してあげたいこと
勇者との密かな謁見の次の日の朝。
朝の賄い用の食堂はそこそこ空いている。食堂で食べるような者たちが徐々に減りつつある感じがするが、おそらくいくつかの家では既に自室で食べるように切り替え始めたのだろう。
従者たちも、多分その部屋の自室で食べているのだと思う。
人が少なくなったのはいいが、それに伴い、料理の量も減らされてきている気がするのが少し残念だ。
僕は朝食のパン……といっても、丸のものではなくブールパンの切れ端のようなものを口の中の紅茶でふやかしながら、昨日オトフシから聞いた話を思い返していた。
ミルラ王女の話では、勇者はやはり戦いたがっていない。それも当然というか、わかっていたことだろうか。昨日、僕は本人から直接聞いたのだから。
双方の話を聞く限り、ミルラはその対応に失敗しているらしい。『何故戦いが怖いのかわからない』と、そうはっきり言っていた。
酷い話だが、わからなくもないとも思う。
王女は戦場では戦わないだろう。そもそも戦闘訓練など積んでおらず、そこに伴う痛みも知ってはいても理解はしていまい。
そして彼女らにとって、『勇者』は勇壮に戦う英雄だ。
自分たちと違って、戦うことが出来る人種。ならば、戦う能力もあるのに何故戦わないのかと疑問に思ってしまうのかもしれない。
彼女らに戦えとも言わない。
たとえば戦う術のない王女様などは、戦場に出れば抵抗も出来ずに即座に捕縛されるか殺害されるだろう。その結果大変なことになるということも考えれば、出来る人間に任せる、というのはあながち間違いではないとは思う。
だが、彼ら戦える術がない人種と、術を持つ人種。それらが、違う人種だと捉えること。または、戦える人間が全て戦いに出られる人間だと思うこと。それが間違っているとも思う。
その結果が、三年前のリドニックだ。
オープンサンドイッチのパンの内、僕らに供される切り離された上の部分。帽子のような形のそれを、僕はもう一度囓る。
皮の部分が多いため、今日のパンは若干固く感じる。水分のために野菜スープをもう一度取りに行こうか。そう迷ったけれど、四度目のおかわりは他の人の分を取ってしまいそうでなんとなく躊躇した。
そしてもう一つ。ルルとミルラ王女の会談の中ではないが、昨夜のことでもう一つ気になっていることがある。
一人になったルルが、呟いたという言葉。
「『嘘ばかり』に……、……『笑うな』……ねえ?」
オトフシが聞いた言葉はそれだけだ。けれども、聞いた言葉がそれだけということは、脈絡なく発せられたということ。ならば、おそらくルルにとってだけは意味があることなのだろうと思う。
しかしまあ、僕も言葉の意味がわからない。
誰を指して、誰に対して言っているのだろうか。シンプルに考えれば、どちらも今までに話していたミルラ王女へ向けた言葉なのだが。
けれどもまあ、無視してはいけない気がする。というより、僕がそれを無視したくない気がする。
席を立ち、使った五枚ほどの皿を重ねて持つ。
……こういうときに、少しでもヒントを求めるならばあの男だろうか。
昨日の僕への誘導の件も含めて、会っておいたほうがいいかな。どこにいるかもわからないけれど。
「少し、見たいものがありまして」
朝食を終え、部屋に戻りオトフシと交代したあと少し経って、いつもの午前のように本を読んでいたルルが、そう言った。
どうも、城の中で行きたい場所があるという。歩き回ることを禁じられているわけでもないので、もちろん問題などないのだが。
しかしここ数日しか行動を共にしていないが、珍しいことだ。お茶会と食事以外でルルが部屋を出るなど。
あと少し言い出すのが早ければオトフシが帯同することになったのだろうが、交代してしまった以上ついていくのは僕だ。
僕は待機していた衝立の中で、軽く準備をする。準備といっても何か荷物の用意をするというわけでもなく、着崩れていた衣服をほんの少し整えただけだが。
外へ出るわけではないらしい。日傘などをサロメは準備せず、それもいつも持っている小さなポシェットのようなものを肩から斜めに提げた。
「……どちらへ?」
僕が尋ねると、ルルが少しだけ苦笑するように笑う。
「この城にはいくつかの回廊があるのですけれど……水明の回廊へ」
「水明の……」
昨日出た名前だ。たしか、勇者の描いた絵画がそこにあると。ルルも見にいく気になったのだろうか。
言われて僕はそこに至る地図を脳内で整理する。それがあるのは、たしかこの令嬢たちが生活する区画からは離れて、どちらかといえば王城内でも応接に使うような区画だったはずだ。
位置的には、この王城を正方形考えたときの辺と辺の反対側。直線距離でも目測で四里弱……毎度思うが、建物の中で使う単位ではない。
準備が整ったサロメが玄関の扉を開ける。その外にとりあえず誰もいないのは確認済みだ。少しだけ扉を開いて僕を見たサロメに頷きで応えると、そのまま大きく開いて外で扉を支えた。
ルルが足を踏み出す。
しかし、ルルはそれがどこにあるのかは知っているのだろうか。そうふと思ったが、ルルもそれに今思い至ったらしい。恥ずかしそうに笑う。
サロメも知らないため、結局は僕が道案内を買って出ることになるのだった。
「ん……」
「何でしょうか?」
歩いていく列の並びはいつもと違う。
いつもは、ルルが先頭。それに続いて斜め後ろにサロメ。その逆側の斜め後ろの少し下がった位置に僕かオトフシがついていた。
けれど今日は僕がルルの前にいる。といっても前というよりは並んで少し前に出ているだけなのだが、いつもは視界に二人いるのに何となく変な気分だった。
そんなときに、怪訝な顔でルルが声をわずかに上げる。何か不可思議なことでもあっただろうか。
しかし、ルルは首を振った。
「いえ……何となく……」
「……?」
「……な……いえ、いつもと違うなぁ……って」
ふふ、と笑うルルは不快そうではない。だが、僕としては意味がわからず、ただ「はぁ」とだけ返すに留まった。
途中、昨日皆が待機していた談話室の横を通り過ぎる。
何もかけられておらず飾り気のない出入り口の横の木の壁に、ごく小さな穴が空いていた。
いくつかの曲がり角を人と会わないように調整しつつ、時間をかけて僕たちはその区画に辿り着く。
しかし時間がかかった。王城内で働く人は基本的に動く場所が決まっているので楽なのだろうと思うが、区画から区画まで辿り着くだけでおそらく二十分以上経っている。
それでも、もうすぐ目的の場所だ。
地下道を通り、短い階段を上った場所。
そこで突然、廊下が明るくなった。
まず見えたのは長い直線の廊下。そして視線をその明るい方へと向ければ、廊下に囲まれた大きな中庭が素通しの窓の外に見える。
明かり取りの窓はここまでもあったが、それでも日の光降り注ぐ大きな開口部には及ばない。今まで歩いていた廊下が暗闇の中に思えるほど、その差は歴然としていた。
ルルが僕に先んじるように一歩踏み出す。その中庭へ、と思ったがそうではないらしい。
歩み寄るのは、回廊の中庭と逆方向の壁に掛けられた小さな絵画。一号にも満たない……0号がこれくらいだったっけ、そのサイズのキャンバスに、青一色の風景が描かれていた。
僕もそれを覗き、そのどこかで見たことがある風景を脳内から捜索する。
「……これは、アウラ、でしょうか」
見た目的にはまさしく海。所々に浮島が点在し、手前には漁業に勤しんでいるような人が米粒のように小さく描かれていた。
いや、アウラと決まったものではない。似たような湖ならばこうなると思う。
目当ての絵画ではなかったらしい。ルルは小さく首を振って一歩下がる。
いや、まあ、当然なんだけど。
「……水明の回廊はもう少し先ですが、ここでよろしいですか?」
「…………え」
からかうように口にしてしまったが、言って後悔する。まずい、また一言多かった気がする。
「い、いきましょう!」
しかしルルの方は気を悪くもしていないようで、歩き出した彼女を追うように歩き出した僕は少し安堵していた。
回廊はいくつもある。
先ほどのは暁の回廊。廊下を渡ってあと二つの中庭を横切れば、ようやく目当ての水明の回廊だ。
その中庭にもいくつかテーマがあるようで、それぞれ違った趣をしていた。
暁の回廊は、黄色や橙色など暖色系の花が集められているらしい。中央に置かれていた剣を掲げた偉人の像は誰だか知らないが、その剣の柄に埋められた拳大のトパーズは明らかに高価なものだ。
そして今通ったところは林がテーマらしい。中庭にはごく細い木が数歩の距離で規則的に並べて植えられ、対角線に通る廊下以外の通行を遮っている。木の先は一階の天井と同じ高さに揃えられ、上だけが縦横無尽に枝を伸ば……違うな、この木は全部繋がっているのか。
対角線の廊下の上をアーチのように枝が囲み、下は綺麗に掃除しているのか苔のような地面には落ち葉の一枚も落ちていない。ただ緑色のアーチの中を点々と光が照らしていた。
それから、ようやく水明の回廊だ。
例によって、真四角の中庭を囲むように配置された回廊。その中庭には、大きな池と大きな岩がぽつんぽつんと配置されていた。
池には数匹魚が泳いでいる。側線部分の鱗が盛り上がった黒い鯉のようなその魚は、火を通さない方が美味しい。
掛けられた絵画の大きさは先ほどのような小さなものから僕たちの身長以上の大きなものまで様々だが、規則的に並んではいる。その手前側から絵画を覗きつつ、歩を進める。
僕に先んじるようにルルが足を速めて絵画を確認していくが、どれも違うらしくわずかに足を止めるだけで先へと進んだ。
そして、ようやく見つけたらしい。
絵画の下に取り付けられた緑色の金属質のネームプレートは古く、錆を落としたように磨いた後も残っている。
四十号ほどのサイズか。真新しい木製の枠は、後に交換されたものだろう。
だがその中は、たしかに『それ』だと僕にはわかった。
『勇者作・シノバズの池』
ルルが立ち止まり、その前で目を見開く。
写実的、だが知らない風景だろう。彼女には。
その後ろで気づかれないよう、僕は息を飲んだ。
おそらく僕は実際に見たことはない。けれども、知っている。
池に真っ直ぐに架かる橋。観月橋が中央に伸びて、その左右の水面を蓮の花がいくつも咲いて覆う。
人が考え出したものだ。建築方式はこの世界も勇者の世界も大きな差はない。それでもなんとなくわかる明らかな『日本の風景』に、僕の胸が少しだけ痛んだ。
「……これが、勇者様の世界」
「千年前の勇者、ですけれどね」
補足するように僕も声を出す。震えていないか心配だが、上手く演技できただろうか。
右下には掠れたように細い筆で、この絵画のタイトルだろう『不忍池』と漢字で記され、その横には名前のようなサインが描いてある。『Naomitsu・M』と。
……よくもまあ、千年前の絵画が残っていたものだ。
直射日光は当たっていないが、それでも中庭からの間接光に晒される劣悪な環境。間近で見て、少しだけ探ればおそらくテンペラに似た染料……劣化に強い上、修復はされてるだろうにしても、そこまでとは。この世界特有の素材の恩恵だろうか。
しかし、また見ることになるとは思わなかった。
この世界に来て、十五年と少し。昔の風景を、そんなに時間が経ってから。
僕は見たことがない風景だ。そもそも勇者の日本に生きた時代は僕よりも少し前なので、この風景自体も僕よりも少し前のものなのだろう。
それでも何故だろうか。
見たことも行ったこともない景色を、懐かしいと思えるのは。
「……昨日、ミルラ様とお話ししたんです」
「…………?」
呟くように、それでも明らかに僕に話しかけている声量で、ルルは言う。
「勇者様が、落ち込んでいると」
「お嬢様、そのような話を漏らしては……」
「構わないでしょう。口止めなどされていませんもの」
サロメの諫言に、ふふ、とルルが笑う。何となく今日までの笑顔とは違って見えた。
いや、他の人間に聞かせたくないからと人払いまでしているのだから、本当は駄目だと僕も思う。しかしまあ、確かに口止めもされていなかった……かな?
「何故かって、私は考えたんです。突然勇者様はこの国に召喚された。そして……帰れないから……」
「だから、落ち込んで姿を見せないでいらっしゃると」
ルルは頷く。
……彼女も大体正解か。もっとも、気づかない王族たちの方に問題があると思うけれど。
そして、一つ足りないものもあるが……それも気づいているかもしれない。
「勇者の世界が描かれた絵画をお勧めしました。少しでも、慰めになれば、と」
どうだろうか。もはや戻れない場所、懐かしんで楽しむのならばとも思うけれど、……多分、まだ彼は懐かしむ段階ではない。
しかし、そんな言葉を出すのを躊躇した。それを指摘していいものだろうか。もしかしたら僕の見立てが間違っているかもしれないのに。
「本当は、帰らせてさしあげるのが一番とも申し上げたんですけど」
そして、悲しそうにルルが口にした言葉。
そこに僕は引っかかり、そしてサロメはよく見なければわからないほどに目を開いた。
「……お嬢様……」
サロメは口の中で呟き、助けを求めるように僕を見る。いや、見られても困る。そもそも何だ、いったい。
ルルが微笑みを浮かべて僕らをそれぞれ一度見る。
「……行きましょう。これが見たかっただけなんです」
そしてサロメから遅れることわずか。
ようやく僕も気がついた。グスタフさんに昔言われたこと。
『小物は、自分と同じ考えを相手も持つと考える』。それは、『小物』だけではなく……そして、もっと善意からの行動にも言い換えられると思う。
僕は廊下の端まで視線を飛ばす。
ここには様々な絵画がある。だが、その中で『どれ』だろうか。
歩き出したルルに追いすがるようにしながら悩む僕。
そして、悩んでいる暇はなかったらしい。
林の中庭から、四人ほどの女性の声。
そしてその中でひときわ大きな声がミルラということに気がついたのだろう。サロメが、次いでルルが、廊下の端に寄った。