真面目な顔
「まだ魔力圏は出せんか」
エウリューケは興味深げに呟く。
僕が手を離した少し後。ふらふらとやっとの思いで立っていた勇者。
それから心配するようなミルラに支えられながら、エウリューケの方を見た。まだ、バランスを取るのもやっとらしい。膝の力がたまに抜けて、その度にミルラがわずかに吐息を出して力を入れる。
座らせたいが、今は座らせるよりも感覚を掴むために立っていてもらったほうがいいか。
「代わります」
「お願いいたしますわ」
僕が反対側から勇者の腕をとり、首の後ろにかけさせて支えると、するりとミルラは抜け出した。
僕に向けてわずかに会釈してから、勇者は重たそうに口を開く。
「……まりょくけん?」
「うんうん、魔法使いなら体の外に出ている魔力のこと。……カラス君、見せたげて」
「はあ」
断る理由もないが、見せると言ってもどうしよう。
魔力に色はない。魔力使いか闘気使いでないと感じ取ることも出来ないのだが。
いやまあ、色ならつければいいか。
僕は空いている左手を緩く前に出して、体の周囲を覆うように魔力圏を展開する。片手程度でいいだろうか。
昔これもやった気がする。シャボン玉のように虹色に光るように色をつければ、僕の周囲がかすかにどろりと濁った。
「こういうものです。本来色はついていませんが」
「なんか、変な感じ……が……」
「感じ取れてはいるんですね」
ほぼ密着している以上、勇者の体にも当然魔力圏は接触している。僕の魔力はやや弾かれているので、勇者からすれば何かしらの圧力を感じ取っているのだろう。
だが。
僕が体の周囲の色を消すと、勇者はホッと息を吐いた。
「今動けてんなら、体の中は何とか出来てるみたいやけん、けど」
エウリューケは僕の方を向く。それに応えて、僕は首を横に振った。
他人同士の魔力は基本的に干渉しあう。しかし勇者から何かが体外に放射されている様子もなく、何も感じられない。
「魔力波も魔力圏もありませんね。腕は動きますか?」
僕の言葉に、勇者は右手を握る。だがとても緩慢な動きで、卵すら握りつぶせなそうな力のなさだった。
それを確認してから、僕は肩を貸している勇者に笑いかける。
「これで、今の勇者様は魔術師と同じ体の使い方をしている状態です。まずはこれで慣れることですね」
僕は推拿の要領で、そっと勇者の腕表面に闘気を通してみる。しかしやはり勇者の体はまだ調和水の影響下にある。腎臓から毒が粗方排出されるまで、元の体には戻れないだろう。
そして、まだ元の体には戻っていない、なのに動けている。それは朗報だ。
「……これで、勇者様も魔術が扱えるようになるのでしょうか?」
「まだ難しいかな。こっから魔力の投射が出来るようになって、ヴァグネルみたいな聖典原理主義の魔術を使うんなら、その場面を胸に刻み込むまで暗唱して、ってやらなきゃ」
まだまだ道のりは遠い。ミルラに対しそうエウリューケは言うが、僕はホッと胸を撫で下ろした。
遠いが、そう慌てることもないだろう。歩き出したのだ。あとは方向を定めれば、ゆっくりでも一歩ずつ近づいていける。
「ヴァグネルの野郎、またねちねち嫌み言いながらそういうことやらせっから、覚悟しておけよなこの野郎」
「誰に言ってるんですか」
まったくの脈絡なく、後半はここにいない誰かに向けてエウリューケは言っていた。いやもはや、その言葉は王宮魔術師長へと向けた言葉なのだろうが。
「あの方、ライノラット女史からすれば、その……あまり優れた方ではないのですか?」
「面白くねーもん!!」
オブラートに包んだようなミルラの言葉を、ダイレクトな表現でエウリューケは肯定する。
それから、ガルルとどこかを威嚇しながら、両手を胸の前で爪を出すように丸めた。
「口を開けば『そんなの英雄譚に載ってねえ』だの『英雄譚の記述と撞着してる』だのうっせえし。あいつのおかげで何人が研究を取りやめになったと思うんだ? 知りません」
「……は、はあ……」
「あんなのが偉いとこにいる以上魔術ギルドに未来はないね。もう老体だわ。死に至る寸前だわ。王城もやめさせたほうがいいよ。ミルラ様? って王女っしょ? 国を憂う一人の可愛く善良で美しい国民として進言しときますわ」
「……心の隅に置いておきます」
もはや何かコメント出来なくなったのか、ミルラはおとなしくそう結ぶ。これは一応、彼のことを個人的に嫌いなエウリューケの個人的な意見だということをわかっていてくれるといいけれど。多分その辺はわかってくれている、だろう。
「しかし、現在王城へと派遣されているような魔術師なのだ。優秀でなければ務まるまい?」
「優秀? あー、優秀よ、優秀なところもあるよ、もちろん」
クロードが、一応、という雰囲気を崩さずにとりなす。
エウリューケは意外にもそれに素直に頷くと、胸の前でポンと手を叩く。その瞬間、チリチリとした火花のようなものがエウリューケを囲んで出現した。
「あいつの教えてんのはたしかに基礎だもんね。魔力があって使い方もわかるけど探査以外になんも出来ん、って魔術師の卵が何か出来るようになるためにゃ、たしかにたしかに有効じゃろうよ」
「基礎以外には?」
「奴の弟子たちが共にやる合成魔術はそりゃ見事よ。あの弟子たち百人以上でやった地形変更の魔術は、最多人数記録じゃなかったっけか」
「みんな同じ事考えてっからね!」とエウリューケは付け足して火花を消す。一筋の煙を残して消えた火は、硫黄の匂いが混じっていた。
「でも新しい発見は何もない!魔術ってのは本来楽しいもんなのに、あいつにかかっちゃただの古くさいお勉強みたいになっちゃう」
人差し指を勇者に向けて、エウリューケは片目を瞑る。笑みがたしかに楽しそうだ。
「勇者さんも、新しい発見は大事にしなよ。アンタの体が今子供みてえになってんなら、魔術の秘訣は子供みたいに楽しむことじゃよ。子供って、何でも楽しむからな!!」
「……はい……」
消え入るような声で頷いた勇者に満足げに、エウリューケは鼻から息を吐き出して胸を張る。
「ご苦労様でした。報奨は追って届けさせましょう」
「いらんいらん! あたしゃ善行でやってんだ。可愛いエウリューケちゃんは、頑張るみんなの笑顔があれば何だって出来るんだい」
勇者の昼食と、そこから続く午後の魔術修行のために、僕らはエウリューケの住処を出る。
勇者には、まだ僕が肩を貸している。
それでも先ほどの歩き始めた直後よりは上手に足に力が入るようになっているようで、数歩ならば肩を貸さずとも歩けるくらいだ。
出来れば王城に着くまでに歩けるようになってくれるとなおいい。そうしなければ午後の魔術修行は休みになる。……もっとも、今ならば瞑想も更に効果が見込めると思うが。
「あ、でも、愛弟子に今ちょっと用があるんだけど」
「……どなたかいらっしゃるようなので、勇者様、急ぎましょう」
愛弟子とやらがくるらしい。とりあえずこの場にはいないようなので、まあ僕たちは急いで立ち去るべきだろう。
僕はエウリューケに「また」と言いながら、勇者と共に踵を返す。
後ろで何かが動く気配がした。
「延髄!!」
「膝ですね」
エウリューケのかけ声と共に、ゴス、と僕の膝裏に蹴りが入る。いやまあ、全く痛くない上に、感触的に多分蹴った方の足が痛いと思うのだが。
思った通り、振り返ればエウリューケが足首を捻って痛めた足を抱えて、涙目でぴょんぴょんと跳んでいた。
「なんじゃこのくぉー!!」
「全く鍛えていないのに蹴るから……」
僕が呆れるようにそういうと、恨めしそうにエウリューケはこちらを睨む。
いやまあ、半分くらい僕が悪いけれど。愛弟子とか言うから、つい。
「……で、何でしょうか?」
「ってーの、もう……。……勇者様をお城までお届けしたら、また来てよ。内緒話しようぜ」
膝を最大限曲げるようにして、臀部の辺りで足首を押さえながら、片足立ちでエウリューケは言う。
僕もお昼ご飯食べたいんだけど。
……まあいいや。途中で買い食いすれば。
「わかりました」
しかしまあ、今日はとんぼ返りしてばっかりだ。ここと城の往復しかしていない気がする。時間も勿体ないし、今度は道を使わずにくるか。
そう決めた。しかし。
「カラス殿はここで別れても構わんぞ。俺が引き継ぐ」
僕の肩に乗っている腕を、クロードが引き剥がす。いやいや、あのクロードには彼らの警護が……。
「勇者殿も、構わないだろう?」
「すみません、俺なんかに」
「なんというか、歩き出したばかりの子供を見るようなもので、何となく手を貸したくなってしまうからな。これが母性本能ってやつか?」
ははは、とクロードは笑う。まあ、その辺の輩ならクロードが手を出すまでもないし、いいのだろうか。
それで、とミルラが畏まる。クロードが持っている小さな袋の中で、硝子瓶が触れあう高い音がした。
「この薬がなくなれば、こちらにまたお伺いすれば?」
「必要ならねー。カラス君に材料渡しておくから、調合してもらった方が早いけど」
「……一応作り方も教えてくださいね」
僕はエウリューケにそっと呼びかける。
いや、勝手に決めて教えてくれるかどうかもわかってないが。今となってはエウリューケ頼みだ。教えてくれるのであれば、愛弟子呼びも甘受すべきか。
「あたしはしばらく研究のために引きこもったり外へ出たりするので、邪魔をしないでください」
口元に手を添えて、うふふ、と優雅な笑みを浮かべながらエウリューケはミルラに付け加える。言っていることはやはり若干失礼だが。
「中々刺激的で有意義な外出でしたわ」
ごきげんよう、とミルラに先導され、勇者たちはエウリューケの家の前を去っていく。
お気をつけて、と口だけでクロードと勇者に僕は伝える。クロードは軽く握り拳を上げて応えて、そして勇者も去り際に首だけで頭を下げていった。
そういえば。
唇の動きだけで勇者へと言葉を伝えたのは、これが初めてではない。瞑想の部屋に入る勇者に向けて昨日もやった。
その時も、僕の言葉に勇者は頷いていた。
……通じている? 日本語とは、単語も語順も発音も全く違うのに?
勇者に備えられているのは、この世界の言葉の聞き取り能力や発話能力……いわゆる『聴覚』に関係するものだけではないのだろうか。
耳で聞く言葉とは違い、読唇は視覚から読み取るものだ。意味を知っているだけでも通じるのかもしれないが、あそこまで戸惑いなく行えるものだろうか。
これは、やはり……。
後ろ姿を見送りながらそんなことを考えていた僕に向けて、エウリューケが「さて」と呟く。
「入ってよ、カラス君。勇者の体の情報を交えて、検討会だ」
「…………」
そしてエウリューケの方を向いた僕は一瞬体の動きが止まった。何故だろうか、怯えるように。
表情は先ほどまでと同じ。体の使い方も、何もかも。
でも、何かが違う。そんな雰囲気の変化に、僕は何故か唾を飲む。
「……ひょうきんなお姉さん役はやめたんでしょうか」
「あたしも外面くらい作れるからね」
そして僕の何となく発した言葉に同意をしながら、もう一度エウリューケは家の中を指し示した。
「誰もいないんだ。好きなところ座って、話しよ」
先ほど僕たちが出ていったままの室内。一応並べられている椅子は不規則にあちこちを向いていて、どこに座ってもエウリューケの方へと向くことは出来ない。
その内の一つの背もたれに手をかけて、くるりと回してから僕は座る。エウリューケはといえば、先ほど部屋の隅で筆を走らせていた分厚い手帳を弾いて、中を確認していた。
「記録は取れましたか?」
「取れたよ。いっぱい」
僕とエウリューケの間にある小さな机にそれを置く。広げられても、この世界の文字ですらない子供が適当にくるくると筆を回しながら一本の線を引き続けたようなものが描かれているだけだった。
「……意味が僕にはさっぱりですけれど」
「まだ意味はないよ。あたしが、これに意味を持たせるんだ」
机の端にエウリューケが右手を置く。
そして火花が走ったかと思うと、木の机には焼き印が押されていくように焦げ跡が走り始める。その焦げ跡のへこみに左手で何かの液体を流し込むと、傾斜がついていたかのように綺麗にその魔法陣に液体が染みこんでいった。
次に光るのは、その魔法陣の中央に置かれた手帳。
ページがめくれて、一ページ目の端にある書き始めの部分、線が浮かび上がる。
描かれていたインクの線が、まるで紐のように空中にしゅるしゅると繋がって伸び上がっていった。
「検討会って言ったけど、あたしは多分答えを持ってる」
その肘程度の高さまで上がり絡まり始めた紐から目を逸らさず、エウリューケは呟く。
「よく勇者を連れてきてくれたよね。魔力と闘気の共存。この話に関しては、多分これが最後の情報交換会だ」
見ていると、その線が絡まって作り始めたのは、どうやら体の形らしい。
そして気づかなかったが、緑色の光線も同じように、その体に絡んでいった。
「嫌な世界だよ、ってなるけど、聞く?」
「あまり聞きたくないので、やめますか」
僕が冗談でそういうと、エウリューケはわかったようでにやりと笑う。
そして「やめなーい!」と呟くと同時に、部屋の内鍵が閉まった音がした。