閑話:秘密会談
少しだけ時は巻戻り、午前のこと。
謁見を終え、自室へ戻ったミルラは、侍女に向かい叱るように尋ねた。
「画家の手配は出来ていますの!?」
「もちろんでございます」
侍女は頭を下げて、主に向かい静かに応える。癇癪はいつものことだ、そう自らの心を宥めながら。
「ああ、もう、私はどうすればいいというのでしょうか。勇者様はお部屋に籠もりきり、お父様はただ急かすだけ、私の味方は誰一人としていない」
「落ち着いてください、ミルラ様」
「これで落ち着いていたらただの大馬鹿者でしょう!」
私室ではある。限られた者しか入れない部屋で、耳目があるとは言えないが、それでもその態度は憚られて余りある。
しかし、侍女アミネーは止める程度に留めて咎めない。この癇癪も、いつものことだ。
ミルラが木の机をガリガリと引っ掻く。考え事をするときの癖で、ミルラの机の廃棄理由の大半はそれによる天板の損傷だ。
「女性たちには目もくれず、金貨を約束しようとも無駄、栄誉までいらない。庶民の考えはよくわかりませんわ」
まさか、男色か? とミルラはふと思い浮かべる。ときたま、伴侶として異性ではなく同性を求める者もいると聞く。それは少数で、だからこそ今まで思い浮かべていなかっただけなのかもしれない。
しかし、だったらどうだというのだろうか。『勇者様のために色男も揃えております』とでも言えばいいだろうか。女性たちの用意よりもより直接的すぎて、仮にそれが正しくとも態度を硬くすることはミルラの目にも見えている。
ここ数日増えた考え込むミルラの姿に、端から見ていた侍女も、口出ししていいものかと悩んだ。
しかし、この状態の主に口を出すのは悪手だ。それも、長年の経験から知れていた。
「……ニホンへ」
「……!?」
それでも、口を出さずにはいられなかった。主の剣幕に付き合うのももう御免だ。
弾かれたように顔を上げたミルラは、アミネーが何を言うのかと指先を噛みながら促す。
「ニホンへ帰ることへの協力を、餌にしてみては?」
だが、アミネーの言葉に、今度は大きくミルラが溜息をついた。
そんなことはとっくに考えている。そして、考えているからこそとっていない手段だ。
「いつまでもそれで誤魔化すわけにはいきませんわ。そんな空手形、だすわけにはいきません」
「しかし、進展はいたします。要は、『手段を見つける』と確約しなければいいのです」
手段を見つけるのではなく、手段を探すのに協力する。そんな言葉の綾。それを理解できない姫ではない。
そして、それを理解できない者たちがいることも理解している。
「庶民がそのような言葉の機微を理解できるとは思えません」
ミルラが指を引けば、ギイイ、と机にへこみのような傷が四本走る。それでもミルラの爪がほとんど荒れないのは、主のその癖のために、指を傷つけない柔らかな素材に変えているというアミネーの心遣いだ。
「あと二日……本気で色男の線も追ってみても……」
「色……え……?」
主の呟きに、アミネーは戸惑う。何の話だろうか、と。
アミネーを無視して、ミルラは口の中で推論と状況整理を繰り返す。
「でも、誰がそんな……」
そもそも、勇者の贄として集められた者たちの中に男子は少ない。そして彼らもそのような嗜好を持っているわけでもないだろう。
いや、後者はどうにでもなる。貴族だ。王族の意向と国のために殉じる覚悟は出来ているだろうし、王命として出せば逆らえまい。
それに、貴族たちが王城へと送り出している以上、醜男はいない上にもとより貴族たちは見目麗しい者が多い。勇者の気に入りそうな者はいるだろうか。……と考えても、その類いの魅力はミルラには理解できないのだが。
そして、ふと気がつく。
色男についての話ではない。もっと前の話。
勇者は庶民で、そしてそれ故に自分には理解できないという話。
「ああ……たしか……」
そして、それが『色男』についての話に結びつけられたのは、以前そんな噂を聞いたからだ。
「アミネー、この前、給仕たちが話題にしていた美男、いらっしゃいましたね」
辿々しく従者に向けてそう尋ねる。曖昧な問い。だが、アミネーはその言葉にすぐに思い至った。
「はい。……ええと、名前は……」
「ああ、その男はどうでもいいのです。臨時の従者として雇われた探索者、でしたね」
探索者。そして、美男。
そう口にするときに、主の顔が歪んだのがアミネーにはよく見て取れた。
そしてその反応は、当然、ともいえるかもしれないともアミネーは思う。
政治に携わる王族は、国民に必ず順位をつける。
その順位に従い法で手厚く保護し、または手酷く弾圧する。それが冷徹に出来る者が、まさしく覇王の器といえよう。
その順位の項目自体は様々だ。いなくなれば政情が不安定になる者。換えは利くが、軽んじてはならない者。厄介だが生かしておかなければならない者。いなくなった方がよい者。様々に。
たとえば治療師。聖教会の信徒である彼らは、国民といえども国に対する忠誠心は薄い。しかしそれでもその能力は手放しがたく、集団としての『聖教会』の機嫌を損ねることは国益に反する。なので彼らは、軽んじてはならない者。
たとえば領地貴族。彼らは王の管轄下から半分外れている上、国の一地方を任せられていると言っても過言ではない。つまり軍事力などへの注意も向けなければいけない。しかし王家の血が入っていることも多く、その場合はどちらかと言えば頼れる存在だ。
そして、探索者。
そんな順位付けで言うのならば、王族にとって彼らは下の下だ。
探索ギルドの一員である彼らは、聖教会と同じく国家への忠誠心は薄い。しかし、聖教会と違い宗教としての結束を持たない個人主義から、探索者個人の被害が探索ギルドの対国家感情へ影響を与えることも少ない。
武力に頼るのであれば、正規の騎士が既に国にいる。
もっとも、末端の街などの段階では、その評価は当てはまらない。有力な色付きも含め、彼らは騎士たちよりも頼れることがあり、そして柔軟に動くことも出来る便利な存在だ。
しかし王族にとっては、彼らは真っ当に生きていない山師。その程度の評価だった。
そして、もう一つミルラが顔を歪めていた言葉。
『美男』。
実際には、美男を嫌っているわけでも男を嫌っているわけでもない。そしてこれに関しては、それを嫌うのはお門違いではないだろうか、とアミネーはいつも思う。
この国に生まれた王女は三人。そして、今現在王城へと残っているのは第一王女ミルラのみ。後の二人は、既に西方の領地貴族や異国への人身御供としてその務めを果たしている。
ミルラがその『務め』を果たせていないのは、それが原因というだけではあるまい。
しかし、それでもこれが主の意向だ。彼女が選んだ道ならば、従者として付き従うだけだ。
「その噂の使用人が仕えている方……庶民出身じゃありませんでしたか?」
「……ええ、たしかに」
ザブロック家。その名をミルラは覚えていた。現在この城を訪れているルル・ザブロックのことを、ではない。
だが、覚えていた。女伯爵の誕生という珍しい報せ。それに感じたわずかな憧憬を胸の奥に押し込めながら、その名前を確かに脳髄に刻み込んでいた。
そして、ルル・ザブロックのことも、それに伴い記憶の中から引きずり出される。貴族たちの動向を出来る限り把握しておくという彼女の日頃の習慣が役に立った瞬間だった。
同じ境遇だ。
ミルラの脳内に、そんな閃きが浮かび上がる。
彼女も同じような者。
数年前、庶民から貴族の社会へと足を踏みいれ、そして今なお留まっている者。
庶民の考えは理解できない、と先ほどミルラは考えた。
だが、理解できる者がいるかもしれない。今現在、他ならぬこの王城の中に。
「会いに行きましょう」
「ルル・ザブロックに、でございますか?」
何を馬鹿なことを、とミルラは侍女を見る。呆れを含んだ視線。
それに返すように浮かべそうになった同様の視線を心の中にだけ留め、アミネーは「かしこまりました」と頷いた。
「今日は、相談があって参りましたの」
「相談、ですか?」
会いに行く、と決めたその日の夜。ミルラはルルの部屋を訪れていた。
人払いをしたのはもしものためだ。話を持ちかけるルルに対しては仕方ないにしても、使用人たちから話を漏らし、噂話を確定するような真似はどうしても出来なかった。
二人は部屋に置かれた応対用の机の前に座っていた。
差し向かいではない。ミルラが炊事場から最も遠い上座に腰掛け、ルルはミルラから見て机の左辺に座っていた。
ルルはこの部屋の主人で、ミルラは客である。少々の身分差など無視されて、向かい合うことも出来たがルルがそれをしない。
侍女が出ていってしまったために歓待の茶もなく、ただ二人の間にはルルが飲んでいた薬湯の薄甘い香りが漂っていた。
何の話か、などと戸惑うルルに向けて、ミルラは笑みを浮かべる。そうだ、政治家とはこういう者だったはずだ、と思い返しながら。
その顔を見たルルの内心に嫌悪が満ちたのを知らず。
「勇者が皆の前に一向に姿を見せない。その理由を、貴方はご存じ?」
「……いいえ」
ルルは即座に否定する。本心だった。
召喚の失敗。勇者の出奔。王族の何かしらの不手際。噂話は数多くあれど、それでもどれも信憑性が薄く信じるに値しないと思っていた。
だが、目の前の女性ならば真実を知っている、とも確信していた。
ミルラは勇者の接遇を執り行っている。ならば、知らぬはずがない、と。
そしてその確信の目を見て、ミルラは微笑む。
「勇者は恐れている」
「……?」
端的な言葉。その意味がよくわからず、ルルはただ黙っていた。
「勇者は出てきません。部屋に閉じこもったまま」
「……そう、なのですか」
はあ、とルルは応える。どう反応していいかわからなかった。未だに意味がわからない。部屋から出ない、というのはわかる。しかし、何を恐れているというのだろうか。
「はっきりと申し上げましょう。私には、勇者が何故、そして何を恐れているのかわからない。何が足りないのかも」
堂々と吐かれる弱音の言葉。本当ならばそれは弱々しく発音されるべきものだったが、ルルにはそれが威嚇のように聞こえた。
「それが……」
「ですから、私は貴方の話が聞きたいの。小さな食堂の手伝いから成り上がり、ついには伯爵家の娘となった貴方に」
「私の話など、お役には立てないでしょう」
そもそも何を話せばいいのか。そうルルは戸惑う。しかしそれでも、ミルラの目に戸惑いはない。
故に、謙遜ではなく事実と思い口に出したルルの言葉。それをミルラは強く否定する。
「いいえ。是非、聞かせていただきたいの。何故貴方は庶民の身から華々しい伯爵家の娘となったのか。……いいえ、なれたのか」
それを聞けば、少しは理解できるかもしれない。ヨウイチ某という一人の庶民が、勇者という一人の貴族になるための方法が。
本当は勇者と直接話すべきなのだろう。けれども今現在、勇者にその気がない以上、それも無理な相談だ。
代用としての彼女。上手く参考に出来るだろうか。
「貴方が庶民としてどうやって生きてきたのか、どうしてここにいるのか。それを聞きたいの。勇者様を部屋の外に出すために。お願い」
「…………」
正直ルルには、そこまで聞いても何故自分の話が聞きたいのか理解できない。
しかしそれでも王女の頼みだ。それに否といえるわけもなく、ミルラに尋ねられるままに、ルルは自らの生い立ちを簡単に語り始めた。
ミルラの問いに一問一答するように、話は起伏なく進んでいった。
父なし子として育ち、母親と共に食堂を手伝っていた日々。客に向けた料理こそほとんど作らなかったが、当時は賄いも作り、そして綻びた衣服を縫い、洗濯に勤しんでいた。今のルルからすれば、下女の仕事というものをして日々を過ごしていた。
そして突然この王都へ移り住むことになり、貴族子女としての教育を受け始めた日々。今となっては懐かしい、まだ『彼ら』の一員となりたいと願っていた日々。
更に現在。王城へと召喚されるまでの、伯爵家の娘としての日々。
ただ今の、灰色の日々だ。
それら全てを、当たり障りないよう簡略化してルルは話していく。
話の最中に、目に見えてミルラが退屈していたのが少しだけ面白かった。
「こんなところでしょうか。お役に立てたとは思えませんが」
語り終えたルルは、そう自らの物語をまとめる。なんとも普通で、……そしてなんともつまらないものだろう。そう内心自嘲しながら。
聞き終えたミルラも、その言葉に鼻を鳴らす。
彼女も、つまらないとさえ思う。ありふれた凡俗な物語などにすらあるはずの、見せ場や危機などはルルの話からはまるで見えなかった。
実際にはそうではない。
ルルの知らぬところでルルは叔父に命を狙われ、そして母は目の前で命を散らしそうになった。追われていた馬車の外では、聖獣に匹敵する力を持つ魔法使いや魔術師が戦闘行為を行っていた。
貴族としての生活はこれまでと違うと殊更に全身で語っていた実母や、貴族として生きることを決めた自分の背をそっと押してくれた義母のこと。
だがそれらをルルは知らず、そして知っていても語らなかった。
自分の人生には何もなかった。そう思い込みたくて。
「では、何故です? 貴方は何故貴族の一員となったのですか? そうならない道もあったのに」
「……あったのでしょうか? ミルラ様が仰るとおり、この身は庶民の出。大風に舞う木の葉のように、ただ身を流されて生きて参りました」
少し俯いて、ルルは膝の上で組んだ手を握りしめる。
本当に、何故なのだろうか。そう考え込みながら。
ルルには逃げ出す気はない。けれども、この場所は嫌な場所だ。そう思う。なのに、逃げない。それをする気がないのか、それとも……。
考え込み、ふと誰かの温かい声が聞こえた気がした。
それでもなお、いや、と口元に笑みが浮かぶ。
逃げる力がないのだ、自分には。そんな結論に、自虐的に唇が歪んだ。
ふう、とミルラは隠さずに溜息をつく。
これではやはり何もわからない。助け船になるかと思ったが、そうでもないらしい。もともと庶民の考えはわからないと思っていたが、これではやはりわからない。
そもそも考えてもいないのだろうか。標本が少ないために断定は出来ないが、ただ庶民は何も考えていないからこそ庶民なのだろうか。
目の前の少女に、わずかに軽蔑がわき起こる。
考えなしに道を歩く少女。自分が何故ここにいるのかもわからず、何故自分がそうしているのかも考えない。幸運の月の下、青い血の仲間入りを果たした娘。青い血が混じっているといえども、やはり半分は赤い血か、と。
自分は今まさに王からの任務の重責に堪えかね、思案に思案を重ねて戦っているというのに。
しかし、どうしたものだろう。
勇者のことを少しでも理解しようとザブロック家の娘に声をかけたはいいが、これでは何も収穫がない。
王に切られた期限は明後日まで。それまでに、勇者の心を解きほぐさなければいけないのに。
「……お聞きしても」
目の前の少女を無視して机に爪をかけたミルラに、その少女が問いかける。思わず指を止めて顔を上げれば、そこには愁いを含んだ艶やかな顔があった。
「何ですの?」
「何故、勇者……ヨウイチ様にこだわるのです?」
ミルラはその問いに、まず二度の瞬きで応えた。何の話か、と一瞬だけ戸惑い。だがすぐに笑みを作り直し、ルルの次の言葉に備える。
「何故……とは……」
「勇者様は何かを恐れているとお伺いしました。そして、部屋からお出になろうとしないとも。ならば、たとえばヨウイチ様には母国にお帰り頂いて、新たな勇者を呼ぶなどすればよろしいのでは?」
「…………」
なるほど、とミルラは思う。もっともな疑問だ、とも。しかしその答えは彼女らには既に出ている。
「……勇者にも既にお話ししたことなので、そのまま貴方にもお話ししましょう。勇者様をお返しすることは出来ません」
「それは」
「帰す術がないのです。召喚陣は一方向で、片道限りのもの」
「でしたら……」
笑顔以外のものに嫌悪感を持ったのはいつ以来だろうか。だが、ルルの心から嫌悪感が溢れて、短い眉を顰ませる。
片道限りの召喚陣ということは今初めて知った。だがつまり、それは。
ミルラや王族を責める言葉が浮かび、ルルは奥歯を噛みしめてそれを留める。二人きりの会見、ここでの不敬は大した問題にはならないと知っていてもなお、口には出来なかった。
片道限りの召喚。
つまりそれは、どこかの国で静かに暮らしていた誰かを、この王城に強制的に呼び出したということ。
それではまるで同じではないか。
まるで、小さな食堂で働いていた何も知らない小娘を、貴族の娘へと仕立てるようなことと。
不敬の言葉を吐かないよう、ルルは堪える。しかし震える声音に、それが滲み出てしまっている気がした。
「……でしたら、せめて……せめて、逃がしてさしあげることは……」
「逃がす?」
その言葉にミルラは少しだけ笑った。逃がす、逃がすなど。勇者へと取り立てられたヨウイチ某が、逃げたいと思っているとでも。
可笑しな話だ。そんなことはあるわけないのに。貴族となるのは栄誉であることで、庶民という人間たり得る最下層から、貴族という立派な人間になるという素晴らしいことのはずだ。そう心の底から考えていた。
そんな様にさらなる嫌悪感を覚えたルルは、奥歯を噛みしめてから強く口に出す。命令ではない、けれども強い懇願を滲ませて。
「ヨウイチ様を、どこかの街で静かに暮らさせてあげればよろしいのではないでしょうか。そして、また勇者を呼び出せば……」
言いかけて、ルルははたと気がつく。
勇者となることが嬉しいことばかりではないと、おそらく自分は知っているのに。なのに、また一人勇者を作る案を出すなど。
握りしめた腿を覆う服の生地が、拳の中で熱を発した気がする。自分は、何を言おうとしていたのか。
「いえ……」
「それも出来ません。この度の勇者召喚は、失敗を重ねた上で、成功した今回も一月もかけてようやく為し得たもの。おそらく、次を呼ぶ余裕はありませんわ」
「……そう、ですか」
内省に、耳が鈍る。ミルラの言葉が、どこか遠くで聞こえる。
何を言おうとしたのだろうか。今回の勇者はどこか遠くへとやって、次の人身御供をまた用意しようなどと。
またミルラが召喚の儀式について何事かを喋っているが、ルルは一切聞いていなかった。
ただ。考えるのは『勇者』のこと。
恐れている。それが何かは知らないが、『勇者』と讃えられるという喜びを凌駕して、部屋を出たくないと願うほどに。
そして、彼はいつかは部屋から出なければいけない。そうしなければ、次の犠牲者が出る。彼が嫌だと言うということは、そういうことだ。
ルルには、勇者が気の毒に思えた。
逃げられない。逃げれば自分の代わりの犠牲者が出てしまう。
一度しか見たことがない顔を思い浮かべて、その男性の境遇に心を痛めた。
ミルラの言葉が切れる。召喚に際して魔術師たちがどれだけ大変な思いをするのかと、懸命に訴えていた言葉が終わり、ルルの反応を待っている。
ルルといえば、先ほど思い浮かべた勇者に出来る、精一杯の配慮を考えていたのだが。
もはや、彼を部屋から出す方法など考えてはいなかった。
それよりも、少しだけ違うことを考えていた。
自分ならば、何が欲しいだろうか。今の勇者はおそらく、もはや帰れない場所に連れてこられ、そして慣れぬ仕事をさせられそうで怯えている。ほとんど同じ境遇の、自分ならば、と。
「……シノバズの池……」
「……え?」
そして、ルルはある単語を思い出す。昔、教養の教育のどこかで聞いたことがある。
千年前の勇者は、晩年絵画に没頭したという。その本人が描いた絵画のほとんどは焼失や浸水にあい残ってはいないが、それでもいくつかは残っているという。
そして、この城にも、それはいくつか存在すると。
残っている絵画の名前をルルは明確には覚えていない。しかし、『シノバズの池』というような名称がたしかあったと、記憶の片隅に残っていた。
「勇者様は、帰れないことを嘆いていらっしゃるのではないでしょうか」
「……その通りですが……」
それは本人に会えば誰でもわかる。それこそ自分の目から見てもわかる。ミルラはそう思い、何を言うのかと身構えた。
「シノバズの池……という絵画が残っていらっしゃいませんか?」
「ええ。水明の回廊に……、ああ」
言いかけて、ミルラは気づく。
目の前の彼女も、自分と同じ手段に至ったと。
もっともそれは間違いであるし、その手段をとる動機も、まったくの別物だったが。
そしてそれでも。
「そうですね。そういったものを見せても気を引けるかもしれません。やはり、貴方とお話しして良かった」
満足げにミルラは頷く。そうだ、高価な絵画を取り寄せずとも、この城にはそれよりも勇者の気を引きそうな絵画がいくつかある。
戦いを勧めてはまた態度を硬化させるだろうが、そういった城の中を見せて回るのもいいかもしれない。
明日の朝餉を終えた後、勧めてみよう。
庶民の思いつきも侮れないものだ。もしもこれで勇者が態度を軟化させることがあったのならば、こちらも考えを少し改めねばなるまい。
そう思った。
ミルラがルルの部屋から出ていく。
それを侍女サロメとともに見送ったルルは、精神的な疲れに息を吐いた。
「それでは、下男たちにも伝えて参ります」
「……そんなことせずとも……」
ルルは部屋の扉の横に貼られた正方形の小さな紙片をちらりと見る。それは探索者オトフシが密かに貼っていったもので、この部屋の監視を密かに担っていた。
「いえ、いって参ります」
「そう。お願い」
だがそれを知っていてもなお、サロメは部屋から足を踏み出す。無駄になるかもしれないと思いつつ。
扉が閉まり、足音が去って行く。
その小さくなってゆく足音を聞きながら、ルルはとぼとぼと部屋の中央に歩き、そして応対用の椅子に腰掛けた。
そこは、竈から一番近い席。
腰を落ち着けて息をまた吐けば、脳裏に先ほど行われた密かな謁見が思い起こされる。
勇者は何かを恐れている。おそらく、戦うことを。
突然与えられた仕事を行いたくないと、抗っている。
「本当に嘘ばかり」
ルルは苦笑する。
『逃がしてやればいい』とルルはいった。けれどもそれはおそらく、勇者を気遣ってのことではない。
本当に吐きたい言葉の主語は、自分。
庶民から貴族になったのに、上手くやれているから、とミルラはルルに声をかけた。
しかし、本当は違うのだろう。
上手くやれているのはそうかもしれない。だがそれは、貴族の令嬢を上手くやれているわけではないだろう。
上手くやれているのは、嘘をつくこと。
「……笑うな」
その笑みが、心底不快だ。小さく、ようやく言葉に出せた。誰に聞かせているわけでもないが、いつも心の中にしまっていたそれがようやく形に出来たようで少しだけ楽になった気がした。
それを人に聞かせてしまったのは、彼女の単なる失敗だったが。
ルルはミルラの笑顔を思い出す。途中少しだけその仮面は剥がれていたが、退屈を隠し、興味が失せようとも顔に貼り付けていた薄い笑み。
その笑みが目の前から消え失せて、安堵している。それが今の自分の素直な気持ちだろう。
「失礼します」
小さく扉を叩く音の後、サロメがまた戻ってくる。
その顔に浮かべた笑みに、また緊張感が体に戻ったのが自分でも如実にわかった。
もうすぐ、また揃ってやってくるだろう。
自分の部下たちが。嘘を顔面に貼り付けた、嘘つきたちが。
そんな嘘つきの仲間入りを果たすように、ルルは微笑みだけでそれに応える。
それから薬湯をまた淹れにいったサロメを背中越しに感じながら、背もたれに背を預けて考える。
勇者もこの生活が嫌なのだろうか。戦うことが嫌だ、それ以外にも、嫌悪を覚えるようなことがあるのだろうか。
この王城が嫌だ。貴族の生活が嫌だ。もしもそうなのであれば、勇者ヨウイチとは気が合うのかもしれない。
顔と名前だけしか知らない英雄の卵。
一度会って話をしてみたい。勇者と、そして『勇者』と。