都の道中
石の床に敷かれた絨毯を踏み、王城の廊下を歩く。
これからの予定としては、午後はとりあえずエウリューケのところへ行きたい。
だが一つ問題があり、『王都の方で実験中』とは聞いたが、その詳しい場所を僕は聞いていない。
とりあえず改めてレイトンに聞いて、ついでに一言文句を言って、それからエウリューケのところに向かおうと思う。
レイトンも知らないかもしれないが、まあその時は普通に探すしかない。数万は住むこの王都で、すぐに見つかるとは思えないが。……いや、まあ、エウリューケは目立つけれど。
どこかのご令嬢とすれ違う。ええと、たしか男爵家の……。
一応その素性を思い出そうとしながらも、僕は廊下の端に立ち止まって通り過ぎるのを待つ。王族相手でないから跪きまではしないが、少々面倒だ。ここから透明化してレイトンのところへ向かおうかな。
背後に二人連れた浅黄色衣装の女性。
一瞥もせずに通り過ぎるかと思われたそのご令嬢は、ふと立ち止まると僕に視線を向ける。
あまり見ていたのは失礼だったか。と思ったが、そんなじろじろ見た気もしない。ならば僕に何か用だろうか。
僕が一瞬戸惑いながら会釈すると、向こうも笑みを浮かべながらただ会釈して視線を切った。
しずしずと、彼女は歩き出す。
……普通の挨拶?
女性の後に続いていた二人も、主の動作に合わせたのか、こちらをちらりと見る。その二人はそれだけで何もせずに行ったが、そちらには何の感情も見えない。
声もなく、紹介などを伴う儀礼上のものでもなく、普通に挨拶された。
何だろうか、何か引っかかる気がする。
昨日まではあまりなかった気がする動作。僕は一応彼女の名前と顔を知っているが、それでも知り合いというわけでもないので昨日まではする必要もなかった仕草。
いや、普通の動作だ。単に廊下をすれ違うときに行ったような小さなもの。
けれども、やけにそれが不思議なものに感じて、僕は一度頭を掻いた。
……いないかな?
僕は石の壁に手をついて、中の様子を少し探る。
先ほどのご令嬢に続いて二人ほどすれ違うときに声なく挨拶を交わし、少し遠回りをしながらもようやく辿り着いたレイトンの隠れ家へ続く隠し扉。
周囲の目を窺いながらも、中にいるかどうかを確認するが、気配はない。
階段の上から、遅いお昼を済ませた官吏たちが下ってくる。
一応不審な動きを取らないようにと、僕は今まさに階段を上がってきたかのような動きを見せて、あたかも彼らとここですれ違っただけのように演じる。
官吏たちは、僕の顔など知らないようで、一瞥もせずに一階へと消えていった。……これが普通だと思う。
隠し扉に立ち返り、僕は思案する。ここにいないとなると、レイトンの居場所は今のところ杳として知れなくなるわけだが。
どうしようか。ならばやはり、エウリューケの居場所は自力で探すしかないのか。この王都に来る前に、イラインでエウリューケを探したときには数日間かかって結局見つからなかったが、今回はどうなるだろう。
まあ、ないものねだりはするまい。
空から見回れば案外すぐ見つかるかもしれないし、そもそも休みだから多少時間を取っても構わないし。
それでも一応目視でもいるかどうか確認しておこうか。
魔力探査では見つける自信があるが、それでもくぐり抜けられている可能性は捨てきれない。そこまでするならば、向こうから話しかけてくるだろうけれど。
そう思い、石の壁から突き出した棚板に乗っている花瓶をずらす。以前と違う場所で、ここに置かれていると仕掛けが作動出来な……。
ああ。
僕は気づいて、陶器で出来た花瓶を持ち上げ、底を確認する。
中か、底か。それとも花の中か、などと一瞬思ったが、底で正解だった。
持ち上げて見上げた裏に、小さな紙片が貼られている。水ですぐ溶けてしまう薄い紙。引っ張ると糊のような固定材が剥がれて、折りたたまれた紙片が手紙だとわかった。
『〈病魔〉 南西 金物通り』
墨で書かれた文字はそうある。病魔とは、誰の異名だろうか……といっても、すぐに一人思い浮かぶのだが。
王都南西にある金物通りという道……、でいいのかな。彼女の居場所は。
花瓶を元の位置に戻し、僕は紙片を左手で丸める。
気遣いはとてもありがたいけれど、僕の行動が読まれているというのはまあ何となく気分が悪い。いつもの通りと思えばそれまでだし、いや本当にありがたいんだけど。
僕が見なかったら、ここに戻ってきたレイトンは手紙がついたままの花瓶の裏を見て残念そうにしたのだろうか。それとも意地悪い顔で笑ったのだろうか。もう戻せないけれど、……何とか綺麗に戻しておこうかな。駄目か、もう丸めちゃったし。
少しだけ残念に思いながら、僕は階段を下っていく。
文句言うのはお預けか。まあ、仕方あるまい。
そんな風に考えながら、僕は礼服の上に羽織るべく、外套をとりに私室へと戻った。
王城から出て、少し。塀を越えて門番の間を通り、やや疎らだった人通りをすり抜けて、『街』へと入る。
王城の外の塀は大通りで囲まれ、当然のように王城へと向かっていく人間は多くはない。
そして大通りの反対側は、それこそ『街』だ。建物がひしめき、空き地のような隙間もなく人通りも多い。
王城の官吏たちも使うのだろうか、食堂がいくつかに、住居がほとんど。あとは食料品や布製品、金属製品などの生活雑貨が売られている商店がちょこんちょこんと並ぶ。
王城のすぐ目の前にも宿屋はある。それも高そうな店構えで、なおかつ意外にも厩舎はついていなさそうだった。
そんなものを眺めながら手近な路地に入った僕は、自分が誰の視界にも入っていないことを確認しつつ、王城に背を向けて透明化を解いた。
さすがに面倒だったのだ。私室に戻る際も、戻ってからも幾人かから声をかけられた。
声をかけると言っても、ただ挨拶を交わしただけだが。それも、今度は聖騎士から。態度が昨日よりも大分緩んでいる気がするし、これはジグと同類だったということだろうか。
そういった挨拶の煩わしさもあり、それに王城の出入りに付随するチェックの面倒もあり、僕は王城内から透明化して一気に抜けてきた。
振り返り、見上げてみれば裾野を塀で隠した山のような城。何だろうか、抜け出してきて、少しだけホッとした気がする。
まあそれはともかく、エウリューケを探そう。
レイトンの書き残した文によれば、王都の南西にある金物通りという通りにいるらしい。いや、いるかどうかはわからないが、行けば手がかりは掴めるのだろう。
とりあえず、そこへ。何日か過ごしたとはいえ、王都の地理にはあまり詳しくないから、まずその通りを探さなければいけないのだけれど。
イラインと同じような石畳が靴底を叩く。
野菜を積んだザルを抱えた女性が、僕の横を勢いよく駆けていく。
初夏の午後、まだ暑くはないが温かい気候に、袖まくりをする人たちが印象的だった。
王都は広い。
なのでやはりイラインと同じく区分けはされており、けれどイラインとは違い専門街ともいうべきものは存在しないらしい。
鍛冶師の集う職人街はなく、食堂の並ぶ食堂街もない。
多分、きちんと整理して分類して見回せば、地区ごとの傾向はあるのだろう。しかし見て回った印象としては、そういうものはあまり存在しないと僕は思う。
数件程度のまとまりはあるものの、皆ばらけているのだ。
鍛冶師の工房も食堂も、各地に点在してその機能が保たれている。住民は包丁を研ぐ必要があれば、離れた職人街へいくのではなく、近くの工房へと向かう。食事を取るべく歩き出した住民は、揃って同じ場所に集まらずに各地にある近くの食堂へ向かう。
地区としての区分は、イラインでの一番街や二番街などと同じ。三十番街まであると聞いたときには少しだけ驚いたが。
しかし、その一つの街の中に、職人街や商店街が細かく分かれて入っている。
三十番街まであると聞いたが、要はもっと細かいのだ。一つの街の中に、職人街があり、商店街があり、食堂街がある。
仮にイラインの中央へ大きな壁を作り、東西を分断してしまえば街の機能は不全を起こすだろう。西には職人街がなく、東には街の交易品を受け取れない。いやもちろん、代替できるものもあるのだろうが。
だがこの王都にはその弱点がないのだ。
王城や白骨塔の機能は別として、どこで分けてもそこそこ機能できる。突然マス目状に壁を作ればまあ驚くだろうが、街としての機能はあまり損なわれない。
横を、そこそこ仕立ての良い服を着た子供たちが走っていく。
イラインでは、新興住宅地ともいえる番号が多い街のほうが子供が多かったが、この街にはどこも子供がいる。古い住宅地だった番号が若い街の方が老人が多かった気がするが、この街ではどこも少ない。
イラインも都会ではあったが、ここ王都の方がやはりより都会らしい。
この国で最も栄えているという王都グレーツ。
ここは未だ、戦火の匂いもしない、穏やかな場所だ。
小さな紫色の柑橘類を積んだ荷車が目の前を横切る。
卸市場は既に閉まっている時間なので、在庫を店に補充するのだろう。さわやかな香りが僕の鼻に届く。
その果物が、一つ荷車から転がり落ちる。
鉢巻きをした威勢のいい茶髪の男はそれに気づかないようで、そのまま走り去っていく。
転がる果実。握り拳よりも小さく、皮ごと食べられるその果実は強く叩くとそこから傷んでいってしまうほど弱いものだ。
もったいない。
呼び止めようか、と僕はその背中を見ながら考える。
アネットとの出会いもこんな感じだったか。落とした洗濯物を拾い上げて、話しかけたのが始まり。
本来は、声をかける義理などないのに。
けれども。
まあ、見てしまったものは仕方ない。こちらに向かって転がってくる果実を受け止めるべく、僕は立ち止まって位置を調整する。
だが、その果実は僕の手には収まらなかった。
「…………」
褐色の髪の女の子が、それを拾い上げる。年の頃は六才に満たないくらい。
彼女も、果実を拾おうとした僕に気が付いたらしく、拾い上げてからこちらをじっと見る。
交わる視線。
一瞬止まった仕草に、僕は考える。
どうするのだろうか。この子供から取り上げる気はないし、この子供がそのまま持っていってしまっても僕は咎める気もないのだけれど。
見た目は庶民。綺麗ではないが汚れてもいない衣服はサイズが合っていて、拾ってきた服などを無理矢理着ている風ではない。
観察している間に、少女が僕から視線を切り、振り返る。
「おじさーん! 落ちたよー!!」
そして、叫びながら荷車に追いつこうと走っていった。
「…………」
何だろうか。
なんとなく、良いものを見た気がする。何の変哲もない普通の光景なのに。
落とし物があり、そして拾った誰かがいて、拾った誰かはネコババしなかった。本当に、普通の光景。
僕は軽く息を吐き、その子供がお駄賃とばかりにその果実を貰う光景をじっと見ていた。
それからしばらく歩き、目的の場所に近づく。
王都南西の金物通り。先ほど屋台で買い食いをした際にその店主に聞いたが、『金物通り』というのは正確な名前ではない。ただいくつかの地区を貫く大きな通りに、そのいくつかの地区の鍛冶師や彫金の工房が集中しており、そういった金属製品を売る商店が多いということからつけられている通称だ。
イラインのように計画的に集めたというよりも、たまたま同じ道に工房が集中してしまったという感じか。
ここが出来たのは偶然なのだろうが、やはり王都の他の場所のように『小さな街』というものを増やすよりも、ある程度こういった場所がある方が物資の流通的にも効率的な気がする。
他の場所よりもゴミの多い石畳。目に粉塵が詰まり、往来の多い馬車や荷車の車輪に削られてでこぼこになっていた。
空気も他よりも悪い気がする。目の前で、喉に詰まった痰を職人らしき女性が道に吐いていた。
そんな金物通りを見渡して、そして僕はそこに目的の人物がいることに気が付く。
見えたのではない。聞こえたのだ。
「さあ、いらはい、いらはい!」
大通りから路地へと入り、いくつか曲がった先から元気の良い声が響く。他の商店も呼び込みなどに大きな声を張り上げているが、聞き慣れた声というのは良く耳に届くものだ。
僕はその声に呼び込まれるように、路地の中へと入っていく。路地といっても、小さな街ではここも大通りと呼べるような広い道路なのだが。
「ムジカルの方から持ってきた多分安全な香辛料とか生薬だよ!! 安いよ!!」
金物通りを一歩出れば、また住宅が多くなるらしい。
そして王城から離れたからか、空き地がぽつんぽつんと見られるようになっている。
整地された石畳の上、何かしらの建物が建っていたであろう基礎だけが、その残滓を晒していた。
「お菓子もあるよ! よい子は寄っといで! 悪い子は帰れ!!」
そして角を曲がって、その露店を見た僕は、「あー……」と何となく声を出した。
「いらはい! いらはい! 怪しくないよ!」
そこには筵に片膝を立てて座り、香辛料や何かの粉の袋に囲まれた女性がいた。
僕は、静かに歩み寄る。
「…………何されているんですか? エウリューケさん」
「ああん!? 見りゃわかんだろ、この野郎。あんちゃん冷やかしなら帰ってくんな! もしくはそこで跳んでみせろよ銭持ってんだろ? このやろう!」
声をかけた僕に向け、大きなサングラスをかけて、ガムのようなものを噛みながらエウリューケは悪態をついた。