夜更けから朝に
既に日も沈んだ夜更け。
夕食時も既に過ぎて、城内の明かりが日の光から所々に灯された火の明かりに切り替わる。
この国は大嫌いだが、この照明が切り替わるだけでがらりと変わる雰囲気は、僕は嫌いでもなかった。
夕ご飯を食べた後に出来た休憩という名の自由時間。
そこを使い、僕はこっそりとでもないがルルの部屋を抜け出していた。
向かう先は決まっている。昨日勇者と出会った屋根の上。もちろん勇者と話したいのならば彼に直接会いに行けばいいのだろうが、使用人などの衆人環視の中話が出来るとは思えない。
……いや、それを言ったら、衆人環視の中あの場所へ勇者が出てこられるとも思えないのだが。
それでもまあ、一言話したい。勇者のいる部屋に何とかメッセージでも送ってから行く方がベターだろうか。
そう時間があるわけでもないが、それくらいの時間なら、まあ……。
そんなことを考えながら歩いていた僕と、すれ違うように歩いてきた下女らしき女性。
ただすれ違うだけ……などと考えていたが、そうでもないらしい。
そばかすの多い彼女は、僕の顔を見ると笑顔を作り歩み寄ってきた。
「あ、昼間はどうも!」
「…………ああ、はい。お疲れ様です」
一瞬誰だかわからなかったが、昼間と言われて何となく思い出した。昼に食堂からコックコートを運び出していた女性か。
手に細かな擦過傷。おそらく水仕事により弱くなった皮膚が擦れて出来たもの。これは多いから特徴にはならないか。それよりもその姿勢の歪みは分離症……いや、そもそも彼女は覚える必要はない。多分。
「寄宿されている使用人の方ですか?」
「そうですね。今は休憩時間なので適当に歩いて回っています」
「ふふ、そうなんですか」
水桶を持っているということは、彼女は仕事中だろう。こんな時間まで大変とは思うが、まあ僕も実際は変わりないから口には出さないでおこう。
「お仕事の邪魔をしては悪いので退散しますね」
「あら、別にいいんですよ。今日は私の当番というだけで、仕事でもないですから」
「仕事じゃないんですか?」
「ええ。仲間内で使う分の水の補充です。夜の内に明日の分を入れておくんですよ。飲まない分なら古い水でも構わないしって……」
チャプン、と揺らした水桶の中で滴が跳ねる。
「……あ-、上長とかには内緒なんですけど……」
「わかりました。気をつけます」
表情を何とか和らげてそう応えると、彼女は安心したように鼻から息を吐く。
その決まり事の意味まではわからないが、多分職場の内で決まっているのだろう。そんな暗黙の了解というような仲間内では周知されている職場のローカルルールが、上司にバレていないということも考えづらいが。
そんな風に、話しかけてきた女性と話していたから、というのは言い訳だろうか。
彼女の後方。まだ遠く離れているが、廊下の角から現れたその影を視界の端に入れて、僕は身を固める。
わかっていれば透明化してやり過ごしたのに。いや、それならば下女と出会う前にしておくべきだったか。
まあ、いいだろう。
表情を固めて、奥に視線を向けた僕に、下女も反応する。
そして振り返り、こちらに歩いてきている二人を見て彼女も身を固めて廊下の端へと寄った。
歩いてきている女性は一応王族。平伏まではせずとも、跪くのが礼儀だろう。
僕と下女は揃って片膝を立ててしゃがみ込む。
そして、いつもよりも大分簡素なドレスを着てミルラ王女が歩いてくる。僕と下女を見て小さく口の中で舌打ちをしたように聞こえた。
ミルラが足を止める。目を合わせられないので視線は上を向けていないが、それでも何となくミルラの侍女が息を飲んだ気がする。
ただ通り過ぎるだけだと思っていたのに。しかし、これは。
「貴方ですか」
ミルラがボソリと問いかけてくる。
貴方。その対象が僕ならばいいが、それ以外ならば顔を上げてはまずい。
下女の方をちらりと確認する。しかし、彼女は緊張しきりで口を結んでいた。胸に当てた手が震えている。
周囲に僕たち以外の人影はなし。ならば、……予感はあったが、やはり対象は僕。
……しかし、これどう応えればいいのだろうか? というか、問いかけだろうか?
顔を上げると、ミルラがこちらをしっかりと見ている。ならば、何か言わなければ。
そう口を開くと同時に、それを遮るようにミルラが言葉を重ねる。
「カラス。貴方はどんな……」
言いかけて、首を横に振って言葉を止める。何だいったい。
それから小さく息を吐いて、ミルラは口角を下げた後また口を開く。
「『勇者は戦わずとも勇者』……という言葉の意味、貴方はご存じ?」
「……いえ?」
脈絡なく発せられた言葉。
その意味が一瞬わからず、僕はとっさに否定を返す。正しくは『申し訳ありませんが』と先につけるべきだろう。もう遅いが。
だが無礼には思わなかったようで、ミルラはただ溜息をつく。
「でしょうね。所詮は平民、わからずとも無理はない」
それからミルラは僕への取りなしか悪口かわからないような言葉を吐いてから、視線を逸らし、独り言のように口の中で何かを呟いた。
「……私は、何故このようなことを……この男に何かわかるとでも……?」
「…………」
会話の最中に一人の世界に入られても困る。だが僕も一応文句を言うことは出来ずにただミルラの言葉を待った。
さりげなく侍女の方へと視線を向けても、彼女は無反応で通すようだ。
「……今朝のことは重ねて、他言なさらぬように」
「承知しております」
そして、口止め。……それを、部外者が一人いる中でするのも悪手だとは思うのだけれど。
ミルラが身を翻す。スカートの端がふわりとわずかに広がり、白い靴下がちらりと見えた
「ごきげんよう」
「恐れ入ります」
言うだけ言って、ミルラはそのまま来た廊下を戻っていく。侍女もぺこりと僕に頭を下げて、それに僕が会釈を返すと満足したように主に追従していった。
何だったのだろうか、今のは。
来た廊下を、僕に会った途端に引き返した。何故か嫌われているようだし、僕の顔を見て嫌な気分になったか、それとも……うぬぼれのようだが、僕に会いに来たか。
今の質問の答えは、どう答えるのが正解だったのか。
どうにも事態が掴めない。勇者の様子に変化があったのか、それ以外の要素か。
……いや、まず考えるべきは……。
「…………?」
僕の横で、『何の話!?』とばかりに目を輝かせている下女を、どう誤魔化すかという話だろうか。
結局その後、僕は何となくミルラの後を追う気になれずに、直接昨日の勇者との密会所へと向かった。
そして、当然というべきだろう。
勇者はやはり、姿を現すことはなかった。
次の日。
ルルの朝餉に付き添い、ただぼうっと後ろ姿を眺めているという儀式を終えた後。
僕とルル、サロメは食堂から自室に戻るべく廊下を歩いていた。
周囲の警戒を一応しながらも、二人の後ろ姿を見ながら僕は考える。
今まさに、にこやかに他の令嬢と挨拶を交わすルル。その笑顔は綺麗で、嘘など一切ないように見える。
けれど、昨日のオトフシとの会話を考えれば、今その内心は正反対なのだろう。
あまり想像できないが、内心は毒づき、舌を出しているのかもしれない。背筋を正し、ただしい会釈をするその姿勢も、無理を重ねているのかもしれない。
しかし、それでも僕には何も出来ない。レグリスからの依頼の一部は果たせない。それは少しだけ歯がゆい思いだ。何をすればいいのだろうか、僕は。
「……お嬢様」
「ええ」
サロメがルルに声をかける。しかしルルも心得ていたようで、すぐに廊下の端へ寄る。
廊下の向こうから、ゲラゲラという笑い声が聞こえる。朝も早いのに、元気のいいことだ。僕もまだ少し眠気が残っているというのに。
その笑い声の主は、もうわかっている。
使用人を引きつれ、それだけではなく下級貴族を引きつれて、廊下の真ん中を堂々と歩いてくる。
右目の重瞳を確認しなくとも、もうその顔は覚えた。真ん中に立つオールバックの二十歳くらいのその男は、一応忘れずにいられる。
ジュリアン・パンサ・ビャクダン大公子息。いや、本来は『大公子息』などという爵位も地位もないのだが、そういった地位が存在していると勘違いしてしまいそうなほど堂々とした態度は、いっそ清々しいくらいだ。
廊下に寄った貴族令嬢や子息が会釈しても無視して挨拶すら返さない態度。
大公、もしくは王族くらいの地位にある者がしなさそうな仕草だが、むしろ彼らにしか出来ない仕草といってもいい。
僕も跪かず、わずかに頭を下げて、廊下の端で彼らが通り過ぎるのを待つ。
彼らはやはり、僕たちを一切顧みることなく通り過ぎようとする。
「どうしたんすか?」
「……いや?」
配下の男性が、ジュリアン大公御子息に問いかけるが、ジュリアンはただ言葉を濁す。
僕も、少しだけ困惑する。その足が、少しだけ止まったように見えた。
話しかけてくるわけでもなく、何をするわけでもなくその視線はすぐに切られていたが、まるで、僕を見ていたような。
その後ろ姿を見送った後、また廊下の角から現れた影がある。
千客万来、といった言葉が僕の脳裏に浮かぶ。何となく、昨日の夜からこんなことばかりな気がする。
今度の男性は顔見知りで、そして真っ直ぐにこちらに歩み寄ってくる。背後に控えている侍女二人も、それが当然とばかりに。
今日はミルラはいないのか。
また廊下の端へと寄ろうとしたルルとサロメだったが、そのこちらへと寄ってくる仕草に察したのか、足を止めてただ待つ。
そして、スカートの端を少しだけ持ち上げて、頭を下げた。
「ごきげんよう、オギノ様」
「あ、ええと、おはようございます」
僕へと寄ってきたように見えたオギノヨウイチは、ルルに挨拶をされて戸惑ったように慌てて返す。
その仕草に、侍女が少しだけ眉を顰めていた。
僕は一応ルルの後ろに控えて、その様を見守る。ちらちらとこちらを見るのはわりと本当にやめてほしい。
「お食事ですか?」
「えっと、いえ、そういうわけではなく……」
サロメが勇者の侍女に視線を送るが、侍女はまた無反応で通した。昨日のミルラの侍女と同じか。
「そちらの……、えー、名前が……」
「当家の使用人に……何か?」
「ごめんなさい、名前も知らないのになんですけど、その人にちょっと用事が……」
ルルが微笑みをわずかに崩して、目を伏せて少しだけ溜息をつく。勇者にも伝わってしまったくらいの感情だが、慌てている勇者はわかっていないらしい。
いやまあ、昨日の僕の隠し事とか、その事情までわかってしまったらすごいと思うけど。
「カラス様」
「……はい」
僕へと視線を向けずに背を向けたまま、ルルが僕を呼ぶ。これは応えなければならないのだが、正直あまり応えたくない。この状況だと。
「どこか、落ち着いて話せる場所はありますか?」
「申し訳ありませんが、そういったことは勇者様についていらっしゃる方々のほうが詳しいかと」
「出来れば、あの、二人で……」
皆の視線が勇者の侍女たちへ向く。どうすればいいかと一瞬悩んだらしいが、それでも一人の侍女が一言、「心当たりが」とだけ呟いた。
「では、そちらへ」
ルルが言う。けれど、話したいとは思ったがこの状況だとあまり行きたくはないし、それよりもまず職分の問題がある。
「しかし、一応オトフシの方を呼ぶまで待っていただけないかと」
一応二人揃って離れるわけにはいかない。聖騎士たちが巡邏しているここで、何が起こるとも思いづらいが。それでもやはり、そのために僕たちは雇われているのだから。
だが、声が響く。
鶴の一声、というよりも燕の一声が。
「構わんぞ。ただ、少しだけ待っていただきたい」
サロメが手に持っていた小さなポーチからわずかに声が響く。
サロメが慌てて口を開くと、そこからひらりと一枚の紙が零れるように出てきた。
そしてその紙は床に落ちそうになるところまでいくと、浮かび上がりながら独りでに折られ、僕の肩へと滑空するように飛び上がってくるときには燕の形に折られていた。
「このような姿で初めて見える非礼をお詫びいたします。このカラスの同僚、オトフシと申します。勇者様におかれましては、壮健そうで何より」
僕の肩へと飛び乗った折り紙の鳥が、勇者へ向けてぺこりと器用に頭を下げる。これ、本当に貴族にやったら無礼と言われても仕方ないと思うけれど。
それ用の関節まで折られているのは芸が細かいというか……。
「……紙が、喋っ……!?」
勇者が目を丸くして驚く。
それを見て、少しだけ僕は違和感を覚えて、それから『ああ』と納得した。
そういえば、不思議なものだったはずだ。これも。
……そういうことは、ミルラ王女は考えなかったのか。考えつかなかったのか。
飴の種類を考えてみればいいのに。その飴に食いついたかどうかは知らないけど。
まあ、それは僕も一緒か。多分、僕が忘れ去っていたもの。それを勇者が持っているかどうかも、僕は知らない。
「では、カラス様、いってらっしゃいませ」
「……わかりました」
オトフシもすぐに来るだろう。
そうなった以上、もはや先延ばしは難しい。
その僕を送り出すルルが、『お願いします』と誰にも聞こえないように呟いたのも、僕が断れない原因なのだと思うが。
今日も、色々とありそうだ。