久しぶりに
ザリガニはエビの味がする。
串を使い、真っ赤な殻からぷりぷりとした身を取り出して、その身を口に運ぶ。
始めに香る匂いは柑橘系。……ライムみたいなものかと思ったけれど、レモン系のものに香辛料を入れているといったほうが近い気がする。特徴的な辛い匂いが柑橘類のものに被ってきた。山椒みたいな感じだけど何だろうか。
咀嚼すればわずかな甘み。それに、茹でるときに入れたであろう塩の味。
飲み込んだ後味は磯の匂いではなく、藻や水草のようなもののものがわずかに残る。
そこそこ美味しい。
今食べているのは、一枚の皿に、柑橘類で味付けされ、雑に縦に割られた三匹の茹でザリガニ。それに一緒に茹でてから潰されたであろうマッシュポテト。
サービスらしいお茶も含めて、これで鉄貨四枚とはそこそこ安い気がする。
水色からして、お茶は発酵がほとんどされていない白茶。発酵が進んでしまうためにほとんど紅茶や黒茶のようになってしまうこの世界のお茶からすれば、緑茶に一番近く僕的には好きな味だ。
ただ、人から評価はあまりされていないらしい。
周囲を見渡せば、食堂内には僕の他に二人だけ。多分十人くらいしか入らないような小さな店だけど、まあ人気もないのだろう。
王城でレイトンと別れて三日後。
僕の食べ歩きは、順調に進んでいた。
味も悪くなく、値段も安い。
ついでにもう一品頼んだスープは、多分ザリガニの出汁と貝の出汁を合わせて塩味をつけ、具には魚の身を使ったもの。貝は……シジミだろうか。魚は鮒のようでわかりやすかったけど。
今日の昼食にと気軽に立ち寄った店だったが、そこそこ当たりだった。
しかし、それでも客足は遠いようだ。僕が食べている間にも客は増えず、皿洗いを終えた店主らしき料理人はただスープを混ぜているだけだった。
他にもとりあえずメニューにあった料理を適当に頼み、食べ終えて、白茶を含みながら一息つく。
混んでいる店ならば食べ終えたら急ぎ出ていったほうがいいとは思うが、ここまで空いているのであればまあ多少は構わないだろう。
僕より後に来て、今まさに出ていった客を見ながら僕はそう思った。
しかし、改めて考えてみると不思議なものだ。
僕は、食べ終えたザリガニの殻を眺めながらそう思い至る。
大蠍はムジカルでは食べる文化がなかった。隙間蟷螂も、食べる文化圏を僕は知らない。
だが、ザリガニはそこそこ食べられている。ここエッセンの首都グレーツでもそうだし、イラインでも出す店はあったと思う。
ムジカルの方でも、中央部では新鮮な魚介類があまりなかったためにそういう店はあまりなかったが、それでも辺縁部の植民地や併合された周辺領土ではそこそこあった。
だが、何が違うというのだろうか。
殻に串を刺して持ち上げてみれば、ハサミがだらりと下がる。僕の掌よりも大きな体長を持つ大物だが、ありふれたザリガニ。
大蠍は、見方によればこれを大型化しただけだ。いや、蠍とザリガニということで形はちょっと違うけど。
隙間蟷螂の外殻は、ザリガニとほとんど手触りが変わらない。たしかに針金虫は縄を囓っているような食感で美味しくないし味もしないしで食べないのはわかるが、その周囲の蟷螂は食べようとしてもおかしくはないだろう。実際食べられるし。
リドニックでは、催吐性のある苦みが強い肉を持つ鳥は食べられていなかった。
だがそれすらも、食べる努力をした人はいるし実際昔は食べてもいたのだ。
なのに毒もなく味も良く、食べるだけなら調理も簡単な大蠍や隙間蟷螂は食べられていない。
それがとても、不思議に思える。
……狩ったら売れないかな?
ハサミの中に肉が残っているのに今更気づき、その中の幾分か固い肉を囓りながら今日のこれからの予定を考えていた僕。
そんなのどかな時間にも、終わりが来る。
背中の方で、食堂の取っ手もない扉が押して開かれる。
新しい客だろうか。そう思って、それでもまだ混むまではいかないとゆっくりしていた僕にその客が歩み寄ってくる。
誰だ。
そう思い、振り返り誰何しようとするよりも先に、僕の鼻に香水の匂いが届く。
普段使いなのだろう。……だが、虫除けの効果があるこの香水を使っている人間を、僕は一人知っていた。
「カラス」
「何かご用でしょうか」
そういえば、この前何か問い合わせを受けていたっけ。
何か用事があったのだろうが、ここまでわざわざ来るとは。
一声名前を呼ばれて、その用件を尋ねる言葉だけを発して振り返るのをやめる。
一応失礼か。歯ごたえのある肉を噛み砕きながら、正面から応対するのは。
「……いらっしゃい……」
「ああ、食事に来たわけではない……が、何か頼まなければ失礼か。何か飲み物を頼む。一番安いものでいい」
陰気な店主に応えて、彼女は僕の隣に座る。ここまで来たら今更か。僕は振り向き、その顔を見た。
「よく僕の居場所がわかりましたね」
「まったくだ。自分で自分を褒めてやりたい。この街に来て、レイトンの奴に先に会うとは思わなかった」
ふてくされたような顔で溜息をつくオトフシに、僕は口の中の肉を強引に飲み込んだ。
半鉄貨一枚の白茶が運ばれてこられ、それをオトフシがやけに優雅に口に運ぶ。
場所を知らず、そして飲んでいるのが何か知らなければ、高級品の紅茶を飲んでいるような雰囲気で。
少しだけ威圧された気がするが、それに負けぬように僕も茶を一口飲んで口を開く。
「それで、どうしてここへ?」
「フフン、招待だ」
オトフシは端的に答え、それから外套の懐から何かを探り出す。
そして僕の前、机の上にパサリと置かれたのは、封が切られた便せんだった。
「何故妾にだけ、とは思ったが、内容を見るに向こうは妾がお前の保護者とでも思っているようだな。妾からお前にも、と書いてあった」
「何の話ですか?」
差し出されたということは読んでもいいのだろう。僕はその便せんを手に取ると、中から薄い一枚の手紙を引きずり出す。乱暴にしたつもりはないが、封蝋の一部が欠けて剥がれた。
差出人は……と見れば、これは……レグリス・ザブロック?
……誰だっけ?
中には万年筆で書かれたような質感の達筆な文字が並んでいる。
社交辞令や定型句に彩られた回りくどく長い文章は、読み解いてみれば晩餐会への招待のようだ。
そして、まずオトフシへ。そしてあの日の少年……文脈的にこれは僕だろう、その……あ、最後の方でカラスと名前も書いてある、まあ、その二人への招待状。僕がおまけのような書き方だが、たしかにカラス殿と連れ合ってと書いてあった。
しかし、そうか。
僕ら二人。それに、ザブロックと聞いてようやく思い出した。
レグリス・ザブロック、と聞いても余りピンとこなかった。だが、ルル・ザブロックと考えれば話は別だ。
「伯爵家からの招待状じゃないですか」
「そうだな」
特に他に誰かを招くということでもないが、来ませんか、とのこと。
……いや、そんな気安い言い方でもないけれど。
「来る前日までに返事を欲しいとのことだ。故に早ければ明日、ということになるが」
「何故でしょうか。何故、僕らを?」
「さあな。書いてあるとおりとすれば、旧交を温めたいということらしいが……」
言葉を切り、オトフシは薄く笑う。
「だが、そういうことではあるまい。妾の経験上の話ではあるが」
「では、何故?」
「妾が知るわけがない。……だが、予想は出来るぞ」
オトフシは、ピンと人差し指を立てる。
それから笑みを強め、目を細めて僕をまっすぐに指さした。
「通常、妾たち下々の者と貴族が食を共にすることはない。それはわかるな?」
「ええ」
「旧交を温めたいということもないだろう。妾たちは彼女らとほぼ顔を合わせたことはなく、そして合わせたこともなかったことになっている」
僕は頷く。だんだんと思いだしてきた。わずかな挨拶を除けば、僕やオトフシが奥方……レグリス・ザブロックと直接顔を合わせたのはたった一度といっていい。そしてその時、話題が話題だけに知らぬフリをすると態度で示した。
「経験上は、こういった場合は妾たちへの仕事の相談だな。それも、ギルドを通さない類のもの」
「裏依頼……」
ギルドを通さず個人で仕事を受ける。明確に禁止されているわけではないが、苦情の来るようなもの。
探索者たちの仕事の質の担保と、賃金の調整をする役割を持つギルドからすればあまりいい顔をしないもの。
僕が考え込むようにして黙ったのを見て取ったのだろう。オトフシはあっけらかんとした口調に変えて、小さく首を振った。
「まあ、実際にはわからん。無論、呼び出しが嘘というのはおそらくない。封蝋の花押は本物としか思えなかった」
「単なる食事会で終わればいいですが」
「フフン、なに、お前も私も色付きだ。いざ何かの問題が起きたとしても、ギルドに駆け込めば何とかなる。……で、どうする? いくか?」
「行かないわけにはいかないでしょう」
貴族の問題。何かわからないが、面倒だったら断る。
だがレグリスさまは、ギルドを通さずに、そして依頼ということを前面に出さずに個人的な招待をしているのだ。ギルドを通してならば金さえ出せば簡単に断ることが出来るが、招待ということはそうとはいくまい。
言うなれば、『家にきませんか』という誘い。だがそれを貴族が庶民に発するとしたら、それは命令に近い。そうなることはないという予感はあるが、それでも断れば僕たちは無礼討ちされても問題ないような人間になる。……いや、貴族法の兼ね合いで、命までは奪われないとも思うが。
「では明日、と返答しておく。それでいいな?」
「ええ。お願いします」
行く。ならばその期日はいつでもいいだろう。
まだレイトンとの約束までは余裕があるし、そもそも面倒ごとは早いほうがいい。
僕は白茶を飲み干すべくカップを傾ける。
……そういえば、晩餐会のマナー、思い出して復習しておかないと。
それに、服装も整えなければいけないか。
「店主、勘定を」
やっぱりもう少し時間がほしい。
僕はそう言おうとするが、もう用は済んだとオトフシが席を立つ。金を入れた巾着を懐から出して、その中を探る。
「あの……」
「……まあ、妾はともかく……」
じゃらじゃらと中の硬貨を混ぜて、ようやく目的のものを見つけ出せたのだろう。オトフシは白い指で、半分に割れた黒い鉄貨を引きずりだす。
「お前にとっては懐かしい顔だろう。……立派な子女に育っているといいな」
その笑みに、いつもの挑戦的なものが見えずに僕は思わず口を閉ざす。
「……そうですね」
「では、明日」
僕は泊まっている宿をオトフシに告げて、彼女を見送る。
彼女の後ろ姿。その所作は完璧で、ここが場末の食堂だということも忘れそうな程だった。
……僕も、明日までに完璧にしておかなければ。
面倒なことだ。
だが、何もなかった今日の予定が埋まったことに少しだけ思うところあるのか、僕の足は少しだけ軽い。
「お勘定をお願いします」
「はいはい……ええと、銅貨四枚と……」
そんなことを考えながら、店主が皿を数え終わるのを待つ。
久しぶりにお腹いっぱい食べて、満足できる店だった。