古の勇者から
「あら」
先導しているのは女官だろうか。髪型までもが同じような拵えをした長い黒髪の女官三人が前後を挟み、そしてその間に、男女一組が肩を並べて歩いてきた。
そして男女一組のうちの一人が声を上げる。誰であろう、ミルラだけど。
ルルは廊下の端に寄り、僕とサロメは壁際で跪いて俯く。それを一度舐めるように見て、ミルラはルルに笑いかけた。
「ごきげんよう、ザブロック様。貴方もいらっしゃっていたの」
「ご機嫌麗しく、ミルラ様。……こちらの絵画を見てみたいと思いまして」
「歴代の王城画家の作品群、どれも素晴らしいものですものね」
言いながら、フフ、とミルラは笑みを強める。そして王宮画家の、というところで語気までも強めたように聞こえた。
なるほど。
ルルは大丈夫だろうか。そうふと心配してしまったが、彼女も心得ているらしい。
……当然か。僕よりもむしろ、こういったことには詳しいのだろうし。
「ええ。ミルラ様も……」
言いかけて、ルルはわずかに横を見る。確信が持てなかったのだろうか、そのミルラの横にいる男性の素性に。
「……勇者様も、絵画をご覧に?」
「その通りです。こちらに先代の勇者の描いた絵がありまして」
「まあ、そうだったのですか」
得意げにミルラが言い、そしてルルが驚く。
白々しい言葉の応酬。だが、彼女らの中では重要なことなのだろう。
笑い合う笑顔の端々から、違う言葉が聞こえてきている気がする。
そして、一段落するとまた、ああ、とミルラが声を上げた。そして一歩だけ歩み出て、半身になって勇者を示す。
「紹介が遅れましたね、こちら、勇者ヨウイチ・オギノ様です」
「……は、はじめまして……」
紹介された勇者が、頭を下げる。昨日と変わらずに気弱な態度。けれど……。
「…………」
勇者がちらりと僕を見て息を飲む。やめてほしい、反応するのは。
「初めてお目にかかります。ルル・ザブロックと申します」
「どうも……」
また勇者が頭を軽く下げて、それからサロメを見て、僕にも小さく頭を下げる。
僕らも返していいか困るし、本当にやめてほしい。
「……あの……」
「では勇者様、こちらです」
話しかけてこようとする勇者を遮り、ミルラが少しだけ遠くの絵を指し示して促す。指し示しているのは先ほど僕たちも足を止めた絵。
『勇者作・シノバズの池』。オギノヨウイチからしてもおそらくかなり昔の景色なのだろうが、わかるのかな。
わからないかもしれない。よく考えてみれば、その橋は既に僕のいた時代には……。
痺れを切らしたように、ミルラは勇者から視線を僕たちに移してまた戻す。そして、名残惜しそうに僕たちを見る勇者に目を留めて、手を打った。
「ああ、ザブロック様も、どうでしょうか。一緒に見て回りませんこと?」
「いえ……私は……」
「少しくらい道連れが増えたところで、構いませんよ」
遠慮するルルに、ミルラはフフと笑う。だが、本当に笑ってはいまい。目的からすれば少しだけ癪だろう。おそらくは勇者の機嫌を最優先したのだろうが。
おそらく誰にも見せる気はなかったのだろうが、不機嫌な顔を一瞬だけしたルルは、黙って一歩踏み出す。
それを追うように、僕たちも立ち上がる。
面倒なことがまたありそうで、僕は内心溜息をついた。
「これは……本当に、不忍池……?」
勇者が絵画の前に立ち止まり、触ろうとした手を空中で止める。その目は絵の方々へ走り、そして右下を見て、「ああ」と小さく呟いた。
「どうでしょうか。千年前の勇者様の世界ということで、今の勇者様にはあまり馴染みのないものかもしれませんが」
「たしかに、ビルとかはないですし、緑もこんなに……でも、千年前?」
昔の、という意味にとって頷いた勇者は、その言葉をようやく受け取ってミルラを見る。
というかそうか。この世界の人間にとっては、そういう認識か。
「何か?」
「でも不忍池って、たしか四百年くらい前に作られたって修学旅行で……」
「修学、旅行?」
不思議そうに眉を寄せる勇者の言葉の端っこを拾うように、ミルラは再度聞き返す。まあ貴族でもなければ、この世界というか国には修学も旅行もほとんどないし、合体した『修学旅行』に至っては存在しないものだろうが。
何がわからなかったのだろうかと、勇者は少しだけ悩んだようで頭を掻いて、ようやく思い至ったようでミルラの方を真っ直ぐに見た。
「この世界では、学校というのはないんですか?」
「学校……学校ですか? あの、先代の勇者も在籍していたという、同じ身分の者たちを集めて教育を施すような施設でしょうか?」
「あるんですか」
「ええ、この国ではありませんが、たしか、お隣の国ではそういった施設があると……」
しかし勇者の問い返しに明確に応えられずに、ミルラの声が小さくなってゆく。
困った様子のミルラを見かねてか、ルルもそれに声を上げた。
「お隣……というのは、ムジカルのことでございますか?」
「ええと、そうですね、たしか兵士を作る教育機関が……ありましたよね?」
ミルラと勇者とルルの会話の中で、疑問符が乱れ飛ぶ。
ミルラもルルも知ってはいるのだろう。だが誰もが確信を持てない様子。しかし、ムジカルの、というところでルルが僕の方を向いた。
「どうだったでしょう?」
「はい。兵学……兵学校がございました。三年間の教育の後、ムジカル国軍の上層部に配属されるものです」
「あ、そういうのとはちょっと違う感じで、こう、基礎教養の勉強のものなんですけど……」
反応した僕に、勇者は若干早口で条件を付記する。そうするともちろん、ムジカルにも存在しないものになるのだが。
「でしたら、ムジカルにも……」
「それで、旅行? などされるんですの?」
ありません、と続けようとした言葉を遮り、ミルラは勇者にまた問いかける。もどかしいように手指を少しだけ動かして、勇者はミルラに向き直った。
「え、ええ。教養の一環として、一定の年齢になったら遠くの観光地……いえ、都市に遊……勉強しに行くというものがありまして」
「まあ、面白そうな行事ですね」
ミルラがクスクスと笑いながら言う。この笑顔は僕にもわかる、嘘だ。
「それはもう、中学の時に東京に出たときには、埼玉よりも人が多いことにまず驚いて……」
少しだけ興奮していたような勇者の声が、少しずつ沈んでゆく。仕方ないとも思うが。
「みんなでもんじゃ焼き食べて、俺の班、お土産屋さんに引っかかってペナント買わされて……」
絵の横に手をついて、不忍池を覗き込む。正確な方向はわからないが、おそらくその向こうに……もんじゃということは、浅草かな……まあ、その件の仲見世があるのだろう。
まずい。ミルラはそう思ったらしい。強引に話題を戻そうと声を上げた。
「ああ、あの、で、この池は勇者様の時代から四百年前のものだとか」
ミルラの言葉を無視するように勇者は俯き、グッと奥歯を噛みしめ、壁を掻き寄せるように指に力を込めた。
そして、……本当に意味ありげだからやめてほしいのだけれど、僕に少しだけ視線を向けてから、口元を緩めた。
ミルラへと顔を戻した勇者に笑顔はなく、表情に力は入っていない。まるで諦めているかのように。
「……そう、そのときここで聞いたはずなんです。江戸時代くらいにこの池は作られて、四百年くらいだって……それに……」
もう一度、勇者は絵を見る。その絵の中に走る橋。そこを視線だけで何往復もしてから言葉を続けた。
「……こんな橋、見たことない……」
「……やはり、時間の問題でしょうか?」
千年かもしくは四百年の時を経ているから、ということでミルラはまとめようとする。いや、時間が経っているからその橋がなくなっている、というのは正しい。
僕自身どこで見たのかは定かではないが、その事象を知っているということは新聞か何かで読んだのだろう。
観月橋は、既に僕の時代に取り壊されている。理由までは僕もあやふやだが、関東大震災の後、区画整理か何かとして。
しかしまあ、ミルラにとっては橋が描いてあったのは幸運だったのだろうとも思う。
これでもしも背景にビル立ち並ぶオギノヨウイチの時代の風景だったのならば、もっと反応は激しかっただろうし。……ビルは僕の時代にもあったのかな?
「それに、じゃあ、前の勇者は平安時代からじゃなくて……?」
「…………?」
答えに窮したようにミルラは黙って首を傾げる。
これは当然とも思う。この話題の答えを知っているのはアリエル様だけなのだろうし、そのアリエル様すらよくわかっていないのだから誰も答えようがない。アリエル様との話の時出てきた、妖精王ならばまだ詳しいのだろうか。
「……これ、一枚だけなんですか?」
「勇者の遺した絵が、ですか? いえ、まだいくつか存在しますが……」
「どこですか?」
「ええと……こちらだったかしら……?」
ミルラがもう少し奥まで歩いていく。先ほど僕たちが行かなかった場所まで歩いていき、それから何枚か検分するように見て勇者を手招きした。
「ああ、たとえばこれでしょうか。題名はないものですが、勇者が『研究棟』と伝えていたと……」
先ほどよりも少しだけ早足で、勇者はそこに駆けつける。それから下の銅製のプレートを見て、読めなかったようで銘をまた探した。
僕たちもそれに遅れるように絵の前まで辿り着く。僕もそれを見て、何となくその建築物が何だかわかった。
先代の勇者は大学生だったのだろうか。
赤い煉瓦で作られた立派な建造物。その用途までは正直わからないが。
痛んでいるのか一部読み取れないが、右下にはやはり『Na…mit…M』と記されている。そして、その隣には『……学部一號棟』と。
「これは、平安時代にはやっぱり……これ……昭和……?」
勇者が首を傾げる。ちなみに多分大正だと思う。その答えだけならまだしも、勇者の疑問に思っていることの答えはまあ出ないし、僕も何故だかはわからないので放置するしかないのだが。
首を傾げるその横、また隣の絵を見れば、それもおそらく勇者の絵だろう。
明らかにこの世界のものとは違う建築。こちらも赤煉瓦が積まれた建物で、右下を見れば多分『……国大学総合図書館』と描かれている。
決まりらしい。大学生だったか。
見回せば、もう一つ見つけた。
今度は何かの建築物が描かれているわけではない。しかし、一目見れば日本人ならばわかるだろう。絵の題名は『富士見坂より』。その末広がりの山は、おそらく知らない日本人はほとんどいない。
勇者が顔を上げて少し周囲を探せば、すぐに見つかる場所だ。
雄大な富士の山、その美しさはきっと先代勇者の中で美化された分もある。
しかし、こちらを見せるわけにはいかないだろう。
勝手な気遣いだが、見せるならばもう少し時間が経ってから、と思う。
先ほど見ていた『不忍池』。数歩離れた先にあるその絵の四隅は、木製の枠と木の壁を金属製の鋲で留めている。
念動力を使い、その鋲に加重する。鋲が折れる、というのはさすがに不自然なので、壁が割れて剥がれる程度に。
まず、ベキ、という軽い音がした。
「…………!」
その軽い音に反応してそちらを見たサロメが、無言で驚く。良い反応だ。
驚いたサロメに、何事かとルルが振り返り、そして次いで女官たち、ミルラ、勇者と振り返ってゆく。
ガコ、という音がして、絵画が傾く。そしてずれるように右隅の一点だけを残して壁から剥がれ、くるりと回転してぶら下がった。
「あら……」
ミルラがそれに歩み寄り、検分する。付き添いの女官たちが絵画に手をかけて示した。
「どうしたのでしょう」
「……傷んでいたのかしら?」
不思議そうに見るミルラの肩越しに、勇者もそれを見ようと歩み寄る。上手く富士からは離れてくれた。
「…………」
しかし勇者は何も言わない。けれども、何か思うところがあるのか、拳を握りしめ、目を細めてそれを見ていた。
壁の修理を手配することにして、ミルラたちは仕切り直す。
そのうちに、パタパタと少しだけ急ぎ足で足音が近づいてきた。……三人、それも多分腰に剣がある。
曲がり角の向こうから見える影。長い髪……それだけで女性と決めつけるわけでもないが、それでも多分このシルエットは女性だろう。一瞬の後に姿を見せたその人は…………、ええと……。
「勇者様、……ミルラ王女殿下も、こちらでしたか」
「あら、タレーラン卿。もうそんな時間でしたか?」
跪きもせず、軽い会釈で女性一人と男性二人は立ち止まる。テレーズ。その名前を聞いて、ようやく僕も顔と名前を一致させた。いや、顔は正直初めて見るんだけど。
緑のような白い髪の毛を揺らして、テレーズは勇者に微笑みかける。笑顔に不慣れな表情で。
「勇者殿、たまたま近くにおりましたので、直接お誘い申し上げに参った次第」
言いながらも、ひくひくと唇の端が動いている。嘘が僕と同じくらい下手だ。
「今日の調練には、参加して頂けると聞いた。参りましょう」
「…………はい」
もう一度拳を握り、絞り出すように勇者は声を出す。
そして助けを求めるようにルルを見て、そして視界の端で僕を見た。
「それでは、この方たちも一緒に、どうでしょうか」
「どちらの家中のご息女かはわからないが、ご遠慮願……」
視界の端でミルラが、渋い顔をして首を横に振る。こういうときにも接待が優先なのか。
そしてその顔に一瞬だけ注意を向けたテレーズは、唾と一緒に言葉を飲み込んで、「見学と言うことであれば」と笑顔の剥がれた顔で口にした。