自覚のない
朝方、まだ街も目を覚ましていない頃。
行き交う人は昼よりも大分少なく、そして果物や野菜などの運搬がいつもよりとても多い。
川魚らしき魚を積んだ荷車もある。まだ魚臭いというわけではないが、氷などの手当がしてある荷車としてない荷車とでまちまちだ。多分これから日が高くなれば、そういう匂いもしてくるのだろう。
しかし主にあるのは、人間の臭いというよりも、野菜や果物の匂い。草花に似た匂いがまだ街の中にも強く残り、まだ僕にも過ごしやすそうな環境に思えた。
鍛冶師などの炉の火入れはもう始まっているのだろう。他にも何かを燃やしているのか、空を見れば、高く煙が上っているところはある。
時たま香る松炭の焼ける匂い。風に乗ってどこからか流れてきたのだろうが、この金物通りではいつものことなのだろう。
エウリューケと勇者の会見、その勇者側の了承を昨日得た僕は、朝食の前にエウリューケの露店を訪れていた。
勇者には、昼過ぎからはまた魔術師長からの稽古というか授業がある。なのでいずれの日にしろ昼前にしてほしいという事情があり、早ければ今日、という追加の要望もあった。
一応先触れが必要だろうし、そもそもエウリューケの方の都合を聞かなければならないということもあり、僕はここにきたわけだが……しかし。
「……いない」
エウリューケの露店跡、わずかに香辛料などの粉が散らかった空き地を見て僕は呟く。
彼女がいないというだけではなく、あれからまた店を開いた形跡がない。昨日からまたここに帰ってきてはいないらしい。敷物も失せ、商品はない。
いやまあ露店だし、店主がいないときには商品自体置かないのが当然なのだけれど。
あのままウィンクのところにいるのだろうか。それとも夜には寝床に帰っているのだろうか。
どうしようか。
今日か明日中でなければ、僕はまたルルの警護に戻るしここに来られるかわからなくなる。勇者を紹介するとしても、僕がいなければさすがにいけないだろう。『この場所にいるから一人で行って』でも僕としては構わなくもあるが、多分本当は失礼な話だ。
風に吹かれて香辛料の粉が散る。昨日はそんなに風がなかったのか、少しの風でエウリューケの残していった乾燥生姜の匂いが鼻をついた。
……いやまあ、誰も気にしない程度の微かな量なのだが。
ウィンクの家……辺りにいるだろうか。いればいいし、いなければ伝言でもどこかに残して……。
そんな風に考えていた僕の横に、並ぶように誰かが立つ。
別に気づかなかったわけではないが、気にしていなかった僕はふとその人物を見た。
「えー、あー」
何かを意味するわけではないだろうが、何か呟きながら女の子が立ち尽くす。
年の頃は五歳か六歳くらい? 白く簡素な服を着た幼児と少女の中間くらいの子供が、エウリューケのいない空き地を見ながら呆然としていた。
整えられていない褐色の髪。言い方は悪いが野生児のように適当に切られた耳より長いくらいの短めの髪が、風に揺れる。
そして、次の瞬間、クシュンと鼻水まじりのくしゃみの音が響いた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
僕が差しだした水筒から垂れる水で手を洗い、少女が礼を言う。何せ、素手で鼻をかんでから服でその手を拭こうとしていたのだ。それくらいはしてもいいだろう……さすがに、通りすがりというだけではしない親切だが。
垂れている水は、魔力でまさしく水増ししてある。鼻水混じりの水は地面に落ちた端から本物の水を残して蒸発するように姿を消し、石畳はほとんど濡れていない。
そんなことを全く気にしないようで、少女は水を払うように手を振る。もちろんそれも地面と同じようにすぐに乾いてしまっていた。
無表情に手を擦り合わせて乾かす動作を続けながら、少女は口を開く。
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんにご用事?」
「お姉ちゃんというのがここにいた露天商ならそうですね」
僕たちの視線は揃ってエウリューケの露店跡に向いていた。お兄ちゃんも、ということは彼女もエウリューケに用事だろう。
いや実は、彼女がくしゃみした辺りでそれはわかっていた。
その褐色の髪の毛。その右側の髪の毛を持ち上げて耳を出している髪留めが、エウリューケの配っていたものだったからだ。
しかもそこについた宝石、その色は青く染まっており、僕をわずかに驚愕させていた。
「んー」と呟きながら手持ち無沙汰に露店跡を見つめる少女を、僕は横目でちらりと見る。
誰かが染めたのでなければ、その宝石の色は魔力を持つ者の証。
たしかエウリューケは、『くじのようなもの』としてその髪留めを配っていた。ならばその賞品か賞金かを受け取りにきたのだろう、と僕は予想する。まあただ単に商品を買いにお遣いに来ただけなのかもしれないが。
しかし、帰らないのだろうか。
「残念でしたね、彼女がどこへ行ったのかは知りませんが」
僕は励ますように声をかける。しかし少女は静かに首を横に振った。
「んーん。お姉ちゃん、いつもこのくらいの時間にここにくるから」
「そうなんですか?」
「うん」
少しばかり無気力に応える少女。その横顔に、どこかで見たことがあるなぁ、などという感想をぼんやりと浮かべながら、僕もそこで静かにエウリューケを待った。
背後では威勢良く荷車を運ぶ人夫たちのかけ声が響く。
「朝だ」「ご飯」と鳴いて頭上を飛んでいく鳥たちの声が、遠くへ消えていく。
そして少女に何か話しかけようかと悩み始めていた僕の耳に、人夫たちとは少し違うドタバタとした足音が届いた。
近づいてくる。角を曲がり、通りを抜けて、そして僕たちのいるところめがけて飛んでくるように。
そしてその影は僕たちの前に滑り込むと、そこで躓いたようで一度地面に転がり、立ち上がって叫んだ。
「今日も朝から目覚めましてこんにちは! エウリューケちゃんの朝は早い!!」
「お姉ちゃんおはよう」
「おはようございます」
揃って僕たちが彼女に声をかけると、まるで今気が付いたかのようにエウリューケは首を傾げて僕たちを見た。
そして一瞬静止したと思うと、黒眼鏡のずれを直しながら驚いたように叫ぶ。
「どっひぇえ!? カラス君いつの間に子供なんて作ったの? いつ産んだ!? あたしの知らないところで!!?? 誰? どの男がカラス君を射止めたん!?」
腕をぶんぶんと振り、声を上げる度に、細かく編まれた青い髪の毛がぴょこぴょこと跳ねる。
興奮するエウリューケ。
僕はその姿に憮然とする。
とりあえず。
「……僕、子供産めませんし」
「そりゃそっか!!」
とりあえず大きな間違いを一つ訂正したが、何か違う、と手を叩いたエウリューケを見ながら思った。
「はあぁ、……。あたしゃてっきりカラス君が我が子の紹介にでも来たのかと」
「するわけないでしょう」
まず敷物を敷いてから、また商品を運び込んできてエウリューケは並べる。そうしながら説明したところ、一応僕の子供ではないと納得してくれたらしい。
一切脈絡のない話題だ。今までに僕がそんな素振りを見せたことがあっただろうか。
というか、六歳程度の子供がいるとすると、僕は何歳の時に子供を作らなければいけないと思うのだろうか。
僕の静かな文句にフンフンと頷いてから、エウリューケは少女の方へと顔を向ける。
「で? 色、変わったん?」
「うん」
エウリューケの問いかけに、少女が自らの頭から髪留めを外してエウリューケに手渡す。それを受け取り、しげしげと見つめてからエウリューケは花が咲いたような笑顔を見せた。
「おめでとう、心の底からおめでとう!」
それから体の周囲から桜のような花びらをまき散らしながら、髪飾りの代わりに一輪の白百合を差しだす。
おずおずと受け取った少女は、やはり表情を変えずに「ええと」と呟いた。
「さて、何が欲しいのかい? 銀貨一枚もしくは願いを口にしたまえ!お願いの場合は、銀貨一枚相当までな」
少女の名前はクリン。そうエウリューケに自己紹介していた。
第一印象としては、笑わない子だ。それも、笑み以外も表情が少ない。普通に会話も出来るし、機嫌が悪いわけでもなさそうだが、それでも何となくこちらが不安になるくらいに。
エウリューケに問いかけられても、それは崩れない。
しかし、彼女が持った白百合がスゥと消えると同時に、エウリューケの表情の方はすぐに崩れた。
何かに気が付いたかのようにエウリューケが手を伸ばす。
笑みに混ざった真剣な表情に、僕はどきりとする。
白百合を持っていた手を包み込むように持ち、戸惑うクリンを無視したままじっと見つめてその手を止める。
そして次の瞬間、「ふ、二人目やんけ……」と口の中で呟いた。
「……お姉ちゃん?」
手を握ったまま固まったエウリューケに、クリンは首を傾げる。その動きにつられるように斜めに倒れつつあった体を、エウリューケは自ら引きずり起こし、改めてその手を握った。
「クリンちゃんでしたっけ!? ちょっといいかな? 甘いお菓子をあげるから、ちょっとこっち来てくれない?」
「え?」
笑みを浮かべたエウリューケが片手でクリンの手を取ったまま肩を抱く。
「え、えへえへへへへ、お、お姉ちゃん可愛い子が好きでな、ききき綺麗なお姉ちゃんと一緒にちょっと遊ぼうじゃないか、ちょっときみの体で遊ばせてくれよいいよね、いいよ」
「きゃ!?」
今度はそのまま抱き寄せるようにクリンの体を自分の方へ引き寄せると、その右腕の袖から見える入れ墨が、一瞬ザワリと動いた。
まずい。
「待った」
「うぐぇっ……」
エウリューケの髪の毛を引っ張って、首を反らすようにして動きを止める。鈍い音が聞こえた気もするが、まあ大丈夫だろう。
エウリューケはさすがにクリンから手を離して蹲った。そして涙目で髪の毛を直しながら、僕に向けて食らいつくようにしながら文句の言葉を叫ぶ。
「なにさらすんじゃこのぼけかす!!」
「まるっきり人さらいか変質者じゃないですか」
「私たちは真剣に愛し合ってるんですぅ!! これから天空に魔王城作って二人で密やかに暮らすんですぅ!!」
「はいはい」
何の話かわからない、というように僕たちの間に視線を漂わせるクリン。彼女に、大丈夫僕もわからない、と目で訴えても、伝わっている様子はなかった。
そんな戸惑っている彼女に、ひとしきりふざけて少し落ち着いたらしいエウリューケは引きつった笑みを浴びせる。
「ちょっと待っててな、それまでに景品のことを考えておいてくれな!」
「うん?」
そしてエウリューケは僕に向けて人差し指を曲げて『こっちこい』と示すやいなや、クリンから背を向けて、僕の肩に手を回して顔を寄せてきた。
ひそひそ話。クリンからすれば、耳を澄ませれば聞こえてしまうだろうけれど。
「で? どう思うよカラス君。二人目だよ、二人目」
「……二人目というのは、やはりウィンク君と同じ……?」
「そうに決まってんでしょ、ねえ。こんな短期間で見つかるのってさ、まあやっぱあたしの美しさに引き寄せられたとかの可能性も残ってるけどさ、他にも何かあるかもしれないよね、きっと」
「美しさ云々は置いておいても、やはり……」
僕は言いながら、昨日のレイトンとの会話を思い出す。
そうだ、レイトンは予見していた、このことを。
「……あの」
「なにさ」
「レイトンさんと昨日話したんですが、その時に言ってました。『他にもまだ見つかる』って」
「なんですと!?」
エウリューケが大きな声を張り上げる。もはや内緒話というものではなく、往来に響く声で。
それに気づくと、一度僕の肩から手を外し、誤魔化すように恥ずかしそうにエウリューケは笑って周囲を見た。
そしてまた、僕の肩を抱く。
「え? 何で? なにを根拠にそんなこと? 嘘つくなよ」
「本当ですよ。そう思っただけで根拠はないといっていましたが」
「まーたあの男の適当な意味深発言が出たよ! 性格悪いな!!」
今度は僕から顔を背けながら、文句の言葉を大きな声で吐き捨てる。その言葉には同意しないでもないが、もはや隠す気はないらしい。
「でもその言葉の通りなら、彼女は二人目ですがまたこれから三人、四人、と見つかるのでは……」
「そうなるかもしれんね。あのクソ金髪癖っ毛男が。んな大事なことならあたしにも伝えろってんだ、クソが」
ケッと悪態をつくエウリューケに、何となく親近感が湧く。被害に遭っていないだけ羨ましいけれど。
そしてエウリューケは、力強く僕の肩から手を外して、長い息を吐いた。
「とりあえず、クリンちゃんとウィンクくんの生活環境や身体的特徴の比較からかね」
力なく、そう呟く。
それからずるずると膝をつき、前向きにバタンと倒れた。
「あーあ、仮説三つくらい立てといたのに、全部おじゃんだよ。全部だよ、あーあ」
「地面に寝ると汚いよ?」
直立のままうつぶせに倒れているエウリューケ。
クリンがそんなエウリューケを見下ろすようにそう言うが、エウリューケは聞いていない。
「レーちゃんも早く言ってくれればいいのに。いやいやまあ、あたしが気づけって話だけどな。あーあ」
「落ち込んでいるようなので、ちょっとだけ放っておいてあげてくれませんか」
「でも」
「多分すぐに元気になるので」
心配そうに見ているクリンに諭すようにいうと、素直に黙る。素直でいい子だ。
「それで、景品は決まりまし……」
そして場を繋ぐために僕は言葉を繋げるが、なんとなく言葉を切る。
やはり子供向けには、多分レイトンの口調が親しみがある。
「それで、景品は決まった?」
「ん……まだ」
「なら、ゆっくり悩むといいよ。このお姉ちゃんなら、何でも叶えてくれるからね」
僕が笑いかけると、クリンが瞬きを二回ほどして、唾を飲む。
「何でも?」
「ごめんね、言い過ぎた。銀貨一枚分までだね」
演技に集中しすぎてしまうのか、適当なことを言ってしまい、少しばかり反省する。レイトンの真似は子供向けにはいいけど、やはり欠点もあるようだ。
言っているうちに、エウリューケが復活する。
勢いよく顔を上げて、腕立て伏せをするように上体を起こした。
「ま、結果的には全然いいってことで! 仮説は外れて当たり前!! 標本は多ければ多いほどよろしいもの!!!」
バーピーだっけ、……バービーだっけ? そんな風な名前の運動があったと思う。そんな運動をするように、エウリューケが立ち上がった。
その動きに驚くように、クリンが僕の後ろへと少し下がる。まるで隠れているように。
「で!? 願い事を述べよ」
「……願い事っていわれても……なぁ……」
また催促されて、クリンは一歩下がる。今度は本当に、僕の後ろに隠れて腰の辺りの服を掴んでいた。
それから、クリンが思いついたかのように「あ」と声を上げる。
辿々しく、自信なさげな声で。
「……お兄ちゃんとお姉ちゃんは……」
「…………?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、夫婦なの?」
「そうだよ」
「違います」
エウリューケがその言葉に同意したが、僕は間髪入れずに否定する。なんだ突然、いったい。
「そんなに仲良いのに……」
「そんなにいいわけじゃないから、気にしなくていいよ」
「なに言ってんだ馬鹿野郎ー! 子供の夢を壊すなよぶっ殺すぞ!!」
僕はしゃがみこみ、クリンと視線を合わせる。視界の外でエウリューケが何事か叫んでいたが、僕は意識してそれを無視した。
「それで? 何でそう思ったの?」
クリンの目をじっと見つめる。脈絡ない話題に思えるが、本当に脈絡ないわけではあるまい。彼女の中では、きっと何か意味がある問いかけだったのだと思う。僕たち二人の関係が重要なのか、それとも『夫婦』が重要なのかはわからないが。
クリンの答えを待つ。
数瞬の後、視線を落としたクリンが、重々しく口を開いた。
「……最近、お父さんとお母さんが、喧嘩ばっかりしてるから。二人みたいに、仲良ければいいのになぁって」
「それが願いか若人よ!!」
横合いからエウリューケが口を挟む。……いや、一応彼女たちの間でするべき話だから、横合いからじゃないか。どちらかといえば僕が邪魔してるというのが正しい。
クリンがこくりと頷く。
……『お父さんとお母さんが仲良くしてほしい』。
なんというか、えらく抽象的な。もっと物質的な願いをしてほしいところだと僕ならば思ってしまうが。
エウリューケに視線を向けて、彼女の反応を待つ。だが視線を向けたときには、もう答えは決まっていた。
「承りー! この天才美少女エウリューケちゃんが、お二人をたちどころに仲良しにしてみせようぞフハハハハハ!!」
エウリューケが楽しそうに跳ねてまた周囲に花びらを散らす。
了承、しかしどうするつもりなのだろう。当然彼女の家庭環境など知らず、その喧嘩の原因がなんなのかもわからない。……というか、他人が口を挟むことではない気もする。
「玉葱の葉に、青鷺の肝、棗、一角獣の角と睾丸、……あと他になにが必要だっけ?」
どうするんだろうと高みの見物に入りかけていた僕に、エウリューケが問いかけてくる。他に、ということは何かを作るときの材料なのだけれど……ええと、これは……。
「弥生香の材料ですか?」
「そうそれ。あたしの専門じゃねえしわかんないんだよね」
へへへ、とエウリューケは恥ずかしそうに笑う。たしかにそれは僕の方が得意なのだけれど。
ええと、調整のためにはまだ十種類以上の生薬が必要だが、基本的な材料となれば……。
「……若い兎の毛、今は季節が少し遅いので藍玉での変質が必要です。それに触媒で水銀が少量あったほうがやりやすいかと。……作る気ですか?」
「出来れば作ってほしいかなー、なんて」
また、てへ、とエウリューケは笑う。だが冗談ではない。その効能も、目的も。
「……催淫剤じゃないですか」
ごく希にムジカルの娼館から注文を受けていたものだ。
簡単に言えば、『そういう気分』になるお香。どちらかといえば身体的な作用が主だが。それも結構強いやつ。
「いいじゃねーか、男と女なんざ所詮そんなもんよっ!! やっちまえば即座に仲良しさ!!」
「賛成できかねます」
エウリューケは自信満々。しかしその言葉の真偽はともかく、そういう薬で仲直りさせるのは何か違う気がする。
「お? あたしからの恩を忘れたのけ? 小さいときから面倒見てやったあたしの恩は? 奢ってやったごま団子の味を忘れたってのか?」
「奢られた覚えはないですね」
むしろ奢った覚えは何度かある。いやまあ、大体僕の頼み事が付随していたから、僕としてはそれは恩に着せる気もないが。
そしてもちろん恩はある。だがそれとこれとは話が別だ。
僕はクリンに視線を向ける。
しかしならば、エウリューケの中に他に解決策がないとすれば。……これも僕の勝手な判断だが。
「出来れば、他に何か考えてくれると嬉しいな」
「他に?」
何でもじゃないの? とばかりにじとっと僕を見る視線が痛いが、まあ僕は催淫剤を作る気はない。本人の同意があるか、そういう場所でない限り。
というか、別室にして完全に目張りでもしない限り一緒に暮らしているはずのこの子にも影響が出る。兄弟姉妹がいればその子たちにも。さすがに悪影響だ。
「けー、ほら、そこの色男が何でも叶えてくれるってよ、ほれ」
「別に、薬を僕が作らなくてもいいならさっきのでも構いませんが」
今度はへそを曲げてるエウリューケに向けて僕は呟く。いや、聖教会伝の薬もある以上、他の材料からエウリューケが作れても何の不思議もないので、僕が作る以外にも同じ道を辿る方法はあると思うのだが。
「欲しいものとかないの?」
「欲しいもの……?」
クリンは「んー」とまた悩み首を傾げて空を見る。
そんなに悩むなら銀貨でもいいじゃないかと思うけど、この年頃の子供は銀貨に価値を見いだせなかったりするしそういうものということだろうか。
「もしくは君がやりたいこと」
そして彼女とは関係がないし、彼女と関わることではあるが、僕もエウリューケに用があるのだ。
そんなに時間をとるわけにもいかない。待っている人がいる。
「それが決まらないなら、仕方ない」
僕は外套の隠しから、一枚の硬貨を引きずり出す。銀貨の感触と柄を確認しながら。
「髪留めの色が変わった君への贈り物」
「これ、お金」
掌にのせると、クリンは無感情に呟く。お金をもらったということに対しての喜びは、未だに感じられない。……なんとなく、今の僕に似ている気がする。
「家族に見せるのは本当はお勧めしないけど、もしも使い方がわからないならお父さんやお母さんに聞いてみるといいよ。……そうすると、今日の夕ご飯が、少し豪華になるかもしれないね」
「豪華? 具が増えるの? お肉?」
「それはわからないけど、『くじに当たった』って言って渡すとそうなるかもしれない。もちろん他に君が欲しいものが出来たら、それに使ってもいいけど。そうしたいなら、それまでお父さんにもお母さんにも渡さないで、大事にとっておくこと」
言い聞かせるように、僕は続ける。
「それは一枚で、人が一日か二日くらい働いたのと同じくらいの価値があるんだ。たいしたことは出来ないかもしれないけれど、足しにはなるから」
それで納得してくれるといいけど。
「……甘いものだと、どれくらい?」
「君が食べきれないほど」
貴族の買うような高級菓子ならば足りないが、庶民の嗜好品の水飴や餅などならばそれくらいだろうか。
僕がそういうと、クリンは銀貨を握りしめる。
「それでもしもどうしても使い方が浮かばなかったら、とっておくか、もしくはこのお姉さんに渡して何かと引き替えてもらえばいいよ」
「えー」
エウリューケが不満げに声を上げるが、気にしない。
「わかった」
クリンが頷いたところで、話はお終いだ。
聞き取り調査などもしたいところだし、エウリューケのそういうことは邪魔したくないが、それでも僕には用がある。
「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん、またね」
「おう」
クリンの家の場所と、簡単な家族構成、それに自己アピールなどの本人がわかるプロフィールを聞いた後、彼女を解放する。
歌が好き、だそうだ。昨日の夜も寝る前に外で歌ってて親に怒られた、と。髪留めの変色も、昨日の昼に鼻歌を歌いながら花を摘んでいたときに髪留めが落ちて発見した、とも。
手を振る彼女にむけて僕も振り返すと、笑みを浮かべてクリンは走っていった。
あの先は、家だろう。
クリンが消える。彼女もあまり喋る子ではなかったが、不思議なことにそれだけで何となく静かになった気がする。
「しっかしなぁ……、今まで何度かここに来たけど、伏兵だったわい。こりゃ一本とられたってとこかいな」
「気づかなかったんですか?」
責めているわけではない。だがそういう兆候がなかったのか、と僕が言うと、エウリューケはその意図を読み取ってくれたらしい。
商品の袋に寄りかかるようにしながら、エウリューケは頷く。
「まったくよ、まったく。いやまあ、配るときにいちいち闘気のあるなしなんて確認しないからって言い訳したくなるけどさ。事実そうだけど、うわー、悔しい」
朝から疲れ果てたように体の力を抜いているエウリューケ。横の商品がなければ、なんとなく路地に倒れている浮浪者のような姿だ。
「なーるほどね。こんなにすぐに見つかったのは『他にもいるから』が正解かぁ……」
「……やはり、土地柄の問題でしょうか?」
「そうともいい切れんね。昨日も言ったけど、リドニックとあんたさんはネルグ? その辺りで離れて確認されてるし。男って共通点もなくなったね」
エウリューケは、フハーと息を吐く。黒眼鏡も相まって、たばこでも吸っているかのようにも見える。
「……他に、どれくらいいるんじゃろ」
「どうなんでしょう」
僕たちは、往来を歩く人たちを見る。
荷車は若干少なくなった気もするが、人通りはいまだそういう気配の人が多い。朝の活気は、どこの街でも変わりない。
だが、そんな風に歩き回る人たちの中に、『そういう人』が紛れているのかもしれない。
本人は知ってか知らずか、闘気と魔力を併せ持っている。お伽噺の中の存在が、この中にも大勢いるかもしれない。
「あー。やっぱ全員の体かっさばいてってみる? なんかわかるかもよ?」
「最後の手段にしましょうよ、それ」
今までもエウリューケは人の解剖ならしたことがあるだろう。サンプルの数が増えるとはいえ、それで大きな発展があるとはあまり思えない。
やはり、解剖するならば量より質ではないだろうか。
……いや、解剖自体おすすめしてるわけではないが。
「冗談」
エウリューケも本気で言っているわけではないようで、無気力に息を吐く。
少しだけ機嫌が悪くなっているらしい。
僕の行動の結果か、それとも現状への不満か、はわからない。前者であってほしくはないけれど。
僕も用事があった。
解剖は量より質。それで機嫌直してくれるといいけれど。
「そういえば、昨日頼まれた件なんですが」
「うん?」
これから私寝るところなんだけど! と全身で示すように脱力しているエウリューケが、僕の言葉に頭だけ起こす。
「勇者と渡りがつきました。午前ならいつでも、早ければ今日にでも、とのことです」
「あー」
だがそれを聞いて、エウリューケはまた頭を落とす。衝撃に、小麦粉らしい粉が舞い、彼女の髪をわずかに染める。
「いいよいいよー、だいじょぶだよー、今日来い、今日来い」
「では朝食後に、ここへ連れてくればいいですか?」
「可愛いエウリューケちゃんはちょっと考え事するからー、少し遅い方がいいにゃー。十の鐘くらいにしてくれると助かるかもしれないわ。そうしないと助からないわ」
「わかりました。ではそのように……ああ、それと」
「…………?」
「勇者への紹介は、魔術訓練の意見を聞く、という名目になっています。彼が魔術を使えるようになる方法、考えておいてあげてください」
「えー……、まあ、わか……えー……」
エウリューケは同意しかねている様子。しかし、まあ断りはしないようでよかった。
まだ悶えるように寝っ転がっているエウリューケに一言挨拶をして、僕は踵を返す。
あとはこれを勇者に伝えて、連れてくればいいわけだ。
僕も朝食をとって、それからまた。
……しかし。
僕はまた今日今見たことを思い出し、もう一度街を見回す。
これだけの短時間で臭いが変わった。そこにはやはり歩き続ける人間たちの群れがある。
ウィンクに、クリン。二人見つけた。そしてまだまだ見つかるかもしれない。
彼らは、人間の中でこれからやっていけるのだろうか。
僕は彼らの人生を心配するような立場ではない。
だがそんな心配に、僕は一つ溜息をついた。




