閑話:せめて良い夢を
本編にするかどうか悩みましたが、主人公不在なので閑話で。
目の前で、扉が閉まる。
夕暮れも迫る中、明るい日差しが斜めに差し込んでいたはずの外。それが、扉が閉まると同時に見えなくなる。
グスタフの視界の中で、極端に部屋が暗くなる。視界の端に見える星に抵抗しようと、目を閉じてもなお星は消えない。
血が足りない。そうは思うが、もうどうにも出来ない。
これ以上増血剤を増やしても、自分の身体の中で血が作られることはないとグスタフは知っていた。エウリューケに頼んでも同様だ。もはや、治療師の秘術すら身体に負担をかけるばかりで、ろくな効果が現れない。
肘をかけていた机を撫でれば、五十年以上も使い込まれた滑らかさに指が滑る。
ため息をつけば、身体から力が抜けていく。『まだ、まだ』と身体を叱咤しつつも、反論するように『そろそろだ』と頭の中で誰かが呟く。
「……っ!」
肺の奥から、何かの塊が這い出てくる。
喉に詰まったそれを、弱い咳を何度も繰り返し、ようやく追い出してもう一つ咳をする。
思わず口を押さえる。
そして、その掌に現れた赤い飛沫を見て、グスタフは薄く笑った。
目の霞みが強くなる。
掌の皺すら曖昧になって、視界の輪郭が定まらない。
急激な体調の悪化。ここまで劇的に変わった理由はなんだろうか。そう考えつつも、その原因はもはや自分には手放せなかったものだと知っている。
ちらりと目を動かせば、視界の中にぼんやりと浮かぶ水筒。
もう、一口たりとも飲むべきではなかったか。そう、苦い後悔が鉄の味に混じった。
もう一つため息をつけば、腹筋から力が抜けてゆく。
椅子に座ったまま、身体が沈んでゆく。そして捻れるように左へ。
机の引き出しの取っ手に頭をぶつけながら、床が迫ってくるのをグスタフはぼんやりと見つめていた。
ガタン、と木の床を鳴らす大きな音がする。
この日石ころ屋に詰めていた下級工作員は、その音でようやく気がついた。奥の控え室で刃物を研いでいた彼が、その音に警戒を強め、そして受付に倒れているグスタフを見つけるまでそうはかからなかった。
「……お怪我は……!?」
「………たいした……もんじゃ、ねえよ」
倒れたまま浅い息を繰り返していたグスタフは、工作員の足音に気がついて懸命に問いに応じる。もう感覚のない手を床につけ、渾身の力で身体を起こし、自分を心配そうに見つめている工作員に強く言い聞かせるように口を開く。
「ちょっと、立ちくらみがしただけだ」
「ですが……」
「今日はもう休む。これから、明日の朝まで誰も入れるな」
「……わかりました」
よろよろと、それでも気丈にグスタフは一歩踏み出す。手すり代わりに机と棚を使い、感触のない床を踏みながら、奥を目指す。グスタフがこの店を建ててから、一日も途切れず使い続けた寝室を目指して、長い道のりを歩く。
今日が最期になるだろうと、そう思いつつ。
長い旅を終え、グスタフが床について数刻後。
寝室で、一睡もせずにグスタフはただ天井を見上げていた。
息をする度に喘鳴音が響く。気道にも肺にも、膠を塗ったような感触にグスタフは辟易した。
もう暗くなった外。
横になる前に枕元に置いた行灯の光が天井を照らしていたが、もうグスタフにはそれは橙色のうねうねと動く塊にしか見えなかった。
「……俺は、何を……」
呟く言葉は、自分でも何を言いたかったのかはわからない。
けれども、推測して、納得したように口を閉ざす。
自分は何をしたのだろう。自分の人生は何だったのだろう。
自分は、何がしたかったのだろう。
そう考えた瞬間、肺が収縮した。
多分自分は笑ったのだろう。だが、その収縮に合わせた咳に、もう笑みは作れなかった。
また、喉が切れた気がする。
鋭い痛みに顔をしかめる。
一口水が飲みたい。そうは思ったが、身体が起こせない。呼吸を意識して深めて、手足に力を込めようとも踏ん張ることが出来ない。
身体が重い。
そんな実感に、今度はきちんと笑うことが出来た。
「……どうぞ。飲みなよ」
突然部屋に響く声。明朗に響いたその声は、少しだけ遠くなりつつあったグスタフの耳にも届き、鈍っていた意識を鮮明にさせた。
手にそっと握らされたのは、多分水筒。ひやりとした竹の質感に何故だが少しだけ安心できた気がした。
誰だ。
一瞬悩み、そしてすぐに気がついた。
類推したわけではない。ただ、知っていたのだ。その声を。
「……プリシラか」
「飲むんなら、少し身体を起こしたほうがいいね」
ひやりとした手が、身体と寝台の間に入る。まるで重力に逆らった気もせずに身体が起こされる。
ごそごそと背後で何かが動く感触にグスタフは顔を顰めるが、それがプリシラが毛布を丸めて作った簡易的な背もたれだと気がつくと、礼も言わずにそこに背を預けた。
グスタフは、手に持たされた水筒を眺める。火の明かりに照らされてちろちろと動いたように見えたその水筒は、いつも自分が使っていたものではない。
「毒なんか入っていないよ」
「……そうだろうな」
強がりも含めて、懸命にグスタフはその水筒を口にあてがう。
毒を盛る必要などないのだ。今自分を殺すのには、ただ首を絞めれば十を数えるまでに死ぬ。それに、少しの間待つだけでも。
含んだ水に、グスタフの知っている限りの毒の味はしない。
いつ以来だろうか、甘みもとろみもない純粋な水を飲むのは。口に含み、喉の奥に落とせば、味などないのに甘い気がした。
一息ついたからか。
それとも、もう最後だからか。
それはグスタフにはわからなかったが、少しだけ晴れた視界に、暗闇の中に招かれざる客人の姿がはっきりと見えた。
白い袖付きの外套。身体を覆う外套の末端から伸びる手は白魚のよう。そして頭巾の奥から自分を優しく見つめる目は青い。
確かに見えたその姿。それがじわりと滲む。
その原因が自らにあると感じ、そしてそれを知られたくなくて、グスタフは顔を逸らした。
恐怖や怯えなどではない。違和感からの悍ましさでもない。
プリシラの顔。レイトンと印象を同じくするその柔和な顔貌。
その顔が、自分の知っている顔そのままで、だからこそ直視できなかった。
「……お前は……」
グスタフが口を開く。その言葉の先を、微笑みを湛えて待っている彼女に向けて。
「お前は、変わらないんだな」
「たった三十年。私たちみたいな人種にとって、ほんの少し前のことだからね」
昨日のことのように思い出される。
グスタフが、以前プリシラと会ったそのとき。一日、それもほんの一時の邂逅が。
「詰めていた奴がいたはずだがな」
「安心してよ。彼は眠っているだけさ」
グスタフは、目を暗闇の奥に向ける。その奥で待機しており、何かあればすぐに対応できるはずの工作員の安否を確認しようと。
だが、常人並みのグスタフにとってはそれも難しい。ほんのわずかに寝息が聞こえてきた気がして、信じようと改めて寝台に腰を落ち着けた。
「何しに来た? 俺を殺しにでも来たか?」
「グスタフ翁……」
心外な、とプリシラの顔が歪む。グスタフの言葉が本気だとも思えなかった彼女の顔も、冗談交じりのものだが。
ふう、とプリシラがため息をつく。
「私は可愛い弟と約束しているんだよ。貴方が死ぬまではおとなしくしているってね。その約束は、今でも変わりない」
「じゃあ何しに来たんだ? まさか、お前が話だけをしに来たわけじゃあるめえ」
「そのまさかだよ。……ただ、話をしに来ただけ」
風もないのに、行灯の中の火が大きく揺れた。
「私としたことが、少しだけ見誤っていたらしい。予想よりもずっと早かった」
「そうかよ」
自分はそろそろだと思っていたが、とグスタフは内心反論する。自分のことは自分が一番よく知っていると、そう自負していた。
「最後の機会だと、貴方は知っていたんだろう? 昼間の騒動、なかなか面白かった」
「見世物なんかじゃねえがな」
「どんなものでも、見ていればそれなりに楽しむことがあるものさ。今日の演目は、人間をやめようとしたカラス君と、人間の強さを見せつけたニクスキー君の勝負。どっちが勝ってもおかしくなかったし、どちらの手強さにも舌を巻いたね」
プリシラは得意げに賛美の言葉を吐く。本心だった。
だが、グスタフは眉を顰める。レイトンと同じく、葉雨流の大目録。無手でも容易に人を殺せる彼女が、手強いと口にするとは。
「お前が手強いと思うってか?」
「うん。手強い。そして、厄介だ。今日は楽しく観戦させてもらったけれど、隠れるのにとても苦労したよ。レイトンにもしないくらいの厳しい警戒が必要だった」
プリシラは、昼間の事を思い出す。
ニクスキーが常時張り巡らせている感知の糸。カラスの警戒網。その二つをくぐり抜けるのに、どれほどの緊張を強いられたか。
こんなに手に汗を握ったのは、父親を殺したとき以来だ。そう賛辞の言葉を内心繰り返した。
「特にカラス君は私にとって相性が悪い。鳥の使役なんて、とても、ね」
葉雨流の歩法。特にその隠行は、動作の全てで相手の盲点を突く必要がある。
その『相手』の数、そして種類が増える度に、飛躍的に難易度が上がってゆく。
人間に加えて、鳥。それも種類により人間以上に個性がある鳥たちの全てに警戒するのはプリシラにも難しい。
出来ないわけではない。だが、やりたくないというのも事実だった。
「まあ今はそれは重要じゃないよ。私の個人的な感想だからね」
「…………」
「それよりも、その戦いの後に貴方がした話。とても含蓄があった」
褒めるような言葉。だが、その口調と裏腹に、賛辞ではない、とグスタフは感じた。
グスタフの思った通り、プリシラは皮肉染みた笑みを浮かべる。
そして傷一つない綺麗な手を突き出し、指を二本立てた。
「……彼らの名誉のため、二つ訂正したい」
「訂正?」
彼ら、という対象がわからず、グスタフの頭上に疑問符が浮かぶ。カラスとニクスキー、彼らとは、その二人だろうか。
プリシラは微かに首を横に振る。グスタフの内心を否定するように。
「レイトンとカラス君。彼ら二人に対する貴方の言葉だよ」
カラスに向けて、はもちろん記憶にある。
だがレイトンに言及したことはあっただろうか。そう悩んで、グスタフはプリシラの言葉を待った。
「……レイトンが、問題の前で立ち止まるカラス君の性向が気に入らないと貴方は言った。けれど、とんでもない。レイトンはそれを、とても好ましく思っているよ」
その言葉に、ようやく得心する。そんな、言葉尻のような言葉を捕らえられるとは思っても見なかったが。
グスタフは、プリシラの言葉を笑い飛ばす。まるで会話を楽しんでいるかのように。
「そうか? そうは見えねえがな」
言いながら、グスタフはかつてのカラスに言及していたレイトンの表情を思い浮かべる。
好ましく思っていたとは思えなかった。それよりも、じれったいと思っていそうなことの方が多かったと思う。それも、グスタフにしか読み取れないような微笑みの仮面の下でわずかに。
プリシラは笑う。レイトンと同じような、仮面の微笑みを浮かべて。
「あの子は優しい子だからね。どんな他人でも、その人の成長を願っている。だから少しだけ苛ついちゃうことはあると思うけれど、歩き出そうとする限り嫌うことはないさ」
「よく断言できるな。この三十年以上、ろくに会わなかったくせに」
もうすぐ四十年になるだろうか。
レイトンとプリシラが袂を分かつようになった事件。それ以来は、レイトンの側からほとんど接触できていないというのに。
「そうだけどね。でも、それまで十五年は一緒にいたんだ」
ニコ、と頬を綻ばせる優しい笑顔。まるで、本当に優しい姉が可愛い弟を気遣っているような。
「だからわかる。家族っていうのはそういうものだよ」
「……そうか。……そうかもな……」
その笑顔にほだされたわけではない。
だが、『家族』という単語を出されて、一切の理解が出来なかったグスタフは反論の口を閉ざした。
「そして、訂正はもう一つ」
「さっきのだけじゃなかったのかよ」
クク、とグスタフは力なく笑う。会話を楽しんでいる自分が可笑しかった。
「今回貴方は、カラス君が倫理を踏み外さぬように殺人を止めた。もう後戻りできなくなるからと」
「……ああ」
見ている限り、カラスの自制心の水準はそう高くない。だからこそ、ここで止めるべきだとグスタフは判断していた。
その判断は、今でも間違っていないと思っている。だが、目の前の女は間違っていると言うのだろうか。
プリシラは笑い、人差し指をピンと立てる。まるで幼子に教えるように。
「残念だったね。カラス君が感情だけに拠って殺人を犯したのは、これが初めてじゃない」
言いながら、プリシラは昔を思い返し目を細める。
あの少年が死んだと思い、少しだけ心が痛んでいたあの数日を。
「リドニックで、彼は人を殺している。幼い、何の力もない可愛い女の子を」
カラスが北壁の波に呑まれた後。どうにも心残りで、心配で、せめてもの自分への慰みにプリシラは彼の行動を辿った。
その時に見つけていた。可愛い弟の痕跡と共に、人を食べた女の子を殺した彼の影を。
グスタフはプリシラの言葉に眉を上げる。
だが、自分でも不思議に思うほど、驚きはなかった。
「……そうか」
「でも、カラス君は見事にその件は克服している。克服してもなお、もう一度やってしまいそうになったというのも彼らしいけどね」
「……一度言ってわかるような人間なんざ、そうそういねえよ」
「ちがいない」
どちらも、彼の行動に関しては甘い。お互いに、甘やかしているとも取れると非難することは出来たが、そうする気になれなかった。
プリシラはパタリと手を落とし、天井を見上げる。
夜空の代わりに、炎が映す明るい影が踊っていた。
「彼は強いよ。貴方が思っているよりもずっとね。失敗すれば自分でどうにか反省して、きちんと悩んで克己出来る」
言い切ってから、プリシラはグスタフの顔を見る。
期待通りの反応があるかどうか。
だが、それが見られず、『手強い』と思いながらも鼻で笑った。
「……それを考えれば、全部、意味なんてなかった……って思わないかな?」
「意味が、ない?」
グスタフはその言葉にぴくりと反応する。挑発かと思った。それでもなお、大げさな反応をする気にもなれなかったが。
「今回の騒動は、明らかに貴方の寿命を削る行為だった。この瘴気を祓ってある店を飛び出し、身体を動かし、心肺に無理をさせた。その結果、あと数日は持つはずだった命を貴方は落とす。無意味な行為のせいで」
「意味がねえとは思わねえな」
意味がない、と重ねてプリシラは繰り返す。だが、グスタフは動揺しない。
面白い。そう感じて、プリシラは何度も何度も挑発を続けた。
「カラス君は可愛いよ。でも、貴方は自分の命を投げ出してまで、彼の行く末を守った。彼にそこまでの価値があるかな?」
「価値……」
考え込み、言葉を止めたグスタフに、プリシラは手応えを得る。
だが次の瞬間、まっすぐに向けられた視線に、違う感情を覚えた。
「あるさ」
言い切ったグスタフに、興味が湧いた。自分も、カラスが無価値などとは思っていない。だが、この目はきっと自分とは違うものを見ている。そう思えて。
「へえ? 魔法使いだから? それともその辺の武術家など歯牙にもかけない戦力を期待して? 貴方の薫陶を受けているから?」
「どれでもねえよ」
力なく、だがとても楽しそうにグスタフは笑う。
喉の痛みも、苦しさも、今やあまり感じられなかった。
「あいつの能力は、そりゃ使いようがある。魔法も俺が仕込んだ本草学も。だがどれも代わりはいくらでもある。俺が命をかけるほど価値があるもんじゃねえよ」
プリシラは、不可思議さに首を傾げた。自分が彼に価値があると感じた理由。そのどれもが違うと言われてしまえば、後に残るのは不可解さだけだ。
「じゃあどうして?」
「価値があるのは、あいつ自身だ」
グスタフは笑う。
言葉に出来た嬉しさに。
そしてそれが理解できないであろう、目の前の女の哀れさに。
「あいつはその行動で、周りの奴らに変化を与えるんだ。この貧民街のガキどもも、ミーティアの犬っころも、あいつがいたから一歩踏み出せた」
その変化が良いことなのか悪いことなのか。それは後世の評価を待つほうがいいだろう。だが、それでも、それは『良い』ことだったとグスタフは信じている。
「あいつはみんなを巻き込んでいくんだ。あいつが触って、誰かが歩く道を変えた。今も、そして、これからも」
思い返せば、驚かされることばかりだった気がする。
魔法が使えることを、思い出したかのように口にした。神話の時代の魔法使いに匹敵する規格外の魔力を、平気な顔をして操った。
そして、それ以上に。
もう駄目だと見放していた貧民街の子供二人。ハイロとリコ。彼ら二人は、カラスを見て街を出ることを決めた。
外部からも見込みのある子供を連れてきた。大金を前にしても、溺れることなく理性を保つような逸材を。
五十年以上の月日をかけて、この街を整備してきた。そんな自分ですらも、人を変えるなんて大それた事は未だに出来る気がしない。
だが、カラスはやった。希望を見せて、行く道を変えた。暗い道を歩くはずだった三人を、明るい道に引きずり込んだ。
「そんなことが出来るガキに、価値がねえなんて俺は思わねえ」
足掻いてきた事業は功を奏さず、未だに街では悪が生まれ続け、貧民街から知恵ある者を追い出し続けても何も変わらない。何も成せず、もう死を待つばかりだと思っていた。
そんな人生の黄昏に、突然森から現れた一人の麒麟児。
この悪行を引き継ぐ気はない。それでも、この子供を守れば、何か意味がある気がした。もしかしたら、自分の思い描いた世界を実現してくれる。そんな根拠のない妄想が溢れた。
プリシラは笑う。そのグスタフの内心を、読み取れるはずなのに読み取る気もなく。
「……よしんばそんな価値があったとして、〈神農〉と、……古の賢人の二つ名を受け継いだ天才薬師グスタフが、命を賭けるほどかな?」
「そうさ。テメエにはわからねえだろうがな」
ハ、と笑う。その顔は、プリシラへの哀れみに歪む。
咳の音が響く。興奮に、もはや抑えることもないその音は、血が絡んで湿っていた。
「今日だってそうだ。殺すなってのは、俺が言ったから意味がある。溝鼠みてえな、俺がこの手で奴を殺したから意味がある。あいつが、俺の話を聞いて『そりゃ違う』ってんならそれでもいいさ。〈神農〉グスタフの鑑識眼を俺は信じてっからな」
「……そう」
今度はプリシラがパタリと口を閉ざす。
期待した反応はなかった。
だがそれでも、その反応を、心底愛おしいと思って。
静かに、プリシラが手を差し出す。暗闇に浮かぶ白い手に、グスタフはどこかに誘われていると感じた。
「最後に、握手させてよ」
もう話すことはない。気は済んだ。
そう思ったプリシラは、最後の挨拶をしようと手を差し出す。
悪意はない。親愛の挨拶のつもりだった。
「貴方がどんな人生を歩んできたか。貴方がどんな思いで生きてきたのか。私の胸に刻んでおきたい」
「するわきゃねえだろ」
「頼むよ」
美女からの懇願。若者ならば飛びつくであろう親愛の挨拶。
少しばかり悩んで、それからグスタフは渋々と手を差し出す。
その重ねた言葉に対してではなく、一つの考えが浮かんでその手を握る。
考えとは簡単だ。レイトンへの、プリシラに至る道しるべの意味を込めて。
一般的に、女性の手は男性よりも冷たいことが多い。
だがこのときプリシラの手から感じた温かさと柔らかさに、グスタフの目にほんの少しだけ涙が浮かんだ。もう、終わりだと言われた気がして。
そっと、プリシラは握られたグスタフの右手の甲に自らの左手を添える。
その指先は温度の変化や湿度の変化を鋭敏に感じ取り、その人生を読み取っていった。
「……貴方の話を聞いて、少し思ったんだ」
「何をだ?」
プリシラの言葉をグスタフは聞き返す。
話題も一段落し、もう終わりだと思った。なのに続く話題に、その先が想像できなかった。
プリシラは笑う。
「カラス君に対する態度。貧民街の子供たちに対する態度」
グスタフの手がわずかに緊張する。言葉の積み重ねで、握手からさらなる情報を得る。それはプリシラの特技だったが、このときばかりはその気はなかった。
ただ、これから眠りにつくであろう老人への、わずかな餞別のつもりだった。
「いつだって貴方は彼らに背を向けていた。背を向けながら、歩いてきた」
手から読み取った長い人生を、プリシラは脳内で振り返ってゆく。
様々な種類の毒を含み、味を覚え、薬効を身体に叩き込み、調合法を学んでいく。そんな少年時代。
独立し、貧民街に店を出した前途洋々の青年時代。恐らく、一番楽しかった頃。
「自分の後を追ってくるのか。それとも違う道に進むのか。どっちでもいいなんて思いながらも、道を踏み固めて草を払って生きてきた。向かい風から彼らを隠すように」
大切な人間の死により、道を踏み外したその時。彼にとってのもう戻れない分岐点。
それから続く暗黒の時代。罪悪感は、この頃に擦り切れていた。
そして、何か大切な、新しい希望に出会った。
その頃は、本人も無自覚だった。
そこまで読み取って、やはりとプリシラは再確認する。
出会い、貧民街の外へと送り出した彼らにとって、そして今まさに彼に付き従っている者たちにとっての彼は。
配下たちを、力で強制的に従わせることも、心酔させることもあった。
反発されることもあった。嫌われることもあった。
それでも、自分の進む道を彼らに見せてきた。それが良いか悪いかはわからないが、それでもその役目を一言で表すのならば。
「まるで、父親のすることだよ。貴方は彼らの、父親だった」
もちろん血が繋がっているわけでもない。
男だから、というわけでもない。
だがその行いが、プリシラにはそうとしか見えなかった。
「…………ハハ」
プリシラの言葉をグスタフは鼻で笑う。力なく、手が離れた。
寝台の上に手が落ちる。もはやそれを持ち上げる力さえなく。
プリシラの、頭巾の奥の顔が、もう見えなかった。
「んなわけねえだろ。馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
「最期くらい、胸を張りなよ。今まで五十年以上頑張ってきたんだ。最期くらい貴方は報われてもいいはずさ」
「俺が報われていいわけがねえだろ」
「……可哀想に」
哀れむように、プリシラは吐き捨てる。
だが、グスタフにとって悪い気はしなかった。
「〈神農〉グスタフ・キルヒホッフ。望めば王宮にも出入りし、巨万の富を得て、誰からも愛されて一生を終えられただろうに」
「……なんだそりゃ、占いかよ……」
プリシラの言葉をグスタフは笑い飛ばす。明瞭に発音できている気もしなかった。
「そう、占い。ただし、過去のものさ。あり得た未来。そうなっていたはずの未来」
実際にはそうならなかった。
選べたはずの道。だが、選ばなかった道。
「こんな貧民街の片隅で、はみ出し者の世話をして一生を終えるなんて、本当にもったいない」
これではただ、嫌われ者の老人が貧民街の片隅で静かに息を引き取るだけだ。
もったいない。そして、これを本人も望んではいなかっただろう。そんな現状に、涙が出そうな思いだった。
「……もう一度聞くよ。貴方がどれほど頑張っても、この街は、この国は改善されなかった。改善してくれるような正義は、一向に現れなかった。そんな無駄なことに一生を費やして、後悔はない?」
「…………」
グスタフは答えない。先ほどのプリシラの言葉。その言葉の通りに歩んだ人生を想像して。
明るい未来。明るかったはずの未来。自ら手放した幸福への道。もう戻れないと思いながらも。
そして、その全てを鼻で笑った。
「……後悔? あるさ」
暗くなる視界。見えていたはずのプリシラの姿が見えなくなる。
彼女が隠れたわけではないだろう。もう限界なのだ、と心底可笑しかった。
「俺にはきっと、まだやれることがある。まだやるべきことがある。それが出来ねえで終わるのは、心底悔しい」
「…………」
「あいつに……ガラクスに、お前が死なねえで済む街を作ったって、胸を張れねえのは心底悔しい。あたりめえだろ、ずっと、俺はそれだけ考えてきたんだ」
考えの自制が利かなくなってきているのが自分でもわかる。
言葉に出来ているかももう自信がない。プリシラが何か返答をしているのかもわからない。
それでも言葉が止まらなかった。涙の代わりに。
「だが」
喉の奥を駆け上る咳を、渾身の力で押し留める。
邪魔をするな。今は。今だけは。
「大勢の人間の生活を貶めてきた。大勢の人間を殺してきた。そんな獣の俺が成功するなんざ、俺が許さねえ」
「……自己撞着だね」
自分が自分であるからこそ、成功が出来ない。自分がそれを許さない。まるで、自分の尾を捕まえようと駆け回る犬。
プリシラが、先ほどまでと違う笑みを浮かべる。溺れる子供を見下ろすような。
「でもまあ、わかったよ。ありがとう、貴方のことを、私は忘れないよ」
「…………!」
咳を繰り返す。
もはや我慢をすることもなく、そして何度も繰り返される咳。その度に、音が軽く、静かになってゆく。
「……お前は……」
「……?」
それでもなお吐き出される言葉に、プリシラは耳を傾ける。最後の言葉、きっと聞き逃すのは可哀想だと考えて。
「……待ってるぜ……お前も、すぐに……、来ることになるだろう、な……」
「……フフ」
プリシラは、花が咲くように笑う。負け惜しみではない、彼が本当にそう思っていると感じ取って。その健気さが愛おしい。
「そう。期待しているよ。誰が私の首を刈りにくるんだろう。私に立ち向かって来るなんて素敵な誰か。早く会いたいね」
誰かが自分を殺しに来る。
そして可愛い彼らの命は、自分の手によって刈り取られるのだ。
叶わない願い。それを叶えるために死力を尽くしそして志半ばで事切れる、か弱い彼ら。
なんて素敵な光景だろう。甘美な想像に、ため息が漏れた。
グスタフが咳を繰り返す。
だがやがて、その咳が弱くなり、そして途切れた。
プリシラはそっとグスタフの背中を支えて、背もたれの毛布を外す。
それからゆっくりと、力のない身体を横たえる。
温かな手がグスタフの顔を撫でて、わずかに開いていた目を閉じた。
行灯の火を吹き消す。
一瞬強くなった炎は、一筋の煙を残して消え去った。
暗闇に、プリシラの声が響く。
「おやすみ。そしてお疲れ様。可哀想な、可愛いグスタフ翁」
プリシラは、握手の痕跡は消さなかった。
それが、最後の『仕事』をした彼への礼儀だ。
「せめて、良い夢を」
どんな夢を見るのだろうか。
それが聞けないのは残念だと、プリシラは深く息を吐いた。




