アニマルトラッキング
屋根の上に駆け上がれば、眼下に漂っていた喧噪とも少しだけ距離を置ける。
見上げれば、雲が多いが青空も光る。そこに飛ぶ鳥たちが、僕の少しだけ上を通過していった。
鳥が低く飛ぶと雨が降ると聞いたことがある。青空は見えるけれども、雨が降るのだろうか。湿り気の多い空気はたしかにそんな感じもする。
踏んだ屋根が軽く歪み、わずかにぶつかった瓦同士が澄んだ音を立てる。不本意に立てた足音で、あまり好きではないはずだが人間の声よりはだいぶ心地よい。
目をこらし、向かう先を見る。
目標は、先ほど僕を狙った暴漢が矢を放ったであろう地点。
改めて見てみてもかなりの遠くだ。魔力波ならばまだしも、僕の魔力圏には入らないくらいの。
しかし、矢の角度と焦げから見える速度からして、間違いはない。正確ではないかもしれないが、大体の位置はあっているだろう。
壊さないように屋根を蹴り、跳ぶ。
まだ僕を狙っているかもしれない敵を見逃さないように、周囲を警戒しながら。
僕へ対する視線はいくらかある。だが敵意もなく地上から見上げているのは、ただ単に屋根の上を駆ける僕が物珍しいからだろう。
たまに目が合っても、それ以上は追ってこられないようですぐにその視線は消えていった。
物陰から。もしくは遠くから僕を狙うような視線は今のところない。
ならば、リコに矢を当てたことを知った暴漢はそこから立ち去り、そしてまだ僕を見つけていないのだろうか。それとも、今も虎視眈々とその機会を待っているのだろうか。
いつもならば、もう一度僕に視線を向けた誰かを探しただろう。
僕を狙う敵意を感じ取るように気をつけながらも、きっと普通に過ごしていただろう。
だが。
無意識に、踏んだ屋根の木がミシリと音を立てる。
今回は待つ気はない。
僕を狙った。それだけならばいい。悲しいことに、不快だが慣れている。
だが、今回は違う。いつもならば、降りかかる火の粉程度にしか思わなかった。顔にかかれば振り払うが、その元を絶とうとは考えなかった。
だが、今回は。
今回は待てない。
もはや敵は、僕の身に降りかかる火の粉ではない。
かつてのレヴィンと同じように。
降り立った目的の屋根。
足場として使う用ではないと思うが、扁平で傾斜も緩い屋根。下は……横に転がる細い枝が束ねられたゴミ、それに横の一段上がった屋根から上る湯気の臭いを合わせて考えれば、染色工場だろうか。
梅のような臭いが周囲に漂う。よく見れば、下の物干し竿に染めた布が広げて干されていた。
埃の少ない屋外でも、屋根の上には砂埃が微かに積もる。
蹲るように見れば、雨と日光で傷み、灰色に近づいた木材に足跡が見える。
やはりここ。
リコの撃たれた場所に向かい、弓を構えた足跡。
人間。
身体年齢は二十代中盤。恐らく男性で、筋肉質、重心から右利き。
身長は僕よりも少しだけ高め。
屋根の上に、屋根とは違う木材の削ったゴミ。指先よりも小さい木くずを指につけ、嗅いでみれば最近削られたもの。焦げてはいないが、多分矢の削り節だろう。
リコを撃った後、慌てたように足跡が乱れている。この人間たちにとっても、きっと想定外だった。
リコの射創と撃った位置から見れば、多分話していただろうモスクは後ろ姿だった。ならば間違えても仕方がない……とはいえない。今は。
歩くというよりも走る歩幅で……。
いや、その前にどこかを向いている。屋根の上を見上げて……。
「…………」
飛び乗ると、そこに止まっていた百舌鳥と目が合った。
「……お邪魔します」
まっすぐこちらを見ていた百舌鳥が、ちょこちょこと後ろに跳んで下がる。
僕が足場になっているそこに目を落とすと、覗き込むようにしながら百舌鳥もその周りを歩き回った。
百舌鳥の足跡に紛れて、やはり人間の足跡がある。
撃った男は誰かと話していた。ここに立っていたもう一人と。
こちらは屋根の上に来る前に、貧民街から来ているようだ。
……。
握りしめた拳が痛む。心配そうに見上げる百舌鳥が、喉の奥を鳴らした。
貧民街で、この人間は僕を発見できなかった。
その後の顛末はわからないが、きっと、だから焦り、似ているだけのモスクを僕と見間違えた。
二人が離れていたということは、僕の追跡というよりも捜索だったのだろう。
どこかで餌でも貰っているのだろうか、人懐っこい個体なようで、百舌鳥は立ち去らない。
どうしたの? とでも聞くように、僕の顔を見て首を傾げた。
「……少し、人を探してるんです。ここにいた二人組を」
腰を折り、僕がそう語りかけると、当然のように無反応で百舌鳥は僕をじっと見る。独り言のような呟き。独り言は自制心がなくなっている証拠だとも聞いた気がする。
自戒しなければ。自制心がなくなっていることではない。思考力の低下がないように。
「君が、見つけてくれればいいんですけどね」
話を打ち切り、僕は体を起こした。
烏の羽音が頭上を飛ぶ。
百舌鳥が一瞬ぴくりと怯えたように跳ね、隠れるように僕にちょこちょこと寄ってくる。
烏のほうは気にしていないようで、そのまま四番街のほうへと飛んでいく。
ちょうどいい。足跡はそちらへ向かっている。
足下で遊ぶ百舌鳥を蹴らないように跳ぶ。
足跡は屋根の上を拙く跳ねている。そのまま追えば、いずれそこに辿り着くだろう。
こういう追跡をされるのが、多分二足歩行の悲しいところだ。
「……と……」
だが、僕の足が止まる。四番街目前、屋根の高い建物が少なくなり、小粒な建物が多くなり始めたころ。
少なくなってきていた青空に、そろそろと思っていたが。
小さく舌打ちをし、止まっていた足を速める。
頬に小さな滴が落ちる。ごくまばらな霧雨が、街に降りかかる。
服が濡れる感触もないほどの小降り。いつもならこの程度気にもしないが、今は少々厄介な状況だ。
濡れて、追ってきた足跡がぼやける。
元々微かだった足跡に、さらに傾斜が付いた屋根ということも相まって、流れていくように形も崩れていく。
方向も曖昧に変わり、数歩進む度に探さなければいけないほど。
地面が泥や土ならわかりやすいのに。
羽根も体毛も落とさない人間の追跡はやりづらい。それに、痕跡を追えなくなってきてようやく気がついたが、無意識だろうが足跡も本人たちが消している。
探索者もしないわけではないが、森の中で痕跡を残さない、猟師特有の動き。
……それならば、獲物を間違えることもするなと言いたいけれど。
ポツポツと、雨粒が大きくなってくる。
眼鏡に雨の滴が滴り、視界を大きく妨げる。
今は邪魔だ。眼鏡を外し、適当に布を巻いて背嚢に放り込む。激しい動きをすると傷も付きそうなものだが、今は関係ない。
滴は目にも飛び込んでくるが、瞬きをすればそれもすぐに晴れる。
よく考えれば障壁を張れば問題がないが、外してしまったのであれば仕方ない。
早く。足跡が完全に消えてしまう前に。
揺れる視界の中で、足跡が捉えられなくなってくる。
仕方なく空を舞うように跳べば、安定した中でまだ一応足跡が残っているのが確認できた。
足跡に沿うように、薄い日光に照らされた影が飛ぶ。
一瞬鳥の影と見間違えて、それが少し可笑しかった。
雲にも黒い部分が増え始める。
青い空が点々と見えてはいるし、雷が鳴るということもないが、雨が強くなる。
ついに足跡が消えていく。
安心が滲む歩幅から、多分この辺りがゴールだろうが。
雨粒が、洗い流すように屋根を叩き飛沫が見える。
足跡も完全に消え去り、砂埃が流れ落ちていく。
ため息をついて立ち止まり、屋根から道ばたへ降り立つ。
職人街よりも細かなゴミが少ない石畳。そこを急ぎ、パタパタと人間たちが走っていく。降り始めた雨を避けるよう、店や家に入っていった。
二階建ての上階で、雨戸が閉まる。
濡れたまま立ち止まった僕を怪訝に見て、それでも気にせず人間が背後の風景に消える。
思わず、苛ついて地面を蹴った。
痕跡が消えた。
ここまではきっと正しかった。足跡を追った先はこの辺りだった。
なのに、この先はわからない。
もう足跡も消えて、元々だったが臭いも辿れない。森や野原、野外ならば枝や草にまだ痕跡が残るのに。
道ばたの残飯を漁っていたのだろう、鼠がチィチィと鳴き声を上げて走る。
……鼠の追跡ならば、糞を追っていけばいいから簡単なのに。
見上げれば、顔を雨粒が強く叩く。
睫毛も眉毛も用をなさず、曇り空の形が滲む。
ここからどうする。
雨が降るのは想定外だった。そのせいで追跡がこれ以上は難しい。
もっと鼻が利けばいいのに。猟犬は雨が降ろうが標的を追跡できると聞く。動物の性質を強く持つミーティアの人間……特に銅犬の氏族ならば、ここから先も追えるのかもしれない。
軽い雨ではあるが、人通りも消えていく。
もともと四番街は路上で商売をするような街ではない。あるにはあるが、通行人たちの性質上、雨が降れば店も閉まる。
耳障りだった人の声が消えていく。家路へと急ぐ足音は、未だにどこかで響いているが。
通り雨のようだ。
きっとすぐに止むのだろう。そのことを示すように、もう既に空の端が明るく青く染まっている。
鳥の羽の音が聞こえる。雨が降っているのに。
僕の目の前に、一羽の百舌鳥が飛び降りる。
まさか、僕を追ってきたのだろうか。先ほど見た個体と一緒だ。餌をあげたつもりもないのに。
百舌鳥が、僕を見て首を傾げる。
「……あの人たちの場所、教えてくれるんですか?」
動物。彼もそうだろう。犬のように鼻は利かないと思うが、それでも上空から何か見ていれば、何か知っているのかもしれないのに。
人間たちに聞いても無駄だろう。
そもそも僕も、相手の顔も名前も知らないのだ。そんな僕が人捜しをしたとしても、ふざけているととられてしまうのがオチだ。
思わず呟いた僕の言葉に自分で笑う。
何を僕は、鳥に話しかけているのだろう。親しげに、懇願するように。
けれども、仕方がないのかもしれない。
リコが怪我をした。そのせいできっと僕は動転して、そして今でもきっと回復できていないのだろう。
いつもは食べ物にしか思えない鳥。けれども今は、きちんとした生物に見える。何か応えてくれそうに見える。その目に少しばかりの知性が感じられる。話も出来そうなくらいに。
そんな内心に、馬鹿なことを、と自嘲し、僕は周囲を見渡す。何か残っていないだろうか、そんなものを探して。
だが、それくらいの時間をおいても百舌鳥は立ち去らない。
ただじっと僕を見つめて、チイと鳴く。
それから、テンテンと歩を進め、もう一度僕を振り返りチイと鳴く。
その仕草が、まるで僕に『付いてこい』と言っている気がした。