煙突の前の烏
とりあえず、僕らの返答を待っているのだろう。
ルルがまた俯き、上目遣いに僕らを見る。
だがそれも一瞬のこと。僕の答えは決まっているし、そうなればルルにそんな嫌な時間を過ごさせるわけにはいくまい。
「……あまり気にしたことはないかもしれません」
「私も、申し訳ございませんが……」
僕が口にすると、追随するようにサロメもそう言う。それから僕の言葉を待つようにサロメがこちらをちらちらと見ていた。そんな露骨な。
僕は溜息を吐かないように、一度唇を閉じてからまた開く。
「下手だなぁと思う方はたまにいらっしゃいますけどね。もっとも、私も上手く出来ている自信がないので、人のことは言えませんが」
多分上手ではないと思う。もちろんそれなりにやっているつもりだけれども。
「でも、それで……ルネス様の作り笑いが不快だ、と?」
「…………」
ルルはまた視線を落とし、膝の上の手を握りしめる。
「ルネス様が、というわけではないんです。でも、……」
口を閉ざし、大きく唾を飲む。そして僕たちをまた見て、何度も僕とサロメの間に視線を漂わせた。
「どうしてみんな、そんなに嘘が上手なのでしょう? 笑ってもいないのに笑って、……楽しくもないのに、楽しそうに」
「それは……」
サロメが言いかけて、僕を見る。なんだろう、さすがに何か言えることがあれば言ってほしい。
僕が何も言わないのに納得するように、仕方ない、とでも言うようにサロメが口を開く。
「みんな嘘など吐いてはございません。笑顔が嘘だというのであれば……きっと、それは何か本当に楽しんで……」
「私は、ルネス様のお茶会を楽しんだことはありません」
ピシャリと口にされたルルの言葉に、「え」と声に出さずサロメが口ごもる。
「だって、どうしたってルネス様は笑ってなんかいません。他のみんなも、作り笑いをして楽しそうなふりをしているだけ。お茶は美味しいです。お菓子だって不味くはないです。でも、それなら一人で食べた方がよっぽど気が楽じゃないですか」
ルルがサロメを見る。今度は、まっすぐに。
「サロメだって、…………」
だが、すぐに自信なさげに言葉を失う。それからルルは、助けを求めるように僕を見たが、僕にだって何も取りなしの言葉は見つからない。
「……ごめんなさい。よくわからない我が儘を、言ってしまいました」
「お嬢様……」
どちらかというと癇癪だろうか。もはや『ルネスが信用できない』という筋からも外れつつあった話。それでも、多分ルルが昔から思っていたこと。こんな唐突に、こんな場面で噴き出すとは思っていなかったけれども。
ルルが笑う。場を取りなすための明らかな作り笑顔で。
「それで、ルネス様への対応でしたけれど……どうしましょう」
「……………………」
僕とサロメは言葉を発せない。
しかし数瞬の後、サロメが首下を掻いて、パタリと手を落とした。
「……それより先に、……そんなことよりも先に、どうにかしたいことが、私にはございます」
溜息交じりのサロメの言葉。笑みもなく、悄然としたように。
「……いえ、今のは」
「申し訳ございません、お嬢様。私ひとつ用事を忘れておりました。八半刻ほどで戻りますので、席を外してよろしいでしょうか」
ルルの呼びかけには応じず、サロメがそう言い放つ。そして頭を下げて、返事を待たずに歩き出した。
それからまた、サロメは違う部屋で作業していた下女に向けて、扉を開けて声をかけた。
「ナミン」
「はい」
「炊事場の薪を補充しておいてください。まだ余裕はありますが、先に」
「わかりました」
下男は今違う用事で出ている。そしてオトフシは……まあ会話は聞いていそうだけどここにはいない。
つまり、それは。
パタパタと早足で歩く下女を見送り、そしてサロメはまた僕の横に並ぶように身を少しだけ寄せる。
「信用してますからね」
「…………」
ルルには聞こえない声量。その声に、肩を叩いたわけではないが、肩をポンと叩かれた気がする。
「少しの間、失礼致します」
「サ……」
「お嬢様」
深々と頭を下げてから、ルルの言葉を遮りサロメが呼びかける。その無表情からは、とりあえず僕には感情がわからなかった。
しかし、次いで緩めた頬。その笑みは、多分本物だと思う。
「誰にも言えないことは暖炉に話せ、と申します。少々強引なのは自覚しておりますが、どうかこのカラスを暖炉とでも思って……」
言いかけて、またクスと笑う。
「暖炉で燃え尽きた炭だとでも思って、話してみると良いでしょう」
「…………」
またサロメが深々と頭を下げて、今度は何も言わずに部屋を出ていく。
パタリと閉じられた扉の音で、より一層部屋が静まりかえった気がした。
「……暖炉に話すと、大抵煙突の先に誰かがいるんですよね」
少しだけ笑いながら、ルルがそう言う。たしかにそれは、本来そういう方便じみた慣用句で、物語を強引に動かすときに使われる手法だ。多くの物語……特に少女向けのもので、よくある話。
何か秘密の境遇を抱えて、それでも何も明かさない者に、どうにかして秘密を吐かせるときの方便。大抵そうすると、王や王子などの善良な権力者がその先で聞いていて、その境遇をどうにかしてくれる。
サロメはそれを知っていたのか、……多分うろ覚えで言ったのだろうと思う。勘だけど。
僕も少しだけ可笑しくなって、鼻で笑う代わりに息を吐く。僕は暖炉の炭か。
では暖炉の炭は炭らしく、立つことはやめよう。サロメが気を遣ったのは、僕もルルもよくわかっている。
ルルの文机から少しだけ離れるようにし、来客用の椅子に僕はゆっくり腰掛ける。ルルの視線を少しだけ斜にし、受け流すように横顔を見せた。
「……では、暖炉の炭が話を聞きましょうか」
「でも……」
本来失礼な話だ。僕がルルの前で腰掛けるのはあまり好ましくない。しかしサロメの計らいで、それを無にするのも僕にとっては嫌な話だ。
もちろん、これはレグリスからの依頼の一部ということだってある。……それは今一番、どうでもいい理由だけれど。
「ルネス様のことは一端置いておきましょう。……嘘つき、でしたね?」
あえて視線を外し、ルルより少しだけ右を見る。既に読まれた形跡のある頁のよれた本が、木製のブックエンドに支えられて三冊立てられていた。
視線を落としていたルルが、怒られたかのようにびくりと肩を揺らす。立場は向こうの方が上だし、現時点でも見下ろされているのだが、そう思えない。
「先ほどはサロメさんも、ということを言いかけておりましたけれど、サロメさんもですか?」
「…………みんな、です。サロメも、オトフシ様も……カラス様も」
「おやまあ」
自嘲するように僕は笑う。ようにでもなく普通に自嘲だけれど。
「カラス様は、……平気なんですか?」
「どういうことでしょう?」
「……たとえば、ルネス様が手袋をつけてきます。それを、みんな誉めるんです。本当はみんなそれを良いものだとも思っていないのに、ルネス様が誉めたというだけで、みんな」
「う……ん……」
同意しそうになって、同意しきれず僕は思いとどまる。正直たとえが悪い。ルネスのつけていた手袋というのは、この前だったらリコが作ったものだった。彼女が作ったものを悪くは言いたくないし、そもそもあれは僕の目から見ても良いものだ。
「……彼女の使っていた手袋に関しては私の知り合いの作なのであまり悪く言えませんが、それが『手袋』と限定されていなければわかります」
「あ、ごめん、なさい」
「いえ」
僕には価値がわからないものを、皆が儀式のように誉めあっている。それが見ていて意味がわからない、というのはわかる。ましてや今ルルの言葉の通りなら、皆本心ではないことで誉めているのであれば。
「……でも、私は良いと思わなければ誉めたくなんてない。みんな、好みがあると思うんです。なのに、ルネス様の履いてくる靴は良いもので、ルネス様のつけている髪留めは良い色なんです」
俯くルルの瞬きが増える。水気のものを落とさないようにも見える。
「私は、もう少し垢抜けた格好を、なんてお茶会で彼女によく言われました。それでみんな、笑うんです」
「……少々腹が立つ話になってきましたが」
ルルが言いつけているわけでもないだろう。そして多分ルネスの冗談でもあると思う。だが、何となく僕の中でルネスの評価が少しだけ下がった気がした。
「あ、あの、いえ……。みんなが本気で笑ってないことも、わかるんです、……でも、笑うんです」
作り笑いで、とルルが口の中でぽつりと言う。
「新しい紅茶の葉が手に入って、それを飲んだら『美味しい』って笑わなければいけないんです。私は前の方が美味しかったと思っても、ルネス様が良いものと言えば」
やはり、本音と建て前、という話だろう。
心尽くしとして出されたもてなしを、笑顔で受ける。まだ幼い子供ならば『これは嫌だ』と言えるかもしれないが、少しだけでも成熟してしまえば中々言えない。
本来、年齢によるステージの変化。それを、環境による変化とほぼ同じ時期にルルは受けてしまった。
「そう思わない人だっている。なのに、そういう人も口では美味しいと言い続けるんです」
ルルが溜息を吐く。その苦しみは、僕もまあわかる。
「それに気づいたら、他のみんなも同じように見えました」
ルルが、玄関の外へと視線を向ける。どこかへ行ったサロメが、そこにいると幻視しているように。
「サロメだって、私が言いつけたことに面倒だと思ってることがよくあります。でも、言いません。言わないで、笑顔を作ってただ『かしこまりました』って言ってやってくれるんです」
「……それが仕事ですからね」
むしろ、それを表に出してしまうのは仕事として失格だ。友達のような従者、がいないわけでもないと思うが、それでもそれは少ないだろう。
「誰も、私に仕えたいと思って仕えてるわけじゃない。だったら、放っておいてくれても構わないのに。なのにみんな、『ルル様のために』と言ってくれるんです。……嘘をついて」
「……以前のサロメさんは存じ上げませんが、今のサロメさんはそうでしょうか?」
「…………どうでしょう、最近は、よくわかりませんけれど……」
僕の水を差す言葉に、噴出していた流れが止まる。
そして、考え直すようにルルが居住まいを正した。
「……ルネス様の話でしたね」
「ええ」
正直それだけではないし、それ以上の話を既に聞いてしまったが。
「あの人だって、馬鹿じゃないと思います。みんながそうして、笑顔を作っているのをきっとわかってる。でも、それでも、そうやってお茶会を繰り返しているんです」
「わかっていて、やってると」
「多分。それで……だからやっぱり、あの人は私たちに本当のことなんて喋っていない」
ルルの瞳には確信があった。
何だろう。色々なものが、凝り固まっている気がする。
「あの人の話すことは、ずっと嘘ばかり。そして嘘を聞いて喜んでいる。どうしてみんな、信用できるんですか? カラス様も、みんなも、信用しているんでしょうか?」
ルネスは多分、ルルにとっての象徴なのだ。
信用できないもの。建前の寄り集まった悍ましい何か。
笑顔という嘘を顔に貼り付けて、褒め言葉という嘘を周囲に強要する女性。
そういう評価なのだろう。
「ルネス様だけじゃなくて……みんなそう。なんで心にも思っていないことを喋れるんでしょう。好きでもないものを好きと言って、親しくもない人に挨拶をして、敬う意味がわからない人に敬意を払って……」
「…………」
「……カラス様はご存じでしょうか。私は、ここに来る前に小さな食堂の娘でした」
「聞いたことはあります」
「私が作った料理。あの時だったら、お客さんは不味ければ不味いって言ってくれましたし、美味しければ誉めてくれました。今作ったら、みんな誉めてくださるんでしょうね」
「たとえ焦がしたお餅でも」とルルは悲しそうに言う。
まあたしかに、作らせるだろうかというそもそも論は置いておいても、批判は出来まい。レグリスや、ルネスなどならばともかく、サロメたちには。
「また話がそれちゃいましたけど……。だから、ルネス様に約束をしてもらっても、あまり意味がないと思うんです。嘘だらけのあの方。私は、信用できません」
「……そうですか」
ルルがこれだけ長い間喋ったのは、この王城に来て初めてかもしれない。
しかし、その類いの『信用』ならば……。きっと今のサロメはルルの中では信用に値するのだと思う。見ている限り、その印象だ。
話を聞いている限りでも、やはり僕のルネスへの印象はあまり変わらない。むしろ、『上手くやっている』といったところだろうか。僕にはない何かを使って、僕には出来ないことをやっている。
ルルの言うことを、間違っている、とも僕は言えない。
結局ルネスは……ルネスに限らず、みんなは本音を隠していることが多い。建前を駆使して本音を隠す。
先ほどのルルの経験を引用するならば、皆は『前の紅茶の方が美味しかった』という本音を隠し、『これは美味しい』と嘘を吐いて場の雰囲気を壊さないようにしている。
もちろんみんながみんなそう思っているわけでもないだろうし、その行為に関しては誰にも悪意はないだろう。
でも、たしかにそれは嘘だ。
「しかし、嘘か嘘でないかなんてわかるんですか?」
反論……に僕でも聞こえるが、一応好奇心からの質問だ。いや、もしかしたら全員『今の方が美味しい』と思っているかもしれないのに。その場合、ルルが舌音痴という話になるが。
だが、ルルは僕の言葉に首をわずかに傾げる。心底不思議そうに。
「見ればわかるでしょう?」
「……嘘が下手な人はわかると思いますが、上手な人のものは頷けないかもしれません」
エウリューケみたいなのはすぐに自白するからわかりやすいけれど……むしろ『嘘だけど!』とでも言いながら嘘吐くからわかりやすいけれど、たとえばレイトンなんかは僕には無理だし、ルネスの本音と建て前も、僕にはどちらがどちらか読み取れない気がする。
それをルルにとっては確信を持って分別しているというのであれば……考えられるのは二つ。
一つは、ただの思い込み。全部が建前だと思い込んで、接している。
もう一つが、驚異的な観察力だ。全て正確に何かしらの信号を読み取っている。……そういう人間が一人いると、昔プリシラに聞いた気がする。
どちらだろうと僕がわずかに考え込むと、ルルが言葉を選ぶように視線を漂わせる。その視線には、わずかな怯えが見えた。
「焼き菓子が美味しくなかったら、その人は一口が少し小さくなりますし、お代わりだってしなくなります。……やっぱり、見ればわかります」
「……たしかに、そういうことは目に見えていますからね」
まあそういうことから判別はつくか。
僕の推測には当てはまらなかった第三のこと。聞いてから考えてみれば、多分一番当たり前のこと。
しかしまあ、色々聞いてはみたが、大体把握はした。
会話も途切れた。僕の耳へと届く音も、頃合いだと示している。終わりでもいいだろう。
「……ルネス様への対応に関しては、正直やはり何もしないでいいと思います。もしも彼女が魔術ギルドへと話し、そして何かを起こしたらお嬢様へ迷惑がかかるので、サロメさんや近しい人と口裏を合わせておく必要があると思いますが」
むしろその辺りはやはりサロメがいなければ出来ない話だろう。
「そういうことへの悪意はない、と思います」
「それは、ルネス様を信じろと仰るのですか?」
「いいえ。私を信じて頂ければ。……といっても、私も信用されていなければ困るんですけれど」
その辺りはルル次第だ。まあ多分、感触的にはいけるだろう。
話題を変えるように、僕は首を捻って筋肉を伸ばす。
「……暖炉に話して、少しは気が楽になって頂けたならいいんですけど」
「カラス様は暖炉なんかじゃ……」
「言葉の綾です。でも、暖炉程度の気軽さでいつでもお声かけください。話なら、いくらでも聞きますから」
肩を引き上げて、下ろす。僕も緊張していたらしい。
「誰かに話すだけで重荷が下りることもありますので」
「…………」
ルルが、よくわからない、という目でこちらを見る。その視線が少しだけ恥ずかしく思えて、僕は取りなすように続ける。
「サロメさんも戻ってくるようです。今、少し先の廊下の角を曲がりました」
「……もうそんなに経ったんですか?」
ルルも、見えないはずの廊下の端を見る。十五分くらいと聞いていたが、まあそれくらいだったかもしれない。最近、時間感覚が更に薄れているのをひしひしと感じる。
「おそらくですけれど。足音からして間違いはないでしょう」
僕は立ち上がり、サロメが入る準備を整える。そろそろノックの音が響くはずだし、僕が開けなければ。
「話していただき、ありがとうございます。ちなみに私はこれを、サロメさんにはどの程度まで秘密にしておけばいいでしょうか?」
「……えっ……」
ルルが僕の言葉に慌てるように跳ねて腰を浮かせる。いやまあ、どれも人には聞かせたくないことだろうけれど。
その反応が少し可笑しくて、僕は思わず口元を綻ばせる。
「全部秘密ですね。了解しました」
「お、お願いします……」
ルルは、立ち上がった勢いのまま軽く頭を下げる。その仕草がやはり可笑しい。
実は多分、オトフシは聞いている。しかしそれを表に出すような真似はしまい。
そして正直サロメには伝えておきたい話だ。彼女には、伝わっていないルルの話。
でもまあ。
「誰にも言いません。約束します」
今のところは二人だけの秘密。それはそれでいいだろう。
「昔……」
サロメがもうすぐ扉を叩く。一応それを応接用の椅子に手をかけて待っていた。そんな僕の背に向けて、ルルの声が響く。
振り向けば、ルルが一歩近づいてきていた。
「昔、絵を見たんです。誰のところへ招かれたかわからない食事会の時、絵を」
「絵画をですか?」
「ええ。下半分が茶色で、上半分に編み目と点が水玉みたいに描かれた絵。やっぱりそれも同じように、みんなが誉めていました。私には何を描いているのかもわからないし、私にも描けそうな落書きにしか見えませんでしたけど」
悲しそうにルルが笑う。抽象画とかそういう話だろうか。
「レグリス様の養子になってから、ずっとそう。みんなが私にはわからない絵を誉め続けて、私にはわからない絵を描き続けているんです。彼らは本当に、私と同じ生物なんでしょうか?」
ノックの音が響く。サロメだ。後ろから木の枝の束の音が聞こえるので、下女たちも戻ってきたのだろう。
応えなければ。だが、ルルの言葉にも応えなければ。少しだけ懸命に考えて、僕はようやく言葉をひねり出す。
「多分、僕と比べれば、皆さん同じ人間ですよ」
ルルが反応を返す前に、僕は扉に歩み寄って静かに開ける。
そこには思った通り二人揃っていて、サロメは『どうだった?』と視線で僕に問いかける。だが一応それには僕は応えず、ルネスに関しては、彼女に対して『治療の業』を話したことはない、と口裏を合わせることに決まった。