会いにいこう
ノックの音がした。
僕は目を開ける。いつものように自宅で壁に背をつけて、座ったまま迎えた朝。
気のせいかと思い玄関を見る。だが状況は変わらず、誰かのいる気配はしている。
珍しいことだ。ここを訪ねてくる者などほとんどいないのに。
そんな珍しい事態に、僕はため息をついた。
誰かの訪いの予定もなく、そして敵意ある音はしないが昨今の僕の状況。
それらを考えるに、簡単に開けていいわけではないだろう。
窓をそっと開ける。
玄関と反対の窓、その外で、今までと同じく遊んでいた鳥たちに話しかける。
「……誰か近くにいますか?」
玄関の方には聞こえないように気をつけながらの問い。気を引いている隙に誰かがこちらから襲撃してくるとか、そういうことはないか。
そう思って問いかけるが、雀は『いないけど?』と即答した。
改めて玄関を見る。
「はい、すぐに」
一応声を出して、客人らしき人物に伝える。本当の客人だったら困る。
もう一声、鳥たちに伝える。今度は小声で。
「表にどんな人がいるか、教えてもらえます?」
気安く、『いいよー』と短く鳴いて飛んでいった雀は、ほんの一周僕の家を一回りして、また窓の前へと戻ってきた。
それから、『金色の髪。男の人』と声を発した。
……やっぱり、それだけじゃ何もわからないか。
木の床を踏み、玄関扉へと一歩近づく。ギシ、と鳴った足音。
ゆっくりと近づいていっても不審な物音は聞こえない。
刺客か、それとも客人か。それはわからないが、先ほどの鳥たちの言葉を信じるのならば一人だろう。
ならば、きっと何とかなる。僕の知っている金髪のうち、敵わないような奴じゃなければ。
警戒を悟られぬよう、そして絶やさぬよう、もう一歩玄関扉に近づく。
魔力を展開し、這わせて、扉の外からの光を観測する。
そこにいたのは、確かに金髪の男。
そして、敵わないとはいわないが、殺しに来られたらきっと厳しい。
だが一応、警戒心は一段落としていいだろう。
静かにノブを回し、微かに扉を開く。
光がわずかに入るくらいに空いた隙間。その隙間に指がねじ込まれるように差し込まれる。
引きずり出されるように開いた扉。ノブを押さえていた僕の手が、朝日の中に引っ張り出される。
「やあ、おはよう」
そして現れたレイトンの満面の笑みに、僕は悟られぬように苦笑いした。
「……おはようございます」
一応は客人らしい。もてなしも出来ないという僕の個人的な理由から家に上げたくはないけれど、一応挨拶くらいはしておかなければ。
扉を開け放つと、ようやく扉からレイトンは手を放した。
「さっき僕を見ていた鳥は君が使役したのかな? 面白いね、いつの間にそんなことが出来るようになったのやら」
「使役とは違いますが、昨日、話せるようになりました」
「ヒヒ、名実共に『カラス』になった、ってわけだ」
楽しそうに笑う。僕としてはどちらかというと楽しい話題でもないのだけれど。
「まあ、今はそんなことはどうでもいいや。今日は君にお知らせがあるんだ」
「報せ?」
報告。この男からの報告というと、あまり歓迎できない気もするが。
僕はレイトンの言葉を待つ。レイトンはちらりと……多分周囲を確認して、口を開いた。
「良い報せと悪い報せがあるけど、どっちから聞きたい?」
レイトンがからかうようにそう言う。正直どっちでも良い気がする。
しかし答えないと進まない。僕は考えるために開いた唇の形そのままに、言葉を紡いだ。
「……悪い報せからで」
「賢明だね」
ニ、と笑い、レイトンは一瞬黙る。
それからほんの少しだけため息をついて、続けた。
「グスタフが、死んだ」
「……え……?」
絶句。言葉をなくすとはこのことだろう。
ごく簡単な言葉。単語も二つだけの単純な文章。けれどそれが理解できず、そして理解を助ける問いを発することも出来ずに僕は唇だけを何度も動かした。
「今朝方、いつもの寝室で死んでいたのが発見された。死因はエウリューケの見立てだと老衰による多臓器不全」
そんな僕の反応を予期していたのか、それともどうでもいいのか、レイトンはつらつらと続けてゆく。
けれどもやはりその言葉を理解するべく反芻しても、一向に頭の中に入ってこない。
「死んだのは恐らく夜半。……眠るようにとはいかないまでも、あまり苦しまずに逝ったみたいだね」
「……そう、ですか……」
グスタフさんが、死んだ。
その事実を飲み込めないまでもどうにか頭の中で繰り返し、強引に理解しようと試みる。
どうして。
そんな疑問が何度も何度も頭の中で繰り返される。
昨日は元気だったのに。
昨日はまだ、歩いていたのに。
「あいつの遺骸はもう埋葬されてる。遺言状通り、エウリューケの手によって入念に灰にされてね」
「……どこに?」
「貧民街にある石ころ屋だった場所。あいつの夢の残骸さ」
残骸、と聞いてまだ違和感がある。
昨日までは、そこはまだ普通に動いていたはずだ。
僕はそこを訪れ、グスタフさんに会って頼み事をした。ごく普通のいつもの光景。そのはずだった。
「その裏に、何も刻まれていない墓石がある。見にいくなら早いほうがいいと思うよ」
『会いに行く』ではなく『見にいく』。
その言葉に、力が抜けていく思いだった。
実感した。もう、会いに行くなら墓参り、ということ。
昨日また近いうちにいくと約束したのに。次にまた会えると思っていたのに。
もうそろそろだと思っていた。
だが、こんな早くとは。
「良い報せもそれに関連したことだけど」
「……何ですか?」
悲嘆に暮れる暇も与えない。この男は、平気なのだろうか。曲がりなりにも今まで自分を雇っていた老人が死んだのに。
気にしている素振りすら見えない。まるで、道ばたで野良犬が死んでいたのを報告している程度に。それほどまでに、冷淡になれるのか。
「グスタフの死亡を誰かが注進したらしくてね。それに伴う騒動が起こることを懸念してか、これから衛兵の目が少し厳しくなるらしい。今日から数日くらいは少なくとも、道端で誰かに襲われることはないよ」
「……そんな、ことですか……」
そんなこと。ほとんどどうでも良いことだ。どうでも良い報せ。
僕を狙って放たれる暗殺者が活動しづらくなる。それは確かに良い事な気もする。だが、もう遅い。僕は数日の間に何度も襲撃され、死ぬところだった者もいるしそれこそ死者も出ている。
「そんなことだよ。ぼくらにとってはささやかだけど、それでも」
僕が奥歯を噛みしめると、レイトンが嘲るように笑う。
「グスタフが死んで、起きた変化が今のところそれだけだ。嫌になるよね」
そして表情を一瞬だけ一転させる。初めて、憐憫のようなものが見えた。
ようやくレイトンが扉から手を放す。言いたいことは終えたらしい。
「ま、それだけだよ。あとでぼくから君に話もあるけれど、それはあとでいいや」
「話って、何です?」
「だから後で。大丈夫、ぼくからの頼みがあるだけさ」
ふともういちど、レイトンは周囲を見回した。それから一つ頷くと、笑みを強める。
「……いや、これからでもいいかな。一緒に行かない? グスタフの墓参りに」
墓参り。その言葉に、景色が一瞬滲んだ気がした。
「……今日は」
「ん?」
いつもの外套に着替えて、レイトンと貧民街まで歩を進める。
道中はいつもの朝の騒がしさ。それなのに、少しもぼくは浮き立つ気分にはなれない。
今朝は霧が出ていたのか、じっとりと濡れた石畳。その上を、パタパタと何人もが急いで走ってすれ違っていった。
「今日は、いつもの魔剣は佩いていないんですね」
僕はレイトンの腰に目を留める。そこには、いつも差してあった幅の狭い細剣がなかった。
「ああ。さっきも言っただろ? 衛兵の目が厳しい。見えるように大きな刃物を持っているだけで、呼び止められてもおかしくはないくらいにはね」
「極端すぎるのでは」
そんなのは大勢いる。探索者はもとより、武装している者など大勢。
こうして見回してみただけでも、今視界の中に四人はいた。それぞれ拵えは違えど、剣や小刀を腰に差している人物が。
彼ら全てが、衛兵に目をつけられる対象というわけではあるまい。
「そうだね。でも、難癖というのはいつでもつけられる。特にぼくは、見た目探索者らしくもないだろう?」
「……まあ」
言葉は悪いが、探索者の多くにある粗野な感じは確かにない。
「だから、説明に手間取るし面倒なんだよ。呼び止められるのも煩わしいし、ならいっそのこと何も持たないほうがいい」
「意外ですね。武器を手放すなんて」
「武器自体は持っているよ」
ほら、とレイトンは右手をひらひらと僕へ見せる。
そのどう見ても何も持っていない姿を見て僕が首を傾げると、空中から何かをつまみ出すような仕草をする。
それだけで、手の先に掌で覆えるほどの懐剣が現れた。いつもの簡素な装飾の剣と違い、鞘からして彫刻のような装飾の入っている大仰なものだった。
そんな剣を、鞘ごと宙に放りながらレイトンは指先で弄ぶ。
「そもそもその辺の有象無象を相手にするのに、魔剣は過剰だしね」
「そうでしょうけど」
それでも、備えを減らすというのも意外だ。
まあ確かに、レイトン自身言うとおり、魔剣などなくても大方の敵は問題ないのだろう。
弘法筆を選ばずと言ったと思うが、強いのはレイトンだ。魔剣ではない。
「それに」
歩きながら、レイトンが空を見上げる。薄笑いをしながらも、目はどこか遠くを見ていた。
「今日くらいは、血なまぐさいことはなるべく控えようと思ってね」
「……そうでしたか」
その笑みに、僕は申し訳なくなって見えないくらいに軽く頭を下げる。
今日くらい。それが何故かは、きっと今僕らが向かっている場所に関わっているのだろう。僕には思い至らなかったことだ。
それからほんの少しの世間話をしながら、貧民街に入る。
昨日モスクを伴って入ったときと同様。この、一歩入っただけで変わる空気は健在だ。
瓦礫に潜む値踏みの視線。僕たちからスリやひったくり、強盗などをしたところで割りに合うかどうか。そんな視線がいつもと同じように向けられる。
だが、何故だろう。
その視線に、種類の違うものがいくつか混じっている気がする。
「気づいたね。そう、衛兵だよ」
「……何も言ってないのに、返答だけ先にするのやめてもらえます?」
レイトンの言葉に思わず言い返してしまう。それほど不快でもなかったが、それでも一応は。
そんな抗議も、レイトンの言葉でどこかへ消えていく。
「このまま帰るならぼくは止めないけど?」
「何故見てるんでしょう」
先ほど、治安維持活動が活発になったとレイトンは言った。
だがこれは違うだろう。治安維持をするならば、姿を見せて威嚇するはずだ。なのに、彼らはどこかに必死に潜んでいる。魔力波で探すくらいしか出来ないくらいの練度で。
「ここに来る者たちがどういう人物たちか、目を皿のようにしてしっかりと見張っている」
「客層……でもないですね。犯罪者予備軍ってところでしょうか」
「そう。石ころ屋のグスタフが姿を消したのは官憲も知っている。ならば、その石ころ屋を訪れるのがどういう人間かと、今更調査しているんだよ」
……つまりは、僕やレイトンのような人間をピックアップしようとしているということか。
「下手に動かなきゃ悪さもしないさ……あんまりね」
レイトンが足下の小さな瓦礫を蹴り飛ばす。それが往来の向こうにある家の壁にぶつかり、カン、という低い音が響いた。
辿り着いた石ころ屋は、昨日と何ら変わらずに見えた。
割れた看板もそのまま。明かり取りの窓が割られているということもなく、今日も営業中と言われたら信じてしまいそうなほど元通りだ。
……けれどもきっと、違うのだろう。
「裏のほうだからね」
無意識に扉のノブに手をかけようとした僕に、窘めるようにレイトンは補足する。
そういえばそうだった。やはり、どうしてもグスタフさんはこの石ころ屋の中にいて欲しいのに。
「わかりました」
だがそれでも。
浅い段差を飛び降りて、乾いた地面を勢いよく踏む。
見上げるように見た石ころ屋。まるで、朝の日差しに照らされて燃えているような。
この裏手に、グスタフさんはいる。
ノブに手をかけようとしたその時、中から一切の物音がしないのを感じ、グスタフさんの死がよけいにくっきりと見えた。
裏手にあったのは、墓石とも言い難い、大きな四角形の石だった。
材質は花崗岩だろうか。それも磨いてあり、光沢を帯びている。日本風の墓石ではなく、地面にその四角形は横倒しになって半ば埋まっていた。
黒っぽい灰色の簡素な石。何も言われなければ墓石ともわからないもの。
そこに先ほど買ったリンゴを一玉置くと、彩りは出たがやはりその役割を読み取るまでは出来なかった。
「…………」
僕はその石の前にしゃがみ込み、魔力を地面の中に這わせる。
やや深い。僕の身長と同じ程度の高さの元縦穴に埋められたそれは、周囲の土とは全く違う、灰。それが昨日僕が燃やした男たちと同じ程度の大きさと量に封じ込められている。
土を素手で軽く掻く。
舗装などされているわけではないが、一度掘り出されたときに除けられたのだろう。瓦礫なども混じっておらず、手触りの良い土。
その茶色い土に、滴が一つ垂れて黒い跡が出来上がった。
「残念としか言いようがないね。結局はあいつも、目的を達成できずにこの世界を去っていった。まったく、老いとは恐ろしい」
後方、頭上から失礼な言葉が飛ぶ。
いつもならば怒ったかもしれない。嫌みの一つも返しただろう。なのに、やはりそんなことを構ってもいられなかった。
「……今後、石ころ屋は、……どうなるんでしょう」
解散するのか、と直接は聞けない。
だが聞かずにはいられなかった。今のレイトンの言葉を聞いて。
目的を達成できずに、と言った。だがその目的は詳しくは知らないまでも、グスタフさんの死で終わるような性質のものでもない気がする。
そして、木っ端工作員ではなく、少なくとも幹部の一人である彼の意向は……。
「後のことはニクスキーに任せた。僕は知らないよ。エウリューケも、残務整理したらこの街を離れるんじゃないかな」
「知らない……ですか……?」
「ああ」
まるで放り投げるような言葉。今までの苦労も仕事も全てを、どうでもいいと言い切るような声音。
振り返り、少しだけ滲んだ視界でレイトンを見る。
だが困ったように笑うその顔は、嘘をついているようには見えなかった。
「そういったことは、後でゆっくりと話そう。ぼくの頼み事にも関わることだから、そうしてほしい。それよりも……」
レイトンが石ころ屋の玄関のほうを顎で示す。
ここまで近づかれるまで気がつかなかったとは、余程僕の精神にも負担がかかっていると見える。
障壁はすぐに用意できるが、狙われてもいる今、こんな体たらくで大丈夫だろうか。
僕は乾いた笑いを発した。
視線を向けられた青年が一瞬身を固め、悟られないような演技の後に身体の力を抜く。
まだ時間的には仕事前だろう。それでも何かが詰められてパンパンになった鞄を長い紐で腰に斜めに下げ、灰色の髪の青年が立ち止まる。
少しだけ会釈したハイロの顔は、少しだけ心ここにあらずというか、ぼんやりしているように見えた。