好きなものの前では
外に出る、といっても城の外に出るわけではない。
ルルと連れだった僕は、書庫の裏の中庭に出る。
十歩四方程度の小さい場所。応接や歓待のものとは違うその空間は、中央の池を除けばほぼ何も置かれていないといっていい。草刈り程度はされているのだろう、管理の手自体は入っている。
上を見れば空は高い場所にあり、程度の差こそあれミールマンの通陽口の中のような景色。じめじめとした、あまり日も当たらないその中庭は、僕ですら陰気な場所と思ってしまうくらいだった。
「ここが……ここが?」
ルルがその中を見渡し、首を傾げる。ここがどうしたというのだろう、と全身で伝えていた。
僕はその隅に移動し、軽く土を蹴る。
「花くらい植えておけばいいのに、とも思うんですけどね」
花が植えられていれば、少なくともここは『そういう場所』と見られるだろうに。だがまあ、日当たりも悪いし中々育たないのだろう。
蹴られた土が退けられ、その下が見える。ほんのわずかな薄い土、その下にあったのは、湿った石板のようなものだった。
「この下は、隠し通路みたいです。多分城の外まで伸びているんでしょう」
正直、ここはあまりにも露骨だと思う。レイトンの隠れている場所などとは違い、この王城で長く過ごしている人間は薄々気が付いているだろう。
「へえ……」
感心したようにルルが蹲り、その石板に手をかける。取っ手もないこれは、多分有事の際には叩き割られるのだと思う。
「持ち上がりませんね」
「中に入ってみますか?」
僕が笑いかけると、ルルが悩むようにそこを見る。
周囲に人影がないことを確認した後、僕がそこに念動力を作用させると、ガコ、と音がして持ち上がった。
瞬間、かび臭いような風が中から吹いてくる。埃を巻き上げたあと、その空いた隙間を覗き込めば、漆黒の闇が広がっていた。
「私も入ったことがないので、案内などは出来ませんが」
レイトンの居室からすれば、中はまた迷路のようになっているのだろうか。
近くの地形は把握できるが、迷路の踏破は中々出来ない。案内ならばともかく、ルルを連れての探索はあまりやりたくないところだけど。
「いえ、それは……」
「よかった」
結構です、という言葉を待たずに僕は石板を元の位置に戻す。また足で土を蹴ってそれを埋めると、そこだけ掘り返したように土の色が変わってしまった。
まあ、時間が経てば元に戻るだろう。
それよりも。
「それより、目的はこっちです」
ルルに指し示したのは、書庫側の壁。石が積まれた堅牢な壁が、やはり見上げる高さに聳え立っていた。
「これが……あ、いや……」
これがどうした、とまた言いそうになったのだろう。だが今度は自分の発言を胸の前で泳がせた手で止めて、一度振り返って先ほどの隠し通路を見た。
「まさか、こちらにも?」
「ええ。おそらく、書庫を経由して逃げるためのものでしょう。せっかくなら、こんな中継地点を作らずにそのまま逃げられるように作ればいいのにとも思いますけど」
そもそもこの中庭まで駆け込んでこられずに、書庫に一旦隠れる、というシチュエーションもあまり想定できないとも思う。多分後付けで作ったからこんな中途半端になったんだと思うけど。
壁の前に立ち、目線と同じ高さにある一つの石に手をかける。それを引っ張るように半回転させると、隙間が開く。
その隙間に、横の石をずらして入れて、またその石の上にあった石を今度は時計回りに半回転させる。その瞬間、石の奥でゴリっという音が響く。ロックが外れた。
最初に半回転させた石の、埋められていない隙間の方。そちらに手を入れると、鉄製の棒がある。その鉄の棒を引っ張ると、まるで普通のドアのように引っ張ることが出来、その奥にある空間に光が差した。
「では、入りましょう。暗いので、足下に気をつけて」
僕が先に入り、指先に光を灯す。両手を伸ばすことは出来ない程度の幅の階段。そこに足を踏み入れ、ルルが入るのを待って僕は扉と仕掛けを元に戻した。
十数段の階段。一番上まで上がり、左に折れ曲がったところですぐに室内に入ることが出来る。ここは一時隠れるようなことも想定していないのだろう、単なる通路、という感じだった。
蜘蛛の巣が当たらないように、気をつけながら僕は上がっていく。
「カラス様は、どうしてここに気が付いたんですか?」
「……ここですか?」
「ええ」
カツン、カツン、とルルの足音が響く。一切の減衰のないこの中は、通常ならもう少しうるさいのだろうけれど。
しかし、ルルの質問への回答は、……どうしよう。あまり明確な回答はないんだけど。
一瞬悩み、僕なりの根拠を絞り出す。一番は、叩いた感触だったと思うが。
「…………変な隙間があったので」
「隙間というのは、先ほどの壁の?」
「はい。他は綺麗に隙間なく積んであるのに、あそこだけあるのは変だな、と」
発見したのは、偶然だけれど。
書庫に入ろうとして、先ほどと同じ問題に突き当たった。なので、適当な窓から入ろうかと外へ出て、ぐるっと回ったところで見つけた、というだけの。
よく考えたら、そっちを言えばいいのか。
まあそこまで説明するのも長くなるし、いいや。
「それで軽く叩いてみたら、中に空洞を見つけました。あとは私は魔法使いなので、構造などは簡単に解析できます」
「やっぱり、経験ですか?」
「経験といったら経験なんでしょうね。遺跡の探索などは、似たようなことを多くしますから」
だから多分、同じ探索者……オトフシやレシッドなども、あの壁を見つけたらどうにでも出来ると思う。遺跡探索と違って壊してはいけないという縛りはあるものの、開けられても違和感はない。
「でしたら、……ぃっ!!」
突然。
後ろから強く突き飛ばされるように壁に押しつけられ、腕が掴まれる。犯人は、といえば間違いなくルルなのだが。
しかし、危険はないはず。足を踏み外した……という雰囲気でもないが。
「……どうされました?」
少しばかり驚きながら、僕は振り返る。すぐ目の前、肩に顔を押しつけるくらいの距離に、ルルがいた。
「え、いや、あの、く、蜘蛛が!」
慌てるように、ルルが僕の腕に強く抱きつくようにしながら背後を指さす。そこには、壁を這って降りてきていた一匹の蜘蛛がいた。
足まで含めて、僕の手、それも指を含めない掌くらいの大きさの蜘蛛。身体の中央に、暗闇でも光って見える宝石のような器官がある。紅瑠璃蜘蛛、だったっけ。
その蜘蛛が足をわずかに動かす度に、ルルの力が強くなったように感じた。
……これは、怖いのだろうか? 仕方ない。
その蜘蛛を念動力で掴み、階段入り口、天井の方へと強制的に移動させる。光が届かないそこに行けば、目には入るまい。こちらが住処にお邪魔している感じなので、あまり殺したくはないし。
食い入るように見つめていたルルも、その蜘蛛がいなくなると同時にホッと息を吐く。そして掴んでいた力を緩めて、僕の腕に向けて謝るように小さく「ごめんなさい」と声にならない声で口にした。
「お嬢様は蜘蛛が苦手でしたか」
「あ、あの、苦手というわけではないんですけど……」
恥ずかしそうに、ルルが目を逸らす。苦手なものがあることは、恥ずかしいことではないと思うけれど。
「あの大きさは……ちょっと……」
「そうですか?」
街中ではたしかにあまり見ないが、森の中に入ればあの大きさの蜘蛛は小さい方だ。鳥食い蜘蛛などは名前の通り鳥を捕まえられるサイズだし、フラムが使役もするという子犬のような大きさの蜘蛛だって結構徘徊している。
ムジカルの砂漠では、ちょっとした子象サイズの蜘蛛もいた。流砂のせいで巣に引きずり込まれたときには、数十匹のコロニーで腹を満たしたものだ。
「大きい方が食いでがある、と思えば怖くないと思いますよ」
「た、食べるんですか!?」
「はい。持ち運ぶときは蒸すのがお勧めですが、やはり味としては素揚げが一番でしょうか。毛がない種などは沢蟹と同じ感覚で調理できると思います」
身体に細かい毛が生えているものもいるが、それはそのままにするとさすがに食感が悪い。先に塩などで擦って落とすか、解体して殻を剥くかしなければいけないが、まあそれは猪の皮などを食べるときと一緒か。
「さ、沢蟹と比べても……一緒なのかなぁ……?」
「一緒ですよ」
足の数と目の数がやや違うし、生息域が違うが。でも、大体一緒だと思う。
「……もっと良いもの食べたほうがいいと思いますよ? 沢蟹だって、素揚げ以外にも色々出来ますし……」
「他にも蜘蛛の調理法が?」
それは朗報だ。そう僕が少しだけ顔を明るくすると、逆にルルの顔が暗く沈んだ気がした。
そして、溜息交じりに辿々しく言葉を選んで発する。
「今度美味しい沢蟹料理をつ……いえ、あの、サロメに用意させます」
蜘蛛ではないのか。いやまあ、応用は出来るだろうし、そもそも沢蟹自体、蜘蛛の代わりというわけでもないほど美味しいものだ。ならば、きっとそれも楽しめるだろう。
「私もごちそうになれるのでしたら、楽しみにしてます」
「はい。近いう……っ!!」
ルルがまた、僕の腕を掴んで固まる。
またもう一匹。今度は僕の顔の横の方に蜘蛛が降りてきていた。
肉食ではないし、特に危険もない蜘蛛だけれど。
「……全部、駆除しますか」
食材としてみてもらえれば怖さもなくなると思ったが、駄目だったか。
それでもやはりあまり殺したくはないので、視界からあらかじめまとめて消すくらいだけれど。
「いえ、でも……」
とりあえず、今歩き回っているのは六匹。それらをまとめようとした僕の腕を、ルルが掴む。
「あの、追い払うのも可哀想ですし……」
「そうですか?」
苦手なものを遠ざけたいと思うのは人間の本能みたいなものだと思う。
まあ普段はそれでも我慢しなければいけないときがあるだろうが、それは今ではないだろう。特に、警護たる僕がいるのだ。
「無理しないでください」
「……い、今は、……平気、なので……」
そう言いつつもがっちり抱きつかれている僕の腕に伝わる震えが、無理してる、と語っている気がした。
階段を上がれば、すぐにそこは木の壁がある。
実際には、それは木の壁というのとは少し違うものなのだが、道を塞いでいる以上これは壁だろう。
僕はその壁に手を這わせて、その向こう側を探る。室内には数人いる、が、その壁の向こうが見える位置にはいない。
「いけそうですか?」
「いけそうですね」
こちらには大した仕掛けというか、そもそも仕掛けはない。壁の縁、やや下ら辺に手をかけてゆっくりと力を入れれば、下についているキャスターのような車輪が擦れる音を出してゆっくりと回った。
それに伴い、木の壁……本棚がゆっくりとずれていく。壁の中に一時入っていくように、ただの引き戸のように。
雪見窓……というか潜り戸のように開いたそこに、腰を曲げて入っていく。
薄暗い室内。木の床、踏めばキイと音が鳴る。そしてルルに手を差し伸べて、引っ張るようにこちらに引き入れる。
そして本棚を元に戻す僕の後ろで立ち上がったルルは、上まで手が届かないほど高く、林のように所狭しと並ぶ本棚を見上げて、「わあ」と一声呟いた。
何となく話しかけづらい。が、とりあえず意向を尋ねようと僕は背後から声をかける。
「で、どんな本を……」
しかし僕の声など聞こえないように、ルルが目の前にあった本棚に歩み寄り、そこにあった分厚い本を一つ手に取る。ハードカバーのような黒い布の表紙。背表紙にもどこにも、その本は誰が何を書いたのかといった情報が書いていなかった。
端が黄ばんだ紙に、万年筆のようなそれ用の筆で書かれた細かい字。多分数字が多く書かれているとは思うが、もう少し近づいてちゃんと読まないとそもそも中身がわからない。
ルルがページをめくり、黙々とそれに目を通す。聞こえていないのだろう、そもそも聞いても無駄だろう、とも思う。
その横顔、本を見つめる目が、いつもよりも輝いて見える。
本の中程まで手早く捲り目を通し、ルルがパタンと本を閉じる。
それからゆっくりと本を収め、それから、今気が付いたかのようにこちらを向いて、へへと恥ずかしそうに笑う。
「……あの、カラス様はここに来たことがあるんですよね?」
「はい。一度だけですが」
「その、……物語の棚などは……」
聞かれるだろうと思っていたこと。おずおずと上目遣いにするルルに、何となく可笑しくなって僕はわずかに噴き出す。
「ございますよ、こちらにどうぞ」
だがその笑みを不快には思わなかったのだろう。ルルは僕の案内に従い、楽しそうに歩き出す。
書庫の天井は高い。二階建ての中央は吹き抜けのようになっており、その上に天窓がある。
本が直射日光に当たらないようになっているのだろう、いくつかある天窓も天井に深く埋もれるようについており、照明はほぼ間接光。窓と太陽の角度の関係で直射日光が入るとしても、何もない床に当たるようになっている。
そんな中に、乱立していると言ってもいいほど所狭しと本棚が置かれている。
本棚の大きさはまちまちだが、おおよそどれも二十段ほど。
多分僕が行ったことのない公共の図書館。それにもついているのだろう、本が読めるようなスペースは二階の片隅にある。長机が置かれており、そこにいくつか椅子がある。
だが多分図書館のようでもないのだろう。僕はこの書庫に入ったときに、印象として、『図書館』というよりも『倉庫』というように感じた。
そんな中。一階の片隅。大きな本棚の前で僕は立ち止まる。
「これ、全部……?」
ここです、と僕が告げるよりも先に、ルルがそこに歩み寄る。そしてその背表紙を眺めながら、感嘆の声を吐いていた。
量としたら多分相当なものだろう。
物語がまとめられていたのは、僕が手を広げるよりも大きな棚が二つ。棚はそれぞれ二十段ほど。
一段で三百冊として、ごく簡単に単純に計算して六千冊。ところどころ抜いて戻してないのか、詰めてないのかで隙間はあるので、そこまではないだろうが。
ルルはその本棚からまた一冊手に取り、今度は開かずにその表紙を眺める。
「噂には聞いていたんです。エッセンで出回っている物語の写本は、王城のこの書庫に、必ず全て一冊は収められていると」
「……そうなんですか」
国会図書館のようなものだろうか?
真偽は確かめようがないが、この量を見ればたしかに、と僕も頷く。
もちろん、この図書館ではなく倉庫のような書庫だ。ここ以外にも物語の棚があってもおかしくないので、これだけとも限らないが。
「どれくらい、あるんでしょう?」
興奮し、少しだけ高くなった声でそうルルが呟く。
「大体見える範囲で五千冊くらいだと思います。ぼろぼろになっているものも多いので、全部読めるわけではないんでしょうけど」
僕は答えながら、その本棚の隅に視線を巡らせる。本を本棚から取り出すときに、背表紙を破ってしまったものや、日光に当たって退色してしまったものなど、品質はまちまちだ。
修復などはしないらしい。
「一日一冊読んでも、十四年かかるくらいの、本」
わあ、と喜ぶようにしながら、ルルがまた違う本を手に取る。そしてその表紙を、今度は僕に見せるように掲げた。
「私、この本持ってるんです! その原本ですよこれ!!」
「それは貴重な」
僕がその本を受け取ると、ルルがニコリと笑う。
「端っこが痛んでますけど……誰か読んだってことですよね? 昔の王族とかでしょうか?」
「かもしれませんね」
本の上部には埃が被っている。少なくとも最近読まれたようではない。だが虫食いなどはなく、……いや、小口にソースの染みがある。誰か食べながら読んだなこれ。
「読みたかった海原冒険記も……、あ、持ってかれちゃった連作山の騎士もある!」
次々にルルが本を手に取り、その喜びを声に出す。
だが、その手がピタリと止まった。
「……何順なんでしょうか、これ」
「どうでしょう。作者順じゃなさそうですけど」
作者別に並べられているわけではないと思う。そもそも、作者不詳のものも所々にある。今のところどこにあるかはわからないが、アリエル様の書いた『散歩の末の少女』もどこかにあることだろうし。
ならばタイトル別、というわけでもなさそうだ。パラッと見ても、その辺りに関係はない。
まあ、多分。
「古い順じゃないでしょうか。あそこ、一番左端が一番古びてますし」
僕が指さした先にルルも注目する。その先にあった本は、題名すら読み取れないほど黄ばんでおり、触れれば破けてしまいそうなほど紙にも粉が吹いていた。
「多分、所蔵された順に並んでいるのかと」
要は、ここに納められたら端に並ぶ、だと思う。その証拠と言ってはなんだが、右側の棚、その下の段はまだ何も納められていない段もある。
だがそれもルルは気に入らなかったのか、唇を尖らせる。
「もっと綺麗に分類すれば読みやすいのに」
「まあ、手に取る人もあまりいないので、仕方ない気も……」
そもそもこの書庫はおそらく、読ませるためのところではなく保存するためのところだ。この仕組みを作った人間の意図としては、ここにあればいいのだろう。
「でもたしかに、勿体ない気もしますね」
しかし、読む人もいるのだ。
先ほど渡されたまま持っていた本。どういう中身かは僕は知らないが、それでも食べる間を惜しんで読んでいた誰かがいるのだ。
本というのは情報の保存という役目があるが、その情報を誰かに伝えるという役目だってあるはずだろう。
改めて背表紙を眺めてみれば、痛み具合に差がある。年月によるものもあるだろうが、よく読まれていれば痛みが激しく、読まれていなければ綺麗なままで。これを辿れば、きっとどれがよく読まれて、どれが読まれていないのか把握も出来るだろう。
手垢や扱い方によって、人気順、という指標が出来るほど。この書庫がいつからあるかはわからないが、千年続いたこの国で、この書庫に入れる人間だけでもそういったものができるほど、読む人間がいる。
ならばそれくらい、読みやすい工夫くらいしてもいいのにと僕は思う。
まあ、その辺りはここにもいる司書に任せるしかあるまい。
僕の蔵書ならば、作者順に並べた上で、題名順にするけれど。
不満げにしながらもルルは、本をパラパラと眺めていく。
そして三冊ほど手に取り、それから恐る恐るとこちらを見た。
「あの……ちょっと読んでも、いいですか?」
「ええ。二階に上がりましょうか」
正直、『時間』が少し迫ってきている気もする。
けれど、その花が咲いたような笑みに、僕は何も言えなかった。
次話で今章本編が終わります(自分に対するプレッシャー)