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瓶詰めの毒




 煙に巻かれて咳をしながら、衛兵たちがエウリューケの姿を探す。

 さて、どうしよう。そう僕が考えている間に、クロードがふと先ほどエウリューケがいた場所の横にあった建物の屋根の上に視線を向けた。

 空間転移で、彼女はそこに跳んだらしい。


「どこかへ行ってしまわんか?」

「そうですね。とりあえず呼び止めて……」


「ちょっと貴方たち!!」

 きます、と続けようとした僕たちに、ミルラが食ってかかってくる。

 今は相手している時間も勿体ないのだけれど。……いやまあ、気持ちはわかる。

「何事もなかったかのようにするのやめてくださいます!?」

「彼女に関しては、これが平常というか……」

 一応申し訳なさそうな雰囲気を醸すように表情を作りながら、僕は弁解する。

「申し訳ありません。無用な騒動が起きているようです。……しかし、衛兵の世話になるようなことはここではしていないと思いますので、何らかの誤解があるのかと」

「仕方のないことです、ミルラ様」

「何にも仕方なくなんてありませんが!?」


 クロードのよくわからない取りなしに、怒鳴るように困惑しつつミルラが叫ぶ。

 腕を組んで頷くクロードに関しては、何故既に状況を理解したような顔をしているのかもわからないが。


 とりあえずはまあ、彼女を呼び止めるべきだろう。

 また雲隠れされてはどこへいったかわからなくなる。またレイトンに頼るのも少し癪だし、ここまでご足労頂いた勇者に申し訳ない。

「少々お待ちください」

 僕はぺこりと軽く頭を下げて、返事を待たずに横の路地に歩み入る。

 そして左右の壁を軽く蹴りながら建物を駆け上がると、瞬く間に屋根の上に出た。

 わずかに飛びだしたところで、この街を見下ろす位置に上がる。精々が四階建ての建物に、澄んだ空気。建物が屋根以外……いや、屋根すらもほとんどが石で作られているのは、街だからこそだろう。開拓村や森では絶対に見られない光景だ。


 手近な屋根に着地すると、傷んでいたのか踏んだ石が少しだけぐらつく。音も出さないようにしたはずだが、それでも中にいる人は猫でもいるのかと思ったのではないだろうか。二人、多分男性。

 

 そして顔を上げた視線の先では、衛兵たちを見下ろし、屋根の上で蹲ったエウリューケが唇を尖らせていた。




「で、何があったんです?」

「カー君かえ」

 エウリューケのいた屋根に飛び乗ったところで、ようやく彼女は僕に気づいた。そして振り返り、蹲った姿勢のままごろんと後ろ向きに転がった。やや傾斜のあるところなので、ちょっと危ない気もするが。

「いやー、なんかさー、あいつらがさー、こんな可愛いあたしを? 子供に話しかけて物を渡して連れていこうとする? 不審人物扱いしてきてさー」

「その通りのことしてませんでしたか?」

「えー!? あたしが!? いつよー?」

 僕は今朝見た光景の事を思い返しながら口にするが、エウリューケは本気で忘れているように、眉を顰めながら首を傾げた。

「ちぇー、カラス君までそんなこという? この清廉を絵に描いたような美少女に」

 もう一度、ごろんと起き上がり、屋根から前向きに転がり落ちそうになってエウリューケは四つん這いで踏みとどまる。小麦の粉が風に吹かれて舞った。


 それからまた深い溜息をついて、エウリューケは眼下を睨み付けた。

「ああったくよぉ、気に入らんでござるですよ。人さらいの警戒してんだったら、あたしじゃなくて人さらいのほういけよ」

「それは同感ですが」

 尖らせた唇を鳴らし、エウリューケは袂を探る。それを見てから、僕は下界に目を戻した。

 

 衛兵たちは、消えたエウリューケを探し回ろうとしていた。

 しかし、そこに声をかけた影がある。先ほどまで、僕たちから見えない位置で先行していた聖騎士だ。

 どうやら事情を聞いているらしい。聖騎士が紋章を見せたところ、小麦の粉まみれのまま、背筋を正す衛兵の姿がなんとなく不快だった。


「じゃあいいよ! 正反対のあたしだけど! 慣れない不審者の真似事をしてやろうじゃないのこのあたしが!!」

「……?」

 エウリューケが元気よく呟く。視線を向ければ、蝋で栓をされた硝子瓶をエウリューケは構えていた。人差し指と親指で上下を挟まれた瓶、満たされている濃い紫色の液体は、……。


「ここに、人によっては見ただけで胃が焼け爛れる猛毒がある」

「やめましょう」


 海兎の毒か。

 僕は見たことがないが、アウラの海にいるらしい黄色い粘液が固まったような不定形の生物。その生物の雌は、刺激すると紫色の汁を噴き出す。その汁を集めて濃縮したものだ。

 効果が出る出ないは、男女、それに身体年齢で決まる。

 見てはいけないのは、まず妊婦。間違いなく彼らは激しい嘔吐と胃痛を発症し、ほぼ必ず流産に至る。次に、成人間際の男児も流産こそしないものの、同じような症状が出る。

 男性は成人をピークに影響が出る頻度が徐々に下がっていき、四十以降は結構少ない。女性も同様だ。そして男児はままあるが、女児はあまり影響はない。そして最後に、老人はほぼ出ない。

 

 望まない妊娠をした女性を流産させるための薬としては使えるが、グスタフさんは『扱うことはまずない』と言っていた。

 何せ見ただけでまずい毒なので、集めるのが難しいと聞く。いったん海水で希釈した物を煮詰めたりするんだっけ。

 それに人の母乳や葡萄の葉を使った解毒法はいくつかあるけど、完全解毒には雄の海兎が必要になるため、まあ使いづらい。

 

 通常は陶器の器で見えないように保存するらしいけど、それは中が見える硝子瓶。失活すると青色になるらしいが、まだそれは新鮮な紫色。

 それをどうしようというのか。

 いや、それ持っているのを衛兵に見られただけでまずいんじゃ……。


 渋い顔を作りながら止める僕に向けて、「えー」と抗議しながらエウリューケはまた袂を探る。


「じゃあこっちは? 平渦蝿(ひらうずばえ)から抽出した発狂毒!」

「一滴で百人以上死にますね。やめましょう」


 もう一つ取り出した指先の細い瓶は、さすがに体内に入れなければ問題ないが、皮膚に入れば体中が水疱に覆われて死ぬ猛毒。その瓶一つで一万人以上死ぬ可能性があるのではないだろうか。


 その毒を持っているのは平渦蝿という大きめの蝿。

 毒を持っているといっても、一匹の持つ毒ならば人に影響を及ぼすほどではない。毒に弱い子供でも、その蝿を口いっぱいに頬張っても平気なくらいだ。それに、彼らは毒針や毒を飛ばすなどの手段は持っていないので、彼ら自身は無毒といってもいい。

 毒の抽出に手間がかかるし、一匹から得られる毒などたかがしれている。

 だから、毒として使用するにはまず蝿をとにかく多く用意する必要がある。


 ちなみに、平渦蝿を増やすのは簡単だ。銀蝿と同程度の大きさの体を裂けば、死なない限り再生しつつ増える。人面でけらけら笑っている以外は特に抵抗もない。

 ただし、そうしてしまうと別種にでもなってしまうのか、毒も抽出できなくなる。

 今彼女が持っているのは結構な量……作るには蝿で小屋が埋まるくらい分裂前の蝿を集める必要があるくらいだけれど、どうやって手に入れたんだろう……?



「あれも駄目、これも駄目、お前はあれか、あたしの母さんか!」

「違います」

「お母さん! 久しぶり!! 会いたかった!!!」


 抱きついてこようとするエウリューケの頬辺りに手を当て押し留めながら、僕はとりあえずの用件を口にする。

 ついでにエウリューケがポイっと手放した二つの毒瓶を落ちる前に念動力で受け止める。これ割れると結構危なかったんだけど。

「勇者を連れてきました。エウリューケさんはもう街中を歩けないと思いますが、どこで会います?」

「えー?」

 全く力を緩めずに、顔を歪めながらエウリューケは悩む。表情だけには力が入っていないが、体は力が入って震えていた。

 

「大丈夫でしょ、あたし」

「今まさに衛兵に追われているようですが」

「だってあたし、変装してるし!!」

 

 僕が頬を押さえたせいでずれた黒眼鏡を直しながら、エウリューケは言う。

「せっかくカラス君とおそろいだったのに……致し方ない!!」

 そして勢いよく眼鏡を外すと、どうやったのか黒眼鏡が手の先で消えていった。

「子供にもばれていたの忘れてません?」

「構わねーって! 衛兵どももあたしの顔なんか覚えてねえっしょ」

「そうですかね」


 まあその辺は反論しないけど。




 結局エウリューケは僕の諫言を受け入れて、身を隠したまま隠れ家に案内してくれるそうだ。

 僕はそれを伝えるべく、エウリューケを密かに伴い勇者たちのもとへと舞い戻った。


「お待たせしました」

「遅……」

「首尾はどうなった?」

 ミルラの言葉を遮り、クロードが僕へと問いかけてくる。今かなり不遜なことをした気がするが、……ミルラも不満げに口の中で唸りながら唇を引き締める。

 僕はミルラに一応気を遣うよう頭を軽く下げながら、クロードに返す。

「今から彼女の暮らしている部屋に行くことになりました」

「広いから大丈夫よー!」

「場所はわかっているのか?」

「わかりませんが、今から案内してもらいます」

「……?」


 戸惑い黙っていた勇者が、更によくわからない、と首を傾げる。姿の見えないエウリューケには、僕以外誰も気づいていないようだ。

 しかしクロードは僕の言葉に眉を上げると、頷き片目を瞑る。

「姿を隠す必要はない、と伝えてくれ。とりあえず衛兵のほうは何とか出来る」

「……先ほどの」

 聖騎士が衛兵と話していたときの。

「ああ。事情を聞いてみたら、どうやら本当に誤解があったようだな。威圧的な振る舞いをしてしまったかもしれない、と反省していたようだ」

 ハハハ、とクロードは笑う。

 僕は逆に眉を顰めてしまいそうになるのを堪えた。

 反省。誤解。クロードは、本当にそれを信じているのだろうか。僕も細かいことは聞いていないので言いがかりになってしまうが、その衛兵たちは、たとえば僕に向かってもそう言えるのだろうか。


 まあ、いい。

「ということですので、お願いします」

「えー、あたしあんまり目立ちたくないんだけどー」

 僕が呼びかけると、しなを作って言いながら、エウリューケは姿を見せる。勇者とミルラは跳ねるように驚いて身を固めていた。


「は、え!?」

 声を出したのは勇者だけ。何故か、新鮮な反応だ。これが本当は普通なんだろうけれど。

「おはようおやすみこんにちは! あたしエウリューケ!!」

「お、おはようございます……?」

 手を上げて元気に挨拶するエウリューケに、勇者は辿々しく挨拶を返す。圧倒されているようだが、まあそれも多分普通のことだ。

 ミルラは気を取り直すように咳払いをし、わざとらしいくらいの愛想笑いを作る。

「ごきげんよう、ライノラット女史、でよろしかったでしょうか?」

「でへへ、女史なんて、そんなおだてても何にも出ねえよ、でへへ……」


 でれでれとした顔で、エウリューケは頭を掻く。相変わらずおだてれば何か出そうだ。

 そんな彼女の様子に何も突っ込まず、ミルラは社交的な笑みを続けた。

「今日は、勇者様のお力になっていただけるとか」

「そうかもしれんけど、そうでないかもしれないね」

「……失礼ですが、どこかでお会いしたことはありませんこと?」

「…………ほえ?」

 頭上に疑問符を浮かべながら首を傾げるエウリューケを、ミルラは笑いながらそれでも訝しげに見つめる。目を細めて、じ、と見れば、本人の中では確信があったらしい。

「……キュヴィエ伯爵夫人」

「どこかでお会いしたことあったかしら?」

 呼ばれた偽名に、人差し指を咥え、エウリューケがまた首を傾げる。本気で言っていそうな気がする。


 そんなエウリューケから視線を外し、ミルラがこちらを見る。

 今度はにっこりとした笑顔だが、その内心は明らかに違うと僕でも読み取れた。



「エウリューケ殿。そろそろ」

「おう! じゃ、とりあえず行こっか!」


 クロードの呼びかけに、話を打ち切るように、エウリューケは路地の奥を指さす。

「そうかからないから、行きましょう。自己紹介は追々」

「……よろしくお願いします」


 エウリューケの呼びかけに追随するように、僕は見回し頭を下げる。

 勇者は戸惑いながら、そしてミルラは渋々、というのを隠さずに、僕らに続いて歩き出した。




 到着したのは石造りの普通の民家。

 ……と思ったが、やはりそうではない。エウリューケ以外の僕たちは、そこに足を踏み入れた瞬間にそれぞれ感心や畏れの息を吐いた。

 借りているのかエウリューケの私物かはわからない。平屋の部屋がいくつかある一般的な家屋。寝室は奥らしいが、入ってすぐのリビングが既に僕たちの想像する『民家』とは違う。

 壁に備えられた棚には硝子瓶が立ち並び、中はそれぞれ色の違う液体で満たされており、ときどき液体の中に何か肉片のような物が浮いている。

 椅子がいくつか備えられていたのかもしれないが、そこは何かを拭いたように染まっている布の山で埋まり、単なる物置になっていた。

 

 以前、マリーヤの治療の時見たことがあるエウリューケの実験室。その小型版、ともいっていい部屋が、既に王都に作られていた。


「適当なところ座っていいですよ」

「はあ」


 もはや外面を取り繕うこともしなくなったミルラが生返事で返すのを無視しながら、エウリューケは椅子の上のものを雑にどかしていく。

 先ほど道中で自己紹介はしあっているはずなのに、一国の王女相手にも畏れを知らない動作だ。


「並んでいるこの薬品? はいったい?」

「下手に触んじゃないっすよ。この辺一帯がぶっとぶものもありますからな」

 興味深げに棚から硝子瓶をとろうとしていたクロードには、一応エウリューケは牽制する。僕も色からだけでは何が入っているかさっぱりだが、彼女ならばそういうものも保管しているだろうと思う。

「液状の火薬ということか? そんなものが?」

「火薬じゃないんだけど……、物を溶かしたり、もしくは腐らせないようにしたりする薬」

 エウリューケの答えに、ほお、とクロードは感心する。

 ニトログリセリンを合成でもしているのかと思ったが……いや、ないとも限らないか。


「カラス君も、ほら」

「僕は立ってますので、勇者様どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 空いた椅子を示されたので、僕はそれを勇者に譲る。そして僕以外が着席したのを確認し、エウリューケは棚から一つ硝子瓶をとり、手近なビーカーのようなものに注いだ。

 サイドテーブルが二つある。ビーカーは一応四つ。一応全員に近いように等分にエウリューケはその液体を配布した。


「粗茶です!」

「先ほどからなんなんです!? この方!?」


 そしてとうとう耐えきれなくなったのか、ミルラが僕へと抗議の声を上げる。

 ……なんだろう。緊張からかほとんど声を出していない勇者はもとより、今朝の子供やクロードとはいくらか会話できていたのに、この二人は会話出来ていない気がする。

 なんというか、ミルラに関しては、エウリューケは適当にあしらっているような気さえした。


 そして、エウリューケはミルラを無視して勇者の真正面に座り、「さて」と一言呟いた。




「……ヨウイチ・オギノ君。カラス君から、あたしのことはどう聞いているんだって?」

 呼びかけられた勇者は、肩を一度震わせてからおずおずと口を開く。

「ええと、優秀な魔術師だって。俺に……俺が、魔術を使う方法を、きっと何か知っていると」

「うんうん」

 エウリューケは勇者の言葉に頷きながら、もう一つ用意したお茶を啜った。

「そう。あたしは、勇者君が魔術を使えるようになる方策を一つ知っているかもしれない」

「それは、いったい……」

「でもそれは、ただじゃ教えられない」


 椅子を滑らせ、ずい、とエウリューケが前に出る。先ほどまでふざけていた態度とは全く違う雰囲気に変わった彼女に、ミルラが息を飲んでいた。


「正直に言いますと、あたしはね、勇者様の体に興味があるんだ」

「興味?」

「体の構造、組成、あの召喚陣から生まれ出た勇者様が、どういうふうに形作られているか」

 エウリューケが手を伸ばす。もはや勇者の体に手が届く距離に。

「俺の体って、そんなに変わっているんですか?」

「むしろ変わっていないと思っているのかい? 勇者……先代勇者の伝記にもあったけど、元の世界にいたときとは、身体能力も変化しているはずだ」

「…………!」

 勇者が不安げにこちらを見る。その視線にどう応えていいかわからないが、僕はとりあえず頷いてエウリューケのほうへと視線を向けた。

 そしてまた、勇者も彼女へと視線を戻す。


「それを調べたい。調べればきっと何かわかると思うし、君が魔術を使えるようになる方策も見つかるかもしれない。いいよね?」

「……はい」

「よしよし。じゃ、脱ごうか」

「はい……え?」

「え? じゃねーし。ほら、前開けててー」

 

 エウリューケの指示に、戸惑いつつ勇者は服のボタンに手をかける。そして見えた筋肉質の肌には、脂肪のほとんどない筋肉の線が綺麗に浮かんでいた。

 背中の筋肉を見れば、鍛錬の跡が見える。やはり剣術を学んでいるという言葉の通り、広背筋から二の腕にかけてが最も発達していて、僕とは違う体つき、というのがよくわかる。


 その体をぺたぺたと触り「腕を上げて」や「体を反らして」などという指示を出しながらエウリューケは悩むように確かめていく。

 そのたびに袖から覗く右腕の刺青がざわざわと動き続ける。そして部屋の隅で、ペンが動くカリカリという音が響き続けていた。

 魔力による探査。それも、魔術を併用した。


 クロードはそのペンの動きに一瞬警戒をしたようだが、僕を見て、その緊張した肩を解した。

 エウリューケは、勇者の顎に手をかける。

「はい口開けてー」

「…………」

「あー、って言ってみ。いや、えーのほうがいいかな」

「えー……」

 その他は、とばかりにエウリューケは勇者の下瞼を両手の指で下げて頷いた。

「寝不足かね」

「ええ、あ、はい」

「じゃあ、こんなもんかな。最後に後ろ向いて」

 返事を返しながらまたエウリューケに背を向けた勇者の背中に、エウリューケは手を当てる。

 少し探るように動かし、ここだ、というところが決まったらしい。両手の人差し指を重ねて、ひたりと動きを止めた。

「ちょっと痛いかも」

「え? ……えぁ!?」


 勇者の最後の言葉には、濁点がついていた気がする。単なる指圧のようだが、本当に痛いらしく、顔を顰めて体をよじっていた。


 抗議をするようにミルラが一瞬腰を上げるが、それよりも早くエウリューケは勇者の腕を手に取った。

「じゃあ右腕上げてみ?」

「お、あれ?」


 エウリューケの言葉に勇者が従い、その顔を驚愕に歪める。

 僕も少し驚いている。先ほどの……もう言ってしまうか、先ほどの診察風景で腕を上げたときよりも、可動域が広がっていた。

「投げられたりした? 背中の筋がちょっと痛んでて、背骨がちょっとだけ引きつってたから位置を直しておいたよ。以上、終わり!」

「あ、ありがとうございます」

 笑みを浮かべたエウリューケに、勇者は頭を下げる。

 終わったらしい。いや、あのでも、そういうのを期待していたんじゃなくて……。


 僕が何かを口出しするよりも先に、エウリューケが「次の方ー」とクロードに呼びかける。

 勇者が服を着ながら退くと、そこにクロードは座って頭を下げた。


「今日はどうしたの?」

 エウリューケの問いかけに、クロードはハハハと笑う。

「右の腿と脛を痛めてましてな」

「ほう。……神経が潰れとりますな。こりゃ闘気でもなかなか治らんでしょ。蹴られた?」

 エウリューケも、前屈みになり笑いながら応えた。



「そうじゃなくてですね!!」


 コントのように始まったそれに、ようやくミルラが立ち上がり声を上げる。

 クロードも驚いたように固まって、エウリューケは笑みを浮かべてその手を上げた。


「ベルレアン卿! 貴方の治療をしに来たわけではないのでしょう?」

「そうなのですが、つい」

 後頭部を掻きつつ、クロードが笑う。この前『政治的に上手く立ち回れない』と言っていたが、そもそもそういうことが出来ないんじゃないだろうかこの男。エウリューケと同じく。

「ライノラット女史! 勇者様の体を調べるということは必要性を認めて寛恕しますが、些か狂乱が過ぎるのではないでしょうか!?」

「へっへっへ」

「元々治療師だった、というのはその男から聞いています! しかしそれは、今、必要な……」

「余裕がない喃、若いの」

 笑いながら、エウリューケは袂を探る。それからまた小さな瓶を取り出した。六角形の濁り硝子。

「…………っ!」

 発言を止められて憤懣やるかたない、という風のミルラを背にして、エウリューケは棚へと歩み寄る。

 それから、「使えるかなー」などという暢気な言葉を吐きながら、瓶の底を確かめて回っていた。


 そして目当ての物を見つけたらしい。一升瓶ほどのものを一つ手に取ると、コルク栓を抜く。プシュッという音が響いた。


「本当はカラス君の専門だからね。カラス君が調合したほうがいいと思うんだけど」

「…………それは?」

 僕の専門。ということは、多分調合というのは生薬の調合なのだけれど。何を作るというのだろう。

「炭酸水。さっき果実酸と重曹を使って作ってみたの」

 それからエウリューケは、台の上に空の瓶を四つ並べる。……一応綺麗なものらしいが。


 そして先ほど袂から取り出した六角形の瓶を揺らすと、中のとろりとした液体を空の瓶に少しずつ注いでいった。

 

「勇者君の体、今必要だと思う分は記録が終わったよ。後で精査しなくちゃいけないし、足りない分もあるかもしれないけど」

 他にも棚から薬包をいくつか選び取り、机の上に広げていく。様々な粉末を、これはひとつまみ、これはふたつまみ、と適当にまた瓶の中に放り込んで揺すっていった。

「それに加えてあたしが知りたかったのはね、『これ』が効果あるかなんだ」

「……これ?」

 長い息を吐いて、やや落ち着きを取り戻したらしいミルラが尋ねる。もはや作法など気にもしていないらしい。


 入れているのは、匂いからして肉桂に、牛至。西門肺草……これは毒草か。あと、匂いだとわからないのが二つ。乾燥させて砕かれた、黒く特徴のない葉っぱ。それに瓶詰めの何かの上澄み液。舐めてみればそれが何だかわかりそうだが。


 全ての瓶を揺すり、攪拌して混ざったことを確認したエウリューケは、そこに炭酸水を注いでいく。シュワシュワと泡が弾ける音がした。

「あたしもね、ヴァグネルの野郎の勧める瞑想が、やっぱり一番たしかな方法だと思う」

 その音が収まったことを確認したあと、穴の空いたコルク栓を締めて、穴を丸めた紙で塞ぐ。横にしたら危なそうだ。


「でも」


 その瓶を一つ手にとって、エウリューケは勇者に差しだした。


「飲んで」


 動かしたときに香った、香草とは違う甘い匂い。僕はその匂いをどこかで嗅いだことがある。

 そして、感じた懐かしさ。その懐かしさに、それを飲んでいた人物に思い至った。

 何故か硝子の瓶が、竹の水筒に見える。



「……これを飲めば、どうなるんでしょう?」

「魔術が使えるかはわからないけど、魔力を扱う手助けになると思うんだよ、これ」


 勇者が瓶を手に取る。

 そして栓を抜くと、その栓を握りしめた。


「じゃあ」

「でも、それは毒だよ。原液をそこにいるクロード君が飲めば、間違いなく死ぬ毒。希釈してあるとはいえ、体にいいわけがない毒」

 

 言いながら、中身は察した? とエウリューケが無感情の笑みで僕を見る。

 僕は唾を飲む。やめましょう、と今回僕は口に出せなかった。その毒水を飲み続けていた人を一人知っている。



「あたしが調合に失敗してても死んじゃうかもしれないね。それでも、飲む?」



「…………」

 勇者が僕を見る。唖然としているミルラの顔が、その向こうに見えた。

「勇者様、おやめください……!」

「あたしはこれ以上勧めない。あとは自分で決めてね」


 止めるミルラの言葉を遮るよう、エウリューケは重ねる。

「君たちには関係のないことだけど、あたしは今機嫌がいいんだ。脳髄の汁が沸騰してる。さっきようやく一つの答えに辿り着いて、そして勇者様、貴方の体の情報から、真実がきっと確認できる」

 エウリューケの体や表情から、先ほどまでの悪ふざけの影が消えていく。

 僕も見たことがない顔。


「魔力使いは本来、幼いときから成長するに従い自分の魔力の使い方を学んでいく。それを今まで使ってこなかったオギノヨウイチさんが、そんなに簡単に使えるようになるわけがない」

「…………」

 僕を見ていた勇者が、手の中の硝子瓶に目を落とす。一声かけるべきだろうか、多分勇者様はそれを飲んでも死ぬことはない、と。


「何かを手に入れたいのなら、代わりの何かを賭けなくちゃ。今までの時間を全部、今の命と引き替えにして」


 エウリューケは多分、脅かしているだけだ。これもいつもの悪ふざけと同じかどうかはわからないが。

 しかしそれでも、機嫌がいいと言いながらも、何となく不機嫌になっている。そうも感じる。

 ……何故?



 勇者が瓶を握る手に力を込める。そして決意が固まったかのように頷く。

「やめてください!!」

 その手を阻もうと、ミルラが一歩踏み出す。だがそのミルラよりも先に、隣に立ったクロードが勇者の手首を上から押さえた。


「そこまでにしてもらおう。エウリューケ・ライノラット殿」

「何を?」

「毒と聞き、死ぬかもしれぬと言われた薬。尊い御身に飲ませられるものではない」

「それは貴方が決めること?」


 またしても人格が変わったかのように、感情の見えない笑みで、直立したままエウリューケは首を傾げる。まるで吊られた等身大の人形のような動きで。

「毒を飲み苦しみながら何かを求めるのも、毒を遠ざけ安楽をとるのも、自分で決めることだよ。誰にも邪魔は出来ない、その人だけの」


 エウリューケの表情から、何故かここにいない誰かを想像しているように感じられる。

 その誰かは、きっと僕も見知っている人物だ。


「勇者君が飲まないならば、あたしは無理強いしない。魔術を使いたきゃ、瞑想頑張ってね、って繰り返すだけだよ。勇者君は体を調べさせた、あたしは薬を渡した、これでおしまい」

 もう手には何も持っていないことを示すように、エウリューケが両手を揺するように振る。

「俺は……」

 勇者は何かを言いかけて、また顔を上げる。そして僕を見て、口を開きかけて閉じ、絞り出すように声を出した。

「カラスさんは、……いや、違うな」

 僕の名前を出しかけて、その言葉を飲み込む。小さく首を振ってエウリューケの方を向けば、少しだけ口角が上がって見えた。

「薄めてあるんですよね? 死なない程度に」

「うん」

「じゃあ…………離してください、クロードさん」


 今度は確信を持って、勇者はクロードにそう呼びかける。それでもクロードは微動だにせず、勇者の手を握ったままだったが。

「死なないし、俺の役に立つかもしれない。邪魔はしないでください」

「……たしかにそうかもしれないが、万が一がある」

「それでも」


 空いていた左手で、勇者がクロードの腕を掴み返す。そして力を込めると……クロードの腕が、動いた。


「この瓶の中に、魔法の力が入ってる。飲み干せば手に入るかもしれない。インターハイに出られなかった俺が、次に見つけたやりたいことなんです」


 やりたいこと、という言葉の語気を強め、勇者は唾を飲む。

 そして勢いよく硝子瓶を口につける。




 牛乳瓶よりも小さなそれを、一息に飲み干した勇者。

「勇者……様……?」

 ふう、と一息ついた勇者に、ミルラが恐る恐ると問いかける。

「お体は……」

「……案外、大丈夫そうで……っ」


 笑みを作り、ミルラへと返そうとした勇者。しかし、やはりその液体、甘露は勇者にとっても毒となるらしい。


 瓶がずるりと手から落ちて、床に当たって砕け散る。

 そしてそれよりも少し遅れて、とさりと音を立てて、勇者は俯せに倒れ伏した。




味はシナモン風味の甘味が薄いクラフトコーラ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 炭酸キツめだったら、ケフッって倒れながらしちゃう~(/// ^///)
[気になる点] 長く一緒に居ると日本語的な言い回しとかを ポロリとしないか心配です
[一言] エウリューケたんのノリにまんまと乗ってしまうクロード氏のノリの良さが好き
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