閑話:悪酔い
ハイロ注意
ハイロの風呂敷はもう一話で畳めると思いますが、次回更新は本編です。
一人の男が酒の杯を傾ける。水で薄められた安い濁酒が飲み干され、杯の端からわずかにこぼれる滴までも逃さぬように何度も振られて口の中に落とされる。
勢いよく置かれた杯は小気味のいい音を立てた。
「だからさ、俺そんとき言ってやったんだよ、『やりすぎじゃね?』ってさ」
「かっけえな!」
ゲラゲラという笑い声が酒場に満ちる。夜も遅く、既に酔いも回りきり、十人はいた連れが一人欠け、二人欠け、と消えていった。
話の中心は一人の男。イラインの五番街で鍛冶師の下働きをしている男だった。
自慢げに語るのは、少し前に行った武勇伝だ。
繰り返される日常の中、勇気を奮い立たせ、脚に力を込めて行った自分なりの善行の話。
かの悪名高い探索者、カラスの決闘に遭遇したときの話である。
「不意打ちだぜ、もう、不意打ち。決闘なんか受けないって言っときながらさ、あれ、焦らして動揺させてるんだろうな」
呂律も怪しくなってきている中、カラスの悪行の解説を加えてゆく。その中に、ほんの些細な誇張を入れつつ。
「卑怯だなー」
「ああ、まじ、まじ」
仲間の合いの手に、男の調子は上がってゆく。実際にはしていないことまで、もはや彼の中では事実になっていた。
「相手の準備も出来てないのにさ、勝手に始めて……で、甲冑の男が先に突いたんだっけ……?」
うろ覚えなりに、その情景を思い出す。酒に酔って歪んだ記憶の中に残っているはずの映像記憶を、懸命に目の中に映し出す。
「こう、ひょろひょろっと、突いた! と思ったら、すぐにバタンて倒れちゃってさ」
「カラスから手は出したのか?」
「ああ……出したんじゃねえかな、あれ……」
言いながら、男は考える。
今のままでは記憶の通りだ。
だが、何か違和感がある。何か違う気がする。
いつもは一重の瞼を瞬かせ、二重に変えてようやく思い至る。言ったとおりであるならば、決闘を始めたのは甲冑の男であってカラスではない。
それを迎撃したのがカラス……いや、違う、カラスはもっと卑怯でなくては。
「いや、違え違え。こう、来いよ、って挑発してさ。それで剣が迫ってきたら、大げさに避けやがったんだ。その時に、何かしたんだろうなぁ……」
卑怯でなくては。卑劣でなくては。
思い出した決闘の風景。それが、尋常の光景であっては困るのだ。
「もう、すこーん、よ、すこーん!」
擬音混じりに、甲冑の動作を再現する。今の今まで動き続けていた甲冑の男が、突然白目を剥いて泡を吹いた姿は恐怖の一言だった。
「あれを見て、確信したね! あの無表情野郎、人間の心ってもんがねえんだよ! 強いんだったら、一発小突けばいいだろう? なのに、あんな……あんな……」
怪我をさせて、と男は続けたかった。
だが、続けられなかった。記憶の中の甲冑の男に、どんな怪我があったのか、思い至らず。
……しかし、そんなことは小さなことだ。
「だぁぁぁから、俺は言ってやったんだよ。そそくさと逃げようとしたあいつの足を止めさせてさ、こう、面と向かって、『やりすぎだぞこの野郎!』って……」
もう一杯、と飲もうとして、空の杯を傾ける。当然入っていないその杯からは酒が零れてくることはなく、だが、縁に付いた甘い滴が唇を湿らせた。
「……そんで、カラスはどうしたんすか?」
そこで初めて合いの手を入れた者がいる。酒の追加を頼もうと、手で店員に合図を送りながら。
「ああ? ……そりゃもう……、ばつが悪そうに目逸らしてさぁ……」
「目を逸らして……?」
聞いた青年が、言葉を繰り返して確認する。カラスを知っているその青年は、カラスのその様が想像できなかった。
「目を逸らして……なあ、いいじゃねえか、今は俺の格好良い話だろ!?」
そして、期待していた答えの続きはない。
それを確認しながら、聞いた青年、ハイロは自分の杯の濁酒を傾けた。
机の向こう側にいるハイロは、武勇伝を自慢している男の顔をじっと見る。
酒に酔った赤ら顔。浮腫んでいる頬は、毎夜の酒盛りによるものだろう。
ハイロがこの場にいた理由は簡単だ。
ただの、寄り合い。先輩に連れられて、五番街の年齢が近い者で固まって飲みに来た。それだけだ。
カラスと距離を置きたい。そう思ってから連日参加している宴。兄貴分の仲間たちが代金を払ってくれるのが、ハイロにはありがたかった。
もっとも今日その先輩は既に席を外しており、恐らく道のどこかで死んだように倒れているのだろうが。
「でも、怖くなかったんすか?」
別の男がそう問いかける。自慢げに話す男は、その言葉に『待ってました』と手の甲を叩いた。
「そりゃ怖えよ。あの乱暴もんに注意すんだもん。でも、誰かがやんなくちゃいけねえだろ」
男はしみじみと語る。目を瞑り、浮かべた光景には、カラスの前に立ち塞がり啖呵を切っている自分が映っていた。
その目を閉じている男の顔を見つめ、ハイロは小さく首を振る。
おそらくは嘘だろう。酒で溶け始めた脳でも、そう正確に判断していた。
「まったく、貧民街の奴らがこの街で幅利かせるのも大概にしとけよって感じだよな」
「そうっすよね、なんであんな奴らを、衛兵の人とかも捕まえないんすかね?」
「全員牢屋にぶち込んじまえ!」
ゲラゲラとその場にいた大勢が笑う。
何も面白いことはない。だが、酒の席ではなんということもない言葉が最上の諧謔になる。
言葉を吐けばそれが詩になり、動けばそれが舞になる。酔いとは良いものだ。
だが、ハイロだけは笑えなかった。
その言葉が直撃する身の上で、そして直撃している友がいる。
それでも空気を壊すわけにはいかない。酒を飲み、それから口元を隠して笑みを装った。
楽しい楽しい酒宴は進む。
もはや料理を食べることもなく、ただひたすら酒を胃の中に流し入れてゆく。
それでもよかった。酒場では、その酒場の空気が肴になる。
それに加えて、武勇伝でも語る誰かがいれば贅沢も過ぎるというものだ。そう、皆は心の底から思っていた。一人を除いて。
「……でさぁ……で……よ……」
皆の話を聞くのは楽しい。仲間になれた気がして。
酒の量も過ぎたものになっていたが、ハイロはそれでも脱落する気もなく、ちびちびと酒を口に含んでいた。
松明の橙の光が滲む。夜の薄暗い店内でも、皆の興奮は収まらない。
興奮の中に、日々の鬱憤を吐いていく。
日の光の中では胸の内に秘めていた不満ややりきれない思いを、ここぞとばかりに吐いてゆく。
止まらない。酒の宴とはそういうものだ。
今日ここに集まった彼らの仕事は様々だ。
ハイロは郵便という職人たちの相互の流通網を支える仕事。武勇伝を語る男は、鍛冶師の下働き。さらに別の男は食堂の見習い。その他、奉公人や農民、それぞれがそれぞれの仕事をして日々を生きている。
立派な仕事だ。
彼らがいなければ、鍛冶師は一心不乱に槌を叩くことが出来ないかもしれない。皿を洗う者がいなければ、忙しい昼休みに食いそびれる者もいるかもしれない。
彼らは彼らの職場の中で、『それなりに』上手くやっていた。
皆心の中で思っていた。
これ以上を目指して、どうなるだろうか、と。
鍛冶師の下働きをして、どうなるだろう。この先、鍛冶師になったとして、死ぬまで槌を振るい続ける日々が待っているのだろうか。
仮に自分の食堂を持ったとして、上手くやっていけるものだろうか。仕入れから食材の下ごしらえ。それに加えて経営や何か、全てを上手く回せるのだろうか。
職人たちの間を飛び回り、御用聞きをして回る日々。それを、いつまで続けるのだろうか。
不安と、そして焦燥感。それらが知らぬ間に心を炙り続ける。
そんな彼らが酒場で集い、話を弾ませ疲れを抜く。
その話題がある二つの種類に固定されるのは、よくあることだ。
一つは、これから先の不安の話。自分がいかに落ちぶれていくかを想像で語り、そんなことはないと否定されることにより不安を解消する。
そしてもう一つは、もう既に不安のない者たちの話。
今日の話も、その一種だ。
「そういや、この前、貧民街の女が死んでたって話あったよな?」
「ああ、あった、あった。結局誰が殺したのかわからねえでやんの」
口々に自分の聞いた、『貧民街の女』の話を口にする。誰もその真偽を問いはしない。楽しければ良いのだ。どうせ、彼女は死んでいる。
「……男の客取りに来てたって聞いたけどさぁ……」
「え? そらもったいねえ、結構いい女っぽかったけど……」
下卑た話題にすら簡単に転ぶ。これが、この場に異性の一人がいれば、また違うものなのだが。
ハイロは黙ってただ愛想笑いを浮かべていた。
何が楽しいのかわからない。
人が一人死んでいる。それも、自分と同じような境遇の者が。そう想像してしまえば、もはや会話に参加することは出来なかった。
貧民街の者が、私刑にあい死に至る。
その想像に、背筋が凍る。自分の経験と照らし合わせた上で、その震えは一層強くなった。
酒の水面がゆらゆらと揺れる。それが目の錯覚かそうでないか、酔いが進んでいたハイロにはもはや判別が不能だったが。
会話は進んでゆく。
酒の席の適当な話題。誰も本気にする者はいない。
約束も、秘密の暴露も、それが本当のことだと誰も思わない。思わないように暗黙のうちに了解し合っている。
そんなとりとめのない会話をしながらも、先ほどの話題で覚えた薄ら寒さがハイロの背中から消えなかった。
彼らの瞳に映る『貧民街』は、実際の貧民街ではない。
各々が、そうであってほしいと願う貧民街。
卑劣で、怠惰で、死んで当然の人以下の住む街。
そんな彼らがいなければ、街の人間は耐えられないのだ。
そう、ハイロは気づき始めていた。
仕事が出来なくても自分たちは死ぬわけではない。
だが、貧民街の者は日々の暮らしに事欠いている。
仕事が出来なくても自分たちは悪人ではない。
だが、貧民街の者は全て悪くて嫌な者たちだ。
能力がなくても、何かに秀でていなくても良い。
貧民街の者よりは、大分マシだ。
そう皆が思っていることに、そのために殊更に貶めていることに気づき始めていた。
しかし。
ならば自分はどうするべきか。
貧民街から出た。もはや命の危険など生活の中には存在しない。もはや、街の住人の一人だ。
ならば、この場でどう振る舞うべきか。
濁酒を一口また含む。
その薄い酒が、喉の奥を滑り落ちてゆく。
「あったくよお、俺たちがあの貧民街の奴らからどれだけの迷惑を被ってんのかってなぁ!」
「すぐ目と鼻の先だもんな」
ケラケラと笑う彼らの顔を見ているうちに、ハイロの瞳の中に、ふと誰かの顔が浮かぶ。
誰だろうか。
もはや泥の中に沈みつつある意識の中で、懸命にそれを思い出そうとする。
だが、誰かはわからない。
「なあ、ハイロ?」
何事かを言っているかもはや聞き取れないほど歪んだ聴覚の中。
自分が答えを求められていることはわかった。
何かを言わなければ。呂律の回らぬ中、それでも声だけは出そうと頬杖を押し下げるように口を開く。
「……そうっすね……」
その言葉に、仲間たちは何事か応えた。それでももはや、聞き取れるものはない。
愛想笑いを浮かべれば、納得したような声音が耳に届く。
そうだ、きっとこれでいいのだ。自分の答えが間違っていなかったとハイロは感じ取り、安堵の息を吐く。
「本当に、……迷惑な奴らっすよ……」
誰に求められて吐いた言葉なのか。ハイロにも、それはわからなかった。