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閑話:自転車旅行の日




 まるで、自分の体が自分のものではないようだ。

 オギノヨウイチはそう述懐する。


 右足を出して、重心をそちらに傾けつつ、上半身を左に捻りながら足を接地し体重を預ける。それが終われば左足を持ち上げつつ、やや股関節と膝を屈曲し、持ち上げて重心よりも前に出しながら今度は逆に股関節と膝を伸ばしていく。

 距離にすればわずかだ。しかし数歩の運動が、常に数学の問題を解かされているかのような難解さでヨウイチにのしかかってきていた。


「ゆっくりで構いません」

 肩を貸しているクロードが気を遣い話しかけてくるが、それもヨウイチは曖昧に頷くしか出来ない。

 完全に平らではない石畳の凹凸が、まるで大きな段差のように障害になる。一度躓いたときには全く受け身を取る体勢にもなれずに、クロードが支えるに任せるしかなかった。

 

 一つ動作をする際にも、必ず思考が前に来る。

 手を出そうと考えなければ手が出せない。足を出し、体重を乗せるために腹筋や背筋などまで総動員しなければいけず、そしてその操作も自らで行わなければならない。


 内心ヨウイチは笑っていた。今の自分の不自由さに。


 歩けていた、とカラスは言っていた。たしかにそうだろう、ここに来るまで自分は歩いていた。

 今も、歩いている。そうだろう、たしかに歩いている。


 そのはずだ。



「……そろそろ、手を離してみましょうか」


 クロードの提案を聞いて、ヨウイチはほんの少し悩んだ。まだ一人で歩く自信はない。つかまり立ちや歩行器を使ってなどの歩行ならばまだ出来そうではあるが、完全に自立歩行をするのは。


 まだ早い。

 まだ、満足には歩けない。

 それに、どうだろうか。見回せば、そこには普通の街がある。商品を広げた商店があり、人が行き交い時には犬まで足下をうろついている。

 それに、地面は不安定だ。完全な真っ平らならばまだしも、この起伏のある石畳を歩くには、まだまだ習熟度が心許ない。

 

 もう少し、とヨウイチは考えた。

「ま……」

 まだ、しばらくは。そう言おうと口を開いた。だが。

「ベルレアン卿、まだ早いのでは?」

「そう見くびるものではないと思いますが? 先ほどと比べても、大分私に頼る力が減ってきている。何より、やらなければ身にはつきません」


 ミルラの問いに、ハッハッハ、と明るくクロードは笑う。

 たしかにそうだ。そうとも思う。祖母にもそういうことは何度も言われてきた。


 ヨウイチが、もう少し、と言う機会を逃した。

 それを読み取らないクロードではなかったが、しかしヨウイチのことを思っての言葉というのも真実だった。

「……お願い……します」

「お気をつけて」

 ヨウイチの言葉と同時に、クロードの腕がするりと脇の下から抜ける。

 まるで、高所に上って作業をしているときに、腰の安全帯を外されたようだ、とヨウイチは思った。彼にそのような経験はなかったが。


 腰を落とし、両腕を何かを抱きかかえるように前に出す。バランスを取るために、とヨウイチが必死に取った姿勢だ。

 それから一歩、震える右足を出し、つま先から踵に重心を移動させて、足全体で着地する。失敗した、と感じた。

 ヨウイチは内心舌打ちをする。失敗をした、そう思っただけで、左足が出なかった。


 よろよろと上半身をぶれさせながら、どうにかして左足を出そうとする。

 しかし、出ない。まるでも何もないが、まるで筋肉に力が入らない。

 

 懸命に、胸を張ろうとする。

 今の重心はどこにあるかと確認すると、左半身に偏っており、左足を踏み込もうとしても前に出ないことがわかった。

 まずは右に体重を預けて……。


 前に出していた手が、バランスを取るために横に開く。

 ヨウイチは何となく、綱渡りをしているかのような気分だった。

 体を捻るようにして無理矢理足を上げて、前に出す。

 徐々にくの字に曲がっていく体。しかしそれを止めようにもどうにも出来ない。


 小さくなっていく歩幅に、歩容が崩れていく。内股になるように狭くなった足の幅は、バランスを取るのに最悪だった。


「…………っわ……」

 足が縺れて転びかける。しかしその肩を支えるようにしてクロードが手を差し伸べ、最悪の事態は避けられた。


 

「……すみません」

「いやいや」

 謝りながらも、ヨウイチの内心は反省が止まらない。

 何が『歩けている』だろうか。こんなもの、歩行のうちには入らない。今まで自分はどうやって歩いてきたのだろうか。ヨウイチにとっても不思議なもので、今のヨウイチは、以前の歩き方を中々思い出せないでいた。

 


「あんちゃん大丈夫か?」


 道端で商店を営んでいる男性が、ヨウイチに声をかけてくる。

 ヨウイチに、応えている余裕はない。しかし、応えなくてはいけないと、今までの人生が告げていた。

 

 声を出すのも億劫で、顔を向けるのも難題だ。それでも、ヨウイチは男性に顔を向けた。

「大丈夫、です」

「少しばかり体調が悪くてな。気にしないでもらって結構だ」

「でもよ……治療院は……?」

「なに、こればかりは治療院でもどうにもならないものだ。気にせんでくれ」

 対応できないヨウイチに代わるように声を上げたクロード。その補足に納得できないように男性は眉を顰めていたが、それでも確信を持って口にされたクロードの言葉に、何も言い返せないでいた。


 もはやヨウイチはそちらを見ることも出来ずに、ただ足を前に出す。

 一歩、また一歩と踏み出された足は、先ほどよりも大分安定してはいた。もちろん、万全とはほど遠いが。

 だが、神経性の疲れにヨウイチが息を吐く。


 元々人間の『慣れ』というものは強力なものだ。

 歩く、走る、跳ぶ、などの移動の動作を多くの者は何も考えずに行っていられるのもその恩恵だろう。

 

 少し分解すれば、その動作の高等さに驚くことが多い。

 足を踏み出すときの重心の移動。床の傾きに合わせて足首や膝の力を調整し、滑らないように体を移動させる。


 静歩行と呼ばれる最も安定した動作さえ難しい。動歩行という重心を移動させ続ける歩行は更に、そして走行、跳躍などといった動作はもはや理解不能といっていい。

 動作を決定するためには、ヨウイチの世界でも大学で修めるような高等数学の数式を用いた演算を、一秒間に数千回以上行わなければいけないほど。それほどに困難を極めている。


 今までは、ヨウイチはそれを『慣れ』でどうにかしてきた。

 当たり前だ。多くの人間は、歩行の際に悩むことなどない。歩いて走れて当然で、跳ぶことなど幼児にも出来ることだ。

 

 しかし、それは慣れているからこそ出来ること。今は、それは出来ない。

 足をどこにどう置くか、腕はどのタイミングでどう振るか、体は傾けたほうがいいのか傾けないほうがいいのか。わからず悩み続け、指一本動かすのにも疲労する。

 歩くなどという重労働は、肉体以上にヨウイチの頭脳に負荷をかけていた。



「そちらで少し休みましょう、勇者様」

 荒い呼吸を繰り返すヨウイチに、ミルラが甘い言葉をかける。その誘惑に逆らえずに、ヨウイチは一歩踏み出す。

 ミルラの示す先には、道端で開かれた労働者向けの食堂の椅子が並んでいた。



 唾を飲むように、その液体を飲み込む。

 食堂だ。さすがになにも食べ物を持たずにそこに座っているのは仁義に欠けた行為だ。そうクロードに諭されて、クロードが購入した木の杯を持って、ヨウイチは息を吐く。

 わずかにとろみのついた液体は茶色か黄色か、その類いの色。そのとろみに一瞬ヨウイチは先ほど飲まされた調和水を思い浮かべたが、匂いと味は全くの別物だった。


 鼻の奥をくすぐる刺激的な匂い。

 悪い匂いというわけではない。生姜が主体の熱い飲み物だ。匂いから生姜湯を想像したヨウイチは、一口含んだときのコンソメのような味を不思議に思いながらも、悪くはないと喉を鳴らした。


「ここまで歩いてきて、どうですか?」

「どう、とは」

 咳き込まないようにゆっくりと生姜湯を飲むヨウイチは、ミルラの曖昧な問いに逆に問う。

 ヨウイチの向かいに座っているミルラは、それも悪い気になった顔もせずに応えた。

「歩くのは、大分お上手になったご様子で。他に変化は、と思いまして」

「他と言われましても、まだ歩くだけで精一杯です」

「辛いのですか? それとも」

「難しい、と思います」


 隣を歩いていた男が持っていた容器から、ココアのような匂いがヨウイチに届く。

 あれも美味しそうだ、と思った。同時に、甘くはない、とも感じたが。


 他のことに気を取られたことを感づかれないように、ヨウイチはミルラを真っ直ぐに見た。

「歩くって、こんなに大変なんですね。カラスさんやエウリューケさんは、いつもこんな風に……」

 体の使い方が違うと聞いた。自覚はなかったが、自分は元は闘気というものを使う種類の体の使い方で、今は魔力を主体にした体の使い方をしているのだと。

 彼らだけではなく、魔術師たちはみなこのような体の使い方をしているのだ。それを考えると、また落ち込むようにヨウイチは息を吐いた。


 悔しい。出来ないことが。


「彼らは大丈夫なのでしょう。生まれたときからそのようになっているのですから」

「それは、そうなんでしょうけど……」

 そうだ。先ほど言われたはずだ。今の自分は、生まれたばかりの子供のようなものだと。

 ならば本当に、今は歩く訓練中で、その動き方は赤ん坊が歩き出したときと変わらない。


 過去の自分にも頭が下がる、とヨウイチは内心自嘲する。

 もちろんヨウイチに記憶はないが、きっと幼い日、歩き始めた当初はこのような具合だったのだろう。きっと無意識にこれを繰り返し、微調整をしながら歩けるようになって、今日に至っているのだ、と。

 今自分は追体験をしているのだ。歩くことを覚え始めた、幼い日の自分の気持ちを。


 握りしめた木の杯が軋む。

 今の自分は大人という年齢ではないが、子供というにも育っている。ならば幼い日よりも多くのことが出来るはずで、出来ていなければおかしいはずだ。

 なのに、歩きだすことが出来ない。幼い日の自分に、出来ていたことが。


 地団駄すら踏めずに、涙が出そうになる。それが生姜湯に落ちないように懸命に堪えて、涙を飲み込むように生姜湯を盛大に呷った。



 

 ヨウイチの、言葉に出さない悔しさ。

 端から見ていたクロードは、それを仕草から感じ取り、そして続けて生姜湯を呷った動作について囃し立てようか悩んだ。


 動けているのだ。杯を手に取り、口元へと運ぶ。そして中の液体を勢いよく口の中に流し込むために顎を上げて、杯を傾ける。ともすると気道に入ってむせてしまう液体を、器用に食道へと流し込んでいる。

 一連の動作は流れるように行われ、全く淀みが見えなかった。

 見事な動作で、ヨウイチはきっとこれを無意識に行っていたのだ、とクロードは推察する。ならば指摘しないべきだろうか。

 指摘して我に返ってしまえば、先ほどのようにまた動けなくなるかもしれない。


 ……しかし、カラスは『さっきは出来ていた』という事実を元に、勇者を歩かせることに成功した。ならば、今出来ていることを教えてやるべきか。


 剣の道に悩む門下生にならば、いくらでも助言できる。

 用兵に関しても、問われれば何とでも答えられるほどの知識がクロードにはある。


 しかしこれはクロードにとっても初めての分野で、指導など出来るかどうかすらわからない。

 故にただ拳を握りしめ、ただ黙って勇者を見ていることしか出来なかった。



 勇者が静かに杯を置く。

 その杯は店先にある水桶に入れて返却しなければいけないが、王女にそんなことをさせるわけにはいかないし、ヨウイチには今できない。

 自分がしなければ、とクロードは一歩踏み出した。


「……ごちそうさまです。行きましょう」

「勇者殿、ご存じか?」

 そして、ただ見ているのもつまらないな、と思い直したクロードは、自らの唇の前でクイと何かを傾ける動作をする。

 それは、ヨウイチの真似というよりも、部下を酒場へと誘うときの動作。

「……?」

「今、随分と器用に飲まれていましたが」

「…………あ」


 杯を手に取り、クロードが笑う。

「これは私が片付けましょう。案外、勇者殿ご自身で出来る日も遠くなさそうですな」

 ハハハと快活に笑うクロード。ヨウイチはその笑みに、励まされているように感じた。




 王城への道は遠い。

 しかしヨウイチは、一歩ずつ歩を進めていく。


 休憩の後には、先ほどよりも更に器用に歩くことが出来るようになったという自覚があった。

 一歩踏み出した後に、重心をズンと移動させていた先ほどとは違い、スムーズに左右の切り替えが出来ている。

 先ほどよりは上手になった。そう考えた。


 だが。


(進まない……)

 

 景色の変化のなさに、ヨウイチはうんざりする思いだった。

 景色が代わり映えしないという意味ではない。ただ単に、距離を進めていないのだ。

 隣を歩いて行く老人がいる。その老人は腰を曲げ、杖をつきながらも、自分を追い越し先へと進んでいった。


「今日はあのねーちゃんいねーの!!?」

「さっき衛兵が連れてくのを見たって奴がいる!!」


 大きな声で話しながら、子供たちが駆けていく。

 それを見て、ヨウイチは羨ましく思った。自分は出来ないのに、出来ている人間がいる。


 先ほど歩いていたときには追い越されるはずもなかった人間に、簡単に追い抜かれている。

 彼らのように走ることが出来たのなら。せめて、歩くことが出来たのなら。


 まるで、自転車のようだとヨウイチは内心笑った。

 昔の思い出だ。近所の友達が自転車に乗って道をすいすいと進んでいくのを、練習中の自分が公園から羨ましく見ていたときのあのときの気持ち。


 自転車に乗れるようになったのはいつのことだっただろう。

 小学生の低学年の時には、乗れていた気がする。多分、小学校二年の時。

 

 立ちこぎが出来るようになったのは、それから遅れて二年後、……だった気がする。

 


 そんなことを考えているヨウイチは、はたと気がついた。


 歩けていた。昔のことを思い出している最中。ほとんど周囲の景色に注意をしていなかった数瞬のことではあったが、それでもきっと。

 普通に歩いていた気がする。ふらつくこともなく、足が震えることもなく。


 だが、そう気づいたときにはまた足が縺れた。

 今度はクロードは支えない。ヨウイチも、それが何となくわかっていた。


「ゆ……ヨウイチ様!!」

 前に手をついて、体を止める。ミルラの言葉を背後に聞きながらも、ヨウイチは地面に鼻しかぶつけていないことに安堵していた。


「お兄ちゃん、大丈夫?」

 その頭の上から、少女の声が響く。その声に、笑みがこぼれた。

 先ほどから随分と心配されてばかりだ。ただ街を移動するだけなのに。


 何とか腕に力を込めて、ヨウイチは起き上がり、目の前の少女を見る。栗色の長い髪で、小学校中学年程度だろうか、と推察した。

「ありがとう。大丈夫」

「ん」

 ヨウイチの無事を確認した少女は頷いて、脇を歩いて消えていった。

 その脇から出てきた手はクロードのもので、それを握ると力強く握り返される。



 そして立ち上がったヨウイチの、視界が歪んだ。



「本当に平気ですか?」

 異変に気が付いたのはクロードだった。ヨウイチの体が揺れる。まるで、風にすら負けるほど脱力しているかのように。

 だが、その気遣いの言葉もヨウイチには届いていなかった。

 

 ヨウイチに起きた異変。それは、起立性低血圧。いわゆる立ちくらみではあるが、それは本来の立ちくらみ以上に現在のヨウイチに深刻なダメージを与えていた。


 視界が歪む。真っ直ぐだったはずの建物が歪み、所々が暗く見える。

「……だい、じょう、ぶ……」

 です、と言う前に、今度は体に痺れが走る。

「勇者様、息を……」

 そしてクロードの言葉に、自分が呼吸をしていなかったことに気が付いた。


 どうすればいい!?


 その瞬間、ヨウイチの脳内をパニックが襲う。

 息を吸って吐く。そんな簡単なこと。そうとも思う。しかしその簡単なことが、今はとても困難に思えた。

 どうやって呼吸をしたらいいだろう。吸う、吸えば良いのだろうか。だが吸って、肺の中に空気を入れようにも、一定以上のところで入らなくなる。

 これ以上吸えない。胸の辺りは緊張し、もう空気は入らない。どうすれば。


 どうすればいい?

 そうだ、吐けばいいのだ。吐けば、吐いて、そうしたら?


 ドスンと前屈みに倒れ込む。

 呼吸の仕方はどうだっただろうか。どの程度吸えば、どの程度吐けば。それがわからず、息苦しさに胸を押さえた。


「限界です、馬車を……」

「……チ様……」

「…………」

「……」


 どこかで、誰かが何かを話している。

 視界が黒くなり、緑へと変わり、桃色から鮮紅色まで、色とりどりに変化を始める。

 ピリピリとした渋い空気が甘くなり、苦くなり、酸味を帯びる。


 情報の洪水。どこかで誰かが話している。耳元で小さく、遠くで大きく。顔を上げ、見上げたはずの人混みは足下地面深くで蠢き、その残像が光の帯を作っていた。

 

 ヨウイチは知らない。それが、魔力を感覚器官として使ったときの、単なる情報の入手に過ぎないと。


 周囲から与えられる膨大な情報を処理しきれず、ヨウイチは呻く。暑くて寒い。

 上下の感覚がない。太陽が眩しく、自分に何かを話しかけてきている。


 やがて自らが何かに揺られる感覚に、どうやら馬車に乗せられたようだ、とヨウイチはどこかで冷静に考えていた。




「……落ち着かれましたか?」


 馬車の椅子に腰掛けて、ぼんやりとただ薄目を開けているように見えるヨウイチに、ミルラが恐る恐ると問いかける。

 だが、ヨウイチの中で、異変は続いていた。

 目の前に座るミルラの顔が、心配そうな顔ではなく、不満げに眉を顰めている顔に見える。

 隣に座ったクロードは反対に、自分を心底心配して、慌てている顔に見えた。

 

 目を横に移せば、窓が不定型に歪み続けている。御簾も壁もあるはずなのに、その向こうが鮮明に見える気がした。

 風の音は音楽、きっと有名な楽団が奏でているのだろう。空の上から誰かがどこかを覗いて。女性、金の髪をした羽のある少女。


 そしてふと見えた噴水の像が、まるで人類の至宝とも呼べるような美しさに見えて、一瞬の邂逅が永遠に近い時間に感じた。


 

「……少し、休んでも?」

「ああ」

 クロードが答える声を聞き、ヨウイチは壁に凭れて目を閉じる。しかし暗闇は訪れず、自らの周囲は常に姿を変えて、美しい色の洪水が自分の体を包んでいると感じた。


 心地良い、とそう思った。

 まるで温かな毛布にくるまった、春の朝のように。温い夏場の縁側で、風鈴を鳴らしながら吹いてきた風が体を撫でていくように。


 これは、魔法の力なのだろうか。

 それとも、毒が見せている幻覚なのだろうか。


 どちらでもいい。

 そう思ったヨウイチは目を閉じたままその感覚に酔いしれ、そして花畑に着いたと思ったその時には、王城の資材搬入出口へと降り立っていた。



「治療師の手配を……」


 ミルラがどこかで何かを言っていた。

 ヨウイチはそれを気にせずに、クロードに支えられ、そして廊下の奥を見る。

 暗い視界の中で、明るい光が見える。それは気のせいだろうか、そうではないのだろうか。それはわからないが、何か神々しいものが、その先にいる。そう思った。


 ゆっくりと足を踏み出せば、足が軽い。

 歩けている、とそう感じて、実際にヨウイチは歩行を完璧に行っていた。


 王城の石畳の隙間を追って、視線を動かしながらヨウイチは歩く。

 歩けている。まるで、初めて自転車に乗ったときのようだ、とヨウイチは述懐した。

 

 そうだ。自転車も、そうだ。

 乗れたり乗れなかったりを繰り返して、そして段々と乗れる頻度が高くなり、やがては乗れるようになった。いつかはわからない、それも当然だろう、とそう考えた。


 絨毯の折り目や天井の隅にある蜘蛛の巣を鑑賞し、感嘆の息を吐きながらヨウイチは歩く。

 知らなかった。この王城が、これほど美しい場所だったとは。


 なんとなく楽しくなり、足が弾む。

 近くなったり遠くなったりと曲がり角への距離が変わり続ける廊下を歩き、足の進む方へと向かう。


 神々しい光。その正体を確かめようと。



 そして、曲がり角を曲がったときに、その光と出会った。




 クロードが聞こえないように舌打ちをする。

 人払いが完全ではなかった、と。誰だと思っていたが、令嬢の一人だとは。


「……オギノ様……?」

 しかしまあ問題にはならないだろう、ともクロードは思う。小さく戸惑うように呟いている令嬢は、あのカラスの縁者だ。問題ない。

 慌てるように廊下の端へと寄りながら、ルル・ザブロックは礼をする。

「ご機嫌麗しく、オギノ様」


「…………」


 ヨウイチは、その仕草に、とても美しく、神聖な何かを感じて立ち尽くした。





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― 新着の感想 ―
もしかしてルル寝取られるん? 主人公ろくに恋愛もしてないのにヒロインが次々退場してくじゃん この作品何を楽しめばいいんだ? 自問自答を続けるもあまり成長しない主人公 実力的にも主人公最強にはなりきれ…
[良い点] わりとお似合いだと思うのです。 育ってめんどくさくなったルルと素直で嘘がつけない赤ちゃん勇者様は。
[一言] ルルは元々平民で後から貴族の作法を1から学んでるから物心ついた後に何かを動作を覚えるということをしてそれをマスターしているから何かいいアドバイスできそう
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