顔と名前を
赤く毛の短い絨毯に、ルルは迷いなく一歩踏み出す。その後ろ姿から表情は窺い知れないが、それでも胸を張った堂々とした姿だった。
僕らはそれに一歩遅れて随行する。オトフシも僕も、静かに足音を立てないように動く。
大広間に散らばった『姫君』たちの集団。数えてみればはっきりとするだろうが、見た感じ女性は今のところ三十人程か。それに加えて、着飾った男性も五人か六人。
だが、やはりといっていいだろうか。着飾っていない……といっても、皆僕程度には丁寧な服装をしているが、男性もそこそこ。それに、女性も。
『姫君』たちの背後に、それぞれ一人から三人程度の彼らが付く。彼らの業務は、ルルの侍女であるサロメ、それに多分、僕らと同じ。
色とりどりのドレスが揺らめく。
もっとも、おそらくデイドレスなので、そこまで色味は派手ではない。くすんだ色のように見える。
所々に置かれた丸い机には、この前僕たちがザブロック邸で歓待を受けたときのような焼き菓子が綺麗に積まれている。それにポットウォーマーに包まれているのはお茶だろうか。
だが、やはりというべきだろう。
そのようなお菓子には皆あまり手をつけず、歓談に夢中だった。
小さいものでは二人だけ、大きいものでは七人ほどの集団が、いくつも出来ている。見た感じ、大きい集団では中心となっている人間が決まっているように見えた。
……こんなところにも、やはり。
唾を吐き捨てたい程度の嫌悪感を押さえながら、ルルについていく。
時折すれ違う一人か二人のお嬢様がたに軽く挨拶を交わしながら、ルルはある小集団へと向かう。
そこもやはり、五人程度。
そして明らかに、一人が喋り、他の人間が笑って頷くような人の輪。
五歩ほどの距離まで近づけば、一人の姫君がルルに気づく。その向けた顔に、その場にいる全員がルルの方を向いた。
もう一歩ルルが近寄る。
……ええと、今回は非公式だし立ってていいんだっけ。まあ、他の使用人も立っているし問題あるまい。僕とオトフシはそこで立ち止まり、ただ顔を伏せてから一歩離れた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、ルネス様、それに皆様」
歩いていたときは大分違う、深々とした会釈。カーテシーの仕草まで加えており、この会場に入ってから一番丁寧な礼をしたと僕は感じた。
ルネスと呼ばれていたのは、金というより黄色い……橙かな? の髪を左右に分けて、おでこを出したような小柄な女性だった。
ルルも含めた六人の中で一番背も低く、それでも立場は一番上らしい。濃い青のドレスが、一番豪華に見える。
視界の端にあったオトフシの口がわずかに動く。
僕に見せようとしていたようなので、その動きを脳内で解釈すると、『ルネス・ヴィーンハート』か。名前だろう。『ヴィーンハート』はたしか、昨日の打ち合わせで見せて貰った名簿にあった。
僕は一度オトフシを横目で見て、口だけを動かす。それにオトフシも、口だけで返した。
「どういう方でしょう」
「取り立てて言うほどの評判はないな。ヴィーンハート侯爵家の四女だ」
「侯爵、ね……」
ザブロック家は伯爵家。ならば一つ上の階級ということか。……いや、彼女個人はなんの爵位も持っていないのだが。
「左の襟元に黄色い花をつけた娘が、ジーナ・クレルモン。伯爵家。真珠の耳飾りがカノン・ドルバック。男爵家。白い指輪の…………」
「え。ちょっと……?」
オトフシが次々とその場にいる女性の名前を挙げていく。反応しきれずに僕がまた目で問いかけると、オトフシは僕の側の唇の端をわずかに持ち上げた。
「どうした? 覚えなければならんぞ。今この場にいる三十二名の令嬢と、七名の令息。それに加えてまだ幾人か増えるだろう。今日は全ての顔と名前を一致させろ」
「うえ……っ」
思わず声が出そうになる。渋い顔にならないよう努力しつつ、無表情を作る。
皆の輪の中に入っていったルルを見ながら、僕は周囲に注意を向けた。
招待状の出されたとされる家の数、それにこの前見た居住施設の部屋の数からすると五十名弱。……それを今日だけで、しかも自己紹介されているわけでもないのに全て覚えろと?
いや、家名は昨日見せられたので大体把握している。しかし、今日初めて知った下の名前まで……。
「泣き言を言っている場合か? ほら、今もまた一人増えたぞ。あれはラルミナ家の長女ディアーヌだ」
「……あとで、文字でくれませんか?」
それならば覚えられる自信はある。けれど、ここで顔まで覚えなければいけないとは。
「顔と名前を一致させろと言っただろう。顔がわからねばどうにもならん」
「……そうですけど」
僕の頬もぴくぴく動く。オトフシの楽しそうなものではなく、ひきつりとして。
「あら? 見たことない従者さんたちね」
「……ああ」
話が途切れたふとした瞬間。ルネスが僕らの方を見る。話の中まで聞いてはいなかったが、まずい、僕らが議題に上がったか。
ええと、こういう場合は紹介されるのを待って、頭を下げる……だっけ? 僕が何かを喋っていいんだっけ。
ただ一応、会釈を返しておく。僕らを一瞬見たルルは、ほんのわずかに真顔になり、それからまた微笑みを浮かべてルネスを見た。
「今回、城で私についてくださる探索者の方々です」
「まあ」
ルネスが人の輪を割りながら、僕たちの方へと歩み寄ってくる。見下ろすような形であるが、多分このままでいいだろう。
「素敵な方々ね」
白い手袋越しに、オトフシの襟に触れ、それから僕の方へも顔を向ける。
一歩近づいてきたルネスは一瞬動きを止めて、瞬きをしてから目を背けるように下を向いた。
それでも顔を上げ、ルネスはオトフシの方を向いて、こちらにも少しだけ目を向ける。
「ごきげんよう。私たちの従者たちとも、仲良くしてやってくださいな」
「ご指導賜ることもあるでしょうが、よろしくお願いいたします」
オトフシが頭を下げる。それに合わせて僕も頭を下げる。それから顔を上げて周囲を見れば、わずかに他の使用人たちが頷くように僕らに挨拶をした。
ルネスが使用人から扇子を受け取り、それを広げて持つ。
そしてもう一度軽く頭を下げると、また輪の中へ戻っていった。
それからしばらく、僕らはルルの背後に控えて待つ。
その間も僕は忙しい。この場にいる全員の顔と名前を覚えろというオトフシの指示、それを一応守らなければと周囲に気を配った。
しかし正直出来ない。……顔がみんな同じに見える。
いや、確かに全員違う。背は低かったり高かったり、顎が細かったり太かったり、吊り目だったり垂れ目だったり、髪の毛は黒や金に赤や青、緑まで様々だ。
多分、化粧と衣装のせいだろう。流行に合わせた化粧や装飾品は目を引くような効果はあるのだろうが、逆に個人の印象が薄れてしまっている。知り合ってからならばまだしも、初対面では特徴がないのは厳しい。
色とりどりの花だけれど、どれも違うようにはまだ思えない。
僕の人を見分ける能力は、鳥以下ということか。
……やっぱり、自己紹介とか欲しい。
いや、まあ、でも、判断材料は他にもあるか。
それに焦点を絞って覚えていこう。
今ここにいるのは女性三十九人に男性九人。その名前は一応ざっとオトフシに聞いた。
今のうちならば、一応覚えてはいる。うろ覚えもいいところだが。
そこに、判断材料を加えていく。……プロフィールとかやっぱり欲しい。
「しかし、勇者召喚とは物騒なものですね。戦いなんて、とてもとても」
「勇壮なお伽噺をこの目で見られるとなれば、少しばかり興奮しませんこと?」
今右の壁際で、水を飲みながら歓談している二人の女性。その片方、藍色のドレスを着た女性は左利き。わずかに背骨が側湾しているが、ドレスの柄でそれを補っている。
今すれ違った女性は、指に怪我をしている。それと唇の跡からして多分裁縫が趣味。
上腕の筋肉の付き方から、剣術……じゃないな、槍術を学んだ男性もいた。その筋肉の付き方はそれなりの鍛錬の賜物だろう。熱心なことだ。
顔はあまり、名前はうろ覚え、だがどんな人がいるのかを頭にたたき込んでいく。
すごく面倒くさい。
覚えている最中に場所が変わってしまうこともあるので、じっとしていて欲しい。
というかやっぱり、プロフィールつきの名簿が欲しい。そうすればまあまあ覚えられるのに。
「探索者といいましたけれど、お名前は?」
そんな風に苦しんでいる間にも、僕の身にも対応しなくてはいけないことが起きる。
紫がかった灰色の髪。細身。ええと、さっき聞いた名前からすれば、ジーナ・クレルモンだっけ。話しかけてきた体勢から、左耳がやや悪い。多分何か楽器をやっている。
彼女は輪からやや離れ、僕らに歩み寄ってきていた。
「……私はカラス、と申します。こちらはオトフシ」
「カラス様にオトフシ様、覚えましたわ」
クスクス、と笑う。どこか嘲るような笑い方だが、悪意はないらしい。
「探索者ということは……」
リン、と鈴の音が鳴る。
それも小さなものではなく、この会場中に響き渡るほどの大きな音。それでいて、濁っているとか耳障りな感じはしない。
「何かしら」
その長く響いた鈴の音が鳴り終わるころ、ようやく会場中の視線がその音の出所を向いた。
会場よりも一段高くなった観客席のような場所。先ほどまでは誰も気に留めていなかったようだが、今はそこに鐘が置かれている。
そこでは黒いタキシードのようなものを着た老執事、といった風情の男性が、鈴の音を鳴らした鐘の前で、視線が集まるのを待っていた。役職的には多分侍従長かな。
そしてその横にはもう一人。会場が静まりそして老執事が彼に向けて、膝を立てて跪く。
下にいる貴族たちの従者を含めた使用人たちも、続々と跪いていく。オトフシも、そして少し遅れて僕も。
一応、高いところにいる相手だし、貴族の子女たちは跪く必要はないらしい。
壁際に控えていた聖騎士や衛兵たちが、もともと乱れていなかった背筋を正す。
先ほどまではガヤガヤと騒がしかった室内が、しわぶき一つない静けさに包まれた。
「諸君」
皆が跪いたところで、もう一人の老人が静かに口を開く。
その老人は、白髪をオールバックにまとめて、長髪を背中に垂らし、髭はスティーブンより長い。
そしてその衣装は、白い法衣のようなワンピースに、黒緑の袖付きマント。所々にある金の衣装が、悪趣味にも思える豪華さを引き立てていた。
「よく集まってくれた、諸君」
重苦しい声。年齢的には六十過ぎだろうか、それくらいにしか見えないのに、声だけを聞くとスティーブンやグスタフさんよりも大分歳をとっている。
「余が、ディオン・バラデュール・エッセンである」
不健康そうな目。それに張りのない皮膚が、より深い皺を作り老けて見せている。
しかし背筋の伸びたその力強い姿勢からは、年齢以上に若々しい雰囲気がしていた。
「伝わっていると思うが、この度諸君らに集まってもらったのは、他でもない。勇者召喚に伴うものじゃ」
ざわりと声が上がる。皆もう知っているはずなのに、改めて言われれば少しは驚きがあるのだろうか。
それからエッセン王は、横にいる老執事に目を向ける。
その仕草に小さく返事を返した老執事は、立ち上がり、僕らを見下ろす。
王の担当はここまでで終わり。代わりにと、老執事が口を開いた。
「明日、勇者は召喚される。その時には、この城を皆様で華やがしていただきたい。年の頃は十代。そして、男性。同年代の皆様らがいれば、勇者にも心すこやかに過ごしてもらえるだろう」
老執事が、懐から何かの丸めた紙を引き出す。それを開くと、また言葉を継いだ。
「皆様には明日の案内をさせていただく。召喚は、明朝正午。そのときにはまたこちらの部屋に集まっていただき、召喚陣まで移動し勇者を迎える手はずとする」
睥睨する目つきは鋭く、およそ客人にするものではない。だが、それでも彼の立場からするとここにいる人間は全員目下なのだろう。
「王城より、担当する使用人が各家に一人派遣される。細かな生活については、彼女らに聞くこと。以上」
老執事が王を向く。王は満足げに頷くと、もう一言だけ、と重々しく口を開く。
「計らえ」
僕には理解できないが、それは一応命令だったらしい。使用人達が頭を下げ、衛兵たちが、ザとわずかに足を鳴らす。
そしてその言葉を最後に、王が退室していく。付き従う老執事はもう一度頭を下げて、王に従って去っていった。