閑話:いつもの茶会
腕の良い庭師によって整備された庭園の中。
小さな円卓を囲んで、四人の女性が向かい合う。
彼らそれぞれの年齢は違うが、それでも同じ年頃の、少女といっても構わない。
そのうちの一人。一番の低身の女性が、紅茶の椀を傾ける。その手を覆う、銀の光が散りばめられたように輝く手袋を、殊更に見せつけながら。
それに反応し、薄緑の礼装を身につけた少女が、やや大仰な仕草で声を上げた。
「あら、ルネス様、新しい手袋ですか?」
「ええ。お父様におねだりしましたの。銀兎の毛を使っているそうですわ」
傾けた紅茶を少しだけ口に含みながら、ルネスと呼ばれた少女が応える。橙色の髪の毛がしなやかに風に靡き、その優雅さを強調していた。
「羨ましい。その紋章は……イラインの『麗人の家』でしょうか? やはり今はあそこがよろしいですね」
「本当に。職人をお抱えに出来ないかと何度もお父様にお願いしているのですけれど」
「まあ」
ふふふ、と少女たちは笑い合う。
彼女らの話題の中心は、いつもルネスだ。
流行に乗った新しい服、新しい装飾品、珍しい菓子、このお茶会に彼女が持ち込んだものが、即ちその茶会の話題となる。
今日の話題は彼女の手袋。
イラインの『麗人の家』。その工房はいくつかの部門に分かれ、そして部門ごとに名前がつけられていると聞くが、それでも彼女らにはどうでもよかった。
『麗人の家』とはその部署の名前だ。正確に言えば、その工房で働く一人の仕立屋の関わった商品につけられる商標に近い。
五年程前から名を上げつつある仕立屋。仕立屋の名を知るものは彼女らの中にはいなかったが、その品物を見ればそれがその職人の仕事だと一目でわかった。
意匠は基本に忠実、それでいてどことなく独創性がある。作りも精密で、彼女らが新しい服を購入したときにはほとんど必ずお抱えの職人が一度検品し仕立て直すものだが、それすらも必要ない。
見事な細工。手元に置いて眺めても楽しめる。使い心地は不満なく、たとえば手袋なら、他の手袋を身につけたときには縫い目の粗さが気になってしまうほど。
そんな精密な作品。出来の良い作品。彼女らが集めている理由は、それもある。
だがもうひとつ重要な機能があった。
その仕立屋の作品は、ルネスのお気に入り。彼女ら貴族の子女たちが集う独特の社交界で華々しい活躍をする彼女。その気に入っている作品群を所有することは、そのまま彼女らの社交界の地位へと繋がっていた。
「……貴方も、そういったものを身につけて垢抜けないと駄目よ」
貴方、と呼びかけられて、黒髪の少女が口元で笑顔を作って返す。
「皆様素敵な方々だからお似合いになるんですよ。私なんて、とてもとても」
耳の横に落ちた短い髪の毛を耳にかけて、彼女は紅茶を口に運んだ。皆の動きに合わせるように。
「そんなことばっかり言ってたら似合わないままだわ。……そうだ!」
ルネスがパチンと手を合わせる。
その満面の笑みを見て、何かまた余計な思いつきを、と少女は内心溜息をついた。
「今度、一緒に服を一式仕立てに参りましょう。案内して差し上げますわ」
「……ええ。是非」
しかし、内心は口にした言葉とは逆の言葉を浮かべる。
そんなところに行っても、何も楽しいことはないのに。当たり障りのない言葉を言い合い、褒め合って、ルネスの機嫌を取るだけの買い物。
一人で見て回った方がとてもとても楽しいはずだ、とも思う。もっとも、数年前に貴族の養女になったときから、一人での買い物など出来たこともないが。
少女が庭の脇に控えるルネスの使用人を見れば、一人が笑顔で頷き、そそくさと周囲に指示を送る。ルネスの器から紅茶がなくなった。少女はそれを知らせる気があったわけではないが、それを指摘したのだと使用人たちは解釈した。
少女たちのお喋りを邪魔しないように、静かに運搬車が押され、ルネスの横で使用人が頭を下げる。その場の誰の視界も塞がないような優雅な所作で、滴一滴を飛ばすこともなく紅茶が注がれた。
立ち上る香気が鼻をくすぐる。
さすが侯爵家の娘、お茶会で出る茶葉も最高級品だ、と少女は自分の分の紅茶をもう一度傾けて内心笑った。
「それでは、ごきげんよう」
午後の優雅なお茶会。親交を温めるという意味では何の意味もないそれは滞りなく進み、終わりの時間を迎える。
庶民では使えない豪華な誂えの馬車に乗り、見送るルネスに微笑みを浮かべて頭を下げる。
御者が威勢の良いかけ声をあげて馬を出す。
それから、外からの視線を塞ぐように素通しの窓の御簾を下ろせば、ようやく一息つける気がした。
これからまた邸宅へと帰る。
御簾の向こう、遙か昔に覚えようとして諦めて、今はもう見ることすらしない道筋は彼女もよく知らない。影だけが見えるその貴族街と呼ばれる一角は、きっと華々しいものなのだと思っていた。
「お嬢様、今日のお茶会はいかがでしたか?」
馬車の向かい。細身の従者が問いかける。最近おつきになった彼女は、主に気を遣うのに精一杯の有様だったが、それでもその頑張りは主も認めていた。
「いつも通り楽しいものでしたよ」
「それはようございました」
笑顔で二人の会話は途切れる。車輪のガラガラという音が響いた。
いつも通り。楽しい。実際には何一つ感想を述べていないような言葉。
しかしそれでもいいと口にした彼女は思っていたし、事実それはそうだった。
従者に視線を向けると、何か言うかと従者がやや身構える。だが主が何も言わないのを見て取り、ただ笑みを浮かべてやりすごした。
内心彼女は溜息をつく。
ここ何年も、こればかりだ。
周囲の人間はみな自分に対して愛想笑いを浮かべるだけ。
本当に笑っているわけでもないのだろう。仕事で自分に付き合っているのだ。悪意ある言い方をすれば、彼らはそれでご飯を食べている。
そして、茶会を思い浮かべてもそうだ。
回りの貴族の子女たち。誰も彼も、本気で笑っているわけではない。ただ場の雰囲気を壊さないように、そしてその場の一番地位ある誰かの機嫌を損ねないように笑うだけ。
楽しかった、と言った。
だが本当に楽しかったわけではない。ただ、ここで不満を吐けば、彼女ら従者も困るから。
だからこの不満は胸の中に押し留めなければならない。静かに、優雅に自分はいなければいけないのだ。
愛想笑いを浮かべる従者を視界の端で見て、また御簾越しの景色に視線を戻す。
笑うな。
そう言いたかった。本音では、きっと面倒だとすら思っているだろうに。
ただ私の家にお金があるから。本当は生まれも彼女らと同じなのに、ただ運が良かったから私は皆に傅いてもらえているだけだ。
従者たちの雇い主、レグリス様に『彼女らはよくやっている』とでも言っておけば、従者たちは喜ぶだろうか。賃金を割り増しされるまではなくとも、心付けの一つでも配られるかもしれない。
馬車の外から子供の声がする。
本来、貴族街ではそういうことはあまりない。彼らは家の中で過ごし、行儀作法やしきたりなどを教え込まれて遊ぶ。
少し大きくなるまでは、外へ出る暇などない。彼らにとっては遊びは仕事の一環であり、そして物心ついたときからその仕事は始まっているのだ。
だが、ここは貴族街の外れ。そういうこともあるのだろうと彼女は一人で納得した。
羨ましい、とそう思った。
彼らは小さな時から教師に行儀を躾けられ、骨身にまでそれが染みている。食事や移動の際の決まり事はもちろんのこと。
ごく小さな時から従者を指先一つで使い、下の者を使うという感覚を学ぶ。出会った人間の顔は爵位と共にすぐに覚え、序列を判断し、頭を下げる。
彼ら貴族はそういう生き物だ。
自分もそういう生き物であったのならば、きっと今のような鬱屈した感情は抱かなかったのだろう。
当然のように笑えた。当然のように世辞を言えた。当然のように、人を使えた。
しかしそれが自分には出来ない。所詮この身は庶民の生まれ。
いくら礼儀作法を身につけても、きっと滲み出てしまうものがあるのだろう。だからだろう、きっと、周囲の者が内心自分を嘲笑っているのは。
また思考の波に呑まれていたことに気づき、従者にも見えないよう、彼女は小さく首を振る。
視界の端に、従者の笑みがある。
笑うな。
飛びかかってそう言いたいと思うことすらある。
本当はどう思っているのか。そう問いただしたいこともある。もちろん問いただしたところで本音を吐かないのだろうとも思っている。
不満ならば言えばいい。なのに、言わないでただ笑みを作っている。
貴族の社交界。この世界は嘘ばかりだ。
皆が自分の心に嘘をついて、表情を作って過ごしている。
貴族たちに従者たち、皆が皆に嘘をついている。
そんな嘘の世界を、彼らは泳ぐように軽く渡っていく。
羨ましい、と先ほど浮かべた感情が、きっとそういう意味なのだろうと思った。
本当は、違うのに。
馬車が止まる。
街の外れ、宮廷貴族の住む家としては標準的な大邸宅。その玄関先に止まった馬車の扉が、御者の手により開かれた。
先に飛び降りるようにして下に回った従者の手を取り、彼女らの主は静かに地面に降り立つ。
馬車に連れられているときに感じていた、どこかふわふわとした心持ち。それが、地面を踏むだけで消えた気がする。
玄関の中にも、使用人が控えている。彼女のために、扉を開けるために。
もう一度、気を入れ直さなければ。音を出さないように、大きく彼女は深呼吸する。
弱音を吐いてはいられない。自分は今まさに貴族の娘。
これが仕事なのだ。周囲と軋轢を起こさぬように振る舞い、皆に気を遣って生きていく。
時が来れば結婚し、家同士の繋がりを取り持つ。ただそれだけの。
上手くやるのだ。
そのように振る舞い続ければ、きっと自分にも上手く出来る。やっていける。
笑みを作り直し、使用人が扉を開けるのに合わせるよう、歩み寄る。
使用人が頭を下げる。あの嫌な笑みも見えないが、表情がそもそも見えないのがまたちくりと胸のどこかを刺す。
「お帰りなさいませ、ルルお嬢様」
「ええ。ただいま」
可憐な花のようにルルは笑う。
けれどその笑顔は、何かが欠けていた。