閑話:いつもの朝
これはいつもの夢だ。
覚醒間際。もう既に外の音までもが聞こえる最中に、ルルはそう内心唱える。
薄ぼんやりとした視界。
目を閉じているのか閉じていないのか。眠っているのかただ目を瞑っているだけなのか。それすらもわからぬ霧の向こうに、時折ちらりと誰かの背が見える。
誰だろうか。
それは未だにわからない。ただ彼は、いつも何かを探しているらしい。
自分はとぼとぼとそれについていく。人混みを掻き分けてゆく、彼の数歩後ろを。
何かを叫んでいる。そして、それは自分も。
多分、自分も、彼と同じ何かを探しているのだろう。
そんな代わり映えもない風景が続き、そしていつも最後には何かが自分に近づいてくる。
温かな何か。目の前で光る何かが自分を包むようにし、その光が日の光へと変わり、いつの間にか目が覚めるのだ。
「…………」
夢からの無段階の覚醒。寝覚めが良い、と一般的にはいうのだろうが、ルルはいつもそうは思わなかった。
透き通った硝子窓から日の光が差し込んで顔に当たる。腹の上に乗っていた自分の腕をパタリと横に落とせば、敷布のひんやりとした感覚が気持ちよかった。
溜息をつくように息を吸い込むと、花の香りを含ませた布団の匂いが甘く漂った。
パタパタと外の廊下で足音が響く。
慌てているわけでもない。いつも彼女はそうだ。ぼんやりとそちらに顔を向ければ、ちょうど軽く叩かれた扉が開くところだった。
「失礼します、お嬢様」
「…………おはよう、サロメ」
「おはようございます」
丁寧なお辞儀。きっと本当は、それは気持ちよいものなのだろうと考えつつ、その額をルルは見つめる。そして彼女が持ってきた銀の手押し車を見て、面倒な習慣を思い出して嫌な顔をせぬように目を逸らした。
てきぱきと、手際よく、という形容が似合う手早さで、ルルの朝の準備が整えられてゆく。
朝、香油の混じる水で顔を洗い、手足を拭く。ベッドの上で行われるその行事が、未だにルルは苦手だった。
寝台から足を下ろし腰掛けたまま、洗面器に張られた水に手を差し込むと、ぬるま湯混じりの刺激の無い感触が手を覆った。
「どうぞ」
「ありがとう」
すくい取った水を顔にかける。そこに差し出されたふんわりとした布を受け取ると、ルルは叩くようにその水を吸い取らせてゆく。この布も、きっとこれだけでまた洗濯されるのだろうというような他愛ないことを考えつつ。
その布を使い手を拭いている最中、サロメの手により足には香油がそのままかけられる。それもまたサロメが布で拭き取ると、寝汗がそのまま張り付いたような奇妙な感覚が残った。
「今日は、登城の日でございます、お嬢様」
「……ええ」
布を手押し車の下段に納め、視線も合わせずにサロメが言葉にする。
わかっている。嫌で、面倒で、それでもなお自分の仕事である行事のことは。
部屋にまた一人入ってくる。着付係のその女性は、中年に入ってもなおまだ若さを感じさせる風貌だった。彼女も押している銀の手押し車は、サロメの押していたものとはまた違うものが乗せられていた。
「さ、お立ちください」
促されるままに、ルルは立ち上がる。そして寝間着を脱ぎ捨てると、下着姿で一歩前に踏み出した。
それに合わせるよう、着付係は一枚一枚丁寧に服を着せてゆく。
最後に一つなぎの服を引き上げる。長い裾に細い胴、黒色と所々の白色でまとめられた飾り気のないその女性用の礼服は、ルルに似合っていると着付係も太鼓判を押していた。
背後に回り、背中に横にかけられた紐を編み上げるようにして胴を締めてゆく。細身の体は美容の点で言えばルルの強みだ。それを殊更に示すように、着付係の腕に力が入った。
一つ編まれるごとに、胴が締め上げられる。
息が詰まり、そしてその度にルルは苦しさに声を上げそうになった。
こんなに苦しければ、走れない。そう文句を言いそうになった。走ることなどないのに。
まだ朝食前である。腹の虫が鳴りそうになり、腹をへこませてそれを懸命に押し留める。
それでまた胴が細くなり、締め上げられたのは誰のせいでもないことだ。
ザブロック家では習慣的に、化粧は朝食の前に行われる。
その後また化粧直しが必要となるのであれば、食べてからで良いではないか。そう最初の頃は抗議もしたが、今となってはルルもそれに従っていた。
椅子に座り、目を瞑れば着付係が薄く下地を塗ってゆく。
もとより十代中盤の綺麗な肌だ。まだ水を弾き、皺も染みもない真珠の肌。
それを生かすために、着付係も心得ている。
下地は薄く、そして化粧も最小限に。
頬紅も口紅も、ザブロック家当主であるレグリスに施すものと比べれば無いようなもの。
それでもルルの場合は、その美しさを引き立てることは出来る。
着付係は心配になる。
自分は登城の随従ではない。これから先は、化粧を自らの手では出来ないのだ。
化粧を施されているルルを見守っているサロメを、視界の端でちらりと見る。
彼女はきちんと出来るだろうか。もちろん、その心得はあるだろう。自分で自分にも施しているのだ、それをそのままというわけにはいかないが、慣れてもいるだろう。
着付けに、そして朝の準備に、化粧。それも全てサロメに押しつけるというわけではないが、彼女がやるしかない。
だが、出来るだろうか。
「はい、終わりました」
着付係が声をかけると、ルルが静かに目を開く。潤んだ瞳が着付係を射貫き、その気がない着付係の頬も緩んだ。
二三度瞬きを繰り返し、もう興味を無くしたように視線を切られれば、その感情も消えて無くなってしまうが。
「サロメ、食事の準備は出来てますか?」
「ええ。レグリス様もそろそろいらっしゃると思います」
「では、参りましょう」
立ち上がったルルから、着付係が身を引く。
会釈するように頭を下げれば、遠ざかってゆく足が見えた。
これであとは、食事後の化粧直しをすればしばらくはルルへの化粧の仕事はなくなる。
着付係はそれが残念だと思っていた。
そしてもう一つ、心の奥にあるかすかな感情がある。
心配だった。これから化粧がきちんと成されるのか。着付けがきちんと整えられるのか。
いや、サロメはきちんとやるだろう。自分が詳細を知らされていないだけで、もしかしたら王城でそのような担当者を借りることも出来るのかもしれない。
しかし、足りないものがある。
何かはわからない。それでも何か、足りないものがある。
「ああ、本当、良い匂いがしてきました。半熟の卵の匂い……」
廊下へと出て行くルルの横顔。
そこに何か足りないものがある気がして、着付係は自分の力不足に腹が立った。