命の危機
「期限が切れねえからな。俺たちに巻き込まれたってこともあるし、力にゃなってやってもいいが」
「なるべくで結構です。期限を切っても」
「さて、そうすると……」
石ころ屋に来た僕は、昨今の煩わしい事情を相談する。まあ、相談と言ってもほとんどグスタフさんは事情を承知していたが。
机を指で二度叩き、グスタフさんは水筒から水を一口含む。喉の動きが鈍かった。
「お前はどうしたい? どこを叩く?」
「出来る限り穏便に、とは思いますが……」
グスタフさんの問いに、僕は言い淀む。叩く、というのは僕への攻撃をやめさせるということ。どこを、というのはその対象だ。
暗殺を止める。その方法は大きく分けて二つある。他にも色々とある気もするが、それでも大きなものは二つだ。
依頼主を殺す。もしくは依頼された暗殺者を殺す、もしくは戦闘不能にする。
依頼主を、というのは簡単だが、僕が同じことをするというのは少しだけ気が引ける。相手に向けて暗殺者を放つ。僕も僕を狙う誰かと同じになるわけだ。
しかし、依頼された誰かを、と言っても状況は変わらないだろう。僕が始末するか、グスタフさんの下の誰かがやるかの違いだ。僕と違い、確実に殺害するのだろうが。
それに、依頼主を何とかしなければまた次がくるかもしれない。少なくとも、今まで来た分では依頼主は皆別人だったのでそれも杞憂かもしれないけれど。
しかしまあ。
「……本当は、誰も依頼なんか出さなくなるのがいいんですけどね」
「それは無理ってもんだな。国属でもなんでもねえお前がこれだけ嫌われちゃな」
「そもそも嫌われているというのが、本当に意味がわからない」
理解を諦めるように僕は息を吐く。理解したくもないけれど。
真偽はともかく、貧民街の出身ということになってるし、だから嫌われているというのはまあわかる。けれど、僕と同じように貧民街出身の者は大勢いる。暗殺依頼を出されるまではしていない者のほうが、圧倒的に多数のはずだ。
なのに、何故僕だけ。
「仕方ねえよ。魔法使いで、そして貧民街出身ってのはそんなもんだ……この国じゃな」
この国、と口にしながら、ふとグスタフさんは顔を横に向ける。その視線の先は、壁よりもネルグの森よりも遠い場所を指しているのだろう。
「ムジカルじゃ、こんなことはなかった。違うか?」
「……ええ。魔法使いにはおおむね好意的でした。もっとも、僕が戦場に出ていないと知るとほとんどの人が興味を失ってましたが」
ムジカルでは、出自が重要視されることはほとんどなかった。僕が貧民街出身ということは誰も気にしないどころか知ることもなかったし、たまに何かの話でそれを口にしても一切態度は変わらなかった。
そもそも出身国すら千差万別だったのだ。国の傾向としてのジョーク的な区別はあったが、それでも僕に限らず国だけで激しい反応をされることはなかったと思う。
だが、魔法使いということはそれなりに気にされることだった。
それを知った者は次に、どの戦場に参加したのか、今までの戦果はどれくらいか、とそんなことを尋ねてくる。そして僕には経験もないと知ると、興味を失って離れていくのだ。それでも『次は一緒に』と笑って離れていった。
「……この国じゃ、魔法使いの数は少ねえからな」
「そのせいでしょうか」
ムジカルでは数百人はいるとされる魔法使い。この国では、僕を含めて五十人と少しだったか。その人数は変動しているのだろうが、今でもほとんど変わっていないはずだ。
大体、五倍か六倍くらいだった気がする。
「そのせいでもあるし、そこから生まれる差別感情で結果的に数が少なくなるってこともある。負の連鎖だな。感情的に無理なんだろうさ」
「そんなに怖いですかね?」
「怖いだろ」
グスタフさんもため息をついて水を飲む。グスタフさんが、『魔法使いは怖い』などとは思っていないだろう。あくまで一般論だ……と思う。
「どんなに小さな魔法使いでも、……それこそ生まれたばっかの魔法使いでも、大の大人を殺せるだけの力がある。そんな力を持ちながら、生まれたばっかは躊躇もねえんだ。単なる寝返りで殺されちゃたまんねえよ」
そう。魔法使いは危険だ。それも、生まれたばかりの赤子ほど。
無秩序に、躊躇なく本能のままに魔法を使う。さすがに単純なことしか出来ない者が多数なようだが、火を放ち焼く、辺り一面を雪景色に変える、その程度の無邪気さを簡単に発揮してしまう。
そしてその無邪気さを発揮する相手は近くにいる誰かだ。つまり、大抵は両親がまず被害に遭う。
だから、多くの魔法使いは殺される。
本当は一番最初に誕生を喜んでくれるはずの、両親に。
「ムジカルみたいに、一度全員集めればいいと思うんですけどね」
「稚児組か」
「ええ。兵学校まで含めた教育機関は、この国のお手本にもなると思うんですが」
エッセンでは今はない。けれど、教育機関がムジカルにはあった。
それも少し驚いた。
エッセンではいわゆる『学校』はない。教養の教育はあるが、それは貴族や大商人が家庭教師などを招いての個人授業に限られている。
なのにムジカルにはあった。
魔法使いが生まれたことを国に届け出ると、王都近くの一都市に魔法使いは集められる。希望すれば両親と生まれた子の兄弟姉妹まで含めて移住できたと思う。
そこで魔法使いは、十歳だったか十二歳だったか、一定の年齢になるまで基礎教育まで含めた養育を受けることになるのだ。
それが稚児組と呼ばれ、そしてムジカルで魔法使いの子供が死なない理由だった。
更に、別の話にもなるが、学校があった。
それが兵学校。兵学とも短縮されていたか。
もちろん費用はかかるし、給付を受けている国民でもおいそれと出せるような額ではなかったが、少し頑張れば手が届くようになる程度の金額で入ることが出来たはずだ。
年齢も性別も関係なく、三年間の教養と軍事教育を受け、そして卒業することが出来れば軍での地位がある程度約束される。
稚児組を卒業した魔法使いも、半数ほどが兵学校にも行くとどこかで聞いた気がする。
もちろん、お国柄というものがある。
貴族もなにもおらず、そして年中戦い続けている国だからこそ必要な機関なのだろう。彼らは多く生まれて多く死ぬ。その戦いの技術をある程度蓄積し、世代をまたいで保つために必要なのだ。
騎士団の上層部の多くを知識が継承される貴族が占めており、外国との戦いがほとんどないこの国では必要ないかもしれない。
それでも、それがあれば悲劇は減る。
「もしも同じ人口で同じ比率だとしたら、生まれた魔法使いの五人に四人は死んでますし」
もちろん、生まれてきた魔法使いがそのまま魔法使いになるわけでもない。残念ながら魔法が使えなくなり、魔術師と呼称を変える者も大勢いる。
それにムジカルでは戦死者も多いし、魔法使い自体が寿命が不規則な分、一気に死ぬこともある。
僕は違ったが、両親が魔法使いだったり、闘気使いだったりで根気強く温かく育ててくれる家庭もあるだろう。
そこまで考えてしまえば、単純な計算は出来ないが。
「もったいねえ話ではあるがな」
「……本当に。そして、面倒な話ですね」
生まれた瞬間に、殺されるような理由が揃っている。
魔法というのは便利だし、そして魔法自体が悪いわけでもないが。
しかしここまで聞いても、僕が狙われなければいけない理由はない。嫌うなら嫌えばいい。だが、もう乳幼児でもない僕が無節操に人を脅かすこともないだろう。憎むまではおかしい。
それが何故かもわかってはいるつもりだが。
僕の不満げな顔が目に付いたのだろう。グスタフさんが鼻で笑う。
「……わかってんだろう、お前の場合は、貧民街出身ってとこも重要だ。貧民街出身の奴ぁ下に見られてるからな。金を稼げば妬まれる」
「自分も頑張って働けばいいのに」
そもそも、僕の暗殺依頼を出している者たちも裕福とはいえないが困窮しているわけでもなかった。妬む必要など一切ないはずなのに。
「それとこれとは関係ねえ。自分なんざ関係ねえ。貧民街の奴が金を稼いで名が売れて、ってのが気にくわねえんだよ」
「気にくわないからって殺しますか」
僕は笑って冗談交じりに返す。その言葉に、グスタフさんも笑みを強めた。
「もちろん、何かしらの理由をつけてるんだろうさ。貧民街の出じゃねえ街の奴らはお綺麗だからな。本当は嫉妬や八つ当たりでも、何かしらの正当な理由を無理矢理作り出してお前を殺しに来てんだよ」
腕を頭の後ろで組み、のけぞりながらグスタフさんは椅子をキイと鳴らす。
「自分より頭や顔が悪い奴を人間は人間扱いしねえ。だから、貧民街の住人は人間じゃねえんだ」
「失礼な話です」
少なくとも、生物学的には何も違わないのに。そう思えるのは、僕が貧民街の住民だったからだろうか。それは違うと思いたいけれど。
「そんな貧民街の住人が、魔法なんて自分じゃ手の届かないもんを持っている」
グスタフさんが、自分の右手の平を見ながら手を開閉させる。数回繰り返して、動きが鈍くなったのは疲れからだと思うが……。
「人は、自分がなれねえもんに嫉妬する。闘気使いは、鍛えりゃ誰にでもなれる可能性があった。だから憧れんだ。……だが、魔法使いはそう生まれてくるもんだ。生まれついて自分と違うもんを持った奴らを、人間は羨ましくて仕方ねえ」
「まるで僕たちが人間ではないみたいな言い方ですけど」
グスタフさんの言葉に、スヴェンとの問答を思い出す。スヴェンは、魔法使いとそれ以外とで区別していたか。
彼は化け物と呼ばれて、それを喜んでいるのだろうか。
僕が口を挟むと、グスタフさんは困ったように眉を寄せた。
「違えよ。お前らだって人間だ。頭がいい人間や、顔が良い人間と同じくな。お前らは、魔法が使える人間ってだけだ。少なくとも俺は、そう思う」
思いついたかのようにグスタフさんは体を起こし、横の引き出しを探る。
「だが、そんな貧民街の住人が、魔法なんて自分じゃ手の届かないもんを持っているんだ。だからお前は妬まれて、その嫉妬を隠すために奴らは嫌ってるフリをしてる。……そこまで、わかってんだろ?」
「…………」
グスタフさんの演説が続く、と思っていたところで問いかけられ、僕は息を呑む。
「怖いからってのもあるだろう。本当に嫌う何かがあんのかもしんねえ。だが俺は、それが一番大きいと思うがな」
「妬まれないようにすれば、こんな苦労もなくなりますかね」
「だろうな、だが無理だろうな。お前の存在自体が要素の固まりだ」
引き出しから出した文庫本程度の大きさの小さい羊皮紙に、横の壺から引き抜いた羽ペンで記号のような暗号を書いていく。全く読めないが、文章というよりは符丁を並べている感じだろうか。
「……今後百日間、暗殺者は排除してやる」
「充分です」
静かに口に出された言葉に、僕は頷く。断る理由はない。
「ただし、こりゃ、うちの傘下の情報屋を通して出された依頼だけだ。漏れもあるだろうし、その辺りは自分で対処しろ」
「減るだけでもありがたいですね」
「油断してやられるなんてないようにな。数は減る、が、なくなりはしねえ」
警戒を絶やすな、ということだろう。まあ、その辺も頑張るとしようか。
「百日もありゃ、お前の存在感も薄れていくだろう。その後は知らねえ。……それでいいか?」
グスタフさんは、返事を聞く前に羊皮紙を丸めて指ほどの大きさの筒に詰めていく。
これは答えを確信している動作だ。従うのは気にくわないし、グスタフさん以外だったら適当に違うことを言うんだけど。
「ええ。よろしくお願いします」
それでも、充分だ。
「……レイトンからも勧められたと思うが、この街から離れるのが一番だと思うがな」
「それはお断りしておきました」
それを断ったからここにいる。手助けはいらないと宣言したにも関わらずここに来たのは少しだけ恥ずかしいけれど。
僕の顔を見て、短くグスタフさんは笑った。
「隠れ家なら用意してやる。いつでも言え」
「隠れ家なんてそんな」
僕は首を横に振る。
「僕には立派な家がありますからね。逃げも隠れもする必要のない家が、三番街に」
税金を納めて、所有権を保っている家がある。僕の正当な住処。
人の手によりそこから出ていかなくてはいけなくなるのは気分が悪い。
「……そうかい」
僕が笑みを強めると、グスタフさんは皺を伸ばすように頬を掻いた。
話もまとまり、では、と僕は立ち去ろうとする。だが、少しだけ嫌な事態が起こる。
「じゃ、今か……ぁ……」
痰が絡んだような声が響く。
「……ぅっ……」
それから軽い咳。目の前のグスタフさんから。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、水が、気道に入った……だけだ……」
グスタフさんは僕の問いに軽く返す。それでも収まる気配はなく、その顔が苦悶に歪む。
そして、音も違う感じだ。この乾いた咳は、誤嚥のものではない気がする。
「薬……は心配ないと思いますが……」
僕が荷物から薬を出そうとするが、グスタフさんはそれを手で制する。僕も、その手を見る間もなく手を止めた。
僕が作れるくらいの薬なら、グスタフさんはごまんと持っているだろう。
グスタフさんは懐から包みを取り出し、それを開く。指先ほどの透き通ったガラス板のようなものが重なっているのを剥がし、それを舌の下に挟んだ。
「……それは……」
「……お前も知ってんだろ。特に変わったもんじゃねえよ」
深呼吸をして呼吸を整え、ようやく普段の周期に戻ったように見えた。たしかにその薬は、何も変わったものではないけれど。
「肺の炎症ですね」
「そうだ。エウリューケにも相談してっから気にすんな」
もう一つ。今度は黒色の丸薬を取り出して、いつもの水筒から水を含む。匂いからして、先ほどの消炎剤の副作用を打ち消す血管拡張剤か。
肺炎なのは本当らしい。僕の知識が間違っていなければ。
僕は頭を掻く。痒くもないのに。
「……もしも何かの病気のため、必要なものがあれば、いつでも言ってください。ネルグの奥にある素材でも何でも」
「ありがてえが、必要ねえな」
吐き捨てるように、グスタフさんは僕の申し出を断る。
多分嘘はない。本当に必要ないのだろう。自分で手に入れているか、必要ないのか。……それとも、無駄なのかはわからないが。
大きく息を吸って吐いて、そしてグスタフさんは水筒をまた開けた。
「心配すんな。まだ俺には……」
言いかけて、グスタフさんは背後を向く。
今度は音がした。鳥の羽音。それに、ガタンという音。巣箱に入るような鳥の立てる音に、立ち上がり、奥へと入っていった。
しんと一瞬静まりかえる店内。明かり取りの窓から差し込む光が、店主がいなくなった途端に明るさを増した気がする。
先ほどの会話のせいだろう。その誰もいない空間がずっと続きそうな気がして、そのグスタフさんが消えた店の奥の暗い場所に思わず目をこらした。
やがて問題なく足音がこちらへ近づいてきて、僕は思わず息を吐いた。
だが、その現れたグスタフさんの表情は芳しくない。歩きながらも読んでいる小さな紙を睨みながら、小さく舌打ちをすると、カウンターの前でピタリと足を止めた。
「…………」
ふと何かを悩んだように唇を指でいじると、それから顔を上げて僕の方を向く。
「……何か?」
その内容が、僕に関係しているのだろうか。なんとなく覚えたその予感に尋ねると、言いづらそうにグスタフさんは乾いた唇を開いた。
「リコが、弓で撃たれた」
「……え?」
だがグスタフさんの口から出てきた言葉を一瞬理解できず、僕は聞き返す。
聞き返しながらも反芻し、何とか理解しようと試みて、グスタフさんが静かに首を振るのを見てようやく飲み込めた気がする。
「リコさんが……」
「今、治療師が呼ばれて向かってる。だがお前が行った方が早いだろう。五番街の広場だ。場所は……」
グスタフさんが場所を説明するのを聞きながら、僕の頭の中ではいくつもの疑問が溢れていく。
何故? まったくの想像だが、リコは人に恨まれるようなことはしないと思う。ハイロと違い酒場での喧嘩もせず、痴話喧嘩にも関わらないだろう。店の関係? 商売敵?
いや、そういった彼個人の事情ならばグスタフさんは何も口出しはしないはずだ。そもそも、何故この店に知らせが届いた? それも緊急の報告のようなもので。
「エウリューケがいりゃすぐに運んでやったが、生憎今はいねえ」
何故、そしてどういう状況か。そんな思考が止まらない。どうして、リコが。
「……何してやがる! 早く行け!!」
「……っ!! はい!!」
グスタフさんの一喝に、ようやく僕の足が弾かれるように動く。
石ころ屋を飛び出して、屋根の上を跳ねながら。
少しだけ、脳裏に掠めた嫌な想定。
遠くて臭いもしないはずなのに、血の臭いが鼻に届いた気がした。
五番街の一角には、既に人だかりが出来ていた。
もはや足音など気にすることなく飛び跳ねながら、僕はそこを一路目指す。職人たちが集まり、心配そうに見守っている対象は、きっと僕が目指している彼その人だろう。
近くに着地すると、その足音に数人が振り返る。男性、だが僕を奇異な目で見るようなものではなく純粋に驚いている。
「どいて、ください……!!」
息を整えながらそれを押しのける。屈強な男たちの汗臭さが鼻に届く。
そして、その中に混じる嫌な臭い。先ほど想像し、幻覚として感じた臭気よりも数倍は嫌な臭い。
木箱が並べられたごく小規模な集会所。
そこに寝かされていたのは、僕のよく知っている少年、リコ。
その横に立っているのは、モスクか。
「カラス……! リコさんが……、リコさんが……!!」
「わかってます!!」
落ちていた貝殻を踏み砕き、そこに駆け寄る。
水たまりのように広がっているのは、血溜まりだ。石畳に吸われながらもまだ光を弾くほどの量。
仰向けに寝かされているリコの血色は悪く、そしてその色は日光に当たっていないからではないだろう。今まさに、赤みが抜けているのだ。
だが、光明はあった。
「…………」
息がある。微かだが。
「矢は一発……!? お腹だけですか!?」
「少なくとも、俺が見たのは一本だけだ! そこに刺さってる!」
リコの腹に手を当てて傷を見ながら、モスクの指した先をちらりと確認する。たしかにそこには、石畳に刺さって、短い矢が存在感を示すように屹立していた。
「なら……」
単純な怪我だ。大丈夫、治すことが出来る! 今まで通り、これまでのように。
刺創は下腹部AP方向左斜め上から。
矢の威力が相当なものだったことが逆に功を奏したのか、傷口は少しだけひしゃげているが管のように綺麗だ。筋肉が裂け、そして血管が破けているだけで……。
重要臓器に損傷は……ない……かな? 遠い心臓はもとより、腎動脈まで含めて腎臓には何もない。骨盤腔にも問題はない、膀胱も子宮も卵巣も無事。
……しかし、腸管に損傷がある。小腸、それに腹部大動脈を貫いて傷が走っている。
小腸内に残渣は……。
そこで僕の思考が止まる。
一瞬、自分で何を言っているのかわからなかった。
……子宮……?
!?
思わずリコの顔を見る。だがそこで思い直す。
今まさに死の淵に立たされている顔。今は些細なことは気に出来ない。一刻を争う最中に……!
乱れた思考がまとまり、それに自分の手を見て背筋に寒気が走った。
温かい。手に塗れた血の温度で。
それを堪えながら、傷を治していく。まずは大動脈を閉鎖させて、それから繋ぐ。
残渣に関しては問題ないようなので、単純な傷だ。もう少し時間が遅ければ問題になったかもしれないが。
ただ一応、小腸の傷付近の肉を取り除く。鎮痛し、傷口から痛んだ部分を引き抜きながら再生させていく。これが必要な動作かはわからない、だが矢に毒があるかもしれない。その場合はあとで詳しく見ないと。
声が上がる。うるさい、邪魔をするな。
分厚い血管に、内臓という複雑な部分。
だから、というわけではない。再生が遅い。これはきっと僕の問題だが。
いくつもの部分を同時に縫うように繋げていく。ひとつひとつでは間に合わない。緻密な作業だからでもないだろうが、血の手触りがいつもと違っていた。
ざわ、と群衆の声が聞こえる。
足音が近づく。邪魔をするな。
「おい!」
僕の肩に手が置かれ、そして小さく揺さぶられる。舌打ちをしながら見返せば、職人であろう軽装の男性。僕の視線に怯んだようにわずかに下がったが、それでも何事かを叫ぼうと口を開いた。
「治療師様が来たんだよ!! そこをどけっ!!」
「……るさい」
僕の口が何か言葉を発するのを他人事のように聞きながら、その男の横に目を向ける。深緑の制服。治療師か。
「すんませんが、ここは……」
モスクが間に入ってくれたようなので視線を戻し、魔力の集中を一層強める。再生はしてきた。だが、そうすると今度はまた違う問題がある。
血圧が上がらない。拍動が小さくなり、脈も弱い。失血か。
「おい、ガキ!! どけっつってんだろ!!」
当然輸液も無いので輸血も出来ない。水分をどこかから持ってきて……、いや、しかし赤血球濃度が下がるとそれも悪影響だ。増血剤は荷物にあったか。たしかあったはずだ……。
「そいつを殺す気か!! 治療師様の邪魔だって……!!」
今度は多くの手が僕の腕にかかる。脇から抱えるように手が伸び、僕を強引に後ろに引っ張り上げるように。
「……うるさいっ!!」
それを軽く振り払うと、三人の男性が飛んでいった。地面をこすりながら、群衆に突っ込むように。
そんなことが起きているのを音だけで把握し、そしてほぼ同時に傷口の修復が完了する。
あとは血液を……。
パチン、と音がした。
それと同時に視界が少しだけぶれ、白くなる。
頬に衝撃が走ったことを感じたのはその後だ。
「離れてください!! 錯乱するのはわかりますから、どうか!!」
その声の主は、リコを挟んで目の前にしゃがみ込む治療師の女性。そして衝撃の原因は、その右の掌だろう。
少しずつ、わずかに残っている脊椎の赤色髄と胸髄を刺激しながら、僕はその治療師を見返す。睨んでも、彼女は怯まず僕の目を見返していた。
「落ち着いてください。このままだと、助かるものも助かりません。治療をするために、一度離れて……」
「それじゃ間に合いません」
その言葉を最後まで聞かず、僕は目を戻す。水分を各種細胞から少しずつ血管内に絞り出しながら。
「私に、任せて……!」
流れている血はどれほどか。体重はわからないが、もう既に致死量近いだろう。
増血剤で間に合うだろうか。いざとなれば、手足の血液を一度遮断して、血圧を確保することも考えてみるべきか。ショックパンツ、だっけ。
輸血があれば……。クロスマッチも出来ず衛生管理できない以上この場では出来まい。
もう一度、リコの全身を眺める。薄手のワンピースのような衣服が血に染まり、腹部は元の色すらわからない。
残る問題は失血死。それを防ぐには、……。
とりあえず増血剤を飲ませよう。僕特製の増血剤、それに点穴も交えればいくらか即効性はあるはずだ。
「モスク……」
手を借りようとみれば、モスクも職人たちに取り押さえられていた。ああ、さっきの。
舌打ちをしながら荷物を探る。僕の荷物は……。
「いい加減にしろよ!!」
あるべきはずの場所を手探りしてみても、触れるのは地面だけ。振り返れば、僕の荷物を持っていた男が叫ぶ。何故持っているのか、僕の背嚢を。
「……返してください」
「迷惑かけてんのがわかんねえのかよ! そいつが死んだらどうすんだよ!!」
「死なないためにやってんだよ!!」
思わず出てしまった大きな声。だが、その背嚢を持った男は一歩下がると、群衆を盾にするよう後ろに消えていく。
盾になるように集まった四人の職人は、僕を見て睨んでいた。
「……そいつだって治療できるんだよ……!! やらせてやってくれって!!」
羽交い締めのように抑えられながらモスクが叫ぶ。
「我が名モーリーが神の名において命ず!」
目を離し、少しだけリコから離れた隙に、これ幸いと治療師が祝詞を唱える。それ自体は邪魔する気はない。悪影響は多分無いだろう。
けれど……。
「尽きぬ命の水を尽くさぬよう守りたまえ!!」
その祝詞は僕も知っている。止血作用のある祝詞だ。だが、その効果はかなり小さく、それに静脈血を止める祝詞だ。今まさに地面を濡らしているその鮮紅色の血は止まらないだろう。
「……流れている血は動脈血です。色を見てください」
「……っ?」
奥歯を噛みしめながら僕が呟くように言うと、治療師が首を傾げる。それから地面を見て、今知ったかのように目を見開いた。
「使うんでしたら聖典六章の聖ダグラスの行。手首の切断を癒やしたところです」
「…………」
「それに、もう出血は止めました。今急ぐべきは、血圧を上げて失血死を防ぐこと。使うべきは……」
言いながら、僕は気づく。そうだ。治療師にも一応失血死を防ぐ手立てはあった。
「七章ホルヒトの懺悔、でしたか」
「蒼白の頬を悲しむ行……!!」
その機序はわからない。
だが、たしかに効果はあるはずだ。目の前の治療師が薮でなければ。
機序の知らないものに託すのは本当に嫌だ。全て僕の手でやりたい。
だが、社会が許さない。今僕を睨んでいる数々の視線は、きっとそれを表す指標だろう。
「……それと、確実に水分が足りませんので水を。増血剤を持っています。それを、どうか、飲ませてください」
「……わかりました」
治療師が、懇願するように視線を僕の背嚢を奪い去った男に向ける。それだけで、人だかりは割れ、僕の手に背嚢が投げ渡される。
礼もなくそれを受け取れば、鼻を鳴らして男が下がる。その姿に、僕の奥歯が盛大に鳴った。
殺してやりたい。今まさにリコの命を危機にさらした目の前の男を。
だが、今はリコの命のほうが先決だ。
その顔は覚えた。今は薬のほうを。
半リットルほどの水が入った水筒の中に、紫色の粉を入れて振って溶く。
喉への点穴をしながらそれを嚥下させ、そして治療師が祝詞を唱え終わったころ。
リコの呼吸が安定したことを確認し、僕は安堵の息を吐いた。