いつか大人になる日
『力の入れ替え』https://ncode.syosetu.com/n1146do/8/
『大きな壺と小さな杯』https://ncode.syosetu.com/n1146do/512/
明記されてるのはこの辺りで、地味にちょくちょく出てた設定(予防線)
「答えはグーゼル・オパーリンが最初から言っていた」
「グーゼルさんが?」
僕とエウリューケは外へと転移し、固い床ではなく土を踏んでいた。
ここは王都の農業区域。畑仕事に勤しむ人々も、今はお昼時。どこの家庭も昼休憩の時間で家で軽食を取っていた。
畑に隣接した小さな家から、茹でた玉蜀黍に似た甘い匂いや、焼いた塩漬け肉の香ばしい匂いが漂ってくる。
午前の仕事も終わり、これから少し休んでまた午後の仕事に入るのだろう。それがまた畑仕事か、それとも内職かはその家によるだろうが。
枯れ草混じりの踏み固められた土が続く、ふかふかとした道。
散歩をするように左右の畑を眺めながら、僕とエウリューケは並んで歩く。
「あたしは、『魔力を持つ人間の中で、合わせて闘気を持つ人間』を探していたのよね。だから、魔力を検出する飾りを作って配った」
指先で、エウリューケは宝石の着いた髪留めを弄ぶ。まだ白いその石は、魔力の通っていない証だ。だが、その髪留めを握りしめると、それだけで宝石が青くなる。
「見つけたのが、ウィンク君にクリンちゃん」
今のところ二人、と小さな声でエウリューケは補足した。
「それが間違いだったんだよ。なんであたしは、魔力を持つ人間を探してたんだろう」
「闘気を持つ人間よりも、魔力を持つ人間の方が少ない。……理に適っていると思いますが?」
闘気を持つ人間を探したところで、それは大勢見つかるだろう。
昨日推定をエウリューケは探していたが、魔力を持つ人間は十人に一人程度。対して、闘気は万人が持つ力。発現しているかしていないかはともかく、何の検証にもならないと思う。
そして見つけ出した魔力を持つ人間のうち、ほとんどが闘気の使えない体で、彼ら二人だけが闘気を持っていた。
何ら矛盾していないが。
僕の方を見ずに、僕よりも前に出ようとしているのかエウリューケは大股に歩く。
僕よりも少しだけ小さい身長のため、胸を張って歩く姿がほんの少しかわいらしく見えた。
「そう。それは、あたしたちの信じていた常識。でも、グーゼルオパさんはなんて言ってた?」
「端折らないで言いましょうよ」
グーゼルの名前の改変に何となく抗議しながら、僕は考える。そんなに考え込むほどのものではないが。
たしか……。
「リドニックの北壁。それが、魔力を持たない者でも鎮めることが出来る」
いや、それは前提で、たしか根拠の一つだったはずだ。それよりも、たしかスティーブンの話では、着想はそれ以前の仙術を教えた子供からだ。
そして、グーゼルの説は、正しくは……。
「そこから、闘気と同じように、魔力も誰しもが持っているのではないか……と……」
「それだよそれ!」
立ち止まり、エウリューケが指を立てる。そのままくるりと回転すると、僕の顔の真ん前に人差し指を見せつけるように止めた。
「検証するに至って、あたしたちは考え方がおかしかった。『魔力を持っているのが異常』なんじゃない。『魔力があるのが正常』と考えなくちゃいけんかったんよ!」
「……あっ……」
僕も言われて気がついた。
理解していたはずだった。文言まで覚えていたのだから、知っているはずだった。
闘気を万人が持ち、魔力使いはそれに加えて魔力を持つ。
それが、一応の常識だったし、僕もあまり不思議には思えなかった。
闘気使いは魔力を扱えず、魔力使いは闘気を扱えない。その事実からむしろ、闘気使いは闘気だけ、魔力使いは魔力だけしか持たないと考えていたことのほうが多い気がする。
しかし、今回検証しようとしていたグーゼルの説は、違うはずだった。
「むしろ、あの実験で注目すべきは、……おかしいのは髪飾りが反応しなかった方。グーゼさんの説が本当なら、とするならだけれど」
「でも、だったら……」
反論するように、僕は言葉を口にしようとし、そして言葉を詰まらせる。言い訳でもないが、屁理屈になっていないか、と検証のために。
しかし、ならば言えそうなことがある。
「つまり、やはりあの説は偽だったということでは?」
とてもシンプルだ。闘気も魔力も万人が持っているという説。それ自体が間違いで、わずかな例外はあれども、今までの『闘気は万人が、魔力は限られた人間が持つ』という説が正しかったとすれば、特に矛盾は……ない……かな?
「その検証は出来ていないよ」
言いながら、エウリューケは前を向いて両手を広げて天を仰ぐ。
「ここに四枚の札があるとする。表は、二枚が赤で二枚が黒。裏には白地に印が入っているか、もしくはただの白。印が入っているかどうかは無作為で、数も場所もわからない」
「はあ」
何かしらの思考実験を始めたようだが、いつものように空中に描く図はないらしい。何となく動作から、エウリューケの視界の中には浮かんでいるようだが。
「今現在それは机の上に置かれていて、見えているのは『赤の札』『黒の札』『白地』『印』の四枚。さて、ここで問題」
エウリューケがまた人差し指を立てて、こちらを見る。
その指先には、光で形作られた一枚のカードが回転して浮かんでいた。
「『この場において、黒の札の裏には、必ず印がある』と証明したい場合、捲る札の最小の枚数と種類は?」
「…………」
……なんというか、意外なことに普通の論理パズルだ。
それも、答えは覚えていないが、僕は昔こういうのを見たことがある気がする。ただし、たしか僕が見たものは人形か何かを使っていたが。
一応考えてみると、捲るパターンとしては最大で四枚。最小で無し。
もちろん捲らないのは論外だし、全部捲るのは問題にはならないと思うので、それもなし。
黒の札の裏の情報が必要なので、もちろん黒の札は捲る。それで一枚。
それで、ええと……この場合は捲る必要がない札が……。
「黒の……」
「印が魔力。黒い札が闘気使い。あたしが調べていたのは、印があるかどうかだけだったんだよね」
「……はあ……」
一瞬の思考の後に答えがまとまり、口を開こうとするとエウリューケが話題を進める。せっかく考えたのに。
そんな風に少しだけ唇を尖らせた僕を無視して、エウリューケは光のカードを握り潰した。
「あたしが今回の実験で証明したのは、『闘気を持つ人間には、魔力も持っている人間がいる』ということだけ。『印がある札の表は黒いことがある』って。それが全員に当てはまるのか、それともあたしが見つけ出したのは例外なのか、というのはさっぱりだし、説の証明に対しては何の意味もない」
そしてまた、勢いよく振り返って、僕の鼻先へと人差し指を突きつける。
「あたしたちは、意味のない反応に翻弄されていたんだよ!!」
「……はあ」
「かーっ! 気のねー返事!!」
エウリューケが、先ほどの蹴りで懲りたのか、僕の膝の裏を軽くつま先で小突く。
だがまあ、意味のないというところには未だ共感できない。
意味はある。……いや、ない……だろうか? 本当に?
「だから、常識ってのは邪魔なんだ。知識と常識と経験と、分けて考えるのがめんどくせーの!! そりゃね、あたしも『闘気は全員が持っている』なんて知識は、どうにも忘れがちだよ? 忘れがちだけど、実験中まで忘れてたとかそりゃねーよバーカ!!」
「まあ、僕も忘れてましたし」
どうにも、形骸化している知識だ。
僕はたしかに、昔開拓村にいたときにも聞いている。闘気は万人が、魔力は限られた人間が、と。
だが、その両方を使える人間は僕と勇者以外いない。
ならば、経験とそれに伴う常識がそう規定してしまう。『闘気を持つのは闘気使いだけ』『魔力を持つのは魔力使いだけ』と。
大声で叫んで、少しだけ落ち着いたのかエウリューケが胸を張って鼻息を吐き出す。
「だから、ほとんど振り出しだった。あたしのやったことっていえば、そんな『知識』の確認だったんだから」
「……そうですね」
なるほど。
言いたいことはわかった。使える使えないはともかくとして、その事象は当然とも言える知識だったのだ。魔力を持つ者は、闘気も持っている。闘気の持っている者の中には、魔力を持っている者もいる。
そんな、本来はみんなが知っている常識。そして、みんなが知らない常識。
ウィンクやクリン、そういった存在は、彼らだけではなかった。
彼らのような存在は、それが普通だったから。
「金髪糞野郎も多分それが言いたかったんだと思うんだよね。ちゃんと言えよばか」
「そんなに怒ることでも」
僕は半笑いで取りなす。たしかに直接言ってほしいとは思うが、これに関しては気づかなかった僕たちが悪いのだ。
一応は、そんなに怒られる謂われはないと思う。
「しかし、そうすると少し疑問が」
「湧いたっしょ? さすがあたしの一番弟子!」
「……他にいませんか? それ」
自慢げに言うが、僕が一番弟子ならもう他にはいないことになる。弟子の称号が僕一人なら、さすがにやっぱり遠慮したい。
「何であたしたちが、『人は単一の力どちらかしか持っていない』と思い込んでいたのか、だしょ?」
……そして、僕の疑問とはちょっと違うが、まあ概ね間違いではないからいいだろう。
「まあ」
「『人は、鍛えれば闘気が使えるようになる。でも、魔力持ちはそんなことをしなくても、魔術師や魔法使いになるから鍛えず闘気が使えない。魔力を持っていない人間は、そもそも魔力が使えない』という答えだけでは不服?」
「……概ね観測結果と合致するんじゃないでしょうか」
ウィンクやクリンのことは置いておいて、ひとまずそれで整合性は取れている。
闘気使いは自分の体の中に闘気しか知覚できないし、魔力使いは自らの闘気を知覚できるほど鍛えられていない。だから、どちらかの力しか持っていないという常識があった。
「そこで、さっきの勇者の話に立ち戻る。さっきあたしゃ言ったわね、『勇者は元の世界とほとんど脳の構造が変わっていない』って」
「……そうですね」
もちろん元の体を確認して照らし合わせてみたわけではないので断定は出来ないだろうが、召喚陣から得た情報ではそういう事になっている、とは聞いた。
だったら。
……だったら?
「グーゼル・オパーリンの説。『全ての人間は闘気と魔力を持つ』というもの。それが真ならば、この情報は違う意味になってくる」
「…………」
僕はその意味を考える。丈の長い草が風で揺れる音を聞きながら。
なるほど。
「……この世界の人間と、勇者の脳の構造の違いは?」
「よっくぞ聞いてくれました。アンタのおかげで確認できたよ。……何にも、変わらない」
……なるほど。
この考えがどの時点でエウリューケの中に湧いたのかはわからないが、それでもあの診察でその辺りまで確認済み、ということか。
魔力を生み出している勇者の脳は、言語機能以外改変されていない。
そしてその構造は、この世界の人間と一緒で、その他の機能も変わりない。
だから。
「ならばやはり、『この世界の人間は、全ての人間が魔力を持っている』」
「そういえるかもね、ってこと」
エウリューケが一歩僕に近づき、肩を抱くように背中を回した腕で、僕の肩をばんばんと叩く。まるで、励ますように。
「だから、カラス君の能力は、本当は普通ってこと。他の誰とも違わない、レーちゃんやニクスキーどんと変わらないし、じっちゃんとも変わらない、普通の『人間』だよ」
最後の文章を強調された気がする。その言葉には僕は同意できず、どう反応していいかわからないが。
「ですが、だったら」
「何で他の人間は、魔法が使えないのか、……ってね」
僕の反論を継ぐように、鳴らない口笛を吹くようにしながらエウリューケが離れる。
そして大きく両手を広げて、回転してからこちらを向いた。
「使えるんだよ、本当は。ウィンク君、クリンちゃんと同じように」
両腕を閉じて、掌を合わせてポンと鳴らす。それから手を組みながら手首を返して手を空に向けて、エウリューケは大きく伸びをした。
「そして、全員が本当は使えなくなる。行こうよ、午後のお遊戯が始まってるといいね」
競争だー! と叫び、エウリューケが走り出す。
そのドタバタとした走り方をちょっとだけ微笑ましく思いながら、僕はその後を追った。
ウィンクの家では、やはり午後の内職の真っ最中だった。
今日は藁は編まない。いや、中で多分男性陣がまた藁の板を作っているのだろうが、女性陣は外でその後の工程にかかっていた。
娘が液体の中に藁の楯を浸し、しばらく経つとそれを母が取り出して、干す。
干すといっても、吊すわけではない。身長ほどの高さの合掌するように斜めに立てられた板に、細い滑り止めの木片がいくつも打ち付けてある。そこに立てかけるように並べていくのだ。
藁の板が塗れているのは、粘稠性の低い液体。だが特有の臭いが鼻についた。
「あれ何してんの?」
「防刃の加工ですね。血と油を染みこませる作業です」
エウリューケの質問に、僕が端的に答える。やはりこの分野は僕の方が詳しいのだろう。
浸している液体は、油と飛魚の血を混ぜたもの。飛魚の血はリコが作ってくれた僕の竜鱗の外套にも使われているが、布などに染みこませた後に樹脂で固めるか乾かすかすると、それを刃に強くする性質がある。
油は藁を膨らませて密度を高めるため、というところだろうか。飛魚の血もそれなりの値段がするので、水増しのためということもあるだろうが。
既に昼食後だが、魚を焼いた匂いもする。
お昼ご飯はそれかな。あまり新鮮でもなかったようだが。
……すると。
僕は姿を隠したまま、干してある藁の楯に鼻を近付ける。
やはり。
「でも、かなり質が悪いですね。別の魚で水増ししてますし」
おそらく鮒か何かの血も混ざっている。こちらはそういう効果もないし、飛魚の血を少なくした代わりの色づけのためだろう。……この藁の板、効果がないわけでもないが、粗悪品だ。
エウリューケは興味なさげに、ふーん、とだけ言って、大股に僕の近くへと寄ってくる。その横を、積まれた藁の板を抱えた娘が通っていった。
ウィンクは、家の中でじっと父兄の作業を見ていた。
藁の粉塵を吸ったのだろう、時折くしゃみや咳をして、服で鼻水を拭いていた。
そして兄の手先を見ながら、落ちていた藁を数本拾い、編む真似をする。もちろん親たちのように綺麗にはいかず、数本だけの藁は絡まるだけで、つまらないと文字通り藁を投げ出していたが。
「さっきの話の続きをするね」
「ええ」
真面目な顔で、エウリューケはウィンクを見つめる。
僕もウィンクにまた目を戻せば、退屈そうにしているウィンクが、ごく稀に見せるエウリューケのそういった顔と重なった。
「ウィンク君は魔法使いだ。魔術師としても高等の《浮遊》を……飛行したわけじゃないけど、使って見せたのはあたしも見てる。そして、まるで〈鉄食み〉のように石を食べようとした」
おそるおそる、という感じに周囲を窺いながら、ウィンクは立ち上がる。そしてそーっと今日は開きっぱなしの扉の方へ向かって歩いていった。
本人としては、親たちにばれないようにしているらしい。そして多分、本人は上手くいっていると思っている。親たちはといえば、ただウィンクの行動を気にしていないだけのようだったが。
それを追い、僕たちもゆっくりと歩き出す。
「でもきっと、これから使えなくなる」
「……何故でしょうか」
「あたしはないけど、カラス君は経験があるでしょ? 闘気を強くする方法は、鍛えるだけじゃない」
外へ出たウィンクを見咎めたようで、母親は作業の手を止めた。
「ウィンク!! 藁置き場で遊ぶんじゃないよ!! 見てるからね!!」
「う、ん!」
そして叫ばれた言葉に、ウィンクが体を固める。まるで、図星、と思ったように。
僕の言葉を待つように、エウリューケが僕を見上げる。
昔は同じどころか僕の方が低かったくらいなのに、今ではやや僕の方が背が高い。……ああ。
「成長期には、勝手に伸びますね」
身長の話ではない。闘気の大きさの話だ。程度の差こそあるだろうが、僕だって成長期の今は、筋力の増加や背の伸びるに従って闘気の密度も上がったと思う。
エウリューケは頷いて、上目遣いをやめた。
「もちろん闘気使いは顕著だけど、それ以外の人も闘気は成長するに従って強くなる。あたしたち治療師は、その年齢や骨格に合わせて法術の魔力も調整してんのよね」
「彼はまだ、闘気が発達段階だと」
「そう」
母親の目から逃げるように、ウィンクが走り出す。その歩幅も小さくて、僕たちはただ歩くだけでもついていけたが。
しかしそれでも今の彼の全力なのだ。今の、まだ小さい彼の。
「さっきの勇者が魔力を使えるようになったこと。それもこの話の根拠だよ。闘気があると、やっぱり魔力は扱えないんだ」
「でも、だったら」
やはり、僕には当てはまらなくなった。ならば何故僕は魔法使いで、……そもそもエウリューケたちはどうして魔力を扱えているのだろう。そう言い募ろうとしたが、エウリューケは首を横に振った。
「今は、多くの人に当てはまる話。カラス君やあたしのような美人じゃなくて」
「後半どうでもいいですね」
思わず口にしたその言葉に、エウリューケが抗議のために僕の胸を拳で叩いた。
「おいでー」
ウィンクが見ていると叫ぶ。その先に友達でもいるのだろうかと思ったが、そうではないらしい。
見ていたのは、畑にいる羽虫を啄んでいた鳥。……鳥だけど。
雀か。
「なに?」
「なんでもないけど-、呼んでみただけ!」
その鳥が、ウィンクの差しだした腕に乗っている。野鳥で、警戒心が強い彼らが。
鳥と遊ぶ子供。微笑ましい光景に見えるが、何か違和感がある。
ご飯の最中だと抗議をする雀に、ごめんと言いつつ手から手と渡らせて遊んでいる。ウィンクのそんな光景が、どことなく変なものに見える。
「……あたしには聞こえないけど、もしかして話、通じてる?」
「…………はい」
そしてエウリューケに言われて気がついた。
ウィンクが、鳥と話している。僕と同じように、普通に。
頭の上に乗られて、頭皮を突かれてくすぐったがるその光景に、僕は驚愕していた。
魔法使い。そう思っていたが、空を飛び、石を食べ、鳥と話す。その多彩な行動に。
「じゃあ、カラス君と一緒だ!」
あはは! とエウリューケは笑う。だが僕の様子を窺うようにして、それから溜息をわずかについて笑みをなくした。
「それなら、せっかくカラス君と気が合うんだろうに申し訳ないけど」
ひたひたと、エウリューケが歩き出す。ウィンクの隣まで。
「ごめんね」
そして手を伸ばすと、ウィンクの肩に触れた。
「我が名エウリューケが命じる 彼の者に活力を《賦活》」
エウリューケが祝詞を唱える。そして込められた法術に、目を凝らしてみなければわからないほどの闘気の光が、ウィンクの体から立ち上った。
そして手を離し、一歩エウリューケは下がってから、また窺うように僕を見た。
僕は、ウィンクをじっと見ていた。彼らに起こるべくして起こる変化から、目を逸らせなかった。
「じゃましないでよね」
「……え?」
雀が言った文句。しかしウィンクはその言葉を聞き取れなかったようで、ただ聞き返す。
そして頭の上に伸ばした手に雀がまた乗ると、顔を見合わせるようにしてウィンクは目の前に下ろした。
「急にどうしたの?」
「??」
今度は雀が悩む。ウィンクの言葉がわからず、ただ体を揺らして疑問符を頭上に浮かべていた。
それから互いに何度か言葉を交わそうとするが、正しい受け答えはどちらも出来ない。
「あっ……」
雀はそれに興味をなくしたように、「じゃあね」とだけ鳴いて、また畑へと向かった。
僕の側まで来たエウリューケは、僕から目を逸らしながら呟く。
「見た? 魔法が使えなくなる瞬間」
「……ええ……」
たしかに、見た。
今まで言葉を交わしていた彼ら。しかしエウリューケが、ウィンクの闘気を強めるとそこでウィンクは鳥と意思疎通が取れなくなった。
……今見ていただけのわずかな時間で、魔法が一つ消えたのだ。
しかしそれは、今エウリューケの法術が効いているだけで……。
「でも、またもう少しすれば、話せるようになるんじゃ」
「もう無理だよ。多分」
ないですか、と口に出す前に、エウリューケは首をまた横に振った。
どうして。
法術が切れれば、魔力は復活する。ならば、また話せるようになってもいいのに。
僕はそんなことを考えながら、畑を見て立ち尽くすウィンクを見る。
戸惑いがほとんどだが、寂しそうな表情も混じる。当然だとも思う。初対面だったのかもしれないが、今まさに、友達を一羽なくしたのだ。
どうして。
僕は説明を求めるのと、抗議をするためにエウリューケに向き直る。
だが視線が合ったエウリューケは、慌てるように目を逸らした。
そして弁解するように、僕の抗議よりも先にやや早口で言葉を紡ぐ。
「……古い記憶は三歳から、って知ってる?」
「記憶? ですか?」
「そう。一番古い記憶。その人が覚えていることの、一番昔のこと。かなり前の調査だけど、聖教会での定説は平均して三歳くらいなんだ」
……聞いたことはある気がする。この世界ではきっとないけれど、どこかで。
でもそれは今関係が……。
「ウィンク君は今三歳。ちょうど、そのくらいの時期だよ」
立ち尽くして、首を傾げていたウィンクが、ててて、と駆けてゆく。しかしエウリューケは追わず、畑の茂みに隠れて視界から消えていくのをただ見送っていた。
「それの何が関係あるんですか?」
一応怒気を出さないように、僕は言葉を重ねる。
怒らないようにはしたい。ただ、残念だ。エウリューケは今、あの子の可能性を一つ消したと言っても過言ではない。
「三歳が一番古い記憶。なら、それ以前は人は覚えていないんだ。覚えていてもまだらで、印象に残ってることだけ」
エウリューケは頭を掻いて、力なく手を落とす。
「さっきも言ったね。いずれ彼の体は、闘気が支配的になる。その時に、魔法を扱っていた記憶が残っているかな?」
「それは……」
「そりゃ、あたしの法術が切れれば、今ならまた鳥と話せるようになるだろうよね。でも、いずれ、ふと同じように使えなくなる。そうなったとき、あの子は『自分は魔法を使えていた』なんて、覚えているかな?」
エウリューケは、僕の反論を防ぐように質問を重ねてくる。その姿は何となくレイトンに似ていた。レイトンとは違う切実な雰囲気があったが。
でも、その質問の答えは、決まっている。
「使っていたんです。覚えていても」
「幼い日のあやふやな記憶。それと、親の言葉。子供はどっちを信じると思う?」
「…………」
おかしくない、とは続けられなかった。
そして、エウリューケの言葉に僕は昨日レイトンと話した『親』の言葉を思い出す。ウィンクの母親も、発していた類いの。
「これからウィンク君は『現実』を知るんだ。親や兄姉たちが、彼を守るために作った現実を。人は空を飛べないし、鳥と話せない。石なんて囓ったらお腹壊しちゃう」
「でも、彼は」
出来るのだ。親や兄姉たちだって、知ることがあるだろう。自分の息子や弟は、そんな力を持っていると。
「カラス君は普通だってさっきあたしゃ言ったけど、そこだけは、きっと君とウィンク君たちは違うんよね」
ようやく、エウリューケが僕を見る。先ほど勇者たちと別れたときのような、真摯な目で。
「じっちゃんからちょろっと聞いたよ。カラス君は、生まれた直後から記憶がある。なら、出来るよ。子供の時から出来ていたことが、そのまま続いているんだもの」
エウリューケが右手を伸ばす。けれどどこかを指し示しているわけではなく、ただ自分の腕を見るためらしい。
視線の先は腕の内側だけど……何が?
「嫌な世界だよ。カラス君は知ってるでしょ? 人と違うものを持っている人に対するその他大勢の反応。嫉妬して、嫌悪して、蹴落とそうとして努力した気になる。それはきっと、身内の中でもあるんだよ」
「…………」
「もし彼の兄姉たちがウィンク君の魔法を知っても、きっと彼らはそれを認めないよ。自分たちが持っていない力、羨ましくて、妬ましくて、どうにかして認めまいとして、そして事実消し去ることに成功するんだ」
寄って集って、と歯ぎしりしながらエウリューケは呟く。
「カラス君がさっき勇者君にやったのと逆。魔法は、使えないと思えば使えないんだから」
そういう人ばかりではない、と僕は反論したかった。
しかし、出来なかった。強い力に対する反応は、ごく少数の友人や、エウリューケたち何かしらの実力者以外は、まともな例が浮かばなかった。
沈黙。それと風の音。
腕を組んで、エウリューケは顎を上げる。その視線の先は、先ほどウィンクが消えていった方向だった。
「以上、今回のあたしの実験はおしまい。闘気と魔力の共存はあった。そして、ありふれたものだったです、結論」
言い切って、ニヒと笑う。いつもの笑顔で。
「カラス君が使える理由は、魔法の記憶が継続している、という点が一つ。それに加えて、闘気を使えるようになった年齢も大きいと思うんだ」
「それも年齢ですか?」
「闘気を扱えるようになったのは、十歳未満。まだ第二成長期前で、魔法が使える真っ最中だった。その闘気を抑える術を以て、魔力をそのまま残せたんだ」
「闘気が扱えるほど強ければ、そこまでにも魔力は使えなくなるはずでは?」
なるほど、僕の力にも理屈があるのはわかる。
けれど、それは納得がいかない。僕は鍛えていたのだ。それこそ、今のウィンクよりも強い闘気を自然に身につけているはずだと思うが。その分魔力が強いとはいえ、比率的には変わらないのではないだろうか。
僕の指摘に、腕を組んだままエウリューケが目を閉じて悩む。
「そこはわかんないけど、まだ小さい体だから、弱い闘気の流れでも感じ取ることが出来たんじゃないかなー? 『扱えるようになる闘気の密度』の閾値自体が低かった? 的な?」
「そんな曖昧な」
呆れるように僕は呟くが、一応内心感心していた。そこまで、理屈はつけていたのか。
僕は口を閉ざす。
大体わかった、と思う。ウィンクの件に関しても、納得は出来ないが理解は出来る気がした。
本当は万人が魔法使いなのだ。そして成長するにつれて闘気の影響が大きくなり、魔法の記憶を失う。そのせいで、魔法使いがほぼいない、という。
僕の理由も、まあ本当にそうかは確証が持てないが、理屈はわかる。
だが、だからこそ最後の疑問が浮かぶ。
今まで聞いてきたエウリューケの仮説理論。そこに当てはまらない人物を、僕は山ほど知っている。
その内の一人は、目の前にいるエウリューケ本人。それは、何故。
「だったら」
「んん?」
「だったら何故、エウリューケさんは魔術師なんでしょうか」
「魔法使いじゃないの、ってこと?」
「いいえ。魔力使いであることの理由です」
エウリューケの言葉に、僕は自分の質問に補足する。
彼女の打ち立てた理論。全ての人間は魔力を持ち、やがては闘気と周囲の影響で魔力を使えなくなる。だから、僕のような例外はあれど、魔力使いと闘気使いは両立しない。
それはわかった。
だが、だったら何故エウリューケは魔力を扱えるのだろう。
エウリューケだけではない。オトフシやテトラ、スヴェンにヴァグネル、後は名前も知らない魔術師たちまで、彼らはどうして成長しても魔力がまだ使えるのだろうか。
まさか、全員が、実は生まれてからの記憶を持つとは言うまい。
僕の言葉に、エウリューケはほくそ笑むように笑う。
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれたな愛弟子よ。もはや跡目を譲ってもいいかもしれん」
「何流でもないでしょうに」
強いて挙げればライノラット流、といったところか。そもそも、何の流派だ。
「それについて、あたしはある大胆な仮説を立てたのだ! ふはははは!」
「……で、どんな?」
元気になったようで、何となく安心した僕。
安堵の息を隠しながらエウリューケの言葉の先を促すと、踊るように魔力で作った花びらを散らしていたエウリューケが、くるんと回って僕の方を見た。
「むっかしから変だなー、変だなーって思ってたんだよね。調和水と混沌湯」
「何がです?」
効果、ではないだろう。それよりも変わった毒ならばいくらでもあるし、何を以て変かもわからないし。
性状も産出場所も、そういうものだし……、あとなんだろう。
「名前さ。名前。変な名前だと思わない? 『混沌』はわかるよ? あたしはそう思わないけど、一般的に駄目なもんだってのは知ってる。毒につくのもまあ納得」
「……では調和水、ですか」
残った方は、それ。……まあたしかに、毒の名前にしては穏やかな名前だ。そう決まったものではないが、毒だったらもっと体に悪そうな名前にするべきだと思う。
「『調和』って普通いいものだし、毒につけるもんじゃないよね」
言いながらエウリューケは袂を探る。
そして取り出した小さな瓶を僕に見せつけるように振ると、中の液体が液体糊程度の粘稠性を持っていた。
「ここに、闘気使いが飲むと間違いなく死ぬ量の毒がある」
「やめ……ましょう?」
止めようとして、僕は止めなくてもいいことに気が付いた。
その液体は、話の流れからして濃縮した調和水だ。僕が飲んでも問題ないし、間違いなく魔力使いのエウリューケが飲んでも心配ない。
そして、エウリューケも飲む気はないらしい。ただ、それを揺らしてから掲げて言った。
「あたしはこれを飲んでも、何にもならない。何故なら闘気を持っていないからだ!」
「……はあ」
「反応薄くない!? 薄くない!?」
先ほどからの話の続きだが、それでも何となくまた既知の情報の気がする。
いや、間違いなく既知の情報だろう。魔力使いはそもそも……そもそも?
違うな。
「……持っていない、んですか?」
闘気を使えないのではなく、持っていない。同じようで、違うニュアンスだった。
「そう、持っていない。万人が持っているとされる闘気を、持っていない。そして、魔力は全員が持っていて……闘気を失活させると、魔法が使えることに昔の誰かは気づいていたとすれば? これは毒ではなくて、身体の調和が取れる水、だとすれば?」
自慢げに言って、そして瓶の栓を抜いて中の調和水を勢いよく飲み込む。結局飲むのか。
三口程度の量だが、飲み込んだエウリューケはプハ、と息を吐き出して栓を閉めた。
「闘気を失った人間のほうが、優れていると昔の人は考えていた、と思わない?」
「手法として確立していた、ということでしょうか」
調和水を飲んで、古代の人間は魔術を使っていた。転じて、調和水を飲まないで魔術を使える人間が尊ばれていた、ということか。
……論理が飛躍しすぎていないだろうか。
「闘気使いと魔力使いの体の使い方が違うことは聖教会でも説としてあった。だからだって、結論づけられてたんだ、あたしたち治療師や魔術師から、闘気の反応がないのは」
「使っていないから、そもそも感知できない……というだけではなく?」
それこそ、先ほどの勇者と逆の現象だ。魔力を使った動作のみをしていたため、闘気を使う機能が一切育っていなかった。そういうことではないだろうか。
「そうだと思われてたんだよね。いやいや実際、そうかもしれないよ?」
そして僕の言葉には反論しない。
じゃあなんだ、いったい。
「そんな『じゃあなんだってんだこの野郎』みたいな顔しなさんな」
「その通りじゃないですか」
取りなすように言うが、まさしくその通りだ。
僕の言葉に反論できずに、そして今までの説で問題ないのであれば、特に新しい仮説を立てる必要もない。
「でもでも、だとしたら、さっきの説ともすんなり接続できるっしょ?」
「まあ、そうですが」
「そして、定説を覆すことが出来る。あたしの大好きなやつよ」
うひひ、とエウリューケは笑う。
その笑みに、関係ないはずのレイトンの言葉がまた蘇る。これがあれか、『信じたいものを信じる』というやつだろうか。
「『万人が闘気を持ち、その内限られた人間が魔力を持つ』という従来の説。そんなものよりも、『万人が魔力を持ち、闘気を持っていない人間もいる』という説、その方が面白そうじゃない?」
「単なるつむじ曲がりな気もしますが」
または、天邪鬼ともいったか。単にみんなが言っていることと違うことを言いたい、というだけの。
「それでも、少なくとも撞着はしていないはずだし。撞着するんなら、まあ取り下げるよ仕方ねーもん。でもそのために、あたしたちは疑い続けて、実験と検証を続けるんだ」
両手を広げて、体を目一杯エウリューケは大きく見せる。
その笑みが、楽しそうなものから挑戦的な笑みに変わった。
「世の中に守るべき常識なんて存在しないし、疑えないよう守られてる常識なんて糞食らえ。いっぺんなんでも疑ってみて、この目で確かめてから自信を持って言いたい。少なくとも」
エウリューケは指を立てる。一つだけ、という風に。
「あたしを含めて治療師は、自分に《賦活》をかけても、闘気が一切活性化されない。それだけは、聖教会も認める真実だ」
「まだ検証中、ということですか」
「そうやねん」
僕は溜息をつく。
彼女ら魔術師が何故魔術を使えるのかは、結局謎のままか。
いや案外、エウリューケの説が正しいのかもしれない。
どうやったら検証できるだろう。本人が使えるか使えないか、という事に左右されない、闘気や魔力の産生能力の有無を検証できる手法が必要だ。
それこそ、身体組織を遺伝子レベルで解析するとかできないと難しい気もするが。遺伝子を見て、闘気使いや魔力使いかなどがわかればの話だが。
エウリューケの説、肯定する材料はいくつかあるが、否定する材料はない。
対して、今までの闘気万人所有説は否定する材料がいくつか出てきたが、肯定する材料も残っている。
どちらが勝つかは、まあわからない。
だがまあ、僕の体の説明も出来てしまった以上、エウリューケの説が正しい、という風に内心傾いているのは、きっと僕の贔屓目だろう。
僕は声を出さずに笑みを作る。
まあいいや。
どちらでもいい。そして、どちらでも僕の人生に影響はない。
なら、信じたいものを信じよう。
「しかしまあ……」
エウリューケが何事かを口にしながら、僕にまた一歩歩み寄る。
一瞬身構えるが、敵意がないようなので最低限魔術には気をつけながら僕は伸ばされた手を避けずにそのまま放っておく。
そして僕の顔をぺちぺちと叩き、次いで肩、胸の辺りを確認するように叩く。何だろうか、いったい。
「怒ってない? 嫌われてない? あたし?」
「それは別に」
そこまで心配するようなことだろうか。先ほど転移前に言っていたこと、ウィンクのことで嫌われるかも、というものだろう。
いつもの軽口じゃなかったのか、あれ。
怒ることはないし、ただ、残念だと思う。少なくとも、ウィンクの魔法が消えつつある。それは、僕にも疑いようのない抗えない真実だ。
しかしむしろ、今まさにされている動作の方がうざったい。
「そっか、へっへっへ」
「…………」
「まあまあ、あたしの魅力の前ではどんな奴も屈しますわいな。へへへ」
「……それはまあどうでもいいですが」
叩く力を強めて、バンバンと僕の肩を両手で叩き始めたエウリューケだったが、僕の言葉に一層力を強めて「ケッ」と呟いて脛を蹴る。相変わらず、今度はつま先を捻ったらしく小さく悲鳴を上げていたが。
とりあえず気は済んだらしい。
そして、話も終わりだろう。
「帰りますか。僕お昼ご飯、まだなんです」
「待った待った! 今なら美少女まじゅちゅしエウリューケちゃんに奢る権利をあげる!!」
踵を返した僕に並ぶように、エウリューケが跳ねるように足を早める。
僕は小声であしらうように返しながら、それを無視して歩を進めた。
昼食後、エウリューケの部屋でまた更にお腹いっぱいのゆで卵を頂いてから僕は王城へと戻っていた。
昼食後と言いつつ、もう夕食時だ。勇者の様子は、と先ほど一応侍女たちに尋ねたが、とりあえずはあの後魔術訓練に参加した後に一人になりたいと部屋に籠もったらしい。
僕も会うことは出来なかった。王城へ戻った直後、治療師に体を確認させたらしいが、結局体調は崩していなかったようなので、大丈夫だとは思うが。
明日一日はエウリューケの実験はいったん休み。
これで僕は明日、完全に自由な最後の休みになるわけだ。
夕食時で、ルルたちもいない部屋。下男と下女が残っていたので挨拶を交わし、僕は割り当てられた部屋へと戻る。
何もない暗い部屋、壁の蝋燭に火を灯せば、ぼんやりと揺れる暗い明かりが手に入る。
漆喰の壁にもたれかかり、僕は一息つく。
エウリューケとの話は疲れた。既存の知識と現在わかったことの確認作業を並行して行い、説明を理解するように頭の中で噛み砕きながら反芻していく。
僕がもう一人いれば、別々に担当させたり出来たのだろうが。しかしそんなことはもちろん出来ずに、ただ精神性の疲労が襲う。
それに、お腹も苦しい。ゆで卵を食べ過ぎた。いくらエウリューケの好みだとはいえ、寸胴一つを卵で一杯にするのはさすがにやり過ぎだと思う。
疲労と満腹でぼんやりしている中。視界の隅に一冊の本が入った。
そういえば、読みかけだった。そしてもう読み終わる頃だった。ルルに借りた『散歩の末に森に迷い込んだ少女』、読み終えてしまおうか。
明かりが蝋燭の火一つの暗い中だが、文字を読むのに僕には不便ではない。
どこまで読んだか、などと考えつつ、僕は本を開く。左手でつまんだ本の左側が薄く、もう物語が終わりかけていることがよくわかった。
物語の終わりは近い。
散歩の途中に森へと迷い込んだ主人公キリカは、時折現れる正体不明の魔物から逃げつつも、森の外を目指す。
共に進むのは、森の中で出会った『王子』。本人はどこかの国の王子と名乗っているが、そもそも自称の上、本人の記憶もないので定かではない。
そして、彼女らは森の中で様々な不思議なものを目にする。
一度蹴ると後をついてくる小石。視界から外す度に大きさが変わる楡の木。四本足なのに斜めにして二本足にしないと揺れ続ける椅子。文字の形をした木の実が生る樹木。
その他様々なものを目にして、時には使って、魔物を撃退しながら進む。
王子と一度はぐれて、キリカは友好的な身長以上に大きい白い蛇と出会うが、結局は白い蛇もキリカを襲ってくる。その白い蛇の体の中からはぐれていたはずの王子が現れて、白い蛇を打ち倒した後、ようやく森の外が見える。
この辺りからか。
それからキリカは急ぎ森を出ようとするが、手を伸ばせば外に出る、というところで王子は立ち止まってしまう。
あと数頁だけれど……。
//////////
立ち止まった王子と明るい森の外を見比べて、キリカは戸惑う。
「ねえ、早く。ようやく森の外へ出られるのよ」
そう、ようやくだ。この森の中は色々と怖いものがあった。冠を被った白い蛇はもちろんのこと、首の伸びる白い魔物も、毛むくじゃらの蜘蛛も、森の外では見たことがない。
彼らからようやく逃げられるのだ。そう安堵していたキリカは、尻込みをしているように見えた王子を見てわずかに苛立った。
森の中、ここまで王子が手を引いていた。
しかし構図が逆転する。キリカは王子の手を懸命に引っ張る。だがその努力は実を結ばず、王子の体は地面に縫い止められたかのようにぴくりとも動かなかった。
何故?
戸惑うキリカに向けて、王子はゆっくりと口を開く。
「思い出したんだ」
「……名前を?」
思い出した、そう聞いてキリカは察する。出会ったときに失われていた彼の名前、それが今思い出されていると。
だが、それがどうしたというのだろう。それよりも早く、この森から出なければ。
オオカミの遠吠えが響く。それは、王子の耳にも届いているはずなのに。
キリカの懇願するような視線。しかし、それでも王子は微動だにしない。
「僕と君は、一緒に暮らしていた」
「……いつのこと?」
早く森の外へ出たい。きっとみんなが待っている。
その『みんな』の正体が思い出せずにいることを、キリカはどうしてだかわからなかった。
王子は顔をわずかに上げる。まるで、何かを訴えるように。
「ずっと前。君は僕の国に現れた。僕は、君を妹みたいに思っていた」
「あたしは、貴方なんて知らないわ」
キリカの言葉。それが刺さったように、王子の胸を痛める。その言葉は、王子にとって辛いものだった。
「知っているんだよ。でも、君は忘れている」
王子は涙が出そうになる。思い出したのに、こんな辛い気持ちになるとは思わなかった。目の前のキリカに怒りが湧きそうになり、それでもその怒りが不当なものだとも思い、噛みしめるように左手を握りしめた。
「当然だもんね、もうそれは、十五年も前のことだから」
「十五年と言われても、あたしはまだ……」
キリカは戸惑う。
十五年前。それは自分がまだ生まれていない頃、と思う。
しかし何故だろうか。左手の薬指に、熱い痛みが走った気がした。
握りしめていた手の力を抜いて、王子は息を吐く。精一杯の笑顔を作ろうと、必死に。
「君は今、いくつになったの? どれくらい大きくなって……どんな大人になったのかな?」
「……あたしはまだ、大人なんかじゃ……」
王子の言葉を否定しようとした自分の声に、キリカは驚く。
女性の声、だが先ほどまでの声とも違い、やや低い。そして、それでもわかった。これは、きっと、自分の声。
これはどういうことだろうか。キリカは戸惑い、助けを求めるように一度森の外を見て、それから王子の顔を見た。
悲しそうで、そしてとても、悔しそうな笑み。
「僕の名前を思い出した。僕はシュナイダー」
「……シュナイダー……?」
「……だから、僕はもうここから進めない。僕はここから出られない」
シュナイダー。それが、王子の名前。
口の中で反復して、キリカはその名前を思い出そうとする。そうだ、たしかに自分はその名前をどこかで聞いたことがある。
いいや、絶対に知っている、と確信した。
その名前を口に出そうとすると、何故だか悲しくもなったが。
王子はキリカの手を振り払う。
待って、とキリカはその手を追おうとした。しかし、キリカの目の前に硝子のような何かが出現し、その手を押し留めた。
わずかに白く煙る壁の向こうで、王子は寂しそうに笑う。
「思い出したんだ。ここは、思い出の森」
王子は振り返る。その木々の向こうで、ざわざわと大勢が動く音がした。
「覚えていない? 君が授業中、行儀悪くて椅子から転げおちたこと」
王子の言葉に、キリカは思い出す。学校で一番後ろの席に座っていたキリカが、椅子を傾けて揺らしながら座っていたところ、バランスを崩してクラス中の注目を浴びたことを。
「覚えていないかもしれない。君が昔、道端で蹴り飛ばした小石」
王子は足下から何かを拾い上げる。そしてその拳大の何の変哲もない石を、キリカに示した。
後ろ、木々の中へ王子が石を放り込む。「きゃー」という、何かを楽しむような声が微かに響く。
その音を確認した後に、王子はキリカに手を伸ばす。硝子の壁に、ひたりと押し当てられた掌は、どこか王子の体に比べて小さく見えた。
「覚えていてほしかった」
王子の頬に、一筋の涙が伝う。それを隠すように、王子は外套を翻してくるりと回った。
「覚えていてほしかった。君が昔、一緒に遊んでいた犬のこと」
「……貴方は……!」
その表情に、その仕草に、ようやくキリカは思い出す。
それは十五年前。キリカが十歳の時に亡くなった、老犬シュナイダー。
王子の後ろに、霧のような何かが立ちこめる。
その霧の中に蠢いている様々なものが何かはキリカにはわからなかったが、それでもそれが懐かしいものだと心底思った。
「ごめんね。僕たちはもう君と一緒に行けないんだ」
王子は笑う。そしてキリカの後方を指し示して、笑みを強めた。
「もう君には、君だけの王子様がいるんだから」
キリカは振り返る。その向こうで、誰かが呼んでいる気がする。
森の外、誰も見えないのに。
「……リカ」
それでも、声だけは。
「じゃあね。これからも元気で」
別れの言葉。それを否定しようと、キリカはまた王子に向き直る。
誰かを思い出した。王子が何だったかを思い出した。
「待って! シュナイダー、まだ、話したいことが……!」
しかしその向こうには、もはや何も見えない。
白と黒の混じった斑点が、不定形に揺れている。
「じゃあね……結婚、おめでとう」
そして最後に、キリカの耳にはそうたしかに声が届いた。
「キリカ。よく寝てたね」
「……おはよう、ユーリ」
目を覚ましたキリカは、目の前で笑っている婚約者を見てあくびを止める。
背もたれ代わりの木の幹から背中を剥がせば、滑らかな樹木が自分の体温で温まっていたことを、隙間に入った涼しい風に感じた。
「私、寝ちゃってたのかしら」
手には花かごを持ったまま、キリカは周囲を見渡す。何をしていたんだっけ、ととぼけるように。もちろん、当人にとっては本気のものだ。
見回せば、そこは村はずれの草原。遠くの森で、ウグイスの鳴き声が響いた。
そうだ。たしか自分は、ここに花を摘みにきた。村のしきたりで、……。
「まったく、君の婚礼の髪飾りなのに。花を摘んでる途中に寝ちゃうとか、まったく、君らしい」
ふと唇の横の涎の跡に気が付いて、キリカは拭きながら恥ずかしくなる。しかしまあ、婚約者相手だ、恥ずかしいところなど、とっくに全て見せている。
「なんか、私良い夢を見ていたみたい。聞いてくれる? ユーリ」
「いいとも。でも、道すがらで良いよね、みんなも待ってる」
「……どういう夢か、忘れちゃったんだけど」
「そりゃいいや! はは!!」
笑い話にもなっていない笑い話。
だが、ユーリは笑う。何故だかわからないが、心底面白くて。
そんな婚約者の姿に、キリカは不思議と、幸せを感じた。
それでも、急がなければ。
午後には婚礼の儀式がある。ここで摘んだ花を使って、花冠を作って被る。それが花嫁の最初の仕事だ。
花冠の作り方には自信がない。また、まずは母に聞かなければ。
そう意気込んで、キリカは急かすユーリの後を追う。
もうここにはいられない。何故だか、そう思った。
ふと、自分の名前が呼ばれた気がして、キリカは振り返る。
キリカの目の前に、一瞬だけ、白昼夢が広がった。
そこに森がある。昔登った木があって、庭で出会った時に泣きながら父を呼んだ蛇がいて、大事に育てた三色菫がある気がして。
しかしそれも一瞬のこと。鳥の声に目を覚ましたかのように、キリカは我に返る。
今日のキリカは世界一幸福な花嫁。
一瞬だけ見えた、懐かしい光景。
けれど目をこらしても、もうそこには何も見えない。ただの野原が広がっていた。
//////////
……。
……僕は本を閉じ、最後に見た物語を反芻する。
ルルの言っていた意味がわかった。
『王子』は森から出られない。王子の正体は、昔飼っていた犬だった。そして、最初から読み直すといいというのは……。
パラパラと頁を捲りながら僕は確認する。
確認したいのは、主人公キリカの描写。そして、なるほど、とも思う。
キリカの描写では、たしかに最初は十代程度の少女だった。化粧もなく、子供っぽい衣装を着て、飛んで歩く子供。けれども進むうちに、どこからか口紅を差した描写が入り、マニキュアが塗られ、子供服から大人服へと描写が変化している。
なるほど、とも思う。
伏線を張るのが下手、とも思ったが、気づかなかっただけでちゃんと張られていた。
ルルが気に入るわけだ、とも思う。割と完成度も高い。
物語を読み終えて、僕の目の前からも草原が消える。
鳥の声は聞こえなくなったし、温かな日差しもない。
だが。
多分今僕の琴線には、違う部分が触れている。
昼に見たウィンク。彼の、寂しそうな顔。多分、そこから。
もう一度溜息をついて、本を閉じて少しだけ考える。
この物語の後。
キリカは幸せになれたのだろうか。結婚をして、祝福をされた後のこと。
世界一幸福、というのは地の文なのだから本当なのだろう。誇張表現でもあると思うが。
でも、彼女は忘れてしまった。
会いに来た犬や、蹴り飛ばした石や、蛇のことを、夢の中に閉じ込めてしまった。
それで幸せになれるのだろうか。
……よく考えてみたら、昔のことを全て忘れてしまった僕が言えることでもないけれど。
…………。
それともう一つ、少し違和感がある。
文章表現のこと、というか、少しだけ詰まったことがある。しかしどれだろうか、わからないけれども……。
僕はまたページをめくり出す。また最初から流すようにして、パラパラと捲りながら。
だが、どこに引っかかったのかわからない。どこだろう。
何か単語か、それとも全体的な流れか。
わからないけれど……。
二周目、最後のページを捲る。
そして、僕は違和感の正体に気が付いた。いや、本当のこれが違和感の正体かわからないけれど。違う気もする。
けれど、これは明らかにおかしい。
おかしいものが描かれている。いや、書かれている。
装丁は多分、写本の時に作り直したものだろう。なので多分表紙に使われている紙の柄などは本ごとに違う。
だが、写本をするときに、正確に書き写しているものがある。
文章だけ、ではなかった。
裏表紙の一枚前、見返しの部分。そこに、おそらくこの世界の誰一人として読めないものが書かれている。
筆者のサインだとでも思ったのだろうか。それはわからないが、崩れつつもそれなりに正確に描き写されているようで、まだ僕ならば読める。その単語に見当がつくから読めるだけだとも思うが。
実際、何も言われずに注目もしていなければ、ただの試し書きとでも思ってしまうかもしれない。
黒い線、も多分元からだろう。
僕は苦笑する。
「……献辞は、最初に書くものだと思いますが」
そこには、勢いのよい筆記体で。
『Dear my two best friends. Ariel』
あの母の趣味は、歌だけではなかったのだろうか。それはわからないが、今度詳しい話を聞いてみてもいいかもしれない。
ともかく、これでルルとこの本の話が出来るようになった。
少しだけ、楽しみだ。