今日のところは
黒緑色の団子状になった粉末を一匙湯飲みに落とし、その上に僕が湧かした湯を注ぐ。
そうすると、元の色とは違う黄金色に染まった薬湯がそこに満ち、湯気を立てた。
匂いはやはりいつもルルが飲んでいるもの。
「いただきます」
「どうぞ」
サロメに差し出されたそれを少し吹いて冷ましながら、僕は一口含んだ。
味といえば、とろみのない生姜湯に近いだろうか。
その上で、芎窮の苦みと辛味をマスキングするように蜂蜜の微かな甘みと肉桂の匂いが漂い、その後にやはりバニラのような匂いが追いかけてくる。バニラは入っていなかったが、単一ではなく他の生薬の組み合わせでそんな匂いを作っているのだろう。
身体に良さそうな味……というと何となく不味そうに思えるが、そういうわけでもない。これはこれで美味しい。
サロメも一応味見という役割を果たしているのだろう。口の中で転がして、うんうん、と目を閉じて頷いていた。
「大丈夫でございますね。母の作った味と同じで」
「お母様から習ったんですか」
勝手の台に寄りかかりながら、もう一口、と僕も飲みながら尋ねる。いつもこんなことを言うわけではないだろうし、僕との世間話の一環なのだろう、と気を遣ったつもりで。
「ええ。他にもいくつか種類はあったのですが、私がきちんと作れるのはこれだけでございました」
ふふ、と恥ずかしそうにサロメが笑う。
「他にはどんなものが?」
「茶を基本としたものや、青桐の実を基本にしたものとか、ですか。菊の根を茎や葉ごと干したものから作るものもありましたが、私は苦手で」
「難しいんですか?」
「調合というよりも材料のほとばし方が難しいといいますか、いえ、それよりも少々、味が……」
サロメが表情を固める。苦い……というか、渋いのだろう。
たしかにまあ、菊……前の世界で似たものではタンポポコーヒーみたいなものがあったが、あれはたしかにあんまり僕も好きじゃない。この世界ではなく、前の世界での苦い経験も含めてだと思うが。僕にとっては、やはりあれは『代用』だ。
それでも、今きちんと調理すれば、美味しく飲める気もするけれど。代用と考えなければそれなりかもしれないし。
だから。
「……大人たちは美味しく飲んでいたんじゃないでしょうか」
「よくわかりますね。父はそれが好きで、朝餉に飲んでおりましたよ。私の分まで用意されるのが、心底苦痛でございました」
「それはそれは」
舌の感覚には個人差や民族差などが色々とあるが、その内の一つに年齢差というのも存在する。子供が美味しいと思うものが大人には美味しいと思えなかったり、その逆も大いにあるだろう。
それは知っている。
だが、わかります、とは言えなかった。そんな光景は、僕は未だかつて経験したことがない。
きっとこれからも、そんな経験をすることはないのだろう、とも思う。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが。
それにまあ。
「嫌いなものを笑顔で飲まなければいけないのは、辛いですからね」
そちらはわかる。この世界で不味いもの、といったら人間用では今のところ僕はリドニックの苦い鳥しか思い浮かばないけれど。それ以外の要素で。
「…………」
サロメが一口啜るように飲む。口の中に入れた量に比べて、大仰に喉を鳴らして。
「……嫌いなものを、笑顔で、…………そう、ですね」
そして僕の言った意味と違う意味で捉えたのだろう、サロメが呟く。独り言を僕に聞かせるように。
しかしそれ以上は何も言わない。言葉を選ぶように、もう一口、口の中で薬湯を転がしていた。
それから、僕へと向き直り口を改めて開く。壁の向こうでルルが読書をしているが、それを邪魔しないような、少しでも離れてしまえば聞こえないような声量で。
「……お嬢様、最近明るくなられたと思いませんか?」
「明るくですか?」
聞き返しながら僕は最近のルルの様子を思い浮かべる。まあ、明るくなった、というのはわからないが、話してくれるようにはなったと思う。口数もそこそこ増えた気がする。
「徐々に打ち解けては頂いているようですが」
「この王城に来るまで、あんな風に笑ってくれたことはなかったんです」
綻ぶようにサロメも笑う。あんな風に、といって指している笑顔がどれだかは僕にはわからないが、彼女が言う以上変化はあったんだろう。多分。
「物静かで、文句も言わずに……というのが私が見てきたお嬢様の顔でございましたが……」
またもう一度、ルルの様子を確認する。こちらに注意すら向けていないし、大丈夫だろうが。
「他の使用人の話で聞いたような、幼少期の明るい笑顔。先ほどのジグ様を説き伏せるときの顔は、まさしくそちらだったと思います」
「はあ……」
まあ、たしかにそうかもしれない。
先ほどの、いたずらを思いついたような顔。昔ここに護衛として運んできたその時にも、同じような顔は見た気がする。
もちろんその時も、突然の環境の変化に戸惑う顔が主だったと思うが。
「レグリス様がお二方を呼んだと聞いたときにも、ひとまず元気になられましたが……。レグリス様の判断は、きっと間違っていなかったのでございましょう」
「……僕……私が何をしたわけでもないので、それには頷けませんけどね」
それでも、僕の成果ではない。そう思う。
そこまで深い会話をしたわけでもないし。オトフシはまあまあ話しているようだが。
時間が解決してくれた。そんな気がする。
けれど、サロメは首を横に振った。
「きっと、カラス殿だから、でございますよ」
「…………」
僕は言葉に詰まる。
『僕だから』。今まで大抵その言葉は、否定的な使われ方をしてきたけれど。
例外はリコくらい。
ここでは違うのだろうか。やはり、人の心はわからない。
僕は薬湯を啜っていたせいで聞こえなかった、というフリをして、それには応えなかった。
飲んでいた湯飲みを片付け、部屋に戻って体感時間で多分半刻ほど後。
玄関から、静かにノックの音が響いた。
出迎えたのはサロメ。
「数日前のお約束を、と馳せ参じました」
そして彼女の声に応えて居間に出た僕とルルに、相変わらず軍属の礼を取るディアーヌは清々しい顔でそう告げた。
「中へどうぞ」
サロメがそう促すが、ディアーヌは首を横に振る。そして廊下に立ったまま、サロメに返す。
「いえ、長居は致しません。練武場の端を既にお借りしています。カラス様のご予定は大丈夫でしょうか」
「これからすぐに、ということでございますか」
サロメが驚くように言って、僕を見る。僕の予定はといえば、予定は間違いなく大丈夫だが。ただ僕がやりたくないだけで。
僕が頷くと、サロメも頷きで返してくる。まあいいよ、程度の感覚だったが、伝わっただろうか。
補足の意味も込めて、僕もサロメの少し後方から声を上げる。
「本当に今からやるんでしょうか」
「是非ともよろしくお願いしたい」
僕の質問に、一切揺るぎなくディアーヌは答える。そう意気込まれると、それなりに僕もきちんとやらなければという重圧と、何となくの申し訳なさが出てくるわけだが。
「……では。衣装などはお持ちで?」
今ディアーヌが着ているのは、ごく普通のデイドレス。動けないわけではないが、もちろん運動には向いていない。剣を振るなどの激しい動きは以ての外だろう。
まあその辺りは、きっと今から用意しても間に合うのだろうが。
「もちろん。では、お引き受けくださると言うことでよろしいですね」
僕の反応を好意的な方へと受け取ったらしく、ディアーヌは屈託なく笑う。『綺麗な』でも『可愛い』でもなく、形容詞としては『健康的な』が似合いそうな笑み。
頭頂部で逆立て縛ってある金に近い黄色い髪の毛が、そもそも運動に備えていそうに思えた。
「では四半刻ほど後に、練武場までよろしくお願いいたします。器械は用意しておきます」
「……わかりました」
僕が応えたことに満足したのだろう。ディアーヌはルルとサロメにもまた挨拶をして踵を返す。この程度の伝令も使いにやらせればいいのに、律儀なのだろうか。
ディアーヌが去っていく。おそらく衣装を替えてくるのだろう。僕やジグならばともかく、彼女の場合はさすがにその場で着替えることは出来まい。
とりあえず僕たちも行かなければ。四半刻後に練武場といえば、既に少し遅刻しそうな気配もある。
僕はルルへと向かい声をかけた。
「またご足労頂き申し訳ないですが……」
「いいえ。私が協力できるのもそれくらいなので」
僕の言葉を遮るように、ルルがふと笑う。……まあ、たしかに明るくなった気がする。
「ジグ殿も、よろしくお願いします」
「……まあ、今日が最後だからな。多少は融通くらい……」
ジグの方は了承しきれていないようで、口ごもるようにして渋い顔を作る。まあ、ただ働きのようなものだし嫌がるのも無理はない。
しかし、それを考慮する理由はない。上官であるクロードも、ジグを好きに使えと言っていたのだから。
「頑張ってくださいね」
「さらに仕事を作ったやつの言うことではないな」
疲れを乗せた溜息を吐き、ジグは仕方ない、と納得したように呟く。
「参りましょうか」
そしてサロメが開けた扉を僕たち全員くぐり、廊下を歩く。
練武場。勇者の絵の近くだったっけ。
「お待ちしておりました」
練武場へついた僕たち一行。だが、結構早く来たはずなのに、既にディアーヌがそこにいた。やる気満々、といった感じではあるが、心苦しいからやめて欲しい。
聖騎士たちが使う中央に比べて、地面が削られておらずやや雑草が残る地帯。練武場の端というのは間違いなく、中央付近では遠目にどこかの隊が訓練しているのが見えた。彼らは練武ではなく穴掘りらしいが。
しかし、早い。着替えてから来たのだろう。なのに、あれからすぐ部屋を出た僕たちよりも早くここに来ているとは。
「お待たせしました」
「お気になさらずに。むしろこちらがお待たせするのは礼に悖ります」
足を肩幅に開き直立したディアーヌの服装は、クリーム色の動きやすそうな長袖長ズボンの上下。どこかの道場などで見かけるような服ではあるが、前を止めるボタンがやはり装飾品のような豪華さになっており、粗末な衣服ではない。
そして、後ろで手を組んだその姿勢は、お嬢様というよりもどこかの門下生というほうがやはり似合う感じだった。
ディアーヌは僕とルルにまた敬礼し、それから怪訝な目をする。
「しかし、ルル様も……見学でしょうか?」
「ルル様はその通りですが、主目的はこちらの方にきていただくことですね」
その彼女に、僕はジグを指し示す。今日の主役はむしろ彼だし。
最初から、ジグがどう言おうと巻き込む気満々だった。何せ彼はルルの警護で、ルルがここに来れば必然的にここにいなければいけないのだから。
「それで」
頭上に疑問符が飛んでいるディアーヌから視線を外し、僕はディアーヌの侍女から木剣を受け取る。どうも、と一応礼を言いながら。
「剣を教えてほしい、という話でしたが」
「はい」
「その辺り、自信がないということは以前お伝えしたとおりです」
何を言うのか、とディアーヌは続きを待つ。
「なので技術指南は私というよりも、彼からですね。私はお相手をしましょう」
ディアーヌにも剣が渡る。僕よりも少し小さめなものなのは、彼女の好みか偶然かわからないが。
「私は稽古台。今回はそれで勘弁していただこうかと」
「…………なるほど」
割と苦肉の策だけれど。
意外にも、ディアーヌはすんなりと納得してくれた。
これはこの後の展開も、円滑にいくだろうか。
一応の簡単な自己紹介の後。
「基本的には寸止めで。カラス殿は受け以外に手を出さぬように」
「わかりました」
「お願いします」
まずはディアーヌの腕前を見たい。ジグのそうした意図のもと、僕とディアーヌは向かい合う。
僕は半身に右手で剣を上向きに前に出して構えるいつもの形。ディアーヌも基本的には変わらないようだが、僕と比べて剣先が下を向き、僕に真っ直ぐに向くように構えた。
短いかけ声と共に、その剣が僕へと伸びてくる。
それなりに鋭い突き。
僕は伸びてきた剣を右斜め前に踏み出しながら躱し、半回転しながら剣を弾くようにいなす。
弾かれた勢いをそのまま乗せるように、ディアーヌは身体を翻す。そのまま繋げられた横薙ぎだが、伏せるように身を躱せば頭上を軽く通過していった。
本当はこのまま蹴るんだけど。そう思いつつ身を引くように僕は後ろに小さく跳ぶ。それを追うようにしてディアーヌが両手で持った剣を振り下ろすが、それは躱すまでもなく僕の鼻先を通り過ぎて地面へと落ちていった。
同じように攻撃を躱し、いなし、凌いでいく。
もちろん気は抜けないが、そんなに焦ることはない。僕の評価としては、それなりの腕前、といったところだろうか。素人以上、色付き未満、という感じ。
今は木剣なので無理だが、闘気も乗れば大犬を殺すことも出来るのではないだろうか。それは闘気の出力にもよるけれど。
ディアーヌの息が少しだけ上がる。未だ僕へと有効打らしきものを与えられていないが、それでも本人はめげないらしい。
意地になっているというふうでもなく、ただ真剣にやっている。その態度は、きっと僕よりも誉められることだろう。
しかしまあ、彼女の動きには僕でもわかる欠点がある。
単調なのだ。彼女の攻撃は。
昔殺した大剣を使っていた男。彼の剣戟が横薙ぎから必ず始まったように、ディアーヌの攻撃は必ず突きから始まる。
もちろん一連の動作はそれなりに多彩ではあるが、初撃に意外性がないというのは僕的には駄目だと思う。それを差し置いてもする利点があるのかもしれないが。
「それまで」
ジグが僕たちの動きを止める。そして小さく咳払いをしてから、僕とディアーヌを交互に見た。
「では、カラス殿。今度は攻撃も加えていただきたい。ディアーヌ様も、カラス殿に当てられるように努めること」
僕とディアーヌが頷く。頬に垂れた汗も拭かずに、ディアーヌが剣を構え直す。さてまあ、どうしたものか。
お願いします、と小さく呟き、ディアーヌはまた突きを繰り出す。
その突きを今度は左斜め前に入りいなしながら、僕が選んだのは中段の回し蹴り。ディアーヌの全くの無防備な腹部に当たりそうになったそれを直前で止めれば、彼女も息を飲んで動きを止めた。
「……剣でのほうがよかったでしょうか」
思わず蹴ってしまったが。僕がぽつりと呟くと、やや渋い顔をしながらジグが「まあ、出来ればな」と返してくる。これは僕の反省か。
「しかし、ディアーヌ様も油断はされませぬよう。人の攻撃は、剣だけではありませぬ」
「……心得ました……」
唾を飲んで、ディアーヌが構え直す。
今度は僕から攻めるべきか。やや大仰に踏み込みつつ、ディアーヌと同じような突きを出せば、ディアーヌは一歩下がってそれを躱す。それから、反転するように一歩踏み出してくると、僕の開いた身体、その右腕を内側から落とそうとするように両手で下から袈裟斬りをしようとする。
少しだけ僕が腕を引いて、手首を返して木剣を合わせれば、図らずも、この前演武の前にやった接触法の一手目の形か。それを同じように上に跳ね上げながらくぐり抜けるが、ディアーヌ側は同じようにはしないようでただ体勢を崩していた。
追撃、とやはりまた思わず蹴り上げそうになってしまい、僕はそれを誤魔化すように、体勢を整えることも含めて剣を後ろに引きつつ下がる。
剣、邪魔。
それからも数度。
ディアーヌの剣を躱しながら、ディアーヌの手首や腹部、喉に剣を寸止めしていく。
その度に表情を凍らせる彼女が何を思っているのかはわからないが、とにかくとして、彼女の力は充分にわかったからいいだろう。
僕の視線にジグも頷き、「それまで」とまた止める。
今度は完全に息が上がったディアーヌは、額を袖で拭っていた。
息が整うのを待って、ジグはコホンとまた咳払いをした。
「……正直なところを申し上げますと」
言いづらそうにジグが眉を顰める。まだ肩で息をしているディアーヌを見ながら。
「まず戦い方以前に、基礎体力に問題がありますな。闘気を使えばまだ楽になるとはいえ、この程度で息を上げるのは少々問題かと」
「…………」
指導を聞くように、ディアーヌが身を正す。
「それに、動きに無駄が多い。息が上がるのはそのせいでもある」
ジグが、僕に手を伸ばす。剣を見ながらということで、その意図を汲んで木剣を手渡せば、柔軟体操をするように肩を解して構えた。
「ディアーヌ様の動きの無駄は、カラス殿の動きをよく見ていればわかるでしょう。剣というのは、触れなければ怖いものではない」
それからゆっくりと、ディアーヌに向けて剣を振る。だがその剣は届かないように振られており、ディアーヌの顔のすぐ前を下向きに通り過ぎていった。
「たまに大仰な動きをしてはいたが……。どれも蹴りや拳を入れるための予備動作だろう?」
「そうですね」
蹴りも拳も控えめにした。出しそうになって慌てて止めることが多かったが。
「一歩下がっていたところを、半歩だけに留めること。もちろん当たるか当たらないかはその都度見極めなければなりませんが、それが出来るか出来ないかだけでも随分と違うと思われます」
「それは、六花の型、でしょうか」
「そうですな。まあ、風林の型ともなれば位置からして変更せねばならないのですが、どうもディアーヌ様はそういったことが苦手な様子。カラス殿とは違うところでしょうな」
「でしたら、私もまずは……」
「欠点は潰す必要もあるでしょう。ただし、そうするとやはり基礎体力の問題が浮かんできます」
僕も聞きながら頷く。
戦いの最中に自分の位置取りを常に大幅に変更し続ける水天流風林の型は、まあたしかに疲れると思う。
対して揺れるように動く六花の型は、そんなに疲れないかもしれない。……あんまり意識したことないけど。そもそも正式には出来ないし。
しかしまあ、この展開は考えてはいなかったが、良い方向には進んでいきそうだ。
これであとは体力含めた基礎鍛練と型稽古に移行すれば、怪我をさせてしまうかもしれない手合わせも不要になる。
「今日のところは、得意を伸ばしましょう。カラス殿という見取り稽古にも最適な素晴らしい稽古台もいらっしゃることですし」
……良い方向に進むわけではないらしい。
ジグに視線を向ければ、清々しい笑顔で返される。
「まずは身体の動かし方を私が指導いたします。それに加えて、カラス殿の身体の使い方。それを一つでも学んでいただきたい」
「わかりました!」
逃がさない、というジグの強い意志が感じられる。
上手いこと指導係を擦りつけられたと思ったのに。
木陰でサロメと共に僕たちの様子を眺めていたルルに目を向ければ、クスクスと笑いながら『頑張ってください』と言いたげな目をしていた。