異質な恐怖
「結局、ネルグなんだよなぁ……」
そうぼやいた言葉は、誰に聞こえることもなかった。
レシッドに教えられた遺跡は、やはりネルグの近く、森の中にポツンとあった。
地下鉄への入り口が傾いたような形のトンネルが地下まで伸び、中には暗闇が広がっている。
周囲は以前グスタフさんに用意してもらったセーフハウスのように木々に覆われていた。これが意図的なものか自然なものかはわからないが、自然と迷い込むことなどは無いだろう。
石の板で作られたそのトンネルに手を当てると、長年の風化の影響かボロボロと崩れる。
中の暗闇は侵入者を拒むように光を遮り、まさしく一寸先も見えない。
手近な小石を放り込んでみると、コツンコツンと音を立てながら転がっていく。広場のようではなく、廊下が続いているような響き方だった。
「……行くか」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
光球を少し離れた位置に浮かべ、中へと歩いていく。
“入り口付近は何人も入っているから、主だった罠は解除されている。だが……”
「野生動物の侵入を防ぐために、いくらかは残してある、ねえ……」
レシッドからの情報通り、廊下にはいくつもの白骨死体が残されていた。
鼠や犬、他にも生きているときの姿が想像出来ないようなものまで、何匹分も残され転がっている。
悪臭や腐りかけの見た目の悪さなどは無いが、すぐに埋もれてしまう森の中とは違う異様な光景だった。
周囲を魔力で索敵しながら進んでいく。
おかげで、床や壁に設置されているスイッチ式の罠は怖くはない。壁の内部構造まで鮮明にわかる。
実は光球も不要だが、これは気分の問題だ。
「石なのは表面だけっぽいな……」
壁の表面は石のようなもので覆われているが、内部は金属製のようだ。何の金属かまでは判別出来ないが、これもまた分厚いものだった。
広げた魔力に反応があった。
その瞬間、キラリと光るものが何か飛んでくる。
「あ、まず……!」
すんでのところで躱すと、それは壁に突き刺さり、石に食い込んで止まった。
小さい鏃のようなもの、これもまた罠だ。
“お前にゃあ関係ないが、魔力に反応する罠もあるらしい。物理的な罠と連動して動くこともあるらしいから、何にもなさそうでも気をつけろよ”
魔力も過信出来ない。
食い込んだ鏃を見ながら、そう思った。頬に冷や汗が垂れる。一歩間違えれば、僕も先程転がっていた死体のようになってもおかしくはないのだ。
今は魔力の障壁もあるため、当たっても問題は無い。しかし、それでも警戒はするべきだ。
拳を握り締め、警戒心を引き締めた。
“遺跡の内部で厄介なのは主に罠だが、それよりももっと厄介なものがたまにいる”
「罠に引っかからず、もしくは引っかかっても意に介さずに出入り出来る、もの」
つまり、魔物がいる可能性がある。
その言葉の通り、歩いていると壁の向こうに生きている反応があった。
人間ではない。そして魔物ならば、魔力に反応があったということは、向こうも何か感じているはずだ。
身動きをしている。
隠れるか逃げるかしてくれないか。そう思ったが、やはり魔物は向かってくる。
森の中では強者である魔物。逃げるなど、考えることはないのだろう。
僕も逃げる気は無い。
戦闘は避けられない。
相対する気も無い。
壁の向こうで火球をいくつも形作り、魔物に打ち込む。
「グルァァァァァ!」
叫び声が廊下の中に響く。通常であれば、魔物であっても骨まで焼ける威力だ。これで、命まで絶つ。
身を翻し、避けようとしても無駄だ。
飽和攻撃を、躱し続けるなど不可能だろう。
焦らずとも、いずれ動かなくなる。
僕も、すこし楽観的に考えていた。
「ア゛アァァァァ!!」
咆哮は続く。まだそんな元気が残っているのか。
そしてその咆哮とともに、中にいる狐のような魔物の魔力が、密度を増した。
耐えてこちらに来る気か。
無意識に、奥にある出入り口の方をチラリと確認する。
大丈夫。まだ距離はあるし、それまでに焼き尽くす。
そう思った次の瞬間、魔物は驚くべき行動を取った。
身をかがめ、すぐこちらの壁に向かって跳ぶ。
最後の足掻きだろうか。
しかし、すぐに違うと気付く。いや、知ってしまう。
ドンと轟音が響いた。
土煙が舞う。勢い余ったのか、反対側の壁に大きなクレーターを作り、狐は止まった。
それは、壁を突き破ってこちらまで来たのだ。
「…………!」
慌てて身構える。
そして、その姿を見た途端、足が竦んだ。
恐怖を感じた。
体がビクンと固まった。
大きな狐だった。大犬ほどではないにしろ、前世で見たライオンや虎くらいの大きさはあるだろう。
その背中には魚のヒレのようなものが付いていて、そこだけが異様な姿だった。
しかしそれでも、怖がるほどの異様さではない。では、恐怖の原因は何だ。
酷い火傷を負っている。毛は焦げ、皮膚が剥がれ、焼けた筋肉が露出している。
それは当たり前だ。僕がやったのだから。
しかし原因はそれではない。その程度、損壊した死体などは見慣れている。
怖い。
では、圧倒的な力に対する恐怖?
それも違う。鬼のような圧力は感じない。危険を感じているわけではなさそうだ。
怖い。
自らの頬を張り、深呼吸をする。
狐が口を開く。その牙を見て、全身が震えた。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
デンアとも鬼とも違う恐怖に、後ずさる体が止められない。
もう一度深呼吸を繰り返す。もう一度拳を握り締める。踏ん張り、狐をにらみつける。
冷や汗を拭い、手を払うと水滴が飛んだ。
考えるのをやめるな。この恐怖は異常だ。
そう、異常なのだ。強さを見たわけではない。異様な行動を見たわけでもない。
生物としての格など、そんな根拠もないものがあるとは考えない。
なのに恐怖を感じている。原因は確かにこの狐だろう。
しかし、普通の恐怖ではない。
視界が広がる。
そこまで考えて、ハッと気付く。
普通の恐怖ではない。ならば、答えは簡単だ。
怯えはまだ残っている。手は震えている。
普通の恐怖ではない。ならば対処が出来る。
本当に、初めての体験は面白い。引きつる感じがして、頬に手を当てる。
僕は無意識に、笑っていた。




