セカンドコンタクト
青空が見える。外に出たのだから当然だが。
先ほどの廊下から少し離れた場所、その三階。
つるりとした王城の外観に時たま現れる段差。そのベランダのような場所。
見下ろす中庭からは先ほどの廊下が見える。
そんな場所に、僕と勇者はいた。
勇者付きの侍女二人は、このベランダに出る扉の向こうで待機している。聞き耳を立てているようだが、僕が音を遮断してしまえば何も聞こえまい。
勇者は落ち着きなく学ランに似た礼服の肘の辺りをいじり、中庭をちらちらと覗いていた。
「…………さて」
後ろ姿に僕が口を開くと、勇者が少しだけ肩を震わせる。緊張している様子だが、そんなに緊張するような場だろうか。
勇者が僕の方を向く。その勇者に向けて、一応口角を上げて笑顔を作った。
「まず、謝らなくてはいけませんね。一昨日私が余計なことを言ったばかりに、テレーズ様に叱られてしまったこと。申し訳ありません」
「いや、そんな……」
「思っていた反応とは少し違いまして。私が思っているよりも、テレーズ様は真剣だったようです」
言いながら、ちょっと違うと僕は思う。上手く言えないが、テレーズ・タレーランの反応は確かに僕の予想とは違っていた。しかしそれでも、大きく外れているわけでもなかったはずだ。
何だろうか。この申し訳なさは。
「まあ、それで、一応これで戦場に出ずに済んだということで勘弁していただければ。あとは勇者様が訓練場へと出ないように立ち回れば、当分の間は……」
「あの、そのことなんですが……」
「…………?」
意を決したように、勇者が僕の言葉を遮る。伏し目がちに、ベランダに片手をかけたまま。
「何でしょうか」
「……今朝、通達がありまして……。しばらくの間、俺は、訓練場には来るなとテレーズさんから……」
「……はあ」
訓練に出るな。それはつまり、勇者の戦闘訓練をテレーズはしないということ。……あのミルラ王女が怒りそうなものだが。
「何故でしょう?」
「俺、聖騎士さんたちに嫌われてるみたいで……」
「それを漏らしたとしたら、わりと迂闊な伝令の方ですね」
自分が嫌われていると、勇者は知った。それはつまり、伝令が勇者に向かって『お前が』と口にしたということではないだろうか。
「あ、いえ、そうじゃなくて、詳しく話を聞いてはいないんですけど、マアム……あ、あの侍女の人が詳しく話を聞いたのがちょっと聞こえて……、俺、この世界に来てから耳が良くなったみたいで……」
慌てるように、そう勇者は弁護の言葉を吐きだした。
……。耳が良くなった。
おそらく、良くなったのは耳だけではあるまい。目や鼻などはもちろん、舌なども鋭敏になっているのではないだろうか。普通の人間でなくなった以上、どこか強化されていてもおかしくはあるまい。
いや、強化されていなくてもそうなるか。闘気のなかった前世からすると、この世界の生物は全てが全体的に強くなっている。ただ闘気を帯びただけ、とも考えられる。
まあしかも魔力まで持っているのだ。そうでなくともその感覚器官は、前世と比べると確実に性能が上がっているのだろう。
しかし、それが『相談』?
「それで? 嫌われるのが嫌だった、とか」
「いえ、そんなんじゃない……んですけど」
では何が言いたいのだろうか。そう続きを促すが、勇者は両手をベランダにつけて下を覗く。中庭に出ている使用人がこちらに気づくが、見ているのが勇者だとはわからないのだろう、特に何の反応も返すことなく仕事に戻った。
「何なんでしょうか。『よかった』と思うだけじゃない自分がいるんです。本当は、ええと……カラスさんの言うとおり、当分大丈夫で、安心するところなのはわかってるんですけど……」
「でも、何か納得がいかない」
僕が言葉を継ぐと、勇者がこくりと頷く。
「……そうなんです」
ベランダから外を覗くこともなく、縁に両手をつけて、勇者は自分の足下を見る。落ち込んでいるような、そうでもないような仕草で。
「朝、ふと思ったんです。俺、ここに来てご飯だけもらって、それで何もしないでいいのかなぁ……って」
「いいに決まってるじゃないですか。勇者様は拉致されてこの国に来た。この国の勝手な行動に、付き合う必要はない」
何か納得がいかず、行動を起こそうとしている。それ自体は別に悪いものではないと僕は思う。やりたければやるべきだ。
けれど、ストックホルム症候群か、それとももっと言葉は悪くなるが、洗脳か。そういう理由で勇者が心変わりするのなら、それはそれでやめるべきだとも思う。
「戦うな、とは私は言いませんが、罪悪感を覚える必要はないと思いますよ」
「そうなんですけど……」
勇者が深い溜息をつく。そして体を反転させ、ベランダの縁に背中を預けるとそのまましゃがみ込んだ。
「昨日祖母ちゃんが夢に出てきたんです。泣いてて……、でも、何でかなぁ……」
勇者は笑う。楽しそうでもないが。
「……悔しそうだったんですよね。俺に何にも言わないで、でもじっと見て……」
また俯いた勇者に、僕は声をかける。何というか、この見下ろす体勢からだと全部上から目線になりそうで怖い。注意しないと。
「私は勇者様のお祖母様は存じ上げませんが、それは、ただの夢だと思います」
「…………」
「もしも悔しそうにしているというのなら、それは勇者様が想像した姿で」
言いながら気がついた。
この話題、続くと勇者に戦場での戦いを勧める話題になる。一応僕はその気はないと自負しているのだけれど。
……まあいいか。
「そしてその意味は、夢占いなどそういった方面の話でしょう」
「……俺、どうしたらいいんでしょうか?」
「さて。夢占いについては私も詳しくはありませんし」
もっと詳しそうな者は知っている。場所は知らないが、きっと現在城のどこかに身を潜めているのだろう。むしろ、そういうことは彼女に相談するべきだと思う。本職に。
しかし、僕の知識の中にある夢占いといったらなんだろうか……。
……拳銃や蛇やら引き出しやらなにやら、夢に出てきたものをどれも性器に結びつけるようなものが一瞬浮かんだが、多分それが僕の知識の中では主なんだろうと思う。
いや、夢占いの話はどうでもいいのだ。そもそもあれは分析で占いではない。
「……勇者様は、何かしたいことは?」
「わかりません」
「私の考えを述べましょう。訓練場から閉め出されたのは置いておいても、勇者様が罪悪感を覚える必要はない。勝手にここに連れてこられたんです、衣食住の世話などをされることも当然と思ってもいい」
「…………」
「ですが、帰るのも難しい。それもおわかりですよね」
「そう、ですね」
僕の言葉に、より一層勇者の表情が沈む。
帰ることは出来ないとも僕は言わない。その方法は、といえば口を噤むが。
「『これだけ歓待されているのだから、何か自分も返さなければ』と思う気持ちはわかると思います。けれども、それはただの押し売り被害者と変わらない」
良い行いには良い行いで返すというのがきっと世間の美徳なのだろう。そして、悪い行いに悪い行いで返すのも世間は許すのだろう。多分、グスタフさんは許すべきではないと思っていたのだろうが。
しかしならば、勝手な行いには。……僕のするような、身勝手な行いにはどう返すべきなのだろうか。
「だから、どうか、罪悪感などで動きませんよう。そういった負の感情からではなく、やりたいこと、楽しそうなことを、と思います。もちろん、自分の良識や美徳に従い、人に迷惑をかけないようにしながら。……いやまあ、迷惑は今勇者様はかけられている側なので、少しは寛恕されると思いますが」
勇者に戦うなとは言わないし、戦えともあまり言いたくはない。勇者に『勇者』をやれとも。彼に関して僕が見たくないのは、何かを嫌々やらされる姿だ。
「それとも、やはり逃げますか? 今ここからなら簡単に逃げられますが、……いや出来れば私が疑われないときにしてほしいですけど」
さすがにこの場から逃がしては、ルルに迷惑がかかる。
だが、逃げたいというのならば少しは協力しよう。僕に残っている優しさの範疇で。
勇者が僕の言葉に首を横に振る。
「……あまり、侍女の人たちにも迷惑はかけたくないんです。あの人たちも、いい人たちなんです、きっと……」
しかし勇者は、逃げ出す気はないと言う。本人がそうしたいのならば止めないが、ならば。
「まあ、その辺りは好きにするといいでしょう。願わくば、後悔のないように」
「はい」
結局何も答えられていないが、少しだけ勇者の顔色が明るくなった気がする。ただ単に、俯くのをやめて顔に光が当たっただけだろうが。
ゆっくりと勇者が立ち上がる。ずりずりと体を持ち上げ、ベランダの縁に手をかけて。
「ありがとうございます。カラスさんって、いい人ですね」
「……そんなにいい人でもないので、信用しないほうがいいと思いますよ」
「でも悪い人でもなさそうですし」
「それは同意しておきます」
ふふ、と僕は笑う。そして勇者の笑顔も、初めて見た気がした。
ベランダの外を鳥が横切る。雀のようだが、少し思っているのよりも細かったので違う種類かもしれない。
小さな虫を捕らえたようで、口の中に何か入れたまま「わーい」と小声で言った。
「さっきの折り紙……」
その鳥を、勇者も見ていたのだろう。宙を見つめたまま、勇者が呟く。鳥、そして折り紙。さっきのオトフシのことだろう。
「さっきの、あれが魔法、ですか?」
「魔法ではなく魔術ですね。彼女は魔術師なので」
「俺を召喚した、って聞いてましたけど、やっぱりこの世界には魔法……魔術があるんですね。あの折り紙が、生きているんですか?」
「いえ。さっきちらっと会ったと思いますが、銀の髪の女性が動かしていました。あの紙自体はただ細工がしてあるだけの紙ですよ」
「ラジコンとかドローン……みたいな?」
「……どう動かしているのかは私にもよくわかっていませんが」
ラジコン、という言葉に反応しないように、僕は言葉を選ぶ。ドローンについては何のことだかわからないが、勇者の時代にはそういうものがあるのだろうか。いや、あれか、ソ連が使っていた標的機か。
そういえば、エウリューケはあの紙も見えない塗料で魔法陣が描かれていると言っていたっけ。考えてみれば、あの紙も神器なのだ。
……神器。貴重なものといわれているが、案外身近にあるのかもしれない。
「この世界は、誰でもその、魔術が使えるんですか?」
「魔術師はそう多くはないですが、それなりにいると思います。魔術ギルドなんていう職能組合があるくらいですから。でも、誰でもではないです」
限られた人間だけだ。魔法使いと同じく、魔術師も数は少ない。
それでも彼らは連帯できる。共通の技術を持ち、共通の価値を持ち。
魔法使いの連帯感のなさは、その能力のばらつきによるものが大きいのではないかと今ふと思った。
「カラスさんは、魔術は……」
「私は魔法使いなので、彼女らとはちょっと違います。魔術ギルドに所属もしていませんし」
「…………? 区別が、あの、よく……」
勇者がこちらに体を向けて、首を傾げる。その区分は確かにわかりづらいから仕方ない。
「魔法使いは詠唱なく魔法を使う……人間で、魔術師は詠唱が必要な魔術を使う人間です。合わせて魔力使いとも呼びますが」
「じゃあ、魔法使いのカラスさんは、魔術を使えないということですか?」
「私は使えませんが、学べば使える魔法使いもいます。逆に、魔術師は魔法は使えない……一部、まるで魔法のように魔術を扱う魔術師もいますが」
僕の常識でもそうだし、世間一般の常識でもそうだろう。だが、エウリューケ、そしてオトフシの存在でその常識も少しだけ揺らいできた気がする。
事前の準備や媒介が必要とはいえ、詠唱なしで紙を自在に操り、遠隔での監視や通信などを行うそれは、魔法と何が違うのだろうか。
……しかし、勇者も突然元気になったようだ。
いきなりの質問攻めとは。
僕の唇がふと緩む。
「勇者様も魔法使い。ならば魔法も、いずれは魔術も使えるのかもしれませんね」
「俺が……?」
「その様子では自覚はないようですが、勇者様は魔力をお持ちのご様子。詳しくは王城魔術師の方々に聞いた方がいいと思いますが……」
多分、正しくは闘気も。彼も、魔力と闘気を両方使える希有な存在なのだろう。千年前の勇者と同じく、そして、僕と同じく。
勇者は、自らの掌を見つめて呟く。
「……魔法を使うというのは、どんな感じなんでしょう」
「どんな……?」
「ほら、あの……俺の世界じゃ、魔法なんてなかったんで、よく使い方とかわからなくて」
「……なら、それこそそれは僕ではないほうがいいですね」
指導は僕の仕事ではないし、そもそもやはり向いてもいない。
「カラスさんは、どういう風に使っているんですか?」
「…………」
勇者の問いに応えようと、ベランダに並ぶように僕は立ち、手をベランダの外に出す。
「正直、わからないというのが本音です」
飛んでいたハエのような小さな羽虫。それを二匹ほど念動力で捕まえて、手まで持ってくる。
そして下のベランダにいた雀に「食べます?」呼びかける。
一応警戒はしたようだが、頭を潰した羽虫をもう一匹潰すと、ホバリングしたまま僕の手を確認して数度止まろうか止まるまいか悩んだ後に僕の手に乗ってきた。
前世でも、外国で出会った人間が日本語を喋っただけで信用できそうだと勘違いしてしまうことがあったと思う。詐欺の温床でもあるが、同じ言葉を喋るということは、それだけで警戒心を緩めるものだ。
長居する気はないようで、「もらってくよ」と一声鳴いて、羽虫の団子を口に入れて雀は飛び立つ。その様を、面白いように勇者は見ていた。
「鳥と話した……って感じですか?」
「はい。魔法は一人一つとも言えませんが、それでも人によって使える魔法は違います」
「カラスさんの魔法は、鳥と話すこと……」
「ええ。そして、これは誰とも共有できない感覚です」
今度は勇者に向けて、僕は拳を作る。人差し指から小指までを順に折り曲げて、小指から人差し指を巻き込むように固めて握りしめる。
「拳の作り方を教えることは出来ても、その際の指の曲げ方を教えるというのは難しい。勇者様は歩き方を教わったことはないでしょう?」
「……まあ……」
「感覚的には、耳を動かしたり小指を曲げることと同じかもしれません。どちらも、出来る人は出来ますし、出来ない人は出来ない。だから僕も、鳥との話し方なんて教えることは出来ません」
いや、教えられる人もいるだろう。
正しくは、動かし方を忘れたものや、上手く動かせないものの動かし方を教える、というもの。この世界では見たことがないが、作業療法士や聴能士の仕事の一つがそのような感じだったと思う。
だが少なくとも、僕は出来ない。
けれど。
「なので、魔術ギルドや王城魔術師の方々など、そういった知見が蓄積されている方へ尋ねた方が、やはりいいと思います。……魔法に興味がおありですか?」
「え?」
「随分と楽しげにしていらっしゃるので」
少なくとも、知りたいと願っている。その程度読み取るのは、レイトンでなくとも僕でも充分出来ることだ。
勇者は恥ずかしそうに耳の下を掻く。
「……俺の世界だと、魔法っていうのは架空の存在なんです。昔はそんなものがあると信じられていましたけど、今じゃ誰もそんなのは信じていない」
身を乗り出すように、ベランダの縁に手をかけて身を伸ばす。まるで身投げするよう、だが違うだろう。
「それが実際にある、少なくともこの世界では。ファンタジーとかゲームでしか見たことがないものが、あるって聞いたら……やっぱり変ですかね?」
「いいえ」
知らないものがそこにあると聞いて、高揚するのは自然なことだろう。
もちろん、それを恐怖する者がいることもわかるが。ただ勇者は、そうでないというだけだ。
「戦争になんて出たくないですし、でも、…………」
勇者は首を横に振る。戦争、その戦場を思い浮かべたのだろうか。
今現在話しているそれが、戦争にも関わる能力だとも、きっと気がついているだろう。
「その魔法っていうの、俺も使ってみたい。俺は、そう思ってるみたいです」
「そうですか」
笑顔の勇者に対し笑みを浮かべながらも、僕の心のどこかに痛みが走る。
煽ってしまったようにも感じる。彼が、戦いに出る階段の一歩目を作ってしまったような。
魔法についてはいつか知ることだろう。
自分がそれを使えることも。
ただ、その時に起こる問題について。
それを考えつつ、ただ少しだけ明るくなった勇者を見て僕は複雑な思いだった。




