一冊に手を伸ばす。まだ手をつけてもいないしいいだろう。
ハードカバーの小さな本。これは表紙は厚紙とかじゃなくて木製か。もちろん中は紙ではあるが、本に似つかわしくない頑丈さだった。
ルルが持ってきたのだから、何かしらの物語が入っているのだろう。そう思ったが、それもどうやら違うらしい。
抄句集、とタイトルに書かれたそれは、長編ではなく短編の集まり。それも物語というよりは、寓話の集まりらしい。
「その本、……」
ルルの声に視線を向ければ、ルルは隠していた顔をまた上半分覗かせて、僕に話しかけてきていた。
「その本は、三百年ほど前に、当時の貴族の教師だった人によって編纂されたらしいです」
「そうなんですね」
僕はルルから視線を切り、本をパラパラと捲る。
中身は、イソップのような感じだろうか。動物や自然現象が言い争ったり化かし合ったりして、その行動の結末を何かに喩えているような。
イソップを知っている転生者の作、ということも一瞬考えたが、しかし一応知らないものばかりだ。人の考えることはどの世界でも同じなのだろう。先代勇者の影響を受けているのかもしれないが。
「各地を巡って収集したものも入っているそうですが、大半はその教師が当時担当していた子供たちに語ったものを覚え書きしたものらしいです。なので、貴族としての心構えとか、そういうことを動物などに喩えてわかりやすく語ったものが多いとか」
「読んだことあるんですか?」
「ザブロック家にもありましたから。……つい、懐かしくて」
その詳しさと口ぶりに尋ねると、するするとルルが本を下ろして顔を見せる。物語を読んでいたときの顔とは少し違う、自分を語るときの恥ずかしさが見えた。
「でも、貴族としてのというよりは、清く正しくしなさい、という話が多いんです。その担当していた貴族……兄妹だったらしいですけど、お兄さんが暴れん坊だったらしいです」
「そんな横暴だったんですかね」
「野放図、が正しいらしいです。全部伝聞なので、『らしい』ですけど」
「はあ」
まあ、貴族に関しては何も言うまい。
僕は手元の本に視線を戻す。ルルの言葉を聞いてからだからだと思うが、たしかにそうして見ると『そういう話』が多い。
大抵負けるのは強者側。獅子や狼、虎などが、鼠や狐、兎などの小動物にやり込められる話。自身の蛮勇を逆手に取られ、もしくは知恵に負け、道理を踏み外すなどして時には命を落とす話。
『自身が怖がられているのは何故かというのがわからない獅子が、鼠の挑発に乗り爪と牙を抜いて、そのせいで鼠に喉を噛み切られる話』などはその典型だろう。
貴族としての心構え、というよりは情操教育としてのものが多い気がする。そしてもちろん、この国には浸透していないと確信できる。
そして、話の種類としてはそれだけではない。
人の目は、自身と関係のあるものを効率的に無意識に見分けているという。だからだろう、捲っているうちにとある単語がよく目に入る。
『烏』という単語。古語に近いらしく少し綴りは違うが、いくつも出てくる。主にコミックリリーフとして。そしてそれを流し見しているうちに、ついに見つけてしまった。
『昼に飛ぶ烏』という話。
寓話の寄せ集めだし、あるとは思っていたけれど。
細かな言い回しは知っているものとは異なる。しかし、大意はやはり変わらない。森の闇夜で飛んでいるべきだった黒い烏が、昼の人の世に出てしまい、石で打たれて殺される話。
そしてそんな話に目を留めてしまえば、その周辺には似たような話が数多く残っていた。
『走れる足を自慢しようと地面に降りてしまったために、蛇に噛まれて死ぬ鷹の話』、『雪イルカに憧れて、川を飛びだし雪に埋もれて凍ってしまった魚の話』、『自分の大きな耳を羽だと信じ、崖から飛び降りた兎の話』、……。
他にもいくつも記されている。どれもこれも、自分のいるべき場所から飛びだしてしまったために起きた悲劇。
そんな話の数々に目を留めて、少しだけ気分が悪くなる。
もちろんルルに悪気はないだろう。それどころか、何の意図もない。
僕が勝手に手に取った本。その中に記された総計百編以上の話から、僕が勝手にピックアップしただけの。
八つ当たりをするべきではない。僕はその気分の悪さを飲み込んで、溜息を隠すように小さく吐いた。
だが、ルルは多分気が付いてしまったのだろう。
「本ってすごいですよね」
いつもよりも少しだけ声を張り上げるようにして、僕が無意識に閉じていた寓話集を受け取るように手を伸ばす。
気を遣わせてしまっただろうか。ルルには事情がさっぱりわからないだろうに。
僕はその気遣いを無駄にしないように、その手にそっと本を預けた。
「すごいというのは?」
「……だって、その本は写本ですけど、中身は三百年前のものなんです」
これも四十年、とルルは残っていた一冊を示す。それにしては、三冊の中で一番古びて見えたが。
「三百年前の人が考えたことが、そのまま文章で残っているんです。私は多分……」
先ほどまで持っていた本まで閉じて、そしてその表情に後悔が見えた。
この話題を口にしたのは、ルルの失敗だったのだろう。僕は多分、その続きの言葉がわかったと思う。
ルルの気遣いで彼女の気を悪くはさせたくない。言葉が続かないうちに話題を切り替えよう。そう思い、話題を探すが上手くいかない。咄嗟の判断が出来ないのは今まで通りだろうか。
「多分、百年も生きられないのに」
僕が言葉を探す前に、絞り出すように、ルルがそう口にする。
それから僕を見た視線からは何もわからなかったが、それが嫉妬でないことを切に願う。