知るべき痛み
カンパネラの騒動から二日後。
今日も今日とて警護の当番ではあるが、今日僕はいつもの待機所ではなく、ルルと共に居間の椅子に座っていた。
「最終的な勝者が助役の息子になるとは思いませんでした。どう考えても途中で、振られてそのまま退場かと……」
「そこは私も思いました。ライアンを引き立てる役かと思いきや、と」
僕の言葉にルルが頷く。
話しているのは、少し前に借りた本の二冊目、故郷の村を守るために爆死する弓兵の本のこと。
本の構成は少し複雑だが、内容としては簡単だ。
主人公は戦争中、砦を守るために一人砦に残り、攻め寄せてきた敵兵たちと戦う。
その中で、述懐として故郷の村を何度も思い返すのだ。その砦の先にあり、砦を放棄してしまえば蹂躙されてしまう村のことを。
そして僕の問題にしている場面。主人公ライアンは最後に砦を崩す魔法を発動して敵兵もろとも瓦礫に埋まり死んでしまう。
そして、その主人公が最後の戦いに挑む前に、ヒロインに手紙を送っていたのだ。その中で、通常ならば主人公の恋のさや当て役であろう村の気障男と結婚することを主人公はヒロインに勧めている。
思い出の中では主人公とヒロインはもう恋人も同然……でもないけど、恋人未満といった風情で、途中までヒロインと主人公の恋物語を読んでいた気分だったが、少し裏切られた気分だった。
「でも最後は子供も出てますし、……ライアンの手紙の通りになってしまったんでしょう」
「なってしまった、というのもあれですけどね。幸せにはなったんでしょうが」
主人公は、『あの男ならばヒロインを幸せに出来る』というような意味の文で手紙を結んだのだ。
そして後日談として、ヒロインは戦後主人公の亡くなった現場を見に訪れる。……小さな子供を伴って。
明示はされておらず、おそらくは、という結末だったが、読み取った結果は僕とルルに差異はなかった。
まあ、何となくやはり楽しいものだ。
読んだ本の論評を互いに聞かせ合う。ルルの視点はやはり女性であるヒロインに寄るのか、僕とは少し違ってヒロインに好意的だった気がする。
僕の周りには、本を読むような人間はあまりいなかった。
だからというわけではないが、……これがこの仕事の報酬だと、そう言われても僕は頷いてしまうかもしれない。
きっと僕は楽しくて、そして価値あるものだと思っているのだろう。戦争に出ないということよりも、正規に金貨で支払われる報酬よりも、きっと。
だが、仕事に戻らなければいけないらしい。僕は耳に届いた足音に、現実に引き戻された気がした。
「…………」
「申し訳ありません」
ルルは気づいていないようで、また口を開こうとする。それを僕が掌を見せて止める。戸惑う表情を浮かべて首を傾げたルルだったが、僕がサロメを見て口を開いたと同時に納得したように頷いた。
「客のようです。二人、おそらくどちらも女性で」
「わかりました」
サロメが玄関を開けるべく歩いていく。
僕も仕事上、一応玄関に出ようとするサロメと、居間で腰掛けるルルのちょうど中間辺りに立ってどうするか周囲を探る。おそらく危険はない、がまあ仕事だし。
「ああ、ラルミナ様」
そしてサロメの肩越しに見えた顔と、気安く声を上げたサロメの声に、本格的に楽しい時間が終わってしまったと僕は感じた。
「カラス様のご予定はいかがでしょうか? ジグ様らには、今日ならばいつでもいいと仰っていただいております」
用件はやはり、というように剣の稽古だった。ルルへの挨拶を終えたディアーヌは、僕とルルを交互に見る。ルルへは、使用人を借りるという謝意を示して、そして僕へは『休憩いつ?』と視線でも問いかけて。
というかジグには既に根回し済みか。そんな用意周到にしては、やはり彼女本人が予定をききに訪ねてくるのは少し違和感があるけれど。
しかしまあ、僕の休憩時間といったら……。
「申し訳ありませんが、私の今日の仕事は昼の一の鐘までなので、それまで待っていただくことになります」
ほんのわずかに、その時間はディアーヌの都合が悪ければいいな、という願望が心中に湧く。それももちろん、表情から望み薄だと思っていたが。
「かまいません。私が望んでいるのです、予定は合わせますし、そもそも予定などありませんから」
「そうですか」
胸の前で手を合わせて、ディアーヌが笑う。まるで、催し物を楽しみに待つ子供のように。
「それでは、昼の二時の鐘に合わせて、としますがよろしいでしょうか?」
「今からでもよろしいのでは?」
ディアーヌのまとめを遮るように、歩み寄ってきていたルルが僕の後ろから声を上げる。
四つの視線が集まり一瞬たじろいでいたが、ややぎこちない微笑みでそれを受け流していた。
「練武場、ですよね? 私もいけば、カラス様のお仕事に影響はないでしょう?」
「……そう、ですが……」
それは前にジグに使った手だ。ジグがルルの警護をしている以上、ルルが出向けばジグもその場に出るしかないという強引な手。
それを僕に使う、とは……。
「しかしお嬢様にわざわざお越し頂くなんて」
「カラス様は、私が見学するのがお嫌でしょうか?」
「そんなことはありませんが……」
むしろルルが見学して楽しいことなどあるのだろうか。僕は経験ないが、多分学校などで興味のない講義をただ眺めるだけと変わらないだろうと思うけど。
「もちろんディアーヌ様がよろしければ、ですけれど」
「もちろん構いません」
むしろ望ましいことだ、とディアーヌが胸を張る。まあそうなると僕に否応はないんだけど……今からか……。
簡単な挨拶を交わし、ディアーヌが去っていく。このすぐ後にまた練武場で合流することに決めた後。
そもそもジグは大丈夫なのだろうか。今日ならいつでもいい、ということは非番なのだろうが。それでも『今からすぐに』などは想定していない気がする。いやまあ、彼の場合は、そういうことに『ちょっと待って』とは言えない職種なのだが。戦場で敵は待ってくれない。
「では、カラス様、用意を」
「……かしこまりました」
少しだけルルが頬を綻ばせて僕を見ていたのは、悪意からではないと信じたい。
いそいそと、外での休憩セットを用意し始めたサロメを眺めながら、僕はそう思った。
練武場を訪れたときには、もうそこに必要な人間は揃っていた。
木剣を支えにして軽く屈伸運動をしていたジグと、彼から訓辞を聞くように背筋を伸ばして一言二言交わしているディアーヌ。
前と同じようにディアーヌの侍女は一歩引いて控えており、澄ました顔でそれを見ていた。
「……来たか……」
溜息を吐くようにジグが立ち上がり、僕の顔を見て応える。その動作でようやく僕が来たことに気が付いたディアーヌは、微笑みのまま深い会釈をした。
「本日もよろしくお願いします」
「ではよろしくお願いいたします。……カラス殿も、な」
「お願いします」
実際には笑っていないだろうに、殊更に唇の端を歪めるようにジグは笑みを浮かべた。
僕は僕が担いできていた机のセットを練武場の端に置く。あとは広げるだけだが、これはサロメにも出来ることだろう。サロメを見ると、「ありがとうございます」と口の動きだけで示し、少しだけ頭を下げた。
「やることは前と一緒でしょうか?」
不本意ながら僕がディアーヌの相手をして、その動きをジグが修正する。
前回はその繰り返しだったが、今回もそう変わりはないだろう、と僕は予想する。道場の稽古は、内容は異なっていても大抵の手順は毎回変わらない。効果的なように練られているからだ。
「大体一緒の予定だな。だが、少し待ってほしい。まだ……来ていない」
「来ていない?」
素直に嫌がる顔を見せたジグ。誰が、というところも口ごもったのだが、誰が来ていないというのだろう?
というよりも、増えるのか、またここからもしかして。
ん? と僕が戸惑っていると、聖騎士特有の隠した足音が練武場に入る廊下から微かに聞こえてくる。
よかった。習う側ではないらしい……とは思ったものの、それもまだわからないか。
ともかくとして、誰かが来た。そう思い僕が振り返った先では、少々不可解な顔があった。
大柄な身体。青い髪はいつもと同じように動きやすいよう背中で括られ、服は白いタンクトップに固い生地の緩めのズボン。
「頼もう!!」
そして大股に練武場に足を踏み入れ、その地響きでも立ったのではないかというほど力強い足と共に、大きくクロードが声を張り上げた。
ジグが目を逸らすようにして顔を伏せる。隠している溜息も聞こえていたが。
「ベルレアン卿、ご足労頂き誠に申し訳ありません」
「いやいや! なにやら楽しそうなことをしていると気にはなっていたのだ! 参加させてもらうのであれば、なにより!」
丁寧な礼をするディアーヌに、クロードは力強く応える。身分的にはクロードの方が上だし、少々の無礼も許されるのだろうけれど。
「カラス殿も、俺を誘って頂けないなど人が悪い」
「出来るわけないでしょう」
そもそも、どの時点でどの立場で誘えというのだろうか。というか、何で来たんだこの人。
いやまあ、仮に指導役としたならばこれ以上ない人材ともいえる。だが、立場上それも難しいはずだ。地位も高く腰が重い……はず……の上に、門下生以外への指導もあまり推奨はされていない立場。招かれざる客、というわけではないが、何となく僕が戸惑っていると、気が済んだのかクロードはもう一人に目を向ける。
視線の先には隠そうともせずに渋い顔をしているジグ。
その姿を見てニンマリと笑みを強めたクロードは、一歩歩み寄る。
「おう、ジグよ。どうした?」
「いえ。本当にいらっしゃるとは思いませんでしたので」
「そりゃくるさ。お前とカラス殿が剣を個人授業しているんだろ? 何だ? そんな楽しそうな催し物に、俺も混ぜないなんて。仲間はずれか? 仲間はずれか泣いちゃうぞこの野郎」
「そういうわけでは……」
元気よくクロードがジグの肩を抱く。
「何だ? お前は水天流の当主様で聖騎士団長の俺を泣かせる趣味でもあるのか? 望み通りに泣いちゃうぞ? 夜な夜なお前の部屋の前でさめざめと泣く俺の姿が目撃されちゃうぞ?」
「やめていただきたい」
本気で嫌そうにジグが吐き捨てる。口調はいいけれど、態度的には失礼だと思うが……これなら仕方ない。
こちらもまた気は済んだのか、ジグが解放される。
最後にまた僕たち三人を見回すと、満面の笑みを浮かべて手を叩いた。
「そういうわけで、今日は俺も参加させてもらおう! ディアーヌ嬢、よろしく頼む!!」
「望外の光栄ですわ。よろしくお願いいたします」
まあ指導役としてならば本当にこれ以上はないだろう。
ディアーヌに合わせるように僕も軽く頭を下げて、これ以上の何かがないことを願った。
「では腕前を見せてもらおうか。カラス殿に思いっきり打ち込んで……」
「それはもうやりましたけど」
腕を組んだクロードの言葉を遮るように、僕が言う。ジグが言いたそうな顔をしていた、というのは言い訳だが。またやるのも正直嫌だし。
一瞬戸惑うように真顔になったクロードは、咳払いをして指を立てる。
「じゃあ模擬戦だな」
「それももう」
今度は露骨に不機嫌そうにクロードが頬を膨らませる。まずかったか。言い過ぎたし、やらせる意味もわかるけれど、つい。
「俺見てないからいいじゃないか」
「そうですけど」
その言い分はよくわかる。そもそも普通の新人の稽古の様子をあまり知らない僕が口出しするのも何だし、僕が口答えすることもないのだろうが。
なんとなくエウリューケに似ているから、本当に、つい。
ふう、と落ち着くようにクロードが溜息を吐いて、ディアーヌを見る。
「まあ、何度もやらせて申し訳ないが、手合わせをしていただきたい。カラス殿とはやったというのなら……俺とな」
「……よろしいのですか?」
わずかに喜びの表情を浮かべてディアーヌが驚愕する。それに応えるようにクロードも目尻に皺をつくり笑った。
「いいぞいいぞ。そうだよ、こういう反応だよ、俺が求めてたのは」
僕とジグに向けて、抗議の言葉を吐くようにクロードが言う。
たしかに、剣を学びたい人間にとっては喜ばしいことだろう。相手は雲の上の存在。そして剣士……どちらかといえば槍使い憧れの水天流掌門。
どうしても僕がかしこまっていられないのはこの男の雰囲気が成せる業と、そもそも僕がそういうものに憧れていないからなのだろうが、きっと僕にも反省すべき点があるだろう。
「申し訳ありませんでした」
「いいよ」
ディアーヌと向かい合うように前に出るクロードが笑いながらそう口にしたのに、やはり反省とかいらないかな、と僕は思った。
クロードとディアーヌの打ち合いは、やはりクロードがかなり手加減しているのか一方的なものではなくきちんと打ち合いになっていた。
きちんと動けばギリギリ躱せるような攻撃を、ディアーヌは必死で避ける。対してディアーヌによる攻撃は、クロードにかすりもしない様子だった。
そして僕が嫌がらせをしていたわけでもないが、ディアーヌは幾分動きやすそうに感じる。クロードの素直な剣に、素直な回避。ただ単に僕とは動きの種類が違うのと、そもそもそういうふうに動いてあげているから、ということもあるだろうが。
そのうち、ディアーヌの息が上がる。時間にすれば数分間。僕とやったときとあまり変わらず、汗も滝のように流しながら。
「そこまで」
不測の事態が起きないようにとディアーヌの剣が届かない一歩離れた位置に下がり、クロードがそう宣告する。
応える代わりにディアーヌが、大きく息を吸って吐いた。
真面目な顔で、クロードは自分の使っていた木剣を検分するように眺める。
「筋はいいが……独学でしょうか?」
「……え……あ、ああ、はい」
模擬戦始まったところからだが、先ほどまでのふざけた雰囲気から一変した雰囲気に口調。こう言うことに関しては真面目らしい。
「でしょうな。悪い癖が所々に見られるし……修正されていないな」
今度はジグを見て、笑みを浮かべる。ジグはその言葉に反省するように、頭を垂れた。
「稽古として行っていたのは型稽古と素振り、といったところでしょう。仕方ない、それだけではこれは中々難しい」
クロードが剣を構える……というよりも掲げる。
胸の前に腕を伸ばして、木剣を横向きに支えた。
「ここに上段で打ち込みを。全力で」
「は、はい!」
気を取り直したように、ディアーヌが構える。僕とやったときのように、まず剣をクロードに向けるように保持した。
その右腕を振り上げつつ前進し、クロードの持つ木剣を叩ききるように下向きに弾く。
そしてその動きは、単発で終わった。
「たしかに、剣というものは強い。おそらく今の切り下げが頭に入れば、二の太刀はいらないでしょう。しかし、実戦というものは違う」
打ち終わったディアーヌの右の前足を、クロードが軽く払う。すぐに引くか体重を抜くかしなければいけないだろうに、重心が寄っていたその足は払われてディアーヌが宙を舞うように転がった。
「こういった模擬戦や、おそらく型での当てない場合の動きは見事。しかし、当てた後が拙い」
僕とジグは顔を見合わせる。
たしかに、僕たちのやっていた稽古では当てるまで、もしくは当たらないような動きを重視してやっていた。
その問題点もわかってはいた。実際に修正するには寸止め稽古ではなく実際に当てるようなものではないとまずいと考え、ジグと僕の間で合意し省いたものだ。ミットのようなものがあれば出来なくもないが、その用意もなかったし。
そして、言われるまでもないもう一つもある。
受け身を取って立ち上がる途中、しゃがみ込んだディアーヌはクロードの言葉に真剣に聞き入る。一言たりとも逃さぬように。
「そこまでいえば、もう一つ問題があるのはわかるのではないだろうか?」
「当てられたあと……でしょう」
クロードの言葉に、悩まずにディアーヌは答える。
そう。そしてそれは僕が教えるわけにはいかない。
「動きの稽古であれば、カラス殿を練習台にするのが最適。しかし、その類いのは立場上彼には難しい」
視線を向けられた僕は頷く。
必要なことはわかっている。戦うときに、痛みを受けながらも身体を動かすということ。しかしいくら稽古といえども、後で跡もなく綺麗に治せるとしても、貴族の令嬢を僕が打ち据えるのは難しい。当てられる方はまあ僕が我慢すればいいけど。
「まあ道場稽古などでは、そういうものは偶発的な事故で経験してしまうものなのですがな」
ははは、とクロードが笑う。
ごく簡単に言えば、怪我をしながら戦う経験。それが本当に彼女が強くなるためには必要だ。
立場、という言葉を聞いたディアーヌが、少しだけ俯く。唇を噛んでいるのが僕からは見えていた。悔しい、のだろうか。
「鎧打ちでもやってみるか?」
クロードがジグにそう問いかける。何だろう、そういう稽古があるらしいけれど……。
「……それは私も考えましたが。しかし、カラス殿には……」
「お前が相手なら、俺が責任を取れる」
ジグはそれに納得できないように口をへの字にする。だから、何だろう、それ。
クロードが僕とディアーヌを交互に見て、解説するべく口を開く。
「鎧打ち、という修練がありましてな。道場稽古でもあまり行われずに、水天流でも内弟子にやるか、もしくはこういう騎士団などの稽古で行われるものが」
「どういうものでしょう?」
「革の鎧を着て、打ち合うのだ。寸止めなしでな」
クロードが笑う。つまりそれは実戦と変わらないもので……。
「片方だけが鎧を着て、着ていない方だけが全力で攻める片鎧打ちと、双方着て鎧を壊さない程度に全力でやる両鎧打ちというのがあるんだが」
「怪我してしまうのでは……」
「するのが目的だからな」
僕の反駁に、クロードがそう言い切る。いやだから、それを避けた結果そういう練習が出来ていないのに。
……とすると、この稽古ならば出来る……としてもちょっと嫌なんだけど。
「後遺症の残る怪我というわけではない。鎧を壊さない程度に、ということもあるし、まあ痣が出来るくらいで済むだろう。だが痛い思いをしながらも身体を動かす稽古にもなるし、そして当てた場合当てられた場合の身体感覚を養うということもできる」
言葉を切り、「それに」とクロードが僕を見て笑った。
「カラス殿がいれば、怪我などいくらでも治せるだろう?」
「魔力の続く限りですが、いえ、でも怪我をさせることに代わりは……」
「やりましょう。いえ、お願いします」
ディアーヌが血気盛んにそう申し出る。
「いやしかし、お怪我をさせるわけには……」
「私が口外しなければ何事もないでしょう。いいえ、口外したところで私が否といわなければいいこと」
額の汗を拭いながら、清々しくディアーヌは答える。それから自身の侍女に視線を向けて、唾を飲んでから口を開いた。
「その口に鍵をかけておくこと、出来ますでしょうか?」
「否とは申せません」
ディアーヌの言葉を引用するように、微笑みを湛えて侍女が答える。なんだろうか、何となくディアーヌ側からすれば険悪にも見えた。
クロードの命令で鎧はジグが持ってくる。サイズはある程度目測でも何とかなるらしいが、二人分の革の鎧は結構かさばって……まあジグなら平気か。
走っていった彼を見送り、さて、とクロードは僕とディアーヌの方を向いた。
「鎧打ちの相手はジグにさせましょう。ですがそれまでは、カラス殿との寸止め稽古をしましょうか」
「はい」
僕へは聞かないらしい。だがディアーヌはやる気ある笑みを浮かべてこちらを向いてわずかに会釈した。
そこからの練習は、以前のジグとの時と変わりない。
当たらないディアーヌの攻撃を避けながら、僕がふわりと攻撃を加える。拳や蹴りに頼らずに動くのが、少しだけ上手になった気がする。
打ち合いが一段落する度に、クロードがその動きの指導を入れる。身振り手振りを交えて、時には実演をしながら。
「左腕が遊ぶのは避けろ。相手の刃が届くところにはおかず、腰の後ろに回して固定しておくくらいでちょうどいい」
「カラス殿は左手を前に構えていますが……」
「それはカラス殿だから出来ることで、普通は刃物を相手に素手では危険でしょう」
だがなんというか、ジグと比べて僕への当たりが厳しい気がする。悪意はないようだが。
「刃先はぶれないように。力の方向が相手の芯に向かうよう、精密に動作させながら」
「剣以外にも相手を見るべきところはある。カラス殿の膝を見て、左に動いていたのがわかるか?」
「眩ましの時とそうでないときは肩の上がり方と指の曲がり方が違う。よく見ること」
そして言葉の端々が、僕も気をつけるべき場所にも聞こえる。
もちろん今回はディアーヌへの指導だ。けれども僕もその言葉に応じ修正を加えながら、ディアーヌの相手をしていく。
やはりジグとは違うのだろう。
申し訳ないが、やはり本職だ。レベルが違った。
僕の息も上がり始めた頃。
ようやくジグが行李のようなものを二つ、両手それぞれで支えるようにして持ってきた。
それを確認したクロードが、僕たち二人を止める。
これで僕はお役御免だ。顎の下を腕で拭えば、珍しく滴る程度に汗をかいていた。
ディアーヌの前に、ジグが行李を置く。金属製ではないのでそんなに重くはないはずだが、ずしんという地響きがした気がする。
「鎧に加えて、緩衝材の毛布もあります。着方はわかりますか?」
「……なんとなく」
「では、私が実演いたしますので」
ジグが自分の分を広げてテキパキと準備を始める。それを、焦げ茶色の鎧を広げるように持ったままディアーヌが真剣に見つめていた。
通常、革の鎧は金属製のフルプレートなどと比べて隙間だらけだ。
急所さえ守れればそれでよく、そして刃物などに対しては急所すら中の着込みに任せているくらいの。
だが、そういったものとはやはり違うらしい。
贅沢に革が使われ、フルプレートと変わらない率で肌というか服が覆われる。関節面もきちんと覆われており、動きやすさよりも防備の方が優先されているようだ。
留め具などはさすがに金属製だが、固定をする度に、反発力を使うようなガチャリガチャリとした質感があった。
手や腕、胴体、などのパーツをそれぞれ覆うように着てから、それぞれをまたぐようにまたやや薄い革を固定していく。
都合二十ほどの部品。それを二分とかからずジグは綺麗に着ていった。
それに倣い、ディアーヌも同じように着ようとする。
だが腕のパーツなどは特に空いたもう片手で固定しなければならず、作業は難航していた。
見かねたジグが手伝おうと一歩踏み出す。
だが。
「…………?」
クロードが手を上げてそれを制した。まるで、手伝ってはいけない、とでも言いたげなように。
それからクロードが見つめる先は、……ディアーヌの侍女?
「手伝ってやってくださらんか」
「…………よろしいのでしょうか?」
迷いながら一歩踏み出した侍女は、クロードと、それとディアーヌにそう尋ねる。
クロードは、もちろん、と頷くが、ディアーヌは口の内側を噛みながらそれを無視するように続けた。
その拍子に入ったのか、金具が止まる。上手くつけられた、が、もう片方残っている。
ゆっくりとそこに歩み寄った侍女が、後ろからその鎧に手をかける。
「自分で出来ますわ」
「いいえ、見ていられません、私がやります」
初めて聞くような少しだけ不機嫌なディアーヌの声をあしらうようにしながら、侍女が金具を丁寧に止めていく。
当然のように、一人でやるよりも遙かに早く、片腕の着装が終えられた。
同じように、と脛や太ももに鎧が固定されていく。
シルエットが膨らむほど厳重な装備。それなりに重たいだろうが、ディアーヌは最後にゆっくりと簡単に立ち上がって見せた。
それを確認し、満足げに頷き、クロードが手を叩く。
「では、鎧打ちの稽古、始めようか」
ゆっくりと侍女が後ろに下がる。わずかに満足げに、それと不満げに溜息を吐いていたのが、他には見えないだろうが僕の位置からはしっかりと見えていた。
「お疲れ様です」
「いえ」
今のところ僕は用済みだ。見学しているルルのところまで下がると、サロメが僕に乾いた布を差しだしてきた。
汗を拭けということだろう。ここにいるのがルルだけならばしないだろう動作。前は気にもしていなかったし。
とりあえず受け取りつつ、僕は跪く。そんな動作を笑って、ルルもついている簡易的なテーブル、その向こう側にいた女性は手を上げた。
「ごきげんよう、カラス様。お疲れのところ、かしこまらせるのも申し訳ありませんわ。お立ちくださいな」
「恐れ入ります」
僕はルネスの言葉の通りに立ち上がり、軽く汗を拭く。水で拭いた方が気持ちよさそうな気温だ。
ディアーヌたちに目を戻せば、そこでは本来令嬢があるまじき姿で戦っていた。
「……ぃっ……!?」
本来全力で打つという稽古だ。しかし一応とばかりにジグは手加減をしている。当然だろう、本気で打てば、木剣でも普通に防具ごと切断できるだろうし。
そんな手加減をされても、やはり痛いのだろう。防具の上から、巻かれた布の上からでも、木剣の衝撃は容赦なくその肌を襲う。
偏見の目で見ているかもしれないが、彼女ら貴族のものは、家人に手を上げられたことなどほとんどあるまい。成長痛や筋肉痛、腹痛など、病や仕方のないものを除いて、痛みを感じずに育ってきている、と思ってもいいと思う。
もちろん痛い思いをして生きてきた人間が偉いわけではない。そんなもの、感じたこともなく知らないまま生きるほうがよほどいいと思う。
そんな中、今彼女は打ち据えられているのだ。肉が腫れ、骨まで響く一撃が、容赦なく襲っている。
明らかに僕との模擬戦の時よりも動きが悪くなっている。踏み出しが遅い。間合いが遠い。ジグの一挙手一投足に、わずかに怯える表情まで見せている。
攻撃がジグまで届かずに空を切ることすら幾度となくある。
舞いに分類されるような水天流ではなく、武術としての水天流。それを味わっているようで、ディアーヌの剣が鈍りを見せていた。
ルルはときたま目を背けて、ルネスは扇子で口元を隠して眉を顰める。
二人の意見はきっと揃っているだろう。何となくわかる。『痛そう』だ。
「勇者様を目当てにここまで来たのですが、大分過激なことをなさっているのですね」
「私もここまでするとは思っていませんでした」
中身の詰まった革を叩く鈍い音が、練武場に響く。そのほとんどがジグが鳴らしているもので、ディアーヌも音量では負けてはいないものの、その音は少しだけ低かった。
「一旦やめ」
時間にして数分だろう。クロードが止める。
大して長い時間を動いてはいないし、先ほどクロードとした模擬戦よりも短い時間だったが、ディアーヌはそれ以上に疲労困憊となっているようだった。
尻餅をつくように座り込み、手足を投げ出して荒い息を吐く。
もちろん、そう疲れも見えないジグは、それを静かに見下ろしていたが。
「痛く苦しい稽古でしょう。二本目は、私が五十数えたら。ここでやめても構いませんが、……続きをやりますか?」
「…………っ……ぉ……お願いします……」
一応動作的には骨には何もないだろう。頭部にも何もない。
しかしそれでも苦しそうで、多分腕や胴が痣だらけになっているだろう。
正直、もうやめてもいいと思う。彼女が目指しているものがなんなのか、僕にはわからないが。
「カラス様は、後ほど治して差し上げるのですよね?」
眺めていた僕に対し、ルルがそう問いかけてくる。当然、といいたいが……何故僕は当然と思ったのだろうか。
まあ、当然、でもいいか。
「ええ。治療師にかかってもいいとは思いますが、許されるならそのつもりです」
「お願いします」
「傷薬などで、でしょうか?」
ルネスが不思議そうにそう僕へと問いかける。別にそれでもいいけど。
答えようとルネスを見ると、まだ僕が答えていないのに納得したように頷いていた。
「なら、安心ですわね。でないと、見ていられませんもの」
「あとで治るとしても、正直私としてはあまり見ていられない光景ですけれど」
治るとしても、今痛ければ変わりない。必要のない怪我をしているとすれば、尚更だ。
「ご本人が納得していればいいのではないでしょうか」
「そうですか?」
「そうですよ」
ルネスが諭すように言う。僕としてはそう反論する気もないのでどうでもいいけれど。
それからルネスは、あ、と気が付いたように、顔を上げた。
「そういえばこの前、カノン様に薬を差し上げたとか」
「……ええ。相談されましたので」
すぐさま変わってしまった話題に、僕は警戒して返答に躊躇する。薬を出した。ならば私も、と続きそうで怖い。
「カラス様は、薬師として素晴らしい腕前があるそうで」
「そこまでは」
「その腕があるのでしたら、ムジカルに渡っても大丈夫なのでは?」
「…………!?」
サロメに出されていた紅茶を飲みこみ、ルネスがそう告げるようにいう。
「……何の話でしょうか」
「先ほどルル様からお聞きしましたの。ムジカルから、カラス様が勧誘を受けていた、と」
何を言ったのだろう。僕はルルを見るが、ルルは少しだけ気まずそうに視線を落とした。
「私ちょっと怒っておりましてよ」
そしてそれで、何を言われなくてはならないのだろうか。
そもそも彼女に怒られる覚えはない。
僕はルネスの言いたいことがよくわからずにただその言葉の続きを待った。