帰還不能点
バタバタと飛び込んできた雀。
だが、中に入ってから僕とニクスキーさん以外の人間がいることに気がついたようだ。
そのまま玄関からの廊下をまっすぐ進んで通り越し、僕らのいる廊下に入らずに顔だけ覗かせた。
視線だけをそこに向けて、雀に言葉なく問いかける。
どうしたのだろうか。彼……彼女は先ほどの中年男性を追いかけていったのだろうに。
だが、彼女はそれに応えず、廊下の奥へとバタバタと消えていく。
姿が見えなくなってから、一声、『こっちきたよ』と鳴いた。
……こっちきた?
誰が? そう考えて、愚問だと気がつく。
今度は外から音がした。足音。三人いるが、明確に聞こえるのは二人だけ。あと一人は……足を縺れさせて引きずられている。
猿ぐつわを噛まされているような声にならない声。
乱暴に玄関の戸を開き、壁を擦りながら、抵抗する男を拘束しながら連れてくる。
聞こえる声は一つだけ。やがて廊下の曲がり角から姿を見せた男たちに、僕の目が無意識に見開かれた。
グスタフさんもようやく振り返る。
杖を床で一度鳴らして、それから鼻を鳴らした。
「ほれ、お前の好きなわかりやすい展開だろ?」
両手を押さえ込まれて、連れてこられたのは先ほど僕が殺そうとした男。まだ生きていた。そう考えた僕の口元がつり上がる。
力を込めて寝返りを打ち、体を起こす。まだ魔力は上手く展開できないが、しようと思えば多分出来る。いいや、せずとも充分だ。たとえ魔力がなくとも、闘気を使えなくとも一般人であれば充分素手で殺せる。
まだ体に完全に力が入らないため、点穴の効果を出したり、表皮を突き破るようなことは出来ないかもしれないが、簡単だ。大きな血管を遮断すれば人は死ぬ。体重をかけて腹を踏めば、死ぬ。
ニクスキーさんの手による殺害、その後押しでも……。
「……人間はいつでもやり直せる」
立ち上がろうと手に力を込める。だがその頭上から、グスタフさんの声が響いた。
「一度悪事に手を染めた人間はもう二度と明るい世界には戻れない。撞着してるがな、俺は、どっちも正しくどっちも間違ってると思ってる」
もう一度、グスタフさんの杖が鳴る。
その合図に応えて、男の両手を押さえていた二人の工作員が、体を折り曲げていた男を強制的に立たせた。
「どんな道にも、ある一点を超えると戻れなくなる場所がある。そこまでは、お試し期間、猶予期間、ってとこだな。それがどこか、何かだって人によってもそりゃ違う。一つ盗んでもう戻れない奴もいる。どれだけ何人殺そうとも、いつだってやり直せる奴もいる」
カツンカツンと床が鳴る。またもがく男の肩を工作員が掴むと、点穴で痛みを感じたのか今度は反り返るように呻いた。
「『もうやり直せない』は、そこを越えた奴が言うことだ」
ひたひたと、グスタフさんが男に歩み寄る。
そしてその首に杖を当てると、そのまま僕に向けて振り返った。
「お前は仕事で人を殺してきた。自衛のために殺してきた。そりゃ、まだ戻れる場所だな」
そのグスタフさんの様に、なんとなく、教師を想像した。
教壇に立ち、黒板を差し棒で示す姿。……多分僕は見たことがないから、全くの想像だけれど。
それに、これが授業だとしたら、あまりに剣呑すぎる。
「だったら、今回も……」
「今回も自分の身を守るため、そう言いてえんだろうな」
グスタフさんが、ふう、とため息をつく。
まるで出来の悪い生徒を叱るように。
「……お前は出来たはずだ。一度立ち止まってよく考えて、それから、ってな。レイトンにゃ気に入らねえところだろうが、それがお前の長所だったはずだがな」
「僕を殺そうとした男です。ならば、僕はそいつを殺して身を守ってもいいはずです」
「必要か? こいつは死ぬ。こいつにゃもう殺し屋一人放つことも出来ねえし、ましてやこいつのせいでお前の周りの誰かが傷つくこともないはずだ」
「……しかし……」
だったら、だったらどうなる。
「お前の手当の甲斐あって、リコは生きてら。さっき目を覚ましたってよ。つまり、復讐って大義名分もねえわけだ」
ない……わけがない。復讐は本人じゃなくても果たせるはずだ。
それに、だったら、僕の……。
「傷が残らなくても、痛みは残ります。もしも、もしも彼女が、今回の件のせいで外で食事が出来なくなったら? 騒ぎを起こしたせいで、仕事に差し支えたら……? そうしたら、それは彼女の人生を奪ったことと同義だ」
「それは、お前が判断することか?」
ギリ、と僕の奥歯が鳴る。床につけ、握りしめた拳の中から、霜の溶けた滴が垂れた。
「リコに頼まれた。リコの勤める商店から依頼された。だとしたら俺は言葉を全て撤回しておとなしく引き下がってやる。その商店は、早晩潰れることになるかもしれねえがな」
「…………」
たしかに、これは僕が勝手にやろうとしたことだ。
しかし、だったら、ならば僕のこの怒りは……。
「そうじゃねえだろ。お前は今考えなしに、気に入らねえから殺そうとしてんだ。そのクソ野郎をな」
グスタフさんは、そのクソ野郎の頭を杖で小突こうとする。だが目測を誤ったのか、目を突いてしまったようで男は怯えたように痛みで呻いた。
「気に入らねえから殺す。簡単なことで、お前になら誰だって簡単に出来らぁ」
……たしかに、この男を殺す理由はもはや僕の感情だけだ。
目の前の男が憎い。殺してやりたい。だから殺害する。
とてもとても単純で、とても簡単なことだったはずだ。邪魔をされなければ。
「だが、そうすりゃお前はまたやる。一度やっちまえば止まらねえ。気に入らねえ奴がいればまた殺す。必要もなく、大義もない殺人をお前は繰り返すようになる。簡単に出来るからな」
「出来るのと、やるのは違います」
「そうだな。だが、お前はやるだろう。何百年かかるかは知らねえが、この街の、この国の気に入らねえ奴全員を殺していくだろう。お前が死ぬまでな」
「……しません。殺すのは、その男だけです」
「どうかな。そんなふうに自分を律することが出来んのは人間だけだ。……ま、出来てねえ奴の方が多いけどよ」
グスタフさんが男に目を向け、それに合わせるように僕もそちらに目を向ける。
この場の視線が全て自分に集まったことを感じ、男はびくりと体を震わせた。
「怒るなとは言わねえ。こいつが憎くてたまんねえ? そりゃそうだろ。お前の数少ないお友達が殺されかけたんだからな」
「…………」
数少ない、は失礼な話な気がするが否定できなかった。
「これからも殺すなとは言わねえ。必要なら殺すがいいさ。だが手段は選べ。殺す手段じゃねえ、気晴らしの手段を」
「……これが単なる気晴らしだと……」
「そうだろう。お前は今、何の必要もない殺しをしようとしてんだからな」
「…………」
言い返せない。確かに、ある意味ではその通りだ。
この家に来た。そこまではきっと必要だった。また僕に向けた依頼を出すかもしれない男をどうにかするのは、きっと自衛の手段でもあった。
けれど、ここにはニクスキーさんが既にいた。既に僕の安全は確保されていた。
「感情のままに人を殺す。だったらここが、お前にとってのもう戻れない場所だと俺は思う。ここを越えればもう戻れねえ。社会に戻りたくなっても、どれほど人間の世界に戻りたくなってもな」
「ここを捨てれば……」
正直、グスタフさんの話はまだ理解できない部分がいっぱいある。
けれど一つ理解は出来た。ならば、僕がこの街を捨てればいいわけだ。
もう二度と、人間に混じって住みたいなどと考えなければ。ネルグの森の中で一生過ごすというのであれば。
「だったら」
ならば、この街を捨てることに躊躇はない。
嫌いな人間たちが、勝手な決まりを作って暮らしている街。
自分たちは嫌悪も嫉妬も差別感情もない綺麗な存在だと思い込んでいる街。
悪いものは全て貧民街にあると勘違いしている街。
憎悪の感情を拘束されている男に向ける。
こいつも、僕と同じだ。ただ上手く隠せているだけで。
そんな非力なままこの街に暮らしている以上、上手くやってきていたのだろう。嫌われ者かどうかは知らないが、それでも誰にも殺される心配がないような生活をしてきたのだろう。
何か機会があれば、嫉妬から簡単に誰かを殺そうとする人間なのに。
「ま、これで俺の話は終わりだ。どうすんだ? 殺すのか?」
「…………」
応えず、だがそれでも動作から僕の思考を読み取ったのか、グスタフさんはため息をついた。
「そうか。じゃあ、殺してからリコに会いに行ってこいよ。お前の腹をぶち抜いた犯人をぶっ殺してきた、って笑顔で報告してくりゃいいさ」
その言葉に、僕の腕が少しだけ重くなる。
その様を、少しだけ想像して。
喜んでくれるだろうか。
いや、きっと喜ぶだろう。自分を痛い目に遭わせた憎い相手だ。おそらくは。
もしも僕が同じ目に遭ったら、心からの礼を言うだろうと思うから。
けれども。
報告する様を思い浮かべる。
以前のリコならば。以前の彼……だと思っていた頃の彼女ならば。きっと僕と同じような反応をするだろう。喜びを全面に押し出すまではしないかもしれないが、気は晴れる。その死の姿を見られなかったことを残念がるかもしれない。
ハイロやモスクも同じような反応だったと思う。おそらく。
けれど、今ならば。
街の人間としてやっていけている、今の彼女ならば。
先ほどまでならば、喜んでくれていたと断言できたかもしれない。
僕ならば喜ぶ。それは今でも確信できる。
けれど、どうだろうか。
今の話を聞いてしまった今、その顔を思い浮かべられない。
グスタフさんが頭を掻いた。
「……俺は聖人様でもないんでな。もっと上手い説法もあったんだろうが」
何故だろう。
僕は躊躇してしまっていた。その男を殺すことに。
唾を飲む。唇を噛んで体を持ち上げようとしても、調和水の効き目が強くなったように力が入らない。
いいや、それは嘘だ。力は入るはずだ。僕は立てるはずだ。
なのに。
グスタフさんが、男に歩み寄る。
ゆっくりと歩くその様に、見入ってしまっていた。
「こんなことしかできねえ。無能な爺と笑うがいいさ」
項垂れていた男が、眼前に立つグスタフさんの影に、その顔を見上げる。
短く声を漏らした。
「……ったく、こんな面倒なことさせやがって」
その言葉は僕に言っているのではないだろう。多分、今まさに涙を滴らせている男に向けて。
「ビリー……なんつったっけな? いけねえな、年取ると物覚えも悪くなってよ」
「ビリー・ターナーです」
グスタフさんの言葉に、工作員の一人が答える。
「このビリー・ターナーを確保したのはどこだ?」
「キャスバン通りを南に……、衛兵の詰め所に駆け込もうと……」
工作員が言葉を止めた。その、僕からは見えないグスタフさんの顔を見て。
「そうか」
拘束されている男が、肩を竦める。怯えていた。
「治療院に行きゃよかったな。そしたら助かったかもしれねえのにな」
「……ぅ……ぉ……」
「悪い奴をとっ捕まえてくれると思ったか? 衛兵が? 俺やお前を捕まえもしねえのに?」
嘲るような言葉。だが、それに抗議しようとしているような声は、猿ぐつわに阻まれて言葉になっていなかった。
「自分が正しいと……自分だけが善く正しくて、相手だけが悪く間違ってると信じていると判断をしくじるんだ。俺と同じようにな」
グスタフさんが杖を構える。持ち手の部分を高く後ろに掲げるように。
「……ったく……。うちのガキどもを、面倒な目に遭わせやがってクソ野郎!」
パン、と杖を払う。
それだけで、首が飛ぶ。悲鳴もなく、ニクスキーさんにより頚部が既に切断されていた頭部が宙を舞う。
一瞬遅れて、噴水のような出血。工作員も避けたそれが、グスタフさんの足下にびちゃびちゃと降りかかった。
ゴロゴロと廊下の奥に何かが転がっていく。
声を荒げて、人を罵り打ち据える老人。
その後ろ姿に、なんとなく目を背けたくなる。血溜まりが床に広がろうとも、靴が濡れるのも気にせず立ち尽くす姿。
叫んだだけで息が切れたのか、肩で息を繰り返していた。
片膝を立てた膝立ちで、僕は声なくそれを見守っていた。
悔しさに、唇が噛み切れて鉄の味が広がる。
感じているのは、殺せなかった悔しさ。それと、きっともう二つ。
肩で息を繰り返していたグスタフさんが、ふらりと揺れる。
危ない、と一歩踏み出した僕に先んじて、黒い影が僕の横を吹き抜けていく。
工作員が少しだけ手を伸ばせた程度の刹那。
倒れそうになっていたグスタフさんの体を支えていたのはニクスキーさんだった。
僕も駆け寄り、その首元に指を這わせる。
貧血か、それとも別のものか、それはわからないが意識の消失。
規則的な脈はある。だが、……弱い。
近づいただけで感じる喘鳴音に、そしてその首元の皺と間近で見た骨格の脆さに、僕は息を飲んだ。
ほんの数秒、簡単に探査するが、やはりこれといった病変はない。
残っているのはごく軽い肺炎。そしてそれに伴う換気障害。だがこれも本来ならば、命に関わるようなものでもないだろう。
「……俺が石ころ屋に運ぶ。ここの始末を頼む」
ニクスキーさんの言葉に工作員たちが頷く、それからニクスキーさんが僕へと顔を向けた。
「……僕が……」
「立ち上がれたな」
治します、と言おうとしたが、ニクスキーさんが僕の言葉を遮る。
その意味がわからず、それでもなんとなくわかったような気がして、それ以上言葉が返せなかった。
「……お前に治せる病はなかっただろう?」
「……多分」
心臓にも脳にも血管にも、急を要するものはない……はずだ。確かにそれは。
「ならば、こちらは心配するな。エウリューケを呼ぶ。それにお前には友人の見舞いがある」
「しかし」
だが、もはや全快した友人と、今危ない老人ならば、どちらに行くべきかは明白だと思う。
「目を覚ました友人も、お前を心配していることだろう……それに……」
目を向けた先は、首のなくなった男性の死体。……目の前にあり、濃厚な血の臭いを放つこれが気にならなかったというのは、きっと本当に危ういことなのだろう。
「どうするにせよ、ここから早く立ち去ったほうがいい。それも、別方向に」
別方向、というのは万が一の誰かの追跡を防ぐためだろう。もっとも、この場に簡単に追跡される者もいないはずだが。
「……では、すぐに行きます」
「グスタフさんに怒られる前に、出ていったほうがいいな。見舞いの後に来い」
無表情で言われると、冗談かどうかもわからない。
駆け出すニクスキーさんを見送り、僕も廊下を歩き出す。
途中にあった男の頭部。
足に当たる場所にあったそれをあえて避けない。
そうだ、雀にお礼をあげないと。
固く重たいものが弾む音を後ろに、少しだけ苛立ちが晴れた気がして、僕も外を駆けだした。