閑話:観客たちは踊る
日も落ち暗くなった中庭。いくつもの松明の明かりに照らされて、橙の光を纏った空間。
二人の男性が、戦うように踊りを舞う。槍を避け、捌き、宙を舞い跳ねる。剣を押さえ、地面を踏みしめ当たれば致命の一撃を放つ。
剣呑ではある。しかし、宴の中ではありふれた光景だ。とりわけ貴族の開く宴の中で、さらにその貴族が武門であればなおのこと。
ざわめく令嬢令息たちは、その踊りを興味深く見つめていた。
「聖騎士様ってすごいのね」
踊り手の紹介がなく、ただ静かに始まった水天流の演武。その内の一人の素性を知っている誰かがそう呟いた。
二人の男性のうち、一人はもちろん有名だ。
青い髪のクロード・ベルレアン=ラザフォード。第二位聖騎士団の団長であり、水天流の現掌門。ラザフォード家の分家に当たるベルレアン家の次男に産まれた彼は、その才を見込まれて本家の養子となった。
いくつもの戦場を生きたその武勇は知れ渡っており、武門に生まれた男子ともなれば、彼と会うことを夢見て修行に励むことも多い。
なるほど、と彼らを囲む令嬢の一人、ディアーヌ・ラルミナは頷く。
水天流の総帥。まさしく、見事な動きだ。
動きに一切の破綻がなく、そしてときたま挟まれるディアーヌの理解の及ばぬ動きすら、無駄なものではないという確信がある。
槍が空気を裂く。
ディアーヌはその音に痛みの錯覚すら覚えながら、二人の舞を食い入るように見つめていた。
だが、見つめているのはそれだけではない。
クロードの腕前。それは知れ渡っている。今更と言っては彼に悪いが、それでもその絶技は今更見せられてもそう驚くことはないだろう。
それでも驚くのは、その相手の方。
その黒髪の男性を見つめて、ディアーヌは唾を飲み込んだ。
クロードの振るう槍の一つ一つに、裂帛の気迫が込められている。
演武とはいえ、水天流の演武に基本『止め』はない。剣戟は当たらないように避けるかいなすかするものであるし、当たれば未熟の誹りを受ける。
試合ではない。しかし、仮にそのクロードの目の前に自分が立てば、二手凌ぐことは出来まい。一手凌ぐだけでも奇跡に近い偶然が必要だろう。そう確信するにあまりある真剣さがあった。
クロードの腕前は今更だ。その腕はこの国に轟き、彼を含めた聖騎士団長一位から三位までの三人は、この国を支える屋台骨だとディアーヌは信じている。
もちろん、本気ではないだろう。演武用の予備動作の大きな歩法、やや大振りな槍。自分では相手にならないと思いながらも、その程度の手加減はわかる。戦場に持ち出す愛用の魔槍はなく、演武用のしなりのある装飾のついた槍からも、これは『遊び』だと思う。
だがしかし、その動きは本物で、生半可な動作でないこともわかる。
エッセン国家が催した何かの行事で、ディアーヌはクロードの演武を見たことがある。しかし、その時とは全く違う動き。本気ではなく、手加減をしている。それでもその力は本物で、真剣そのものだった。
真剣で、並の人間ではその前に立つことすら出来ない動き。
ならば、その相手をしている人間は。その前に立つ男は、いったい。
水天流の門下生だろう。そうは思う。軽業が多く癖はあるが、その歩法や剣の振るい方に特徴があり、それを否定する材料は見えない。
だがその黒髪の男を見て、ディアーヌは違和感を覚える。
聖騎士の略式礼装。その様はたしかに聖騎士ではあるが、しかし衣装が着こなせていない。
まるで、聖騎士ではない誰か。聖騎士のフリをした誰か。
その誰かの素性が気になった。第二聖騎士団副団長ではない。副団長の顔ならば、ディアーヌも知っている。
ついに闘気を帯びた男たち。その刃が結ばれる。
刃と刃、その薄いはずの金属が、交差することなく寸分の狂いなく真正面からぶつかる。
わずかに止まった演武。だが、驚愕の事実をディアーヌは見た。
「な……っ!?」
その事実に気が付いたのは、その演武を遠巻きに見ていた聖騎士たち。それに、そういった知識のある勇者の傍に仕えている侍従。そして、ごく少数の令嬢と令息だ。
ディアーヌの口から驚きの声が漏れる。はしたない、と口元を押さえることすら忘れて、その腕に思わず力が入った。
クロードの槍。その穂先、金属線が伝っていないその先にまで、闘気が迸る。
槍を白い光が覆い、正面から剣を砕いたその瞬間、ディアーヌの体は震えた。
しなりのある槍の柄は木製。木とは元来闘気が通らず、そして通す者ともなれば全てが伝説的な人物だ。
その柄を伝い、闘気を刃に通した。
砕け散った刃が散り、砕かれた正体不明の男がよろめき、クロードの拳に弾き飛ばされる。
それから振るわれた槍が、男の背後の石像を木っ端のような破片に変える。
派手な演出に観客たちが華やかな声を上げる。
そんな中にあって、ディアーヌの背筋に一筋の汗が垂れた。
そして次に起きた事象に、ディアーヌがまた口を開けて驚く。その口を両手で押さえられたのは、日頃の訓練の賜物だ。
なんてことだ。
おお、とどよめきのような声を上げて、観客たちは男を見る。
クロードによって切り裂かれた石像の剣を手に取り、白い光を迸らせる男。そこに小娘たちが驚くのを、どこか遠い世界の出来事のように見ていた。
なんてことだ。
石像の剣は、すなわち石。そこに闘気を通すのは、木に闘気を通すのと同じくらいに難しい。
「わあ」などと、微かな驚きで済ませられる事態ではない。
目の前にいる男は、聖騎士団長ではない。その程度は肩の記章からディアーヌも知っている。しかし、そんな男が、闘気を石へと通した。
国家の行事で行われるような見世物の演武。
そんな程度のものではないことを、ようやくディアーヌは知る。
口元に当てていた両手を解き、無意識に胸の前で握り拳に変える。
一挙手一投足を見逃せない。
目の前で行われているのは演武であって、演武でない。単なる見世物でもないし、ましていつもの催しだと適当に見ていいものではない。
目の前で行われているのは、双方共に何かを賭けた勝負。
そしてその腕前は共に英雄譚にも顔を出せるほどの凄腕で、そしてその二人が目の前で惜しげもなく技を披露している。
見逃してはいけない。
剣を志す武門の娘として、そして自分の人生を賭けた道の糧として。
子供の時分から、剣を振ってきた。
兄弟に混じり、剣の稽古はもっとも真剣に打ち込んできた。
年を経て、成人をして、もっと自分には大事な仕事があると知っても、それでも手放せなかった剣への情熱。
隣にいた名も知らぬ令嬢が、わあと声を上げる。
そんな、簡単な驚愕で済むものか。悪意がないそれにも、ディアーヌは苛つきを感じた。
しかし、誰なのだ、あれは。
あの、第二位聖騎士団長と打ち合うあの見知らぬ男は。
また声を上げた令嬢に、ディアーヌは歩み寄る。話したこともない女性だったが、そのお互いの高揚にお互いに親近感を覚えるのは祭りの常だ。
「もし」
「はい?」
頬を上気させ、二人の演武に前のめりにもなっていた女性は、突然話しかけられて思わず作法に適わない返答をする。
しかし、それをディアーヌは咎めない。失礼をしているのは自分も同じだ。
「あの二人の名前、ご存じでしょうか」
「クロード様とカラス様、です」
答えながらも、また変わった展開に二人の目が同時に演武へと向く。そして、クロードに対しカラスの蹴りが当たったのを見て、周囲の令嬢とはまた違った驚きの声を上げた。
それからも二人の視線は交わらずにただ演武を見つめていた。
一応というように、ディアーヌは呟くように礼を言う。
「ありがとう。カラス、カラス……か」
「ザブロック家に雇われている探索者です」
「あ、ああ……」
そこまで聞いて、ディアーヌはようやくその『カラス』という名に思い至る。
そういえば、侍女が話していた。美しい男というのに興味のなかったディアーヌは、それを聞き流していたが。
しかし、その態度は改めなければいけないだろうか。
そう、ディアーヌは思う。
クロードに当てた乾坤一擲の蹴りを放つため、地面に擦るようにし土埃で汚れた頬。
激しい動きに乱れた衣服。汗が伝う髪。
どれも、美しさとは無縁なものだ。
けれど、その動きは確かに美しい。
それはただの美しさではなく、強さを伴う美しさ。
強いものは美しい。
昔、指南役に聞いた水天流の真髄は、そういうことなのだろう。
探索者ごとき、と馬鹿にしてきた。
侍女の話に興味を抱かなかったのは、そのせいもあったのかもしれない。
だが、もう言えない。
貴族の子女たるもの美しくあれ、と何度も聞いて育ってきた。
ならば自分の求める美しさは、あそこにある。
二人の打ち合いを見逃してはいけない。
筋肉の線が浮き、ややもすると女性らしくないと揶揄される自らの上腕を握りしめて、ディアーヌは食い入るように二人を見つめる。
ディアーヌの熱量を無意識に感じ取り、彼女と隣の女性の周囲に、ぽっかりと空間が空いた。
演武を捧げる二人。その捧げられている対象のヨウイチは、それを仕組んだ誰かの意図に違わず、二人の戦いを食い入るように見つめていた。
なんだろうか、あの剣術は。あの槍術は。尽きない興味に唾を飲み込むのも忘れるほどに。
武器は違えど、おそらく二人とも同じ技術体系のものだろう。舞のような『動』の動きは中国武術に近いが、所々の踏み込みや構えは日本武術の要素も感じる。
詳しくはないが、これが西洋剣術だろうか。そうヨウイチは考えて、内心首を横に振った。
ヨウイチの知っている西洋剣術は四つの構えを基本とした細剣の技術だ。しかしカラスの扱っている剣は幅の広い片刃で、しなりがあればやはり中国の剣とも思えるが、その厚さにしなりもないその性状はやはり違う。
ヨウイチの知識にある既存のどの武術とも違うエッセンス。
カラスではない方の男が使う技術は、東南アジアの方の武術のようにも見えた。しかし、そうでもない。
(細かいのは色々とありそうだけど、使っている足捌きは三つか……四つ? でも、カラスさんのはちょっと多い気がするし……)
舞として演じられていると、先ほどヨウイチは侍従に聞いた。
見ている側としては、舞とは美しさや他の何かを感じるべく見るもので、このときクロードたちが舞っているものも本来はその類いだ。
しかしヨウイチはそこに、既に違うものを見ていた。
(カラスさんのは、自衛隊……の……格闘術みたいな……いや、躰道? でもこんな世界にあるわけがないし)
足捌きを、手さばきを分析していく。
自分の知らない何かの武術。それを使う二人を。
(……警戒するとしたら、近づかれないように剣を長く使って……。投げ打ちは使えないかな)
そして、自らがそこに対峙したときのことを。
ヨウイチの手が、無意識にそこにない刀を振る。足が、地面を踏む力を強める。
前屈みになった体が背もたれから離れる。
そんなヨウイチの真剣な目に、見惚れる令嬢たちがいた。
そしてそんなヨウイチを、中庭の隅の草むらから、見つめる不定形の影があった。
勇者と令嬢たちの華やかな舞踏会。
そこから遠く離れた王城の一室。灯りのない寒々しい部屋に、二人の女性がいた。
竈で湯を沸かし、湯を鍋からティーポットに移し替える。中で踊る茶葉の香りに、部屋の中央でそれを待つ女性の鼻が動いた。
「良い香りだね」
「そうですか? よいお値段もしたので、それならばいいんですけど」
ティーポットに厚手の布を被せて、竈にいた女性が振り返る。振り返ったところで感覚的に変化があるわけでもないが、それでも礼儀としてそうした方がよいと知っていた。
「砂糖はいれますか?」
「もらおうかな」
戸棚から、聞いた女性が白い磁器の容器を取り出す。中には茶色く荒い結晶がなみなみと入っていた。
そこに小さな匙を軽く差し、クロエはまた振り返る。その目は軽く瞑られて、白い暗闇しか見えていなかった。
もうそろそろ良いだろうか。
クロエは軽くティーポットに手を添えて、温度を測る。そして頷き、盆に二人分のカップと砂糖、それにティーポットを乗せて静かに歩を進める。
カチャカチャと静かに音が鳴る。
まるで見えているかのようなその仕草は、それを眺めていた女性から見ても見事の一言だ。
「粗茶ですが」
「ありがとう」
静かに注がれる紅の液体。竈の火しか光源のない暗闇の中でも、良い香りだ、とプリシラはその色を内心褒めた。
静かに紅茶を口に運び、その温かさに舌鼓を打つ。
クロエも同じように一口飲んで、その感触を楽しんでいた。
「中々面白い演武でしたね」
「そうだね、とても面白かった」
ヒヒ、と笑いながら、プリシラは紅茶に砂糖を足しつつ、本心からの賛辞を吐く。
もちろん、彼女らはそれを肉眼で見ているわけではない。
だがプリシラは、左の耳、そこにつけてある魔道具から響き続ける令嬢たちの声から。そして演武を行っていた二人の吐息。勇者の感嘆の息。それら全ての情報を精査して、その光景を正確に読み取っていた。
「しかしカラス君も、出来る、とはね」
「私はよく知りませんが、珍しいのではないですか?」
「そうだね。とても珍しい。まず閉牢になれる人も少ないし」
カップを手で包み、クロエが手を温める。初夏の温い気温、それでも彼女の手先は冷たさを帯びて強張っていた。
カタン、という物音に触れ、プリシラが扉の方を向く。
その扉の下からぬるりと半透明の何かが入ってくる。その『何か』を、クロエが帽子を脱いで待ち構えていた。
「それで」
帽子の中に、猫とも狐ともつかない不定形の何かが飛び込む。既に中にいた同じ何かと溶け合うように融合して、また一匹の獣となる。その姿に、いつ見ても変わった生き物だとプリシラは感心していた。
クロエの盲いた目、その代わりをしている生物。精霊とも呼ばれるそれを、クロエは自在に操っている。
自我はあるのか、それともないのか。それもプリシラにはわからないが、しかしクロエの魔力を糧にして生きているとクロエには聞いていた。
「弟さんが何故こんなことをしたのか、はわかりましたか?」
「……だいたいはね」
帽子を被り直しながらのクロエの言葉に、プリシラは頷く。その仕草を見て、クロエはホッと息を吐いた。安堵ではない。答えがわかるという歓喜からだ。
「何故です」
「あの子はね、探索者……その中でも、カラス君の印象を変えようとしたんだよ」
プリシラが甘い紅茶を口に含む。甘いだけではないその焦げ砂糖の風味を聞きつつ。
「『探索者風情が聖騎士の真似事をするなんて生意気だ』という皆の感情を、『あれだけの腕前があるならば聖騎士の代わりも務まるだろう』とね」
「あの演武だけでですか? そんなに皆の心が簡単だとも思えませんけれど」
強いというのは、有能であるということと等号では結ばれない。そうクロエは思ったが、プリシラは楽しむように笑みを強めた。
「充分だよ」
紅茶を飲み干し、プリシラはカップを置く。底にわずかに滴が残るそこに、新しく少しだけ温くなった紅茶がクロエの手により注がれる。
「人は、相手の一番の特徴に印象が引きずられてしまうものさ。全ての能力がそこそこ優れている人間よりも、美しいとか強いとか、何か一つ突き抜けて良いものを持っている人間の方が優れていると感じる。たとえ他の能力が絶望的でもね」
むしろ、そうなると他の低い能力は『愛嬌』としても見られるだろう。もちろん、その『突き抜けた能力』が、人に評価されるものという条件がつくが。
「だから今、カラスさんは認められたのだと」
「そうさ。今仲直りの真っ最中みたいだよ」
左耳からの声に、プリシラは微笑む。ジグという聖騎士がカラスに謝る。その和やかさに。
「まあ。戻さなければよかったかしら」
「ひひひ、勿体ないことをしたね」
クロエの声に応えて、帽子の中からひょこりと精霊が顔を覗かせる。その透き通った目からは、プリシラすらもその感情を読み取れなかった。
「その波は広がるだろう。今は第二位聖騎士団の皆の間での話だけど、テレーズ団長や他の団の人間も何人かが見た。レイトンが悪化させたカラス君への印象が、挟まれた陰陽石の石みたいにひっくり返っていくんだ」
砂糖の甘さを喉で感じながら、クロエが続きを促す。温かな液体が、胃の奥に滑り落ちていった。
「わざわざ一度悪化させたのは、聖騎士たちの目をこの演武でカラス君に向けさせたかったから……だとは思うんだけどね」
嫌いな者が、酷い目に遭う。それは娯楽として素晴らしく優れているし、そうやって目を集めた、とは思う。
しかし、そこでプリシラは言い淀む。まだ迷いがあった。
今のままでは、ただカラスの益になっただけだ。少々の怪我や損傷があるとはいえ、若干悪かった聖騎士との関係を修復したというだけの。
回りくどいし、それだけを狙ってやるには少々手間がかかる。何より、カラスにだけ効果のある策をレイトンはとらない、とプリシラは思っていた。
「それに、直接実行したのはクロード団長だ。クロード団長が単独で考えて行っただけ、というのもあるにはあるんだけど」
んー、とプリシラが悩む。それを見て、クロエはクスと笑った。
「貴方でも悩むことがあるんですね」
「それはあるよ。悩まない人生なんてつまんない」
「クロード様と、弟さんの共謀というのは?」
「あの二人が繋がってる? ……それもありかな」
呟くようにプリシラはクロエの言葉に応える。だが言葉とは裏腹に、それはない気がする、とも思っていたが。
根拠はない。姉としての、勘で。
プリシラは椅子の背もたれの後ろ側に腕を預けて、胸元の筋を伸ばす。
それから金の髪を軽くかき上げると、また座り直して片目を瞑った。
「でも多分、クロード団長は利用されたんだと思うんだ。先ほど本人も言っていたからね。『演武を企画した誰かは知らない』って」
「それは嘘かも」
「嘘じゃない気もするんだよね。そんな声音だった」
暗い天井をプリシラは見上げる。その向こう側にいるまだ働いている数人の官吏たちを、その耳ではっきりと見ながら。
そしてその内、プリシラの耳がまた一つの事象を見る。舞踏会場で大道芸を眺めているはずの、一人の男性の声に。
「あ、ああ、そっか」
「…………?」
クロエは、天井を見上げたまま呟くプリシラを見つめて、首を傾げる。
「穿った見方をしようとしすぎてたんだね、私たちは」
「どういうことでしょう」
「観客は、勇者なのさ」
クロエの冷めてきた紅茶に、プリシラはティーポットに残ったまだ温かい紅茶を注ぎ込む。その温かな匂いに、二人の女性は酔いしれるように体の力を抜いた。
舞踏会も終わった夜。
既に令嬢たちも引き上げて、勇者も宛がわれた寝室に戻っていた。
侍女たちが同衾する、ということを固辞しているヨウイチは、一人大きな寝台に横たわる。
初夏の温い気温の中、見上げた天井は灯りなく暗い。
ヨウイチは、舞踏会の記憶を反芻する。大変だった。
ダンスなど学校の授業でしかやったことはないし、これほど多くの女性の手を握ったことなど初めてだ。
踊りのテンポも抑揚も違い、社交ダンスに近いそれは未経験だ。
上手く踊れた自信もなく、それに事実踊れてなどいない。ただお相手の女性に縋り付くように捕まりながら、揺れているだけ。
疲れた、もう踊りたくない、という思いがある。
それと同時に、情けない、という思いがある。
ミルラから、相手の女性たちはヨウイチのために集められているのだと聞いていた。
だからなのだろう、相手の女性たちは、皆不快な様子を見せることなく微笑みを湛えて喜んでいたのは。
仰向けのまま、手の甲を目の上に落とせば温かい。
月の明かりだけでも充分室内が見通せる夜目の利く目が、ようやく暗闇に覆われた。
疲れた。早く寝なければ。
そう考えていてもなお、なかなか寝付くことは出来ない。
意識的に舞踏会のことを考えないようにして、ヨウイチは明日のことを考える。
明日、魔術に触れることが出来る。
ミルラへの申し出は割合簡単に通った。剣ではなく、魔術を学ぶということ。戦わないよりはマシ、とミルラが判断したのだろう、とヨウイチは推測する。
そして速やかに準備が整えられ、明日には王宮魔術師による指導を受けることが出来るという。
楽しみだ。
魔法とは、魔術とは、本来あり得ない力。
その概要はまだ知らないまでも、それでも想像するにあまりある。
手から炎の玉を出し、雨を晴れにし、大地の形を変化させる。そういった想像図は、ヨウイチにとっては漫画やゲームの中の話であり、そしてお伽噺の中の存在だ。
漫画の中の必殺技。手を突き出しエネルギー弾を飛ばすのは、漫画にもよるが構えやかけ声も含めて男子ならばやったことのない者の方が少ないだろう。魔法の杖から敵を浄化する光を放つことを夢見る女子もいただろう。
それが出来るのかもしれない。この世界では。
海外ドラマや映画でも見たことがある。杖の一振りで、荒れた屋敷の中が綺麗に片付くような様を。駅のホーム、何もないはずの柱に飛び込めば、魔法の世界に通じる穴がある。
あんな魔法が、自らにも使えるのかもしれない。
寝付けない。
目が冴えて、眠気が一切存在しない。
じっとしてもいられない。既に手足はもぞもぞと常に動き、毛布は丸められ寝台の脇に偏っていく。
彼の様子は、遠足の前の日の子供、それが一番近いだろう。
明日は何が出来るだろう。どんな練習をすれば、使えるようになるのだろう。
もしかしたら使えないのかもしれない、と心をよぎり、それにはすぐに首を振った。
カラスは言っていた。『勇者様も、魔力を持っている』と。
ヨウイチにとって、この世界で一番信用できる人の発言。ならば、物自体はあるはずだ。
あとは自分の問題だ。努力を惜しむ気はない。もしもそれが本当に使えるのならば。
魔術への興味。それに、興奮。
ヨウイチは寝付けないままに横を向く。その壁の向こうで侍女が自分が寝るのを待っていると知って、少しだけ恥ずかしい思いも心をよぎる。
それに反するように、また反対方向を向く。もっとも、そちら側の部屋にももう一人の侍女が待機しているのだが。
明日のこと、侍女のこと。そして、自身の持つ魔力のこと。
そこまで考えて、今朝見たカラスの魔法と折り紙の魔術を思い出す。
鳥と会話し、折り紙をまるでドローンのように自在に操る。そんなことが自分にも出来るのだろうか。もしも出来るのならば……。
横たわった足の置き場が定まらず、毛布が下の方に押しのけられる。
もはや体は毛布に覆われていないが、それでも温い空気が新鮮に感じられた。
カラス。この世界で現在最も信用の出来る人。
その姿を思い出し、不意に舞踏会の記憶が蘇った。
踊れてもいない踊りに疲れたころ、合間の余興として行われた大道芸。
その一環と侍従は言っていた。
聖騎士による武術の演武。聖騎士を使うのは贅沢だが、この国では余興としてよくあるものだとも、囁かれた。
ヨウイチは、聖騎士は苦手だ。投げ飛ばされ、叱られてから自身でもそれは自覚している。
聖騎士と聞いて、知らない人物であることを祈った。もっとも、知っている人物はほんのわずかにしかいないのだが。
しかし、演者の二人が現れて、心臓が跳ねる思いだった。その二人のうち一人が、自身の知っている人物だったからだ。
そして行われた演武も、凄まじいものだった。
ヨウイチの知っている『演武』とは違う。演武とは、様々な技を交互に掛け合い、その度に仕切り直しつつ技の習熟度を周囲に示すような演技のことだとヨウイチは思っていた。
しかし、そうではない。
一区切り、など存在しない。技から技の継ぎ目はなく、そして当たれば怪我をするようなものを本気で躱し防ぎあう、まるで実戦のようなもの。
剣術の稽古でも、防具なしの木刀で軽く叩き合う程度はしたことがある。当然それも痛いが、刃を潰してあるとはいえ金属製のもので叩き合うようなものはわけがちがう。
実際に掠った頬は出血し、そして所々当たっていた殴打も骨まで響いているだろう。
まるで、実戦。
そう想像したヨウイチの背筋が震えた。
確かに踊りのようなものではあった。動きは大きく、わかりやすいものが多かったと思う。受けよりも回避や受け流し、払い落としを優先するその動きは、それ用のものかもしれない。
だがそれは、見栄えを良くするためだけのものではないのだろう。
ヨウイチはまた仰向けになり、そのまま手だけで無意識に剣を構える。当然、剣など手の中にはないが。
大きな動作は威力を高めるためのもの。当然その後の残心や前後の構えなどで隙はなくし、その対策もしている。
本来は確かに、その動きを小さくして同じ威力を出そうとするのだろう。その練習用の動き、とでも言えばいいだろうか。
ヨウイチも、無拍子の鍛錬で随分とやった。まず大げさなほどの大きな動作を練習し、それから徐々に突きの動作を小さくし、それでも貫通力は保てるようにと。
魅せてはいる。しかし、それはただ魅せるためのものではない。
それもそうだろう、とヨウイチは納得する。彼らのように実戦に出る兵士が使う技術だ。当てれば勝ち、という場所もあるにはある。ヨウイチの修めた佐原一刀流剣術でも、まず狙うのは相手の首や手首、目などの露出部だ。
だがあの動きからすれば、彼らの行っていたものは違う。当てるのは相手の防具であり、そして盾だ。それを両断しつつ、中身へも攻撃が出来るように、軽い動きでは終われない。
当然、鎧を着ていない場合の急所狙いの技術もあるのだろう。今日見せた演武では、そういったものが出来ないだけで。
もしくは、その急所をカバーする技術がお互い高等で、そこを狙えなかったということもあるかもしれない。
手を離し、拳を握る。
馬鹿にするな、とテレーズに言われた。相手に対して、そして師である祖母に対して。
それは本当のことだったと、改めて思う。
馬鹿にしすぎたのだ。こちらが手を抜く、なんて本来あり得ない。
それもそうだとようやく気づく。相手は熟練者。それも、日本でただ模擬戦を繰り返した自分とは違い、本当の戦争に従事していたような人たち。
手を抜いてあの様だった。関節にいくつも攻撃を受けて、無事で済んだのも相手に手加減をする余裕があったからだ。
全力でいくべきだった。いいや、全力でいってもまだ足りない。昨日訓練で手合わせをしたあの二人相手にも、多分自分は勝てないのに。
本気でやっても、まだ力不足といわれただけだったのではないだろうか。
本当に、無駄なことをした。格下の自分が手抜きで戦ったのだ。馬鹿にするなと怒られるのも当然だろう。
戦いたくはない。今でも。
戦場に出るなんてあり得ない。
勝手にここに連れてきて、戦えといわれるなんて、それこそ自分は馬鹿にされているのかもしれない。
それでも。
もしかしたら、と希望も湧く。
剣術は、もはや日本では無用の長物だ。祖母もよく言っていた。『この道場も自分の代で終わりだ』と。
剣道に打ち込んだ。それはただ、剣道が楽しかったから、だけだろうか。
ガバリと起き上がる。
温い温度の中でも、汗が額を伝う。
剣が振るえる。この世界では。
振るうことが許されている。思いっきり、全力で。
剣道の試合ではもちろん使えず、そして人前では使うことを禁じられている剣術の技も使うことが。
戦いたくはない。戦争に出たくもない。人を殺すなんてとんでもない。
それでも。
「……勇者様? どうかなさいましたか?」
衝立のような壁の向こうから、灯りが近づく。侍女のマアムだ。
ヨウイチは知っている。彼女は今寝間着としての薄着で、男子高校生としては目の毒の姿だった。
「あ、いえ、何でもないです」
だが姿を見ようとはせずに、またいきおいよくヨウイチは毛布を被る。
「そうですか。おやすみなさいませ」
目を瞑った暗闇に、今まで考えたことも霧散していく。まるで最初から言語化されていなかったかのように。
ただその向こうでマアムが消える気配だけを感じていた。
(とりあえずは明日、魔術の訓練を……)
明日のことを楽しみに、ヨウイチは暗闇の中で堪え忍ぶ。
彼がようやく寝付けたのは外が明るくなり始めてからのことだった。