人間以前
三人称・非主人公視点ですが本編の流れです。
カラスの右拳による、頭部に感じた強大な衝撃。
右掌を挟み、それでも殺しきれない衝撃に歯が軋む。血が目に入り、視界が赤く染まる。
反応しきれなかった。その事実に驚嘆しながら、ニクスキーはその手を握った。
もはや拳の感触が違う。
小剣により縫い止められた壁から強引に引き剥がされたその手は二股に割れ、本来ならばその握力も十全に発揮できないであろうと思われた。
しかし。
やはり……、と内心ニクスキーがため息をつく。
握りしめた拳から、絞り出されるように血が溢れる。だがその拳は決して緩まず、押し返されてもなお力強く固められていた。
そして、見る間に緩やかに治癒していく。まるで二つの粘土細工を一つにまとめるように傷口が塞がり、元の拳の形に戻る。
殺さなければ止まらない。その様子に、そう確信した。
だが、諦めるわけにはいかない。
右手を押し返しながら、左手を右肘を曲げるように内から差し込む。その勢いで床に転がそうと足払いをかける。
一連の動作は流れるように行われ、カラスの体が再び宙を舞う。
カラスが、空いている左手を壁にかける。
床への受け身ではなく、壁への受け身。衝撃で木の割れる音が響いた。
そして壁を蹴って加速した蹴り。
ニクスキーが首を下に反らしそれを避けると、捕らえていた右手もするりと抜ける。
それだけでは終わらない。
空中で身を翻したカラスの足刀がニクスキーの外套の頭巾の端を引き千切った。
(……まだ、加減をする程度の理性は残っている)
幾度も続く攻撃。だがそこに殺気が込められていないのを見て取り、ニクスキーは短く後ろに跳ぶ。そうしながらも、感嘆していた。
(速く重い。魔法を使わずとも、徒手でこれか。魔法を使われる前に……)
感嘆するのは、目の前の男の身体能力。
水天流と、どこで学んだのか葉雨流の歩法が混ざり、それが魔物のような身体能力から叩きつけられる。お互いに全力ではないにせよ、正面からぶつかれば自分でも危ないかもしれない。
外套の中に隠していた小刀を握りしめ、次の攻撃に備えて目の前のカラスの動きに意識を集中した。
葉雨流の中目録以上に与えられる技術に、四拍子というものがある。
表拍子、裏拍子、乱拍子、無拍子。それら四つの技術はそれぞれ攻めと守り全般に作用し、そして葉雨流の奥義の骨子となっている。
表拍子で相手の攻撃に合わせ、裏拍子で無防備を攻め、乱拍子で動きを掻き乱し、無拍子で虚を突く。
多くの流派に共通する事項でもあり、基本ではあるが、それらに四禁忌という原則が加わるのが葉雨流の特色と言えよう。
奥義《陰斬り》に、四拍子に四禁忌。それらを極めた者にようやく、葉雨流の大目録が与えられるのだ。
四拍子の中で、とりわけ重要視されるのが無拍子である。
それは、言ってしまえば簡単だ。複数の関節を動かし、直前の溜めもなく気配もなく動作する。ただそれだけのことで、それだけでは、剣を振ってもただの素早い動きにしかならない。
だが、葉雨流の者は、その無拍子を使いこなす。
戦闘中、自分の斬撃を見せない。目の前にいる自分を見失わせる。そんな魔法のような技術の一部へと、何の変哲もない動作を昇華させていた。
ニクスキーは、足をわずかに床に滑らせた。
右にわずかに跳べば、カラスの目がそちらへと向く。
瞬間、勢いを反転させてその場に残る。本来ならばその動きに追いついてこられず、一瞬こちらの姿を見失うはずだった。
だが。
「っ……!」
ニクスキーが蹈鞴を踏む。
本来ならば隙を見せるはずのカラスが、動きについてくる。そしてあろうことか、その拳がニクスキーの側腹部へと伸びていた。
迫る拳を払いながらの突き放すような蹴り。それでようやくカラスを遠ざけることに成功したが、ニクスキーの口内に苦い味が残る。
どういうことだ。
自分が無拍子に失敗した?
そう考えたが、即座にそれは違うと気がつく。
直前のカラスの動きを思い出せば、たしかに自分を目で追っていた。
しかしその目の動きは体の動きと関係なく、自分が動きを変化させたのと同時に身を翻し、全て見ていたかのような動きで対応した。
自分の問題ではなく、相手の問題だ。
そう気がついたニクスキーの目がわずかに険しくなる。
人間は、与えられる感覚のほとんどを視覚に頼っている。
だからこそ、無拍子での視覚情報の攪乱は暗殺剣の葉雨流で使われる技法であり、そしてだからこそ発達してきたはずなのに。
それが通用しない。まるで、視覚以外の感覚器にも頼っているかのように。
音か、臭いか、それとも空気の揺れか。
達人ならば、たしかにそれでも反応できる。足音から気配を察し、空気の振動から腕の動きを読み、まるで見えているかのように反応する。目を瞑ったままの達人が、弟子数人を叩きのめす逸話は数多くの流派に伝わっている。
そこまで考えてまた、いや、とニクスキーは内心首を振った。
違う。違うのだ。
目の前のカラスは、たしかに視覚情報を重視していない。
だがそれは、熟練の技術のなせる業ではない。
むしろ、その逆。
ならば、手段を変えるまで。
そう決定したニクスキーがわずかに外套の前立てを開く。他人には見えないその中には、数十本を優に超える小さな刃物が並べられ、展開されるのを待っていた。
ニクスキーの修める二つの流派。葉雨流と黒々流はどちらも対人に特化した技法であり、達人は万事に通ずとはいえ『獣相手』には向いていない。
もっとも、皆伝ともなればそのような相性も消えてなくなるが。
眩ましの通じぬ相手。ならば、それ以上の速度と巧緻性で押し切るのみ。
ニクスキーが手を広げる。その間の空間に置かれた数本の刃物を掴み、目の前のカラスに向けて振るう。
しかしそれでも、切り込みを入れた動脈はすぐに塞がれ、腱はすぐに再生される。
蹴りを躱し、拳を払い、葛を返しながらも行われる攻撃は功を奏さない。
逆にニクスキーの武器は払い落とされ、身を守るために使った拳足が徐々に痣にまみれていく。
(……ここまでとは……)
次第にニクスキーの内心にも焦燥感が混じり始める。
侮っていた。目の前の青年に、少年だった頃の名残を見て。
しかし、それはまったくの誤りだ。
上背も伸び、間合いも広くなった。四肢の筋肉も強くなり、その衝撃が激しくなった。
成長しているとは思っていた。しかし、これほどとは。
それに。
ニクスキーの内心が次の考えに及ぶと、無意識に指に力が入った。
目の前の青年の激情が感じられる。
自分に宛てたものではないにしろ、それでもなお激しい怒りと、そして後悔が。
ここまでの激情を帯びたカラスを、ニクスキーは伝聞にも聞いたことがない。
だからだろう。その激しい感情故に。
拳が破壊されても、骨が砕けようとも、痛みすら感じる様子もなく即座に再生させる目の前の魔法使い。
まるで、かの〈鉄食み〉スヴェンのよう。
弾いた胴に引きずられて、カラスの体が壁にぶち当たる。
とうとう割れて折れ曲がった壁の木材が、表面の塗料を固形のまま血のように散らした。
まるでスヴェンのよう。
まだ動きを止めないカラスを見ながらそう考えたニクスキーが、外見に出さぬよう唾を飲む。
〈鉄食み〉スヴェン。三百年を超える年月を戦いに捧げてきた魔法使い。
人間離れした怪物性と食欲への貪欲さは会ったことのないニクスキーの耳にも届いている。
冗談ではない。
彼の者は忌むべき者だ。スヴェンのようになってしまっては、本当に戻れなくなる。
ここまで積み上げてきたものを全て捨て去る結果となってしまう。
ならば、止めなければ。
取り落とされた剣を拾いもせず、頑なに無手を続けるカラス。
激情のままに力を振るい、そしてその力には技術が伴っていない。
まるで、獣。
振るわれる拳に武術の要素は見えない。水天流も、どこで覚えたのか葉雨流の技術も持っているはずなのに。
なのにその拳足は自らの体術にのみ従って振るわれており、そしてそれ故に対人間用の葉雨流の効果が半減している。
獣。
ならば、ここから先へと進ませるわけにはいかない。
今回の標的、その生死はニクスキーには本当はどうでもよい。だが、その死がこの獣によってもたらされるような事態は避けなければいけない。
周囲の温度が急激に下がる。
水蒸気は白く煙り、吐く息が空中で凍り付いて輝きを放つ。
これは、カラスの魔法か。
強引に拳を握りしめれば、凍り付いた手袋がパキパキと音を鳴らした。
空気を低温に変える魔力圏を闘気で打ち消し、それでも消えない冷気にニクスキーは誰にも聞こえないように舌打ちをする。
空気を極低温に変えることは防げても、極低温に変えられた空気を消すことは出来ない。
闘気の密度を増し、体を保護してもなお、冷気は思考を妨げる。
体の速度を上げる。凍り付かないように、止まらないように。
その自分の動きにまだ付いてくるカラスの拳が、やたら痛かった。
彼は、人間になろうとしていた。
自分と同じようにネルグの森から彷徨い出てきて、そして貧民街で過ごした少年。
同じようにグスタフの元で探索者としての経験も積んで、そして自分とは違い社会との接触も順調にこなしてきたはずだったのに。
こんなところで、石に躓いてしまうとは。
ならば、ここで獣に戻すわけにはいかない。
ここであの中年男性を殺してしまえば、きっともう『人間』に戻ることは出来ないだろう。
その愚を犯させるわけにはいかない。
それが貧民街で先に育った自分の責任であり、そして矜持だ。
足下に落ちてきた刃物を蹴り上げて、カラスの腹部へと刺し入れる。
肝臓、大動脈が切断され、数分で命を失うはずの怪我。
しかしそれも意に介さず、カラスは引き抜いて地面に刃物を投げ捨てる。
その一旦は手に入れた兵器を使おうともしない態度に、悲しみを感じた。
床に落ちた血溜まりが凍り付く。水分を失い即座に凝固したそのどす黒い色に、未来を見た。
この青年はきっと、激情をぶつける相手を探しているのだ。
ここで彼を逃がしてしまえば、きっと先ほど自分が殺した標的を、死ぬ前に殺すだろう。
だがきっと、それでは終わらない。
その激情と、それによって生まれた心の澱は、確実に心を浸食してゆく。
きっと今の青年は、赤子に戻っているのだろう。
以前会ったときには、未熟ながらも思慮深い少年だった。間違いを犯しながらも、それでも問題が起きれば一歩踏みとどまって考えていた。
この国でも獣でいられる魔法使いが、人間になろうとした希有な例だった。
なのに、今は。
負けるわけにはいかない。
ニクスキーはそう決意する。
赤子は自らの手の届く範囲にしか世界がないと感じているという。
人が思考を始めるのは、その先に手が届かないことを知ってからだとニクスキーは信じている。
その先に手が届かず、今の自分には不可能だと知ったからこそ、思考し、工夫を重ねて問題を解決しようとするのだと。
ならば。
止めてやろう。
教えてやろう。
獣のままでは自分は越えられない。道具を使い、様々な工夫が出来るのが人間だ。
なのに今のカラスは、兵器を使う発想もなく、本来多彩なはずの魔法をほとんど使う様子もない。
激情は思考を鈍らせる。間違った方向へ全てを進ませる。
友を害された。それで怒るのがおかしいとまではニクスキーは思わない。
友に危害を加えられ、無感情のままに過ごせるのであれば、それこそその者は獣以下だ。
だが、まだ引き返せる。
だから、まだ引き返せる。
その感情をここで受け止めてやらねば。ここで、不可能を教えてやらねば。
人間以前に戻ってしまった後輩に、教えてやらねば。
ニクスキーの袂で、二つの小さな瓶がぶつかり鳴った。




