殺すつもりで
猿ぐつわもないのに、転がった男は声にならない声を発している。
声を出せないのは多分点穴のせいだろう。その顔に浮かびつつある痣は、点穴には関係なさそうだったが。
振り返りながら一歩踏み出し、ニクスキーさんは僕の顔をじっと見る。気怠げな瞼が開かれ、圧力が感じられた。
僕が数歩歩いて立ち止まると、ようやくその重たい口を開く。
「……久しいな。大きくなった」
「ニクスキーさんはお変わりなく」
愛想笑いもなく、ただ淡々と述べられた事実文に僕は返す。そんな挨拶をしているときでもないだろうと、内心少しだけ笑いながら。
僕が足下の男を見ると、男は涙目になって僕を見ていた。
「お仕事中申し訳ありませんが、その男を引き渡してはいただけないでしょうか」
「……何故?」
「僕の手で、始末したいんです」
僕の言葉に男は目を見開く。
僕が助けに来た誰かだとでも思ったのだろうか。先に僕を殺そうとしたのに、自分は助かると思っていたのだろうか。虫のいい話だ。
いいや、それとも何だろうか。ここまで反応がなかったということは、僕の顔を知らなかったとでもいうのだろうか。
命を狙うほど嫌っていた相手の顔を。
「お前を狙った者たちへの反転攻勢は、お前からの依頼だったはずだ」
お前を、という言葉に男が反応をする。ようやく気がついたようでより一層腹が立った。
「その通りです。ですが、それでもその男だけは僕の手でやりたい」
「…………」
僕がそう言っても、ニクスキーさんは動かない。
……どちらかというと、否定的。標的を引き渡したくない、とでもいうのだろうか。
「……名前はビリー・ターナー。年齢は六十五。お前を狙った理由は、義憤から、らしい」
「義憤?」
僕が何か道理に適っていないことをしていたから、それに憤った、と。小さな犯罪ならば心当たりは数多くあるが、街の人間に迷惑をかけるようなことをした覚えはない。
そもそも、だからといって暗殺を依頼しようなどとするだろうか。そのほうがよっぽど道理に適っていないと思う。
ニクスキーさんはわずかに振り返り、男の腕を軽く蹴る。
それにも抵抗できないようで、男はただ小さく呻いた。
「ザックスという男を知っているか?」
「知りません」
「しかしこの男の話では、お前に荷を強奪された商人、らしい」
らしい、という話が続いていく。
当然僕は商人の荷を強奪したことはないし、したとすればクラリセンでのときのように偽者だろう。
「もちろん嘘だ。この手、この腕、そして玄関にあった剣。単なる嫉妬だ」
一転して、ニクスキーさんは断定する。
その言葉を裏付けるように、倒れている男は僕とニクスキーさんを憎々しげに睨んだ。
言葉が止まる。僕の反応を待つように。
それから、小さなため息が聞こえた。
「……引き渡しは断る。お前は何もせずに帰れ」
「……それこそ、お断りします」
やはり。僕には引き渡さない、と。ため息からすれば、先ほどの言葉は、僕がそれで帰ることを期待してのものか。
しかし、何故。
ニクスキーさんが、男の脇腹をつま先で蹴る。肋骨が折れた音がした。
「ぅえっ!?」
「逃げろ。ただし、衛兵へ近づくのは勧めない。死人が増えるだけだ」
「…………?」
咳き込みながら、男が転げ回る。だが、体を動かせることに気がついたのだろう。やがて苦しみに顔を歪め、脇腹を押さえながら立ち上がった。
「…………」
不可解な行動。助かったと安堵した嫌な顔。
そんなものを見ながら、僕は魔力圏を展開する。
狙う先は……名前は忘れたけど老いた男。中年太りしたその腹を捻りつぶそうと魔力を集中させる。
腹筋の鍛えられていない柔らかな腹に、折れた肋骨が軋む。分厚い脂肪層が歪み、捕まえた、そう思った。
だが。
「…………」
ニクスキーさんが闘気波を飛ばす。僕の魔力を融解させる強さの波は一瞬で広がり、男を覆い僕の念動力を掻き消した。
逃がさない。
舌打ちをしながら、裏口から出ていき駆けていく男を追おうと一歩踏み出す。
しかし、ニクスキーさんは逆に一歩僕に近づくように踏み出し、開いた左手を体の前で構えて牽制した。
「どいてください」
「……出来ない」
「何故ですか? 石ころ屋は、あの男を殺す気がないとでも?」
言いながら、それは違うとも内心思う。
詳細はわからないが、ニクスキーさんがレイトンと同様の歩法を使っているのを見たことがある。恐らく葉雨流の。ならば、僕には出来ないがレイトンと同様の技術を持っている可能性もある。
ならば、あの男はもう死んでいる可能性すらある。過去に見たミールマンの姉妹のように、既に首が落とされている可能性もある。
けれど、ならば僕の手にかかっても同じ事だろう。
どうせ死ぬ。ならばどうして。
僕の考えに追従するように、ニクスキーさんは首を横に振る。
「いいや、殺す。だがそれは、お前が殺すのではない」
「僕だから駄目だ、と?」
少しだけ苛つきながら、また聞き返す。僕だから、も随分とこの街で聞いた気がする。
いや、誰からも言われていない。ただ、僕が読み取っていただけだったが。
僕の感情などお構いなしに、ニクスキーさんは僕をじっと見る。感情の見えない目を僕に向けて。
それからパタリと手を下ろした。
「衛視でも所司でもない。お前に殺す権利はないはずだ」
「権利、ですか」
人を殺す権利。権利というのであれば、それは誰にもないだろう。
ただ、必要に応じて許可はされる。処刑人、ひいては権力者には。
たしかに僕にはない。官権でもない僕には未来永劫与えられるものではない。
だがしかし、それは。
「それは、ニクスキーさんも同じことですね」
「……そうだな」
それは、ニクスキーさんが言うことではない。
彼もここに、あの男を殺しに来た。仕事として、命じられて。
それに、権利はなくとも理由はある。
僕のやらなかったことで、友人が被害に遭った。その責任。そして、僕の感情。
許せない。その内心は、誰にも否定されるものではない。
「そうだ。俺たちも同じ。だがしかし、俺とお前とは違う」
「……埒があきません」
魔力波を飛ばす。まずは位置を補足しないと。
あの男はどこへ行った。多分まだ生きているはずだ。少なくとも、人がいる場所に辿り着くまでは。
裏手を走る影がある。もうすぐ大通り、この体型に走り方は先ほどの男だろう。
まだいける。
……あれは雀だろうか。
裏口から一羽の小鳥が覗き込む。頼んだわけではないが、好都合だ。
「今出ていった男を追ってください!」
僕が叫ぶと、一瞬首を傾げる。それから『何で?』と小さく言った。
「詳しくは後で! 食べ物も用意しておきます!!」
「……!!」
やはり、野生の動物には食べ物が効果覿面らしい。
僕の言葉に小さく跳ねると、飛び立っていく。かなり小さな声で『食べ物くれるって!』と仲間に言っているようなので、何羽かいたのだろう。もう一度調べてみれば、見えない範囲に四羽いた。
これで、追跡は出来る。見逃しはしないだろう。
あとは、目の前の障害だ。
僕がニクスキーさんを見ると、ほんの少し眉根を顰めているように見えた。
「……もう一度聞きますが、何故止めるんですか?」
「わからないか。……ああ」
それから少しだけ悲しそうな声で、僕に聞こえない程度の小さな声で呟く。
「わからなくなったか」
視線の先は、今飛び立っていった雀たち。横を向いたまま、静かに瞼を落とした。
話していてもキリがない。
どうにかして乗り越えて追おう。魔力波を飛ばして拘束も出来るかもしれないが、位置の関係で簡単に邪魔されてしまう。それに追跡は既に依頼してある以上、僕が追いついたほうが確実だろう。
一歩踏み出そうとする。
だが、その足が踏み出せない。まだ目を瞑り、無防備に見える目の前の男性を相手に、何故か足が踏み出せない。
これは恐怖心だろうか。僕が内心抱いている恐怖による怯え。……違う。直感だが、多分僕は正しい情報を受け取っている。
警戒。躊躇。その類いだろう。スティーブンとは全く違うが、同じような迫力の威圧感に近寄りがたい。
舌打ちをしながら周囲を探る。
前に進むのは体が拒否している。ならば、後ろ、元来た道。
いいや、こちらの方が近い。
何も、人間と同じ経路を使う必要はない。横を向く。ここからならば、木の壁二枚と薄い石の壁一枚。それならば、玄関を使うよりもだいぶ早い。
腕に力を込める。足を大地に沈めるように。
打ち砕ける。最短経路で追いつける。
闘気を込めた拳。そこに力を込めて、壁に叩きつけようとした。
だが。
「!!?」
次の瞬間、世界が回転する。視界が間延びし、ただの色の付いた線に変わる。
勢いが付き、背中から落ちていくところ、天井が見えたところでようやく気がついた。
投げられた。
闘気を込めた右腕をつかまれ、そこを支点に。
「っ!」
慌てて腹筋を使い、落ちつつあった体を跳ね上げてニクスキーさんの腕に足を絡める。
そのまま首に足を絡めて絞めようとするが、僕の頭を狙った蹴りを躱すために降りざるをえなかった。
着地は出来た。
だが、状況は変わらない。僕の右腕は捕まり、互いに左手が空いている状態。
いつの間に近づいてきていたのだろう、ニクスキーさんは僕のすぐ前、手の届く距離にいた。その距離は、ニクスキーさんの拳が僕に届く距離ということでもあるのだが。
「……放してください」
「…………」
ニクスキーさんの無表情は崩れない。
手首を握る力は強くなり、闘気で保護していなければ簡単に砕けてしまうほど。
一瞬待って、ようやくニクスキーさんは口を開いた。
「……これ以上は、グスタフさんの期待を裏切ることになる」
「期待?」
「…………」
手が離れる。互いに少し下がり、僕は蹈鞴を踏んだ。
そして、それだけでは終わらない。
視界が揺れる。
今度は投げられたわけではない。顎に強い衝撃、それにこめかみにも多分……。
地面が浮かび上がるように、体が傾いていく。
踏ん張ろうとしても、角度がおかしい。重力の方向が変わったように足が滑った。
「殺すな、と言われている。だが、殺す気でないと危ないとも言われている」
頭上から響く声に、足下に落ちる頬。木の床が冷たい。
遅れて響いた衝撃に、受け身も間に合わず倒れ伏した事に気がついた。
『言われた』。それは、誰にだろうか。
まあ、考えるまでもなくグスタフさんなんだろうけれど。
「立つな。これは、俺からの言葉だ」
「……無理な、話です」
うわごとのように反論しながら、僕は掌に力を入れる。それだけで、視界が晴れた。
平衡感覚も戻った気がする。いいや、これは気のせいではない。
無意識に唇から吐息がこぼれる。
これは、きっと僕は可笑しいのだ。
足に力を込める。ただ単に寝床から体を起こすように立ち上がれば、体に違和感は一切ない。
そうだ。
なんだというのだろう。顎を揺らされた。脳を揺らされた。その程度が、何だというのだろう。
残念そうに、ニクスキーさんはため息をつく。
やはりここを退く気はない。あくまでも、僕の道を阻む気だろう。
ならば、退ける。
殺す気でなければ僕は止められない。嬉しい言葉だ。そこまで評価してくれているとは。
だがそれはこちらも同じこと。
武器がないのが不安だ。けれどもそれは今はどうにも出来ない。
闘気を込めた拳をもう一度握りしめる。
その拳をニクスキーさんの腹部、顎に叩きつけるべく動き出す。
待っていてくれたのか、防ぐための腕は間に合わないようで、難なく一撃は当たり、そして肉を歪めた。
だが、それでも。
鋭い痛みが腕に走る。
あくまでゆっくりと、だが僕は何故か反応が遅れる。スティーブンとは違うし、水天流でもないが、おそらく葉雨流の動き。
押しつけるように、壁に僕の腕が叩きつけられる。
滴る血。
中手骨の間を通し、縫い止めるように僕の手に深々と刺さっている剣に気がついたのは、もう一本の剣が僕の首に伸びているのに気がついてからだ。
「……っ!!」
首を捻り、体を倒し、残った左腕で捌く。
左手に、小さな傷が走った。
体を動かす度に、右腕に痛みが走る。拳を握れず、指が上手く動かない。
だから、なんだ。
もう一撃、と迫るニクスキーさんの剣。それを確認しながら、僕は右手を力強く引く。
肉が裂ける音がする。
鮮血が僕の頬にまで飛ぶ。
だからなんだ。
この程度の痛みがどうした。
僕の怪我は命に関わらない。
この程度ならば、僕には治せる。だが、リコはもっと痛かった。
左腕で剣を捌き、裂けたままの拳を握りしめ、ニクスキーさんの頬を突く。
掌を挟んだガード越しに、歯が緩んだような感触がした。