閑話:見えているもの
しずしずと、王城の廊下を二人の女性が歩く。
柔らかな絨毯の上、常人にはほとんど聞こえない足音。
主従関係にある二人は並び立つこともなく、そのうちの一人、従たるサロメはいつものように主の斜め後ろに付き従っていた。
「……撤回はしませんが」
前を歩くルルは、振り返ることもせずに呟く。その呟きが自らに向けられていることに思い至ったサロメは、顔を少し上げてその気配だけで先を促す。
ルルは立ち止まり、サロメの顔を真正面から見た。
「撤回はしませんけれど、先ほど物言いがきつくなってしまったこと、ごめんなさい」
「……い、いえ……」
何のことだ、などとサロメは悩まない。
先ほどというのは部屋を出る直前のこと。物言いとは、先ほど自らがしでかしてしまったことに対してルルが叱責した件だろう。
未だに、サロメは間違ったことをしたとは思っていない。しかし、正しくもなかったのだろう、とも思っている。
発端は、使用人同士の単なる世間話だ。第二位聖騎士団長クロードとカラスの演武の噂が広まり、カラスを雇っているザブロック家が社交辞令混じりに称賛されたことに端を発する使用人の自慢合戦。
大抵そういった自慢は、自虐から始まる。
我が家の使用人は出来が悪く……それでいて、と。
謙遜をしながら言い合う自慢話。いつもならば、日常の他愛ない『ちょっとしたこと』が自慢の種になっていたのだが。
今回は違った。
対象はザブロック家の使用人。雇われている探索者として暫定ではあるが、それでも今現在同僚ともいえる美丈夫。
その美しさが議題に上がることはこれまでにもよくあった。当然のように、人を見る際にはまず最初にその見栄えが目に飛び込んでくる。並び立つ使用人たち、また元々美形の多い貴族たちの中でも群を抜いて目を惹く美しさ。
その彼と、同じ家で働くこと。それが羨ましがられることも多かった。
だが、今回の自慢は美しさではなく、『ちょっとしたこと』ではない。
剣や槍を志す者にとっては、崇拝されているといってもいいほどの武威を持つ第二位聖騎士団長クロード。
カラスは、それと真っ向から打ち合って見せた。
侍女や使用人たち、武に関わらない者たちにはその動きの深奥は読み取れないまでも、それが尋常なことではないということは誰しもが知っている。
誇れることだ。
そう感じたサロメは、謙遜もなく鼻高々に自慢して見せた。
それで増長していた、ということもある。
サロメが凡庸な侍女ということはない。だが、取り立てて優れているところも自分では見いだせていなかった彼女が、同僚のそれを誇るということもあった。
そんな最中、誰かが言った。
『カラスは、本草学も修めている』と。
誰から聞いたのか、とも誰もわからない。だが、その場にいた誰しもが頷いた。サロメもそれは知っていた、サロメ自身、誰から伝わってきたことなのかわからなかったが。
その場にいたのがドルバック家の使用人である。
そろそろ主の病状を新たな治療師に相談しようと考えていたということに思い至り、何の気なしにそれをカラスへと相談できないかとサロメに聞いた。
散々同僚の自慢をした後である。
サロメは、『出来ない』とは言えなかった。面子のために。
先ほどルルに言ったこと。
思えば、その面子は『ザブロック家の』ものではない。おそらくは自分の。
それを今更ながら反省し、サロメは拳を握りしめる。
恥が、彼女の中で後悔の念に変わっていった。
「了承する前に、カラス殿に確認するべきでした。申し訳ありません」
「……それだけではないでしょう?」
「誤魔化したことも、ですね。重ねて、改めて謝罪しておきます」
「そうして……いえ、そうしてさしあげてください。そこまで怒る人ではないと思いますけれど」
多分、カラスはもう怒ってはいないだろう。
そうルルは推察する。
抗議をした、そしてサロメはそれを受け入れたのだ。ならばきっと、それを引きずるような性格ではない。ここ数週間見てきてそう思う。
先ほど自分がサロメに小言を言ったときにも、おろおろとし、どちらかといえばサロメを心配するような素振りを見せた。抗議の際にも、怒っていたのではない、困っている顔で。
この城に来て自分に付き従ってから、随分と経つ。その間くるくると変わっているその表情の中にも、怒りなど、負の感情に類するものはないといっていい。
怒れない、弱いというわけではないだろう。それはルルの願望だったが。
弱いわけではない。
ならばきっと、彼は優しい人なのだ。そう思っていた。
ルルの進言に似た指示に、サロメが唇を結ぶ。気合いを入れなければ、と考えて。
「正直、恐ろしいですが、頑張ります」
「そんなに怖い人じゃないですよ」
案外、向こうから謝ってくるかもしれない。そうルルは、誰にも言わずに予想する。
また説教が始まりそうになっていた緊迫した空気を壊すように、ルルは苦笑し、また行き先を向く。
昼餐の会場はすぐそこだ。話している間にも、参加する令嬢や準備のために小走りで駆ける下女たちが横を通り過ぎていく。
早く行かなければ、遅れてしまう。乾杯の音頭や何かがあるかはわからないが、ミルラに誘われた以上、最初からいなければいけないことは重々承知だった。
歩き始めた主を追うように、サロメも、とと、と歩を進める。
そして主の小さな背中を見ながら、主の言葉を内心否定していた。
怖くない、わけがない。正直恐ろしい。あの無表情が恐ろしい。
人間の顔の美しさ、親しみやすさは表情に寄るところが大きい。表情豊かに喋る人間には好意を抱く人が多いし、逆に無表情では親しみづらい。
その容姿の評価も高いクロード・ベルレアンも、どちらかといえばその評価はその快活さによるものが大きい。
主に褒め称えられるのは、頼れる笑みに、真摯で真面目なその表情。
だが、対してカラスは表情に乏しい。それでも美しく見えるその容貌は凄まじいものなのだろうが、その分、人間味を感じないということでもある。
見せる表情といえば、薄ら笑いか眉を顰める程度。心が死んでいる、とは誰も言えないが、それでもそう思ってしまうほどの無感情さ。
カラスは人間だ。当然、理由があれば不機嫌になるし、怒りも持つだろう。
今現在、それがあるかどうかわからない。先ほどの抗議の際も、どれほどの怒りを持って自分へと言葉を投げかけていたのか、それがわからない。
恐ろしいのだ。あの美しい顔が。
付き合いを重ね、きっと自分に悪意を向けているのではないだろう、とそう思える今になってもなお。
……しかし。
聖騎士の警備を素通りし、昼餐会の会場に入り、会話の輪の中に入っていくルル。
その背中を見ながら、サロメは思う。
ルルに仕えてから、一年ほど経つ。
それほど長い時間を共に過ごしたとは言えないが、それでも季節が一巡した以上の時間は主のことを見守ってきている。
彼女の見せる表情は、微笑みが多く、次いで疲れた無表情。
たまに、そんな彼女も使用人の振る舞いに不満を見せることはある。だが、それを改善しようと怒ることもなく、口出しすることもなかったと思う。
不満を表に出さない穏やかな少女。それが、ザブロック家使用人の間でのルルの評価だ。
しかし、とサロメはわずかに不可思議に思える。
今日ルルは、自分を叱った。
ルルが誰かを叱る姿など、今まで見せたことがあっただろうか。
立食会は、座っている場所に次々と料理が運ばれてくる正餐と勝手が違うことが多い。
そしてその上、今日の立食会には主役がいる。勇者ヨウイチ・オギノ。それ故に、舞踏会とも似た儀礼が令嬢や令息たちに今求められていた。
「話すのは初めてだな、勇者様」
「ええと、こんにちは。…………」
「ジュリアン・パンサ・ビャクダンだ」
鬱金色の髪を後ろ向きになでつけた男。ジュリアンが、力強くヨウイチの手を握る。自信に溢れるその握手を、ヨウイチは気後れするようにそっと握り返した。
晩餐会などとは違い、今日は立食会。
主賓に対して出席者が挨拶をしなければならず、そしてその順番は厳密ではないものの、より家格が高い者から、と決まっている。
この場にいる中でもっとも高いのは、ビャクダン公爵家。故にジュリアンも、面倒なことだ、と思いながらその作業に従事していた。
「ええと、ヨウイチ・オギノです」
ヨウイチは、その様に戸惑っていた。自らが偉くなったとは思っていないが、それでも自分に向けてそれほどへりくだることもない男性との久しぶりの接触に。
「緊張しているみたいだな。無理もない」
その様を、ジュリアンは笑い飛ばす。
「この度の立食会は、勇者様の要望と聞いたが?」
「要望って訳じゃないんですけど……」
ヨウイチは、その言葉をやんわりと否定する。
ヨウイチも、立食会を望んだわけではない。ただ単に、以前催された晩餐会では席を離れることも出来ず、せっかく集まってくれた人と話も出来なかった、ということをやんわりと侍女にこぼしただけだ。
それを聞いたミルラが更に勇者の話を聞いて、ならばみんなと話が出来る機会を、と設けた。それだけだ。
ありがた迷惑。そう思ってもおかしくはない行為。
だがヨウイチは、少しだけありがたく思っていた。ちらりと見た視線が、既に会場にいた一人の黒髪の少女を捉える。一瞬、だが無意識に向いた視線が何となく恥ずかしくなって、すぐに逸らしてしまったが。
そんな視線の意味を気にすることもなく、そもそも視線に気づくこともなく、ジュリアンは手に持った酒の杯を一口含む。
「この場にいる者たちは、勇者様のために集められたのだ。気軽にやってくれよ」
「そんな恐れ多いことを」
未だに自分の身分が高くなっている、ということに慣れないヨウイチは、困ったように眉を顰める。
実際、この場で一番優先されるべきはヨウイチで、公爵家三男といえど、ジュリアンよりも国家に対する優先度は高い。なのに未だそういったことに頓着していないようなその態度が、ジュリアンの嗜虐心と自尊心をくすぐった。
やはり、下々の者はそうしなければ、と心のどこかで思うほどに。
「そういえば、勇者様はまだ誰も手をつけていないとか?」
気を大きくしたジュリアンが、からかうように話題を下品な方向へと切り替える。その言葉の意味が一瞬わからなかったヨウイチは、一瞬考え込んだ後に目を丸くした。
「手を、つけるって……!」
「この王城に女性が集められた意味がわからないわけではないだろう。望めば誰でもその日の夜には勇者様の閨へ連れてこられるだろうに」
もう一口、と酒を飲みながらジュリアンは続ける。羨ましい、と思いながらも。
「もちろん戦後、娶ることまで要求されると思うが」
羨ましい、とは思いながらも、そこまではしたくない、ともジュリアンは思う。
誰がそこまで責任など取りたいと思うだろうか。一時の火遊び、なら適当な侍女でも捕まえれば済む話なのに。
「娶る……ですか。俺には縁がない話で……」
娶る。結婚。婚約。ついこの前までは高校生だったヨウイチは、その言葉に実感が湧かなかった。頭を掻いてぼやくようにヨウイチが呟くと、ジュリアンはその仕草がなんとなく面白くて噴き出した。
「それとも、やはり男のほうがいいか? 勇者様は、あの男と親交があるとかいうしな」
「あの男?」
男のほうがいい、という言葉には何となく反応できずに、あの男、という単語にヨウイチは眉を上げる。
一瞬、誰のことだかわからなかった。
その反応に、違ったか、とジュリアンは即座に判断するが、それでも言葉は止まらない。
「ザブロック家、といったか。そこに今身を置いている探索者カラス」
「カラスさん、ですか?」
質問ばかりだ。会話の主導権をずっと握られている。そう思いながらも、ヨウイチはジュリアンの言葉を待つ。
今まで楽しげに笑っていたジュリアンの顔が、一瞬何かに歪んだのを見逃さずに。
「そうだ。あの忌々しいカラス。あの男はやめたほうがいい」
「やめたほうがいいと言われましても」
だが、カラスを貶す言葉には、ヨウイチも同意できなかった。ヨウイチにとって、カラスは恩人だ。この国に敵がいるわけでもないが、この国に来て、味方になってくれた数少ない人物。
そんな反応にジュリアンは溜息をつく。わかってないな、と首を振りながら。
「眉目の良い男子がよければ、うちで何人でも用意する。だが、あの男は……」
言葉を切ったジュリアンにヨウイチが注目する。そうでなくては、とその様子にジュリアンは内心ほくそ笑んだ。
「あの男の行い、平民ですらない分際で……貴い我らに傷をつけたあの男の悪行、教えてやろうか?」
「悪行なんて」
しているわけがない、とヨウイチも首を横に振る。平民ですらない、という侮蔑の言葉の意味もわからないままに。
その仕草を微笑ましく思いながらも、ジュリアンは続けようとした。
しかし。
「ジュリアン様。勇者様の独り占めは許さなくてよ」
「……ああ、悪いな」
ジュリアンと親交と『関係』がある侯爵家の令嬢が声をかけてきたことにより、話題が止まってしまう。それを皮切りに入れ替わり立ち替わり始まった令嬢たちの挨拶に、律儀に名前を覚えようとするヨウイチは努めなければいけないこととなった。
立食会場の端。警備担当のクロードと、勇者の接遇担当のミルラが斜に向かい合う。
端から見れば会場の警備に関する簡単な話をしているように見えていた。
「いいのですか? 勇者様を一人にして」
「ええ。この機会に、一人でも多く話していただいた方がよろしいかと」
扇子で口元を隠し、ミルラが笑う。その視線の先では、出席者の一人の胸元の開いた衣服に、どこへと視線を向けて良いか迷うヨウイチの姿があった。
「予想していたとおり、集まりが悪いですな。……これも貴方の狙い通りで?」
「狙い通りなんて、人聞きの悪い」
ミルラは会場を見渡す。出席者は、やはり晩餐会の時の半分、といったくらいだろうか。しかしそれでも不満はなかった。目をつけていた令嬢六名が参加している。それだけで、彼女の目的は達成されている。
「勇者様が積極的に繋がりを持とうとしないのです。なら、こちらから繋がる人物を少しだけ調整しても構わないでしょう?」
「その判断の是非は私には」
フフとクロードは困ったように笑う。得意げなミルラの顔が、何となく気に入らなかった。
「しかし、ザブロック家のご令嬢にも声をかけたとか」
「ええ。あの娘、どうやら勇者様のお気に召したようですし」
未だヨウイチに挨拶が出来ずに、会場の隅で談笑していたルルの姿をミルラは目に留める。
どうして彼女が気に入られたのかはわからない。しかし、昨日この王城へと帰ってきたときに会った後、明らかにヨウイチの態度が変わった、とミルラは察していた。
侍女からの報告だ。昨日から朝餉の時間までに、数度ザブロック家の事に関して聞かれたと。
クロードはミルラの言葉に、ミルラに聞こえないように溜息をつく。
そういう察しが良いのなら、別のところに気が付いても良さそうなものだが、と。
「それにあの娘が勇者様と繋がりを持てば、あの男との繋がりも持てる」
「……カラス殿、でしょうか」
「あの男、見栄えが良いこともあって中々人気がある。使い出がありますからね」
ミルラが呟く。その『見栄え』に言及するときにミルラの口元が苦々しく歪んだのにも、クロードは内心溜息をついた。その、彼女の父である王までもがクロードに愚痴をこぼす仕草に。
「そしてそうすれば、あの男を通じてエウリューケ・ライノラットも取り込めるかもしれない。あの女は役に立つ」
「そう簡単にはいかないと思いますが」
「一筋縄ではいかないでしょうが、それでもあの女の能力はこの国にとって有用なもの。それは貴方も認めているでしょう」
「まあ」
「ならば、求める価値はある」
エウリューケ・ライノラット。
クロード・ベルレアンの拘束を容易に凌ぐ腕。それに加えて、珍妙な言動を繰り返しながらも、ヨウイチの要望に応えて魔力を扱う術を用意したその知識。
あの知識は王城で役立てるべきもので、魔術師長との関係が少しばかり悪化しようとも取り込む価値はある。
それは派閥の力に、そして自らの力になる。
ミルラはそう考えていた。
「あの男も、見栄え以外にもそこそこ腕はある様子。取り込めた暁には、戦力になるかもしれませんね」
「……そこそこ、ですか」
やはりそこまでしか見えていないか。クロードはそう落胆する。武術の深奥に触れる者ならばまだしも、ミルラのような者に対しては、あの演武もその程度の効果だったか、と。
「何か?」
その態度に、ミルラも何かを感づく。クロードの奥歯に物が挟まったような態度に。
「そこそこ程度の腕ではありませんよ。カラス殿が得意武器……おそらく無手ならば、私も負けていたかもしれない」
「何を弱気なことを」
だがクロードの言葉を、ミルラは笑い飛ばす。謙遜も度を過ぎれば腹立たしいものだ、と思いつつ。
「嘘ではありませんよ。未だに私は、足が本調子ではありませんからな」
ハハハ、とクロードは快活に笑う。
そして、本当に嘘ではない。そのカラスの蹴りをまともに受けた右腿と脛の怪我は神経に及んでおり、未だに鈍い痛みを時たま発する。
闘気を使い癒やしてはいるが、完治までにあと数日はかかるだろう、と思っていた。
その怪我を一目で見抜いたのも、エウリューケに一目置く理由だったが。
それに、とクロードはあの演武を思い返す。
あの後に、『クロードは手加減していた』と言った団員もいた。もちろん演武用の手加減はしていたものの、しかし彼らの中で『それ』を見抜いていたのは半数ほどだろう。
演武の最中にいくつもあった、攻撃の機会があるにも関わらず、クロードが手を出さなかった瞬間。それを逃したのは手加減ではないのに。
「闘るとしたら……気は抜けない相手です」
剣を持っていたから何とかなった相手だ。
クロードがあえて攻撃しなかった瞬間というのは、仮にあの場で剣を手放されてしまえば、もし仮に素手で立ち向かってこられれば、そう思うと手が出なかった瞬間だ。
自分の隙だらけの攻撃は、カラスにとって好機となっていただろう。その好機に、まずいことになったかもしれない、危ない相手。
それに魔法の力まで加われば、どれほどの脅威となるだろう。
クロードはそんな想像に、身震いする思いだった。
「心構えは立派なこと。しかし、自信を持って当たりなさい」
「いやいや、自信などなくなってしまいますな。昨日のライノラット殿に完封されたことも含めれば」
ハッハッハとクロードはミルラの言葉に笑う。
ミルラはその笑顔に、謙遜とは真逆の自信を感じた。
「ごきげんよう、オギノ様」
「ルル、さん」
公爵家、侯爵家、と続く挨拶。ヨウイチがその挨拶の波に辟易としてきた頃、ようやくルルの番が来る。ルルとしても早く済ませたいと、親交あるルネス・ヴィーンハートの挨拶に乗じての形である。
「……」
「…………」
「中々皆さんの顔を覚えられなくて」
「私もそうでしたけれど、オギノ様は心配ないでしょう。私の顔など覚えてるくらいですから」
「それは、ルルさんの顔は覚えますって」
挨拶としては、皆と同じように一言二言交わすだけ。まだまだ挨拶を終えていない者もいるのだ、ルル相手だけに長い時間を取るわけにはいかない。
同じ行為。その他の人間と。
だが立ち並ぶ周囲の令嬢たちの一部が眉を顰めた。
その原因は、ヨウイチの言葉遣い。
自分たちの時とはわずかに違う、うわずった声。
そして眉を顰めてはいないものの、それに気が付いたルネスは内心、ああ、と納得する。
噂は本当だった。
今日は自由参加の昼餐会。しかし、ミルラが参加させるべく声をかけた数人がいるという噂。そしてその数人の中に、ルルがいるという噂。
そして、その数人の中に、ヨウイチの『お気に入り』がいるという噂。
もとより、ルネスは勇者に見初められる気などない。だからこそ、その他の令嬢が勇者の話をしていても全くの他人事として見ていた。
けれど、ルルがもしも『そう』なのだとしたら。
応援するべきだろうか。その喜ばしい話を。
……いいや、まずはルルの気持ちを確かめるのと、そもそも事の真偽の確認からだろう。
他人の色恋沙汰は面白いものである。だがそれに乗り、余計なことをしないように、とルネスは改めて自らを戒めていた。
「それではまた、改めて」
「あ、じゃあ、また……」
その他の令嬢に道を空けるべく、頭を下げて踵を返したルル。
社交辞令混じりのその素っ気ない態度を名残惜しく思いつつも、ヨウイチはまた新たな女性と挨拶を交わしていく。
応対中の女性に、眼中にない、という態度を出さなかったのはヨウイチの努力の賜だ。
だがそれでも、横目でちらりと見てしまう。そのルルの、小さな背中を。
「それでは勇者様、ごきげんよう」
「はい、それではまた」
名前も覚えていない女性の挨拶をあしらいながら、ヨウイチは考える。
ルルとの会話を思い出しながら、ふと感じた疑問。
(……あんなに、笑顔の少ない人だったっけ?)
会ったのは数度だけ。
しかしそれでも覚えた違和感に、ヨウイチは内心首を傾げ続けていた。