閑話:学ぶべきは
王城、青い絨毯が敷かれた謁見の間。
その中央に、大勢の人間が跪く。
部屋の奥、階段状に高くなった箇所に置かれた玉座から、その姿を眺めるように無言で見下ろす老人がいた。
白い髭は手入れをされ細くまとまり伸ばされ、座った状態から膝までつきそうな程。肘掛けの先を掴むように握られたその両手は、筋張って皺が寄っている。
老いた姿。しかしそれでもなお、目力強く背筋を正すその姿は、王を年齢以上に若く見せていた。
跪いていた下級貴族たちは立ち上がると、彼らはもう一度頭を下げて目を伏せる。許しなく王の顔を直接見ることはまだ出来なかった。
そして身を翻し、そそくさと謁見の間を立ち去って行く。彼らの拙い足運びでも、王城の絨毯は上品なまま足音を消していた。
今日その下級貴族がここを訪れたのは、報告のため。
戦争に際し、エッセンの各都市に飛ばされた物資の供出令。その運用が滞りないことを知った王は、内心息を吐く。
物資の管理は、本来はそういった業務に携わる上級貴族の管轄ではある
しかし兵糧は、戦争時に兵たちを支える大事な資源だ。
今回のムジカルとの大戦。それはネルグ近郊で行われるために食料の心配はないとも考えられていたが、それでもイラインなどの都市に部隊を置くという後方支援の分、食料は用意しておかなければならない。
過剰ならばまだしも、不足があればそれは兵たちの命を簡単に奪うことになるかもしれない。万全の備えで迎えなければならない。
故に、特に兵糧に関しては、王自身も報告を耳に入れることにしていた。
ドン、という重たい音を立てて、謁見の間の扉が閉まる。
謁見を終えた彼らも、おそらく今その向こうで安堵の息を吐いていることだろう。
もっとも、その安堵の種類は自分とは違うものだが。
「次は……」
王の横に控えた侍従長が、手元の資料から次の謁見の予定を確認しようとする。
だが、その名前を見て言葉を止めた。
王も、次に現れる人間が誰かは承知している。他ならぬ、自らが呼び立てたのだから。
謁見の間の扉がまた開く。十五歩ほど離れたその扉の向こうに見えた娘の姿に、王は心中でまた溜息をついた。
「ミルラ・エッセン、まかり越しました」
ミルラは父である王に向かい、跪いて頭を下げる。伏すまではせずとも、そうするのが礼儀だと幼い日から学んできたその仕草は熟れたものだ。
何を言われるのか、と彼女は戦々恐々と父の顔を見る。そこには父親としての優しさなど見えず、ただ国を支える老政治家としての威厳ある姿があった。
瞬きもせずに、王は口を開く。重い声音がのしかかるようだとミルラは感じた。
「……勇者が一向に皆の前に姿を見せぬ。これはどういうことか」
やはり、とミルラはこめかみの辺りに冷ややかなものを感じる。だが、何かしらを言い返すことなど出来はしない。神妙な顔つきを殊更に作り、唾を飲むのが精々だった。
「お前に任せたはず。そして、勇者への接遇を一任しろと言ったのはお前だったはずだが」
「……申し訳ありません」
ミルラは改めて頭を下げる。王としての立場に頭を下げているわけではない。状況は全て自分には不利なもので、打開するには方法は一つしかない。そしてそれが出来ていない。それらを承知している以上、何も言い返すことは出来ない。
言い訳は出来ない。それがわかっていてもなお、しかしやはり口から出るのは保身の言葉だった。
「勇者の国とこの王城では勝手が違うらしく……その……戦うのは嫌だ……と……」
「何故だ?」
「その……」
何故か、と理由を問われてミルラは言葉に詰まる。何故勇者は戦いたくないのか、それを聞きたいのはミルラも同じだ。
むしろ何故、戦ってくれないのだろうか。
彼は、人を傷つけたくないという。
しかし、千年前の勇者は、伝聞で聞く限り喜んで力を貸してくれたはずなのに。
「…………」
娘のたじろぐ様子に内心唾を吐き、王は伸ばしていた背筋をわずかに崩す。傍目にはわからないそのほんの小さな動作に、ミルラは不安を感じた。
「……よい」
「は……?」
だが、王の口から赦しの言葉が吐き出されると、一瞬ミルラは戸惑う。
そしてそれからその言葉の意味をようやく理解すると、さらなる恐怖が覆い被さったように感じた。
「余がお主に期待をかけすぎたのだ。やはり、余が選ぶべきだった」
そもそも、基礎的なもの以外はそのような人心掌握術の教育など殊更に彼女に施したことがない。人の上に立ち心を操るのは王族では男子の仕事だ。
王が傍に仕える侍従長を見る。長年の以心伝心で、侍従長は瞬時に脳内で人材の選定を開始した。話術を生業とする女官たちの中から、特に話術に長けた者を。もしくは侍従として家柄も何もかも申し分ない者たちを。
その様を見て、王はもう一度わずかに頷く。
侍従長の脳内に浮かんだ十数名の名簿。おそらくその誰を選んでも、娘よりも優れた才覚があるだろう。そう信じていた。
しかし、ミルラは焦る。与えられた仕事だ。これを成さねば、以降の仕事にも差し障りがある。たった一人の平民すら御せない王族に、何の価値があるだろうか。
「お、お待ちください」
そんな娘を見下ろし、王は見せるように溜息をつく。だが、ミルラは怯まない。
「あと少し、あと少しで心を開いていただけるのです!」
世間話が出来るような状態ではない。故に勇者の好みも何もわからず、心を掴むための何かも、推論でしか出来ていない状況。
ミルラは信じている。今縋れるのは、以前の勇者の話しかない。
「史書によれば、魔王討伐後の勇者は絵画を好んで描かれていたといいます、ですので今、画材や宮廷画家の絵画を……」
取り繕うように、早口でミルラは続ける。
「は、発注……し……」
だが、その言葉は止まる。王の目に、わずかな呆れが見えて。
「史書、か」
「…………」
吐き捨てるように、王はミルラの口に出した単語を繰り返す。それは大事だ、しかし、それでも。
「……歴史は、先人の残した知恵の結晶ぞ」
「……はい……」
重々しく口を開いた王。少しだけ顔を上げ、どこか遠くを見つめていた。
「たしかに歴史からは多くを学べよう。先人の残した成功や失敗。その傾向を掴み、同じ轍を踏まぬように、と」
「…………」
侍従長が、心配を含んだ目を王へと向ける。だがそれを無視するように、王は続けた。
「歴史書に、『勇者』のことは書いてあるか」
「……え、ええ、……もちろん……」
問いかけだが、ミルラに問うたわけではない。それでもミルラは何か言わねばと、言葉を返す。
その答えに満足しなかった王は、一度だけ娘を見て首を微かに横に振った。
「……あと、二日待とう」
娘が戸惑いの目を王へと向ける。その目を、王は残念に思った。
「二日以内に勇者が表舞台に現れぬ場合は、もはやお前に任せてはおけぬ。よいな」
「……っ」
ミルラが息を飲み、頭を下げる。懇願と、そして畏れのために。
「はい、必ずや……!」
「励め」
立ち去る前に、ともう一度ミルラが深く頭を下げる。
王はその様を冷たく見守る。
畑違いのことに手を出そうという意気は買う。だが娘には、他に仕事があるはずだとも思う。
王として口に出すべきか、父としてこのまま口に出さぬべきか。
王族としてのあるまじき悩みに溜息をつく。
それがミルラには、自分に向けたものに聞こえた。