祭りの準備
『今日は勇者出席の晩餐会が開かれる』
そう知らせが来たのは、昼過ぎのことだった。
いつものように報せに来た係に対し、いつものように「今日もないのですね」と笑って返そうとしたサロメだったが、そうはならなかった。
代わりに、伝令係がサロメの前で広げたのは、蛇腹に折りたたまれた質のよい白い紙。そしてその内容は、今日の晩餐会の出席のための要旨。
サロメのご近所づきあいに似た笑みもすぐに形を潜めて、神妙に聞き入る姿は少しだけ面白かった。
同じ報せを受け取ったのだろうか、他の令嬢の使用人が、廊下をバタバタと走っていく。耳を澄ませば他の令嬢の衣装と質を揃えるべく相談しあっているようなので、似たような相談をする誰かがきっとこの部屋にももうすぐ訪れるだろう。
王城での食事会、およびその後の舞踏会。その辺の準備に僕が関われることはあまりない。
これに関しては放置でもいいだろう。もとより、専門外だ。
しかし、数刻後の晩餐会。
……勇者は、大丈夫なのだろうか。
「食事会ならば初日にもやったはずなのに、何か違うんでしょうか?」
「ん?」
オトフシも準備には関わらない。部屋の中で衣装や化粧道具などを整理する音を聞きながら、僕とオトフシはいつもの場所で座って待機していた。
「少し前までは、晩餐会というか夕食を皆食堂で食べていたじゃないですか。それと同じ、と考えればそんなに大変なことなんですかね?」
どこまで聞いていたのかわからないので、補足するようにしながら同じような質問を繰り返す。いや、実際気になっているわけではないし、ただの世間話的なものだが。
オトフシも無感情に周囲の音を聞きながら、ああ、と呟いて僕の顔を見た。
「全然違うのだろうな。何しろ、今日は勇者がいる」
「晩餐会では席が離れている人が大半じゃないですか」
貴族の晩餐会では、一応食事中に席を立つのはマナー違反だ。多くの令嬢は勇者からは遠く離れており、そんな遠目に見える勇者のために装いを変えるなど、非効率な気がする。
まさか、昔見た宴会の風景のように、酒瓶片手に挨拶回りをさせるわけでもあるまい。
「無論、重要なのは食事会ではない。その後の舞踏会だろう」
「それにしても、いつもの服装でも失礼に当たるわけではないと思いますが」
「たしかに、失礼には当たらない。しかし、舞踏会にはまた違う意味があるからな」
椅子に深く座り、足を組むようにしてオトフシは背もたれに凭れる。
「いくつもの学問に精通しているお前も、そういった分野には随分と疎いらしい」
哀れむような視線。実際に哀れんでいるわけでもなく冗談交じりではあるだろうが。
「もとより探索者には関係がない話ではあるが、舞踏会というのは踊りを楽しむ場ではない。ましてや今回も、勇者と知り合いになるためだけに開かれるわけでもあるまい」
「……みなさん、そんなに本気だと?」
「なんだ、わかっているではないか」
フフン、とオトフシは笑う。
いや、舞踏会の意味も僕は知っている。他ならぬ、ルルの屋敷にいるときに聞いたことがある。だがそれでもなお、少し皆の反応が予想外だっただけで。
「何しろ勇者に見初められれば、単なる弱小貴族の娘が国家有数の大貴族の夫人になれるかもしれんのだ。本気にもなるだろう。勇者の世界では、……灰被りといったか」
……シンデレラストーリー。勇者の語った話の一説に含まれていたというけれど。
「では、皆さんに硝子の靴を履かせないといけませんね」
「金銀ではなかったか?」
「……そうでしたっけ?」
僕の言葉に、オトフシは不思議そうに眉を寄せる。
勇者伝の話は僕も詳しくはないが、勇者が語ったのはどの版の灰被りだろう。少なくとも、ペローのものではないらしい。長い歴史の内に、変質してしまったのかもしれないが。
「しかし、大規模なお見合いが頻繁に行われるというのも、庶民にとっては不思議なものですけど。というか、何故何度も必要なのかという疑問も」
舞踏会に関しては、こういうところ以外でも開かれているだろう。それこそ、月に一度程度はどこかの貴族主体で。そこで決まらない人々が多いということもあるだろうが、それ故にそもそも非効率な気がする。
「それも仕方あるまい。赤い血を混ぜぬために、貴族たちは青い血の内で婚姻を繰り返している。道楽と言われても反論は出来まいが、それでも制限された不自由な婚姻の中でも、窮屈な貴族たちにとって数少ない楽しみの一つといえよう」
「不自由な婚姻、ですか」
「昔お前にも言ったはずだな、親が決めた相手が誰だか知らぬ結婚など珍しくないと。しかし舞踏会で相手を決定することが出来れば、庶民にだけ許されるはずの恋愛の真似事が行えるのだ。……だから、本気にもなる」
「…………」
理解できずに、生返事を返そうとした。
しかし、何故か返せなかった。相手が誰だかを知らない結婚。その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えた。
「まあ、故に王族や貴族はほとんどが血姻関係にある。この広い王国を統べる者たちの血が、舞踏会という狭い場所に閉じ込められている。面白いものだ」
オトフシが唇を舐める。本当に面白そう……というか、興味深そうに。
「僕としては、相手は全員自分で選べばいいのに、と思いますけどね」
「フ、それが出来る力が全員にあれば、そうかもしれんがな」
衝立の横を下男が通る。サロメもどこかへ使いを出したらしい。
そしてその扉を閉める後ろ姿に、僕は少しだけ嫌悪感を覚えた。
舞踏会の準備に本気にもなる、というのは今オトフシから聞いたことだ。僕は庶民だからそれに納得は出来ないまでも理解はしよう。それがそういう楽しみならば、そうしてもいいのかもしれない。
しかしならば、皆存分に着飾ればいい。
誰もが、自分が一番美しいと思う衣装を着て、確かに自分が一番美しいと、胸を張って主張すればいい。
なのに、何故それをしないのか。
厳密に同じ服を着るわけではないにしろ、同じような質の服を着て、それでいて自分が一番と、自分を選んでほしいと考えている。
今回は勇者に向けたものなので、勇者の好みに寄せたと思えばそうかもしれない。勇者の好みを、誰一人として知っているとは思えないが。
もちろん、その理由も理解はしているつもりだ。
晩餐会において、主賓は客よりも豪華に着飾ってはいけないと聞く。
会合において、地位が下の者は上の者よりも豪華に着飾ってはいけないと聞く。
誰がいけないのかもわからない。いけないのかすらもわからない。
けれどもそれは、必要なことなのだろうか。
やがて数刻の後、僕は締め出され、ルルの着付けが始まる。
四半刻ほどの時間を僕は屋根の上で潰し、六の鐘が鳴る頃。ようやくオトフシの紙燕で、部屋に戻るようにと指示が出た。
ここから、一応交代はない。いや、昼過ぎからは僕の当番で、オトフシは部屋で休憩していたようなものだったのだが。
一応ドアノッカーを叩いてから部屋に入れば、奥の方でルルの着付けの最終段階が行われていた。
「……まだ終わってないじゃないですか」
「着替えは終わったのでな。お前も手持ち無沙汰では気の毒だろう」
僕の抗議を、爪の手入れをしながらオトフシは鼻で笑い飛ばす。そう言われても、今のところ何も脅威はないこの王城内で、いつも手持ち無沙汰といえば手持ち無沙汰なのだが。
ルルに目を向ければ、サロメが髪飾り……といっても、ピンのようなごく小さなもの……の位置を調整するために鏡の前で目を瞑って固まっていた。
いつも化粧はしているが、今日はそれに加えて少しだけ派手になっているように見える。
唇の色も明るく、眉の色とアイシャドウの色も濃い……気がする。元々薄化粧だから、彼女にとってこれが標準なのかもしれないけれど。
服はいつもと変わって……もないな。
いや、一応変わってはいる。黒いシックな細身のドレスはいつもと同じ。だが前に見たエウリューケのように、肩が出るデザインのようだ。既につけている肘よりも上まで覆う白い手袋と合わせれば、白と黒の単調な色調にまとめられていた。
まあ、それに関して口出しをすることもない。もともと門外漢で、更に何かを言える立場でもないだろう。
僕はいつもの椅子に腰掛け、座面に手を当てたまま背を伸ばした。
「確かに、手持ち無沙汰でしたからね」
「……勇者の様子はどうだった?」
「部屋には入れなかったのでなんとも。ただ、侍女たちは楽しそうでしたよ」
僕の答えに、オトフシは鼻で笑う。
「だろうな。ついに訪れた祭りだ。妾は見てはいないが、想像するに難くない」
オトフシの言葉には応えず、僕は先ほどこの部屋から締め出されていたときのことを思い出す。
勇者の様子をと透明化しつつ見にいくと、やはりまだ魔術の勉強など出来るはずもなく、晩餐会のための準備の真っ最中だった。
元々用意されていたであろう衣装が部屋に数十着運び込まれ、それを合わせていく音と声がずっと響いていた。侍女たちの玩具にされていた、というのは言い過ぎだが、彼女たちの感覚としては間違いでもないのかもしれない。
そして同時に行われていた、晩餐会と舞踏会の手順の一通りの説明。やはりというべきか、勇者にとっては未体験のもののようで、『お、踊りですか』と慌てている様子だった。
こればかりは僕も手助けは出来ないし、自分で切り抜けてほしい。
そう願いつつその場を離れたのはつい先ほどのこと。
どちらかといえば、屋根の上でボーっとしていたのが一番短い。
「しかし、勇者も面白いことをするものだ。勇者として名乗りを上げることを条件に、魔術を学びたいとは。勇者の世界では、そんなに魔術が珍しいのか?」
「珍しいのではなく、存在しないとのことです。魔術も、魔法も」
「千年前の勇者は、すぐに指先に火を灯したと聞くが」
「……素質の問題でしょうかね」
言いながら、僕の疑問も増えていく。
千年前の勇者と今代の勇者の素質が違う。実際にはどうなのかはわからないが、もしも千年前の勇者の方が何らかの素質として優れているのであれば。
先ほどルルも言っていたこと。どうして、勇者はオギノヨウイチなのだろう。
……そういえば、エウリューケも気になることを言っていた気がする。
呼び出される勇者の『呼び出し元』の座標。それが、半分はあの召喚陣の部屋だったと。
勇者の単体のコピーをとるならば、いくつもの場所を指定する必要はない。ましてや、あの召喚陣の部屋などは。
材料となった鶏たちの関係だろうか。いや、ならばエウリューケはそこで悩むことはない。鶏の存在はエウリューケにとっては既知のはずで、そして彼女ならばそこですぐさま関連づけて考えられるはずだ。
剣術を重視した。
そうかもしれない。千年前の勇者に関しては、使っていた剣術などは伝わっていない。失伝してしまったのかもしれないが、もともと彼は剣術に関しては素人だったとも考えられる。
……それだけで?
オギノヨウイチが世界有数の剣術家だった、というような理由でもない限り、その話には無理がある。彼が日本でどれだけの腕前に位置するかは知らないからなんとも言えないが。
もしくは、魔力があるから。少なくとも、学べば魔力を使えるような人間ではあるだろう……が、やはりそれは四十五億もいた地球の人口の内一番魔力があるのかという話に繋がってくる。
あの勇者召喚陣を僕が起動することが出来れば何となくわかるかもしれないが、それが無理だというのもエウリューケの言だ。八人の魔力使いによる厳密な儀式によってようやく起動されるという性質上、僕が魔力を通したところで何にも反応はしなかった。
「……少なくとも、魔法使いの才能はあるようですし、頑張ってほしいものです」
何故彼だったのか。それはやはりわからないが、勇者召喚陣による身体改造も加わり、きっと出来るだけの力があるのだろう。そんな気がする。
「終わりました」
サロメがルルに言い聞かせるように、言葉を出す。化粧が仕上がったらしい。衝立の向こうで、ルルが息を吐いた気配がした。
ふと何の気なしにそちらを見れば、衝立の向こうでルルが鏡越しに自分を確認していた。
「何かご不満な点などは」
「いえ……」
「では、これで準備も完了ですね」
自信作です、とでも言わんばかりにサロメが胸を張る。だが何故だろう、その声音は、少しだけ強張って聞こえる気がする。
自信がないわけではないだろうが、気後れするように。
「食事会は七の鐘、でしたね」
「そうですね。もう少し時間があります。この部屋で、しばらくおくつろぎいただければ」
そう言いつつ、化粧品のカートを押して、サロメがそれを片付ける。下地やらチークやら、瓶に入ったそれらがぶつかり合ってカタカタと音を鳴らした。
まあ、いつもよりも衣装を着込んでいるのだ。くつろぐと言っても、いつもどおりにはいくまい。そう思いつつ気配を殺していれば、やはり、ルルはいつものように机に座ることはしない。
ただ、手を開閉させて手袋の付け心地を確かめる。
……ルネスの言葉では、その手袋もリコの作の方が良い出来なんだっけ。
「……カラス」
「何ですか?」
そしてそんな内、突然オトフシから声をかけられる。その笑みは、少しだけ嗜虐的に見えた。
「申し訳ないが、薬があったら分けてもらいたい。咳止めなど、持っていないだろうか」
「咳止め、ですか?」
オトフシは今のところ咳払いの一つすらしていないのに。何だろうか。声からも、喉を痛めている様子はない。
「確かありましたけど……」
「ならすまんが、頼む。借りにしておく」
「それくらいなら構いませんが」
僕は立ち上がり、衝立から出る。
たしか、荷物の中に何包かあったはずだ。舌の裏で溶かす緑色の粉薬。
絨毯の床をそっと踏んで、そちらに向かうべく歩き出す。
だが、何だろうか。その瞬間『それ』を察した。
これが狙いか。
「…………」
少しだけ遠間だが、ルルと目が合う。一瞬渋い顔をしていた彼女は、僕と目を合わせるとその顔の力を抜いていたが。
同じと思っていたが、いつもと違う装い。
着飾った彼女の前に、一張羅とはいえ平服に近い僕のこれで立つのが何となく恥ずかしくなった気がする。
髪型も変えているのか、いつもそのまま垂らしていた前髪は横に流され、先ほどのピンで留められていた。
「……髪型」
「はい……?」
僕は誤魔化すように聞き返しながら、その姿に一歩近づく。
一瞬だけ、いつもと違うように見えたというのに、今は以前と変わらない姿に見えた。
「髪型、変えてみたんです。どうでしょうか?」
「どうと……」
どうと言われても。そう返そうとした僕の口が、動きを止める。
化粧については門外漢。装いに口を出す立場ではない。
そうは思った。だが、言葉を止めたのはそんな理由ではない。
声が聞こえた。
頭の中から。僕の今持っているこの耳で、聞いたことのない声がする。
映像までもおぼろげに目の前に見えた気がする。一瞬だけれども、たしかに。
"銀座に新しく出来た理髪店に行ってきたんです。どうでしょうか?"
浮かんだのは、やや恥ずかしげに笑う女性。少しだけ、首を横に振って、緩くパーマをかけた短い髪の毛を揺らしていた。
右目に痛みが走る。いや、これは痛みではない。
「っ……!」
「?」
思わず押さえた僕に、ルルが怪訝な目をして首を傾げる。
「……大丈夫ですか?」
「ちょっとゴミがはいったらしくて」
はは、と誤魔化すように笑いながら、僕はその涙を止める。目を瞑って、拳で押さえて。
僕がここで口に出すべきだったのは、『どうと言われても、私が口を出すわけにはいきません』。もしくは、『素敵だと思います』という言葉だろう。
だが、どちらも言うべきではない。そう、どこかの誰かに叱られた気がする。
「……いつもの髪型もお似合いですが、明るい印象があって綺麗だと思います」
素敵だと思わないわけではない。けれど、それを口に出したら嘘になる気がする。それは、彼女が今最も嫌っているもの。
だから。
「もっとも、私は前髪を下ろした方が、ルル様には映えると思いますが」
嘘は吐くまい。もっともこれは、単なる僕の好みだろうが。
「もしくは、前髪を横に流すのでしたら、もう少し大きな髪飾りをつけるなどすれば、……」
言葉が止まる。今度は、何かしらの意味があったわけではない。
単に、また何となく恥ずかしくなってきたからだが。
口を閉ざした僕に向けて、ルルが噴き出すように息を吐く。拳を手に当てて、笑いを堪えるように。少しだけ、目尻が下がったように見える。
「……私も、いつもの髪型の方が気に入ってるんです。もっとも、気にしたこともあまりないんですけど」
そして、表情を意図的に消すように、ルルは一度目を閉ざす。
「でも、ありがとうございます」
「いえ……」
いつの間にか視界が晴れ、そしてルルも僕から視線を外す。
視界の外から、ルルには聞こえないくらいの小さな咳払いの音が聞こえてきた。オトフシのものだが。
正直、咳止めなどいらないだろうに。
僕は頭を下げて、自室へと下がるべく足を踏み出す。
待機場所へ戻った僕から咳止めを受け取ったオトフシは、何食わぬ顔で感謝の言葉を述べるだけだった。
今年最後の更新です。
今年中に終わらなかったのは無念ですが、来年中には終わらせますので、みなさま来年もよろしくお願いします。
良いお年を。