邪魔者たち
「もう少し順序を踏むべきでは……?」
はは、と僕は冗談めかして口にする。
何を言っていいのかわからないのと、それと少しの照れ隠し、その両方の理由で。
しかしオルガさんは笑みを作らず、真剣な目で僕を見つめる。無視したわけでも気分を害したわけでもなさそうだが。
それから、ゆっくりの瞬き。
「……だってこうでもしなければ、誰かに取られてしまいそうですから」
寝台に押し倒され、接触しておらずとも今僕は組み敷かれている。
吐息が触れる距離。明らかなパーソナルスペースの侵犯。
本来不快に思うべきなのだろうが、あまり不快には思えないのが不思議なものだ。
「残念ながら、僕の取り合いは起こりませんよ」
こういうことでは、という但し書きがつくが。脳裏にカンパネラとレイトンの一悶着が浮かんだが、関係ないし僕はそれを意図的に無視した。
「……正直、避けられていると思っていたので、その話も続きはないものと思っていましたし……ね……」
もちろん、そういう僕の願望があったというだけだ。
今この状況はそれを明確に否定しているし、そもそもうやむやにしていいものでもあるまい。いや、自然風化してくれるのならばそれもいいのだけれど。
「私の事情はご存じでしょう。お父様が隠居なさるまではまだ時間はありますが、その日は刻々と迫っています。少なくとも、五年前のあの時よりも」
「……まあ」
ぼんやりと、オルガさんの言葉を受け止める。
そうだ。オルガさんの結婚相手。それはユスティティア家次期当主を決めるための重要な要素であり、そして時間も無限ではないだろう。
「……でも、今じゃなくてもよかったじゃないですか」
だが、その期限は有限だが今すぐでもない。少なくとも、再会してすぐにこうする必要はないだろう。
「再会して、まだ世間話をした程度。旧交を温めるとか、そういう時間も」
「う……」
痛いところを突かれた、とばかりに少しだけオルガさんの顔が歪む。
「それについては申し訳ありませんが……でも……」
消え入るような言葉。語尾の言葉を明瞭にしないまま、オルガさんは小さく首を横に振った。
「ここまできてしまった。だから、今このときしかないのです」
それから十秒以上か、長い沈黙の後、オルガさんは意を決したように口を開く。
「……考える、とカラス様は仰いました。次に会うときまで、この目にかなう誰かが現れなければ、と」
オルガさんが唾を飲む。差した影の中で、その喉の動きがはっきりと見える。
「今がその時です」
「…………」
僕は言葉を紡げずに、黙る。
どう言ったらいいものか。
結論は決まっている。まず、断る。
まず結婚というものが遠い世界の話で、想定できないから、という理由もある。いいや、その理由は『あった』が正しい。さすがにいくつか歳を重ねて、ムジカルでも結びついた二人は大勢見て、その想像はつく。……おそらく、その経験もあったのだろうし。
それよりも 一番大きなもの。それが理由としては簡単だ。
『僕に、その気持ちが存在しないから』。
誰かを好きにならないわけではない。多分。
誰かを愛せないわけでもない。おそらくは。
でも、オルガさんと結婚したいと思えるかと言えば、それは首を振る。
嫌いなわけではない。むしろ、僕が知っている人の中で、好感度でいえば上から数えたほうが早いだろう。だが、そういう意味で好きでもない。
しかしそれをどう伝えればいいのだろう。
「……こうして成長した貴方を見て思います。やはり、私の目は間違っていなかった」
悩む僕へ向けるように、オルガさんは呟く。どちらかといえば、僕の反応を期待していないような独り言だが。
「あれから更に、二つの場所を見て回りました。そして、数え切れないほどの人を見てきた。そしてやはり、貴方以上の力を持つ人はいない」
「……買いかぶりですね」
「いいえ。貴方は、自分の魅力を知らないだけなのでしょう」
僕の頭の横に突き立てられていたオルガさんの右手が、僕の耳の横まで動く。
「どうか、頷いてください。そうすれば、貴方はその瞬間に全てを手に入れる。富も権力もユスティティア家も。そして貴方ならば、いずれはいずこかの国すらも」
何故だろう。
また、何となく悲しくなってきた。
嫌なわけではないが、頷けない。オルガさんの言葉に。もちろん、そもそも頷く気がないのだが。
ざわめく胸に、少しだけ昔の頼子さんの声がよぎった気がする。
そしてもう一つ、思った。
何か、足りない。
「……や……」
「人に仕えて一生を過ごす。貴方には、似合わない」
とりあえずはまず断ろう。
そう思って僕は口を開きかけるが、オルガさんは遮るようにまた言葉を紡ぐ。
……この感覚、思い出してきた。多分前回も。
まとまってきた。なんとなくだけど、多分。
一転して僕の言葉を待つオルガさんに、僕は少しだけ緊張を解いた。
「オルガさんは……」
「はい」
「僕が、オルガさんを幸せに出来ると思いますか?」
端的な質問。
だが、オルガさんは悩む間もなく頷く。
「ええ、もちろん」
その顔には確信が見える。僕の頭の横に置かれたオルガさんの手に力がこもる。
それに反するように、僕の頭は冷えていった。
「ごめんなさい。僕には、そうは思えません」
僕の言葉にオルガさんの顔が戸惑いに染まる。
それから、何かを言いかけるように声もなく口を動かしていた。
「話の続きを、とのことですけれど……」
「カラス、様は……!」
「申し訳ありませんが、話はここで終わりみたいです」
またも遮られそうになり、僕はやや早口で言葉を繰り出す。食い下がるような仕草を見せているオルガさんには悪いけれど、やはりこの話に先はない。
「…………」
「申し訳ありません」
僕から目を逸らし、オルガさんは俯くように首を竦める。唇が震えていた。
オルガさんの手が僕の頭から離れていく。肩の辺りに下がり、そこで一度寝台を拳で叩いた。
「…………どうして……」
「…………」
もう何も言えずに、僕は唾を飲んで黙る。
オルガさんからのプロポーズは受けられない。それが、僕の答えだ。
僕の顔に、滴が滴り落ちてきた。
「そう、ですか……」
眼鏡に落ちた水滴が流れていく。
けれど歪んだ視界の向こうにあったオルガさんの顔は泣き顔などではなく、困ったような笑い顔に見えた。
「……仕方ありませんね」
消え入るような声。だが、不自然なほどに笑みは崩れない。
「……仕方ない……です……」
ゆっくりとオルガさんが床に座り込み、覆い被さっていた温かさがなくなる。視界の中、足下の方へ消えていった彼女を追うように、僕は体を起こした。
床にぺたりと座り込ったまま、オルガさんは僕から見えないようにそっぽを向く。
僕は小さく息を吐くと、その姿を視界に入れないように体を背けた。
そうしてから、少しだけ嗚咽の声が聞こえてきた気がする。本当に、わずかに小さな音で。
僕はその声を聞きながら、オルガさんが吐いた小さな『嘘』について、ぼんやりと考えていた。
少しだけ僕が不快感を覚えた嘘。本当は不快感を覚えるべきではない嘘。……多分、前回の食事会で僕が頷けなかったのも、そこに端を発しているのだろう。
なるほど。ルルはこういう世界で生きているのだ。僕は答えを知っているから、不快に思っただけなのかもしれないけれど。
オルガさんの吐いた嘘。家のために僕の身を欲した。そんな嘘。
なんだろう。
オルガさんは、僕のどこをそんなに気に入ってくれていたのだろう。あの探索ギルドで受付をしていた彼女と、よく話してはいたがそんなに親しくした覚えはない。
考えてみれば、きっとあの時からだ。化け狐の剥製を見に競売へ出かけた日。確かあの時は彼女は私用でそこに来ていた。……つまりは、ただ僕と一緒に出かけるためだけに。
鼻を啜る音が聞こえる。きっとまだ涙を流したまま。
どうして、僕なのだろう。
オルガさんは、『力』を持つ人を伴侶にするために今の人生を生きてきた。
けれど、僕以上の人は、きっとどこにでもいる。
僕より強い人はいる。僕よりも金を持っている人もいる。僕よりも頭のいい人もいる。僕よりも外見の整った人もいる。
なのに、何故。
オルガさんは、僕のどこをそんなに気に入ってくれていたのだろう。
こんな、人間擬きの僕の、どこを。
友達から、とでも言えばよかっただろうか。
まだ僕はオルガさんのことをよく知らず、そして多分オルガさんも僕のことはよく知らない。
ならば、仲良く付き合っていけば、いつかは好き同士になるかもしれない。もしくは、オルガさんの方が僕に愛想を尽かすかもしれない。……後者を望んでいるのが、僕自身わかるけれど。
口を開きかけ、それを誤魔化すように僕は立ち上がる。
ギシと寝台が鳴った。
「……僕は、戻ります」
もう少しゆっくりと関係を構築して……と、少しだけいいかけた。
けれど、それはもう遅い。その案を出す段階はきっと過ぎてしまった。
あの日、まだ子供の今よりも、もっと子供だったあの食事会の日に出すべきだった言葉だ。
「……私は、……私は、もう少ししたら……戻ります……」
返答を期待してはいなかった。だがオルガさんは、涙混じりの声を背中越しに僕にかける。
その声に振り返ろうとした。
しかしオルガさんは、その気配を察したのか強い口調でまた言う。
「どうか、こちらを見ないでください。……明日には、……いいえ、明日からは、きっとまた以前のような顔を見せますから」
「……お願いします」
制された僕はそれに逆らわず、振り返ろうとした顔を戻す。振り返ろうとした自分に、何故だか腹が立った。
「久しぶりに話せて、嬉しかったので」
多分、楽しかった。この王都に来て、人と話して一番楽しいと感じた時間だっただろう。
それはきっと、今まで避けられているかのように僕が感じていたからだろうが。
何となく、僕も泣きそうになってきた。
前回と違って悲しいわけでもないはず、なのに。
「……そういう優しさは、カラス様が好きな人にとっておくべきですよ」
「本音です」
背後で、フフ、と少しだけ笑った感じがする。本当は笑えないと思っても、その声に多少だけ救われる気がした。
僕の耳に足音が響く。扉の向こう側で、誰かがこの部屋に向かって歩いてきていた。
この部屋はほとんど誰も使わないと言っていたので、このまま通り過ぎていくのだろうか。いや、珍しいこの部屋の使用者という可能性もある。それとも、アネットだろうか。そういえばアネットへの説明などどうしよう。
この場をセッティングしたのは明らかに彼女だ。この顛末を彼女は知りたいと思うだろうし、オルガさんは躱せても僕の方が難しい。
いいや、黙秘するべきだ。僕ではなく、オルガさんの名誉のために。
顔だけで苦笑しながらそんなことを考えていた僕は、顔を上げる。
人生の一大事が過ぎ去ったからか、起きていたわずかな気の緩み。
それをすぐさま解消しなければいけないと気づく。危機感に、耳の後ろが粟立った。
感じたのは、害意。
「オルガさん、身を伏せて!」
小さく僕は叫ぶ。余裕に構えてなどいられない。
僕のことならいいが、彼女を巻き込むとしたらなりふり構ってはいられない。
扉が小さく跳ねて飛ぶ。
面をこちらに向けたまま飛んでくる扉を障壁で弾くと、その向こうに見知らぬ男が二人立っていた。