人間たちへ
「ええと、《開眼》は……」
小さく治療師が呟く。《開眼》は意識の消失した者を覚醒させる法術だ。ただし、対象は衝撃などで意識を失った者などではなく、疲労から眠っている者を、だが。
疲労から目を覚まさなかった勇者の額に、聖女が口づけしたという描写。今からして思えば若干おかしな気がする。もちろん治療師からすればそこは重要ではなく、その直前の言葉や仕草が重要なのだけれど。
気付け薬も持っている。アンモニアの臭いのする瓶。だがもう怪我は治っているということを言い訳にして、僕はなかなか足が踏み出せなかった。
命の危機が脱したということを察し、職人たちはいくらか立ち去っていく。未だに人だかりはあるものの、先ほどよりもだいぶ少なくなってきていた。
固唾を呑んでいた緊張感は消え去り、口々に噂話が始まる。
矢で撃たれた。それは何故。そしてどこから。誰が。
そんな推測が、根拠もなく繰り返されていく。衛兵も誰かが呼びにいったようだ。
どこか夢心地でそんな空間に佇んでいた僕に、声がかかる。
「大変だったな」
「ええ」
職人たちから解放されたモスクが、肩を回しながら僕のすぐ前で立ち止まった。先ほど拘束されたときに少しだけ手荒く扱われたのだろう。怪我はなさそうだが、申し訳なさが今頃になって湧いてきた。
黒いカッターシャツの袖には少しだけ汚れが見える。昼食に使われていたトマトソースだろう。食事中だったのか、彼も。
そういえば、先ほどリコの周囲にも食べ物がいくらか散乱していた。
貝殻を踏み砕いた感触も残っているし、ちらりと見える食材からすると貝焼きだろう。僕はそれよりも点心系のものが好きだったが、どちらも職人街での昼食の定番だ。
食品を見てというのも何かおかしな気がするが、場違いな日常の匂いを感じ、ようやく実感する。
「……助けられて、よかったです」
「ほんとになぁ。すまん、俺何にも出来なかった」
「いいえ、ありがとうございます。邪魔をするのを止めてくれて」
結果的に邪魔は入ったが、それでもモスクの尽力は知っている。職人たちを一時止めてくれたのは彼だし、怪我に慣れているとはいえさすがに腹部を貫く金創の応急処置は無理だろう。
しかし。
僕は地面に目を向ける。今のところ誰も気にしていない石畳に刺さった矢。
そこに歩み寄ると、モスクも同じように目を留めた。
「それが……おい?」
だが、僕の行為に驚いたのか目を丸くする。それでも、動きを止めることは出来なかった。
矢を石畳から引き抜く。リコの体を貫いても相当な威力が残っていたのだろう。普通の矢よりも短く作られているような矢は、半分ほどが石畳に埋まっていた。
引き抜いて鏃を見れば、ただ尖った針のような尖端だった。埋まっていたという事実と反する気もするが、威力や精度よりも飛ばす距離を優先したのだろう。
矢柄からは焦げたような臭いもする。木製、だが黒檀よりも固い木だ。
あまり考えられないが、摩擦熱で焦げたとしたらかなりの速度だろう。穴の角度、それにリコの体を貫いて石畳を穿つ威力。当時の風向きはわからないが、その辺りから撃つ場所はある程度推測できる。
恐らく今はいないだろう。目測だが、五百歩近く離れた屋根の上。
米粒のように見えるその台の上を僕は凝視する。それでも、犯人は当然見えないが。
「よ。よかったな」
そんな僕に気さくに話しかけてきた男。
僕が振り返るよりも先に、モスクが眉を顰めて一歩踏み出す。
「……あんたなぁ……」
僕がその姿を見れば、先ほど僕をリコから引き剥がすために僕の荷物を奪い去った男だった。
その顔は覚えている。鮮明に。
一応喜びを分かち合うために僕らに声をかけたのだろう。だがモスクの剣幕に一瞬戸惑った男は、一歩たじろぎ唇を尖らせる。
「あん中の薬がありゃな! 何の問題もなく助かってんだぞ!? それをお前、馬鹿が」
「……あん? なんだよ。治したのは治療師様だろうが」
「その前見てなかったのかよ! 血止めたのも傷塞いだのもこいつ……」
ヒートアップしつつあるモスクの肩を掴み、動きを止める。
不満げに僕を見るが、それでもしぶしぶ、といった感じで地面を蹴った。
僕が一歩前に出ると、男がまた笑顔を作る。
「こ、今回は助かってよかったが、今後は治療師様の真似事なんてやめとけよ? それだけ言いに来たんだ」
「……本当に、助かってよかったですね」
男の言葉には返答せず、笑顔を作って僕はそう繰り返す。一瞬不可思議な顔をしたが、それでも何かに納得したようで男は軽く頷いた。
「そりゃな、様子見りゃわかるよ。仲が良いんだろ? あの倒れてた奴と」
「ええ。本当に、生きててよかったです」
へらりと笑う男の襟を片手で掴んで、両足を刈り取り地面に押し倒す。
ざわ、と周囲の雰囲気がまた変わったのがわかった。
「……っぅぉ!?」
背中を打ち付けて男が呻く。だが、気にしてなどいられるものか。
「てめ、何しやが……!!」
「……本当に、生きててよかったです」
文句の言葉を発しそうになった男だったが、馬乗りになり、その右目に矢の尖端を突きつけると言葉が止まった。息が詰まったように呼吸まで止めながら。
「もしも死んでいたら」
こちらは無意識に襟が締まっていく。一応呼吸を止めないように意識して緩めながら、それでも僕の矢を持つ手が震えていた。
「貴方のせいで死んでいたら、僕はここで我慢できませんでしたから」
声が震えているのが自分でもわかる。
そして、止めてはいるがそれでもこのまま矢で頭を貫いてしまいそうだと予感した。
危ない。懸命に努力しなければ止められない。止めるのも、そして矢を押し当てようとしているのも僕なのに。
呼吸を忘れたように苦しくなってくる。
……いや、これは実際に息を止めているのだ。意識しなければ呼吸すら出来ないほど、それほどまでに集中しなければいけないほど僕の腕が僕の言うことを聞かない。
それも違うか。僕の腕は、僕のやりたいことをしているのだ。
空気が止まり、そして今度は職人たちは僕を止めない。
僕が組み伏せた男の目が潤んでくる。その頃になってようやく、僕の肩に手がかかった。
「やめとけって、カラス」
「ええ」
ここから先をやる気はない。だが、そう思われたくはなかった。そう侮られるのは我慢できない。
立ち上がり、拘束を解いてもまだ立ち上がれない男を一瞥して、僕はそこから遠ざかるように背を向ける。
「……この人を殺して、罪に問われたくない」
「……な、なんだよ、こいつら……」
呟く男の声が、ざわめきの中で下から聞こえてくる。その不愉快な顔を見ないように、僕は周囲を見渡した。
皆、視線が合いそうになると僕たちから目をそらす。
当然の反応。そうは思いながらもそれにも少し腹が立った。
誰も彼も、僕とモスクを気にしながらも一歩下がる。
先ほど僕が少しばかり抗議をした男は立ち上がり、その中に消えていく。
遠巻きに僕らを見ているのに、屈強な男たちは僕らを気にしないフリをしている。
結果的に出来上がった空間で、僕もモスクも孤立したように感じた。
握ったままだった矢を見て、僕は呟く。
「何故、リコさんが撃たれたんでしょうか」
その答えはほとんど予想が出来ている。けれども、そう認めたくはなかった。
モスクもため息をつき、矢を眺めるように見た。
「わかんね。でも、あの人は恨まれるような人じゃないだろ」
「……ですよね」
そう、リコ個人に問題はない。あるわけがない。いや、実際には知らないけれど、今回は多分。
先ほどグスタフさんからリコの危機を聞いてから、僕の心に湧いていた予想。それを、モスクの姿を見て確信した。
「……?」
「本当、リコさんのせいじゃない」
モスクの姿を眺めて自嘲する。そう、ほぼ同じなのだ。
眼鏡。黒髪。同年代で、今日は黒い衣装ということ。
確証はない。だが、昨今の僕の事情を鑑みれば、間違いはないだろう。
矢は明らかに人を殺すためのもの。
そして、毒は塗られていないようだが、長距離用に調整されたこの矢はリコを狙うのであれば過剰なものだ。
失礼な話ではあるが、ある程度熟練していればリコに気づかれずにもっと近くから矢を放つことは出来る。
焦げと誂えから、この矢はかなりの遠間から放たれた。
そして昼食中のリコの近くにいたのは、遠目に見て特徴だけ抜き出せば僕と同じ装いのモスク。
口に出したくないは通用しない。
もう誤魔化せない。認めよう。どれほど苦しくても。
「僕のせいですね。多分、モスクさんと僕を見間違えて」
「……そっか」
モスクの声が沈むが、モスクを責めたわけではない。
モスクには何の責任もない。そこは強調しておかなければ。
握りしめた矢が、折れそうなほど軋む。あとで戻しておかなければいけないのに。
「僕の、せいです」
僕が、この街にいたから。
あのときレイトンの言葉に軽々しく応じてしまったから。
人が死ぬとレイトンは言った。それが僕だけのことだと安易に考えてしまった。
許せない。撃った奴も。依頼した奴も。そして、僕も。
駆け込んでくる足音がする。またまばらになりつつある職人たちを割りながら。
歩幅から、年の頃は僕よりも少し上くらい。ここに近づいてくる人間というだけで大体誰だかわかるけれど。
「カラ……ス、……モ……スク……!」
僕らの前まできたハイロが、息を整えながら僕らの名前を呼ぶ。僕らを確かめているのではなく、この場にいない者を確かめているのだろうが。
僕らしかこの場にいないのを確認し、それからハイロは目を少し潤ませながら苦々しく唇を歪める。
「リコが……、リコが撃たれたって……!」
「あっちに寝てるっす」
モスクが治療師のほうを指さす。リコはまだ目を覚ましていなかった。
僕が補足するように現状を口にする。
「撃たれましたが、現在怪我は治ってます。今はまだ意識は戻っていませんが」
「治ってる? ……生きてるんだな!?」
「生きてます」
ほっとようやく整えられた息を吐いて、ハイロがリコの元へ一歩踏み出そうとする。
だがまだ治療師が何事かをしているのを見て取ったのだろう。躊躇するように足を止めた。
「……何が、あったんだ?」
「僕を狙って某かが放った矢が、僕を逸れてリコさんに当たりました」
「お前……!」
ハイロが怒りの形相で僕に向かう。僕はどこか無感情にその顔を見返す。手の先が冷たくなった。
胸ぐらを捕まれてもなお、抵抗する気が起きなかった。そうだ、怒るべきだ。
「どうして、お前がついてれば……!?」
「…………」
「何とか言えよ! おい!!」
「ハイロさん……それは……」
モスクが止めようとするが、それには及ばない。モスクの言葉も耳に入らないハイロの両手首を僕は掴んだ。
言葉を出そうとしても、声が震えていた。
「……本当に……そう……。僕が付いていればよかったんです。僕が付いていれば……」
何故、あの後昼食に誘わなかったのだろう。何故、もっと目立つ格好で出歩かなかったのだろう。
後悔に握りしめたハイロの手首が悲鳴を上げる。
ギシ、という感触を感じた僕は、ようやく手を離した。一応罅を治療しながら。
「……すみません。八つ当たりです」
声が張れない。俯いたまま、ハイロの顔が見られなかった。
モスクに矢を渡し、踵を返すと、職人たちの足が分かれていく。僕のために道を開けた、という訳でもないだろうが。
「リコさんのお見舞いには、あとでいきますので……」
「……どこ、いくんだよ」
ハイロが小さく言葉を吐く。意味からすればおかしいのに、懇願するような声音だった。
「僕の不始末を、始末しに」
歩き出しても、風景が見えない。
視界全体に霞がかかったように、人の顔が見えなかった。職人たちがその奥で少しだけざわめいた気がする。
よろよろと歩き出して、それでも足は止められない。
止めるわけにはいかない。これは僕のせいだ。
握りしめた手の感触が不快だ。
血に塗れて、がさがさと音を立てる。
今までも両手を血に染めることは何度もあった。獣の解体に、人の治療に、戦いに。
それでも、こんな感触はなかった気がする。自分の血と成分的にはほとんど変わらないはずなのに。
友人の血。それに触るのがこんなに不快だったとは。初めて知った。知りたくもなかった。
この前、レイトンに聞いた話を思い出す。
昼に飛ぶ烏は石に打たれた。昼に飛んだために、目立ってしまったがために。
僕も同じように、石に打たれたのだろう。石に打たれたはずだったのだろう。
けれども、その石は今、畑で戯れていた小鳥を殺しかけた。
誰のせいだろう。
森から出てきた烏のせいか。そうだ、そうかもしれない。烏が森を出なければ、人間たちも石を投げなかった。小鳥たちは畑で悠々と過ごせていた。
小鳥は街の中で悠々と、皆と仲良く暮らしていたのに。
それが、烏のせいで、石に打たれた。不慮の事故ともいえない。悪意ある石が、小鳥に向かってしまった。
僕のせいかもしれない。いいや、僕のせいだ。
僕が強情を張り、ここに留まったから。僕の住処の森は、ここではなかったのに。
でも。
それでも、森から出てきた烏からの意見として言わせてもらえば。
人間たちが自分たちの理由で石を投げるのであれば。
石を投げた人間を、僕は許せない。
人混みを脱し、みんなの輪から離れる。
そこでようやく、視界が晴れた気がする。