約束を一つ
もう、賄い料理には期待できない。
使用人用の食堂での夕食を食べ終わった僕は、一人静かにそう思った。
今日の料理は、野菜のクリームシチューのようなもの。その具の野菜や肉はどれも端材で作られ、この城に来た当初の豪華なメニューからすると既に格がかなり落ちている。
令嬢たちの食事会も少なくなり、そして令嬢たちも自分の家の料理人を使うことが増えているため、材料が贅沢に使えなくなった。
もはやこれは、勇者召喚前の賄い料理とほとんど変わらなくなっているのだろう。
もちろん質としてはとても良いものだ。
材料は端材とはいえ貴族の口にも入る高級品だし、作っている人間がそもそも王城の最高級の料理人……の卵なので、街で適当な店に入って食べるよりは美味しいのだろう。
しかし、店を選んで入ればこの程度よりももっと美味しいものが食べられる。それに失礼な話だが、このくらいならば『この料理を食べたいと思っていないとき』には食べようと思わない。食べたいときに食べる、野趣溢れた獣の肉の方が美味しく感じられるだろう。
美味しい美味しくないで言えば、美味しい。
けれどもお代わりは二杯程度でいい。
それくらいには、もうこの食堂の食事も楽しみではなくなってきていた。
回収口へと食器を片付け、その奥をちらりと見ると、奥にいた人物と目が合う。
僕と同年代の少年。まだ見習いなのだろう、帽子を被らずに洗い物をしていた彼は、手を止めて僕へと一歩歩み寄ってきた。
「いつもどうも」
漂白された灰色のコックコートの袖に洗剤代わりの灰の泡を飛ばしたまま、わずかにはにかみながら少年は僕へと挨拶の言葉を吐く。
「……どうも。ごちそうさまでした」
「カラスさん、でしたよね。アンの知り合いの」
「そうですけど」
アン……アネットか。オルガさんの知り合い。今となっては僕も知り合いだが、仲が良いともいえない仲。顔を合わせれば挨拶を交わして噂話を一方的に聞く程度の仲だ。
彼も知り合いだったのだろうが、まあ不思議ではない。そもそも顔が広い彼女だ。知り合いでない使用人などいるのだろうか。
「随分な食通って聞いたんですけど……どうでしたか? 今日の、俺が任されたんですよ」
「今日の賄いは貴方のでしたか」
はあ、と僕は無意味に感嘆の息を吐く。今日は彼だったと。
しかしまあ、どうしよう。『どうだった』……とは。
順当に考えれば、……いや、考えるまでもなく、この会話は簡単に終わるだろう。
僕が『美味しかったです』と答えて、彼がそれに『そうですかありがとうございます』とでも応えればそれで終わりだ。
何のことはない、ただの日常会話。何一つ考えることもなく、何事もなく終わる会話。
応えようと思った。それだけで終わらせようと。
だが、ほんの一瞬躊躇した。先ほど聞いた彼女の告白。それを思い出して。
一言応える程度では、僕は嘘はついていない。でもきっと、それでも『彼女』には気に入らない会話。いや、そこまでではないけれど、きっとその類いだろう言葉。
……ならば今回はあえて、素直にいってみようか。
試すようで申し訳ないが、絡んできたのは彼だ。少しだけ付き合ってもらおう。
会話に間を開けるわけでもないほんの少しの逡巡は、きっと彼には気づかれていない。
「美味しかったですよ。人参に少し焦げてるのがあったのを除けば」
「……やっぱっすか」
あちゃあ、と彼は手を額に当てて天を仰ぐ。さすがに、知っていたなら出さなければいいと思う。
それから彼は、思い返すように鼻で溜息をついた。
「根深を炒めたあとに、ちょっと早く入れ過ぎちゃったんすよね。まだ根深に火を通さなくちゃって思って火を入れすぎて……」
「あと花野菜に火が通っていませんでした。食べられましたけど、食感は悪かったです」
「ぅぐぅ……」
人参は火を通しすぎだったが、カリフラワーのような白い野菜は逆に生煮えだった。汁にとろみをつける前にもっときちんと火を通すか、それかもっと細かくするべきだっただろうに。
「汁部分にもいくらかだまが見えました。下の方にいくと顕著でしたけど」
それは、一杯目よりも二杯目、それよりも三杯目に気になった点だ。大きな寸胴でも、食べている人はいるので徐々に減っていく。僕がお代わりをするたびに、時間の経過で下のほうから掬うようになっていったが、だまが多くなっていった気がする。きちんと混ざっていなかった、というのもあるかもしれない。
もちろん彼一人で作ったわけではあるまい。
食堂はこの城でもいくつかあるので使用人全員分を作るわけではないが、それでも数百人分の食事は作らなければならないだろう。そもそも厨房にはあと数人いるようだし、『俺が作った』宣言も、彼はそのメインや監督だった、辺りが正しい認識だろうと思う。
しかし、僕に評価を尋ねたのは彼だ。ならば彼がそうしたとして、僕が口にしてもいいだろう。
「気になったのはそれくらいですね。僕が作るよりは絶対美味しいですし、強いて挙げれば程度なので気にしなくても良いかと」
「……いえ、参考にするっす……」
「今回は失敗しないって思ったのになぁ」などと小さく呟き、彼は下を向く。だがすぐに顔を上げて、笑みを浮かべた。
「でも、食えたんですよね!?」
「ええ。美味しく頂きましたよ」
不味かったなら、さすがに二杯もお代わりはしない。大人数向けに作るのが簡単な汁物とはいえ、彼は普通に誉められるべき腕だと思う。
僕の言葉に、彼はふにゃっと笑う。
「いやー、よかったっす。前は水っぽいだの火加減が甘いだの先輩に散々怒られたんで」
「……そんな酷いの出来ます?」
たとえば災害時などに、汁物は作られることが多い。大人数向けに一度に作れて、味にあまりばらつきが出ないから……と僕は思っていたが。
しかし、彼は僕の言葉に深刻そうに頷いた。
「案外難しいんすよ。普通の皿なら作れるんですけど、こういうのって、材料二十倍だからって水二十倍にすると味しなくなりますし」
「はあ」
そういうものなのか。僕は料理に関してはよくわからないし、文句を言う以外は、そういうものかと頷くしかないけど。
「失敗しなかったってだけで嬉しいっす、あざっす」
「それはよかった」
彼が僕の皿を運んで、洗う水桶に突っ込む。会話もそれで終わり、とばかりに彼が洗い物をし始めたので僕は邪魔にならないように、そっとそこから遠ざかるように歩き出した。
食堂を出て、大きな扉を潜り、食事の臭いを払い落とすように僕は大きく息を吐く。
どうでもいい会話だったが、社交辞令を交えないように素直に応える、という試み。
正直、怒られるかと思った。怒られないまでも、不機嫌になられるかと思った。……いやまあ、さすがに『不味い』とか連呼するくらいすればそうなると今でも思うけど。
しかし、まあ普通に終わった。
安易に誉めることもなく、思ってもいないことを述べることはしなかったのに。
見習いの彼が特別人懐っこいとか、そういうことはないだろう。まあ今回は穏当な話題だったから、というのが主な要因だと思う。
そして、ルルたちはこういうことが出来ないというのもわかる。
もちろん、自分の家の料理人に対してならば文句も言えるだろう。雇っているのだ。好みに合わないと伝えて、次回に合わさせるのは業務の範囲内だろうし、応えられるかどうかはわからないが料理人側も応える努力はしなければならないだろう。
だが、これが自分の雇っていない料理人だったら。
自分よりも地位の高い家、たとえばルネスの家に雇われている料理人がいるとする。その料理人がルルの口に合わない料理を作ったとしても、それを伝えるのは憚られるだろう。アレルギーなどがあればさすがに僕は擁護するが、それでも好みに合わない程度だったらそれを伝えることは出来まい。
不味い料理、というのは出されないまでも、口に合わない料理。ルルにだって嫌いな食材はあると思う。そういうのがふんだんに使われた料理も、ルネスの前では『美味しい』と述べながら喉の奥に押し込まなければならない。それが作法だからだ。
なるほど。たしかに、そう改めて考えてみればとてもとても嫌な行為だ。
お茶会の度に、好きではない人間と顔をつきあわせ、綺麗とは思えない装飾品を誉めて、楽しくもない話に楽しそうに相槌を打つ。
仮に僕がイラインの誰かとそうしなければならないのであれば、数分と持たずに机を蹴り飛ばして部屋を出てしまうかもしれない。幸運なのは、僕はそういうことにもう招かれないということだろうか。
……僕にはもう縁が遠い話だけれど、友達づきあいというのはどんなに楽だったのだろうか。いやもちろん、親しき仲にも礼儀あり、という言葉があったように、そういう仲でも礼儀はあった。
しかし、ルル達の付き合いとは少し違う。僕が先ほどの見習いと交わした会話は、どちらかといえば友達との話。実際には知り合いの知り合いとの話、だったわけだ。だからこそ、料理の欠点も口に出来たし、彼も僕の言葉に大げさに反応することも出来た。
そんな僕も、貴族を相手に話す作法ならいくらか心得ている。
それは、そういう『仕事』だからだ。
ルルの苦しみは、そういうことなのだろう。
ルル達の会話。ルルは僕がこの王都に連れてきてから、精一杯貴族を『やっている』のだろう。貴族でいるのが仕事だと、四六時中そうして過ごしている。
誰に対しても思ったことを言えず、相手も言っていると思っていない。
そう、多分、『思っていない』のだ。
僕の足が階段を上がる。食堂があったのは一階で、そしてルル達の住む区画も一階だ。
本来ならば階段を上がる必要などない。その先に用事などがなければ。
すれ違った他家の使用人を会釈でやり過ごし、踊り場へと入る。それから、上から降りてくる影も、そこに曲がってくる気配もないことを確認して、石の壁に掌をつける。……今日は、いるらしい。
先ほど、僕がご飯を食べる前には一度雨が降ったらしい。そんな外気により近い空気が、ゆっくりと開けた隠し扉の向こうから僕の横を通り抜けていった。
扉の仕掛けが戻る音を背後に、階段を下る。足音を消しているのは癖だが、向こうは既に気が付いている。
階段を下りきると、湿った埃の臭いの向こう側で、月明かりの下、本を読んでいた男性と目が合った。
「やあ」
「お話があります。時間は、ありますか?」
僕が尋ねると、レイトンは本を閉じる。その背表紙は、僕がルルに借りた弓兵の話と同じものだった。
閉じた本を、下げた腕の先でぷらぷらとさせながら、レイトンはクスリと笑う。
「大丈夫かい? 『僕は何をしにここに来たんだろう』って顔をしているけれど」
「それは嘘ですね。僕はここに、用事があってきたんですから」
本気ではない。今回の言葉は単なるからかいだろう。そう断じた僕は、取り合わずに返す。
「……じゃあ、何をしに?」
「約束通り、知恵を借りに」
「ひひひ、そうか」
レイトンの手から、本が放り出される。頁がばらけることもなく、滑るようにそれは寝床の毛布の上に落ちた。
そして僕の顔をじ、と見るとまた唇の端を嘲るようにつり上げた。
「ぼくはたしかに、きみに一つ知恵を貸すと言った。だけど、本当にそれでいいのかい?」
「話が早くて助かります」
「君には、無数の悩みがある」
レイトンが、僕の言葉に何の反応も返さずに続ける。前屈みになり、開いた足の間に両手をついて。
「そのどれもが、きみにとってはきっと『それ』よりも大きな悩みだ。ザブロック嬢のことなんて君個人のものでもないし、放っておいてもなんの問題もない。彼女のものは、成長過程で誰しもがかかる麻疹みたいなものさ」
「オトフシさんにもそう言われましたよ」
たしかに僕も、そして今もそう思う。
社交辞令が苦手。ルルの悩みなど、言ってしまえばそんな簡単なものだ。
親を持つ多くの子供が、幼少期に親から言われる正しいお言葉。『嘘をついてはいけません』。それと現実のギャップに苦しんでいるだけの。
多くの場合、皆はそれをいつの間にか気にしなくなる。嘘をついてよくなる、というわけではない。気にしなくなるのだ。小さな嘘を嘘と思わず、自分を実際よりも大きく見せたり、相手の気分をよくするための言葉を、簡単に吐くようになる。
考えてみればおかしな話だ。
『嘘をついてはいけません』と、『嘘も方便』というような言葉。その二つが、平気な顔をして同居しているなど。
そして皆本来、友だちづきあいや親との付き合いで、それを自然と学んでいく。
吐いても良い嘘を嘘と思わなくなり、当然と感じるようになる。『お疲れ様』と自然に言えるようになる。本当に相手を気遣ってなどいなくとも。
ルルは、それが出来ないと苦しんでいる。
人が普通に出来ることが、自分には出来ない。もちろん出来ないことの種類は違う。けれどもその苦痛は、僕はよく知っている。
だがどうすればいいのかわからない。
だから一縷の望みをかけてここに来たわけだが……。
「……たとえば、ビャクダン家からの刺客。そういった、命にも関わるより大きなものに使うべきだと、まずぼくはきみに助言するけど?」
レイトンの瞳に月の光が反射する。だがその嘲りには応えない。
僕の答えは決まっている。たしかにビャクダン家のものは問題だ。今の今まであまり気にしていなかったというのはあまり知られたくない事だけど。けれどきっと、今の僕の中では、『それ』が一番解決したい問題だ。
そしてこの反応。好感触。
「ええ。ですが、お願いします。彼女の悩み……詳しい事情の説明が、必要ですか?」
僕がそう言うと、またレイトンが一瞬黙る。
しかしそれから短く、「いいや」とだけ応えた。
アニメとかだと次話でBGMの種類変わるやつ