信頼できる盾
今までどれだけ守られてきたのかと、僕はまたため息をついた。
「ぅえっ……!」
路地裏に鈍い音と声が響く。もちろん僕が発したものではなく、僕の靴の足の裏と壁に挟まれた男の頭蓋骨が発した音だ。
縫合が外れた。もう一息、足に力を込めれば脳まで潰れるが、それはやめておく。
ずるりと崩れ落ちた男はまだかろうじて息がある。誰かが助けを呼べば助かるだろう。だが僕はもちろん呼ぶ気はない。僕の命を取りに来た。ならば、そのまま死に至っても構わないだろう。
命までは取らない。
もしも運良く彼が助かれば、もう僕を狙う気もなくなってくれていると思いたい。
彼も、そして横に倒れているもう一人も、曲がりなりにも人を狙う依頼を受けた者だ。今後のために、僕にやられたと声高く宣伝することは出来ないだろう。
誰が、抹殺対象を殺せずに、返り討ちになったことを宣伝するだろう。もしもしたらただの馬鹿だ。
ここ十日で、襲撃はもう四回目だ。
いつも大体二人組。一度三人組のときがあったか。それでも誰も彼も小粒で、到底僕を殺せるようには見えなかった。
腕前は拙く、ただ村の力自慢程度の腕っ節の弱さ。雇うのにも、金貨一枚かかっていないのではないだろうか。少なくともその価値はない。
今回のも二人組。
どちらも棘付きの手甲を装備した拳士で、多分黒々流の派生だろう武術家だった。
武器を持たないのは、己の拳を武器にしているということでいいとは思うが、しかしその手際がお粗末だ。
僕が一人になったところに襲撃をかける。ならば逃走経路くらい潰しておくべきだし、人目につかない努力も肝要だ。
なのに、どれもなかった。襲撃は路地に入ってすぐの場所。罠も仕掛けておらず、逃げようと思えば簡単に逃げられた。
見上げれば空が見える。跳んで逃げることも出来たし、この路地はいくつも出口がある。すれ違うことがかろうじて出来る程度の幅なので、塞ぐのも簡単なのに。
十日前、宣言してすぐのことなのでちょっと気まずいが、それでも石ころ屋に始末を頼もうと考えてしまう。
少し野外に出るだけで人の目がある。わずらわしい。依頼主は判然とせず、この男たちの口を割らそうと少しだけ努力してみたがそれでも出てきたのは知らない名前だ。
今回は強盗とも関係がなかった。三番街に住むただの一般人。ただ、有力者ではあるようだ。権力はないが、その雰囲気から町人の多くが逆らえない。……大きなガキ大将といえばわかりやすいだろうか。僕も襲ってきた男たちに聞いただけだから想像だけど。
いくつか嫌がらせも増えた。
僕が不在の間に、家に投石のようなものもあった。ペンキのようなもので白く塗られた壁が少しだけ傷ついていたのが多分それだろう。下に転がっていたピンポン球サイズの石に付着していた塗料を見れば、多分。
路地を出れば、まだ真っ昼間。
往来の声も大きくなり、世界が明るくなる。それだけで人の世界に入った気がする。
後ろを見れば、影の中の暗がりの世界。そこで声なく倒れている二人を誰も気にしない。
いや。
気にしないのではなく気付かないのだ。誰の目も届かない暗がり。そこを彼らが選んだのだけれど。
昼に飛ぶ烏。
グスタフさんに昔聞いて、そしてこの前レイトンからもその話の名が出た。
寓話は寓話だ。けれど、思う。
きっと本当は、あの話を聞いた者はグスタフさんと同じ解釈をする。
そしてそのために作られた話なのだと思う。誰もが身分相応で生きるべきで、身の丈に合わないことをしてはいけない。そう子供たちを戒めるための話。
けれども。
昼に飛ぶ烏は、森の中で死んでも誰も気づかなかったのだろう。
彼が、昼の世界に出たから話が生まれたのだ。
森の中でひっそりと死んだところで、誰も気づかない。誰もその死を顧みなかっただろう。
今まさにあの路地でひっそりと倒れている二人のように。
明るい世界にいれば、誰かが助けを呼んでくれたかもしれないのに。その手をさしのべてくれたかもしれないのに。
屋台の、蜜柑のような果実をそのまま使ったジュースを買いながら、人混みを見る。
歩いているこの人たちが、皆自分に適した世界に生きているとどうして言えよう。
屋台で、先ほど明るい顔で僕に接してくれたお姉さんも、内心は何か無理をしているのかもしれない。
すれ違った人たちが何を考えているのか僕にはわからない。
彼らの生きるべき世界がどこにあるのか。彼らは本当に自分の世界に生きているのか。
今まさに命の危機に直面し続けている僕が言うのもなんだが、本当は、皆昼の世界でもなんとかやっていってる烏なのかもしれない。
昼に飛ぶ烏。その中で最も悪いのは、石を投げた人間ではないだろうか。
責任転嫁。それか現実逃避のような考えといえるかもしれない。
それでも、そんな考えが頭に浮かんで、何故か離れなかった。
空想に塗れた思考はここまで。
そう決めて、僕はもう一歩強く踏み出す。石畳が僕の体をなんなく支える。その先で僕を見た人が少し避けた気がする。気のせいだけれど。
今日の予定としては、リコの勤めてる工房に出かけるはずだった。
頼んでいた衣服。まだまだ完成はしていないが、一応の現物を見ての確認と、採寸してサイズを微調整したいらしい。
それが煩わしい騒動が一つ入ってしまったけれど、まあ問題ないだろう。これから向かえばほぼ予定通りだ。
外套を何度か見回し、衣服に血が付いていないかもう一度確認する。
細かい獣の血は跡になって残っているけれど、新鮮な人間の血が飛んでいないだろうか。あまり相手の血が流れないようにしたとはいえ、少しだけ心配だ。臭いを何度も確認しながら僕は五番街へと急いだ。
「待ってたよ」
リコの工房は入り口から直結して作業場になっているようで、引き戸を開ければすぐに大きな机がいくつも並んでいた。そこに布を敷いて皆思い思いに作業していたが、一応目の前にいた人に声をかければリコを呼んできてくれた。私用ではないし断る理由もないのだろう。
出てきたリコはいつもと違い、茶色い革のエプロンのようなものを纏っていた。指先が白くなっているのは石灰だろうか。
まくった袖から見える腕は石灰がついていないだろうにそれ以上に白く、他の人間も似たようなものなので、この工房の人間があまり日に当たっていないことがよくわかった。
「一応今仮留め程度の段階だけど、何か問題があったら教えてほしい」
「問題ないとは思いますけどね」
「それでも、これだけ高価な素材を使うとね。やっぱり必要だよ」
笑顔で案内するリコに連れられ、工房の奥へと足を踏み入れる。リコのスペースはだいぶ奥まったところにあり、そのすぐ奥では糸紡ぎと機織りが行われていた。規則的な音が響き続ける。機械でもないのに、正確にその手際はリズムを刻んでいた。
大きな机一つと、そこに連結した小さな机。
小さな机には裁縫道具や色々と工具が詰まっているらしく、半開きの引き出しから針や糸の端が覗いていた。
そしてその手前に置かれたマネキンのようなもの。
僕と同じ……よりも少し大きめのマネキンに着せられていたのは、今僕が着ている外套や履いている靴と同じようなものだった。
「これ、ですか……」
「うん。どうかな。色味とかは今でも少しなら変えられるよ」
胸を張り、リコが紹介する。頬を拭った拍子に、手に付いていたであろう炭の線がわずかに頬に伸びた。
僕はそのマネキンに歩み寄り、外套を手で撫でる。
そして、それだけで僕の最近の内心の言葉が、とてもとても申し訳なくなった。
「へえ……」
外套には竜の鱗を使っていると聞いた。その鱗の実物は見たことあるがもっと大きかったので、どうやってかは知らないが加工しているのだろう。それも、ごく小さな鱗粉のようになるまで。
撫でてもスケイルメイルのような引っかかりは一切ない。折り曲げてみてもその曲がりかたは普通の布で、固い素材が使われているようには見えない。
特筆すべきはその手触り。まるでビロードでも撫でているかのような柔らかな手触りで、今までの染めた綿とは一切違う。そして色味も。
「綺麗ですね」
「でしょ? この加工は本当は魚鱗でやるんだけど、今回は張り切って竜の鱗でやってみたんだ! 前見た感じでも期待できたんだけど、実際にやってみたら予想以上だったよ! この技術を確立できたらこの工房の名物になるかもしれないんだ。竜の鱗はそもそも頑丈で、工具ではまったく歯が立たないから同じように加工は出来ないと思われていたんだけど、そこは竜の歯を使った専用の工具を考案して、作成を迫ってみたら工房長も乗り気でね。魚鱗の加工もしやすいから無駄にはならなかったし、ちょっと高くても摩耗しないから後々を考えれば」
「その辺はよくわかりませんが」
一言口にすれば何十倍にもなって返ってくるリコの返答を捌きつつ、僕は服を眺める。
綺麗な色だ。光を弾く鱗の作用だろう。黒なのに、揺らすと光の乱反射でなんとなく違う色が見える。紫や緑、赤や青、そんなものがちらちらと。
それも、先ほど実感したように遠目には黒一色になってしまってわからない。遠目に見れば、今僕が着ている染料で染めた黒よりも黒い色。
それに、これは確かめるまでもないだろうが……。
「強度はどんなもんでしょう?」
「調整が難しかったよ。細かければただの粉になっちゃうし、大きければ君の要望が……強度? あ、ああ、それはね……」
話を遮るようで申し訳ないが、尋ねるとリコは嫌な顔一つせずに応えてくれる。引き出しを探り、そして取り出したのは……彫刻刀?
「……えい!!」
V字型の彫刻刀を、リコが躊躇せずに外套に突き入れる。
呆気にとられて僕がそれを見ていると、リコは笑顔で僕を見た。
「当然! 俺程度の力じゃなんともならないし、一般人じゃ剣でも傷一つ付かないよ!」
彫刻刀の先が丸まっている。……ただの試験に、そんな無駄なことをしなくても……。
「中も無事! 織り方のおかげで、強い衝撃を加えると、へこまないで板みたいになるからね、さすがに殴られたみたいな衝撃は少しあると思うけど……」
外套を捲ると、マネキンはカッターシャツを着ていた。一応このシャツも僕への商品だろう。そのシャツのボタンを外し、木製のマネキンを露出させても、へこみ一つ付いていなかった。
「いいと思います。色も強度も」
「そう? よかった」
ただの怠惰なお洒落だった外套が、防具にもなった。防刃効果もあるし、竜の鱗ということは耐熱効果もあるだろう。その分熱はこもるだろうが、その時は脱げば問題ない。
外套はいい。
もう一つ、僕には重要なものがある。
「……靴は……」
マネキンの下にしゃがみ、僕は用意されていた靴を見る。
こちらはもうほとんど完成だろう。合わせるといっても、紐を使ってこちらで微調整できるし。
「こっちも更に頑丈だよ! あのときと違って、素材が潤沢だし、そもそも新しく作ったからね」
眺めてみれば、デザインはあまり変わっていない。そもそもこの世界の革靴は、あまりデザインの幅がない。
それでも細部は全然違う。お洒落なのか僕にはよくわからないけれど。
「君が今はいてる靴はあのとき僕が作り直したやつでしょ? だから外見は同じようにと意識してみたんだけど、どうかな?」
「文句ないですね」
あるわけがない。こちらが頼み、そして想像以上のものを作ってくれた。
僕の言葉にリコは笑みを強めた。
「機能的には前と変わらない。耐水に対摩耗、風通しもよくしておいたし、軽く丈夫な作り。ただ、あのときと違ってやっぱり素材がいくらでも使えるからね! それでも、なんと……!」
そう言って、リコもしゃがみ、そして革靴のつま先と踵を持って……。
引っ張ると、伸びた。二倍まではいかないまでも、それも結構な幅で。
「凄いでしょ! 癖をつけると、ある程度は広がったままに出来るよ! しばらく使わないと元に戻るし、ぎゅっ、と引っ張ると伸びないから耐久面でも変わりない!」
「……これは、どういう……?」
革が伸びる。その時点でそれなりに驚きではあるが、これはどういう意図を持ってだろうか。
「だって、君の靴、前履いてたまんまじゃんか。それ、無理矢理履いてるでしょ?」
「……ええ……?」
唇をとがらし、ジト目で、それでいて得意げにリコは笑う。いたずらに成功したように。
「いくつか糸を切って広げてるけど、そこ一応耐久性を高めるための折り目だからね。長く使ってもらうのは嬉しいけど、壊してもらいたくはなかったなぁ……」
「そうだったんですか。それは申し訳ない」
切って広げたところ、というのは僕が履くために切った場所のことだろう。これ、やっぱり切っちゃいけない場所だったか。
「使わないよりも使ってくれたほうが嬉しいのは確かだからね。まあいいんだけど、今度はその対策を考えてみたんだ。伸びるんだよ」
「大きくなっても履ける、と」
「年齢考えるともうあまり大きくもならないだろうけど、一応ね。伸縮性あるから、包帯か何か巻いて履くと足限定で止血帯代わりにもなるよ」
「……使わないことを祈ります」
「俺も」
フフ、とリコが笑う。
僕もその機能を使うことはないと願う。僕は自分の怪我を治せる以上、それが起きるときは、闘気も魔力も尽きたときだ。
同じようにシャツや下着の説明も受ける。
だがそちらは機能的には目新しいものもなく、ただの手触りや質感のよい服という感じだった。
その後に行われた、採寸がこそばゆかった。
一応納品前の商品を見せてもらったものの、やはり思ったとおり。
全く文句のない出来だった。
さすが、これが王都の貴族からも注文に入る職人の腕なのだろう。デザイン面の他、制作の腕の面でも。既に縫製を終えている箇所を見ても規則的な縫い目が並び、ほつれも一切ない。
「……で、どう? このまま続けちゃっていい……?」
わずかに眉を下げ、自信なさげに僕に尋ねるリコに、僕は強く頷く。
「はい。是非ともお願いします。頼んでよかった」
「……。……そう」
頼んでよかった。
周囲を見渡しても、今まさに布を織り、糸を紡ぎ、服を縫う職人たちは大勢いる。その中には、リコに並ぶ職人も、リコよりも上等な職人もいるのかもしれない。
けれど、リコでよかった。
服は社会性の証明で、体を守る盾。それならば僕は、信頼できるものを身につけたい。
その腕は信頼できる。心の底からそう思う。
まだまだ他の仕事も残っているリコを残し、僕は工房を後にする。
楽しみが出来た。あと五日もすれば、新しい服が着れる。
「さて」
僕は振り返り、また気分を切り替える。友人との会合も終わり、また僕の話に戻らなければならない。
今日はもう来ないと思うが、暗殺者ももう四組目にして煩わしくなった。
少しだけ格好悪いが、お金も貯まったことだし石ころ屋に色々と頼もうか。
そう決めた僕は、五番街から貧民街に向けて足を進めた。