積み上げて
「勝負あり、じゃな」
してやったり、というスティーブンの笑み。それと同時に、ガランと木剣が床で跳ねる音がした。
止められなければ有効打。それは明白で、そしてそれ故に僕の敗北も決定する。
スティーブンも剣を引き、大きく肩を上下させて息をつく。
そして、諸手を挙げてくるりと体を回転させた。
「ふほほ!! 雪辱を果たすことが出来たぞい! 完勝じゃ!!」
沸き立つように体を踊らせてスティーブンが喜びを表現する。
だが、それを見ながら僕は逆に気分が沈んでいく。
意表を突く攻撃に、一垂らしの汗をかいた。だからだろうか。負け惜しみのような言葉が僕の口をついた。
「……剣を手放したら負けじゃありませんでしたか?」
あるいは仕切り直し。以前のバーンとの手合わせでは、同時に折れた際に仕切り直したが。
僕の言葉にスティーブンは振り返り、一瞬きょとんとした後、噴き出すように笑った。
「クリスからそう聞いたのかのう? 間違いというか、そりゃ足りんな。手を離してはいけないのであれば、黒々流の者に不利じゃろ。剣を手放したら、ではない。剣の支配を失ったら、じゃ」
なるほど。
今回スティーブンは、僕の木剣ごと投げ上げた自分の剣をまた掴んで使ったから問題ない。そして、もしそのルールがなければ、常に大量の武器を携えて持ち変える黒々流では、早々に失格となってしまうから、と。
抗議の意を込めてバーンを見る。
実際に疑わしいことがあったわけではないとはいえ、もしもそうであったら、あのとき少しだけ違う展開があったのだけれど。
クリスの嘘か、間違いか。そしてバーンは気づかなかったのかあえて訂正しなかったのか。どれにしろ、もしもそれで僕に勝っていたら卑劣と誹られてもおかしくないことだと思う。
僕の視線を受けて、バーンは少しだけ目を伏せて頭を下げた。
だが、バーンも少しだけ笑顔を含みながらスティーブンを見る。
「しかし、師父。その剣は、カラス殿が使っていたものでは?」
「……?」
おずおずと尋ねるように、それでいてからかうように吐き出された言葉に、スティーブンは一瞬戸惑い、それから右手に携えていた木剣を見てまたバーンに視線を戻した。
「……そうじゃったかの?」
コクン、とバーンが頷く。それと同時に、スティーブンは噴き出した。
「ハハハハ! なんともまあ、うん、失敗は誰にでもあるもんじゃて。ハハ、ハハハハハ!」
つまり、僕と同時に、スティーブンも剣の支配を失っていたと。
……すると、仕切り直しが正しいのだろうけれど。
それでも、誤魔化すように哄笑を続けるスティーブンに僕は何も言えなかった。
「それで、見せたいものとは結局なんですか? 最後の武術でしょうか」
勝敗すらも曖昧に模擬戦を終えた僕らは、また向かい合って座る。先ほどまでと同じ位置関係だが、今度はスティーブンの命で座布団が敷かれている。……先ほど何も敷いていなかったのは、最初から試合する気だったということか。
スティーブンは腕を組み、鷹揚に頷く。
「武術ではない。その正体に察しはついておろうがな」
「仙術が正しいんですかね」
僕の言葉に、また一つスティーブンは頷いた。
「グーゼル殿より指南いただいた、仙術の動きじゃ。もっとも、三年かけて套路一つ覚えるのが精一杯じゃったが」
「それでリドニックに残ったんですか」
僕は感嘆の息を吐く。
既に七十歳を超え、高齢の域に入っているにもかかわらず。そして、三年前は剣術以外はからっきしで、剣を手放せば氷の上を歩くのすら難しい有様だったのに。
それなのに、まだ新しいことに挑戦し、覚え、身につけてくるとは。
「言ったじゃろ。月野流の剣術に、体術である仙術を加えればよいものになりそうじゃと。技術交流がしたいのであれば、まず儂からやらんとな」
スティーブンがしみじみと掌を見つめる。皺だらけの荒れた手だったが、分厚い皮に覆われた掌だった。
それから、拳を握りしめてニヒ、と笑う。
「新鮮な体験じゃったわい。拳の握り方から習わねばならんかったからな!」
何度か空中に手で突きを繰り出すが、その仕草はどことなく猫が戯れている姿を連想させた。
「若い日には水天流もやったが、やはり全く違うもんじゃなぁ……」
「まあ、上達したのであれば何よりです。……それで?」
見せたかったのは仙術。体術から発展した魔術師の魔力操作法だった。
それで、それを見せたからなんだというのだろうか。
「せっかちじゃのう。まあよい。グーゼル殿が、弟子たちに仙術を仕込んでいるのは知っとるじゃろ。紅血隊員とも呼ばれとるが」
「そうですね。全員が仙術を学んでいて……一度手合わせしましたが、武闘派の魔術師のような感じで……」
懐かしい。あのときは、プロンデと一緒に……。
一瞬だけ喉の奥に何かが詰まる。
その後、城から戦場に向かい、そして共に戦い、僕が知らぬ間に殺されていた。
あの頃僕が接した、数少ない『大人』だった気がする。
言葉に詰まった僕の様子を無視して、スティーブンが続きを紡ぐ。
「たまーに、グーゼル殿も休暇中に子供たちに仙術の動きを仕込むことがあるそうなんじゃな。じゃから、『導師』とも呼ばれてると。そして、五十年以上前の話なんじゃが」
「もう年齢についてはいいんですか?」
「う、む」
僕が茶化すように言うと、今度はスティーブンが言葉を詰まらせる。知ってることとはいえ、五十歳を越えていると言っているようなものだが。
まあ、本人が言ったのだろう。ならば別に隠すようなことでもない。昔からの活動だし、二つ名にまでなっているほど知れ渡っているのだから。
僕はふと笑う。ほんの少しだけ沈んだ気分が少しだけ晴れた。
「すみません。続けてください」
「……五十年以上前の話じゃ。相手はどう見ても魔力を使えない普通の子供。魔術師でも闘気使いでもない、十歳に満たない普通の子供だったらしい」
スティーブンが、我が事のように懐かしみ、目を細める。
「そんな子供に、ただの体操として仙術の動きを仕込んだところ、一度だけ不可思議なことが起きた」
「不可思議?」
「魔法が、発現したんじゃよ。目の前にあった人家の屋根の雪が、宙を突いた拳から発せられた衝撃で滑り落ちたらしい」
腕を坂のようにし、スティーブンがその様子を再現する。
魔法……? 俄には信じがたい話だが。
「無論、一度だけで、それも気のせいかとも思うほど小さな雪崩だったそうじゃ。日の光と屋内の火で溶けただけと思うくらいの」
「しかし、気のせいじゃなかったと?」
「グーゼル殿はそう見ておるのう。実際には、その真偽はわからん。その子供は革命前に死んでおったし、死ぬ直前までも魔術師でも闘気使いでもなかった。常人並みの微弱な闘気は帯びとったらしいが」
「すると魔力使いではないはず……ですよね」
僕はその光景を想像する。
小さな子供が、空に向かって正拳突きをする。その衝撃で、離れた屋根から雪が滑り落ちる。その光景だけ考えれば、まるで僕たちのすることだ。闘気使いも鍛錬の末に出来ないわけではないが。
「じゃから、北壁が魔力を持たない獣でも鎮められる理由は、そこにあるのではないかとグーゼル殿は推察しておった。つまり」
一瞬だけスティーブンが表情を曇らせる。本当は口にしたくないことを口にしなければいけないように。
気のせいかとも思うほどの短時間。だが、たしかに。
「つまり、闘気と同じように、魔力も誰しもが持っているのではないか、と」
「…………」
スティーブンの言葉を僕は脳内で反芻する。
魔力を、誰しもが持っている。それはつまり……。
「誰でも、魔力使いになることが出来るのかもしれないということでしょうか」
「……そういうことじゃな」
僕の言葉にスティーブンは頷く。少しばかり重苦しい顔で。
「もっとも、全てはグーゼル殿の推論でしかない。子供が仙術の効果を発動させたのも気のせいで、そして魔力などない生物でもあの北壁は鎮まるのかもしらん。その辺りはさっぱりわからん!」
だが言葉の最中には重苦しい顔も消え、顔を上げて、言い切った。いつもの明るい顔に戻って。
「じゃから、マリーヤ殿が勧めたんじゃよ。お主と、青髪の……名前は知らんが、魔術師にも知らせてやったら面白かろうとな」
「面白いって……」
にやりと笑うスティーブンに合わせて、僕も愛想笑いを浮かべる。
……多分、それは方便だ。スティーブンが僕を自分のもとに呼び寄せやすいように。本当は先ほどのメルティの話をこの老人がするようにと。
「グーゼル殿も、その子供の話は気にかかっていたようでな。子供たちに教える他、魔力とは無縁なはずの闘気使いに仙術を教えて幾度も反応を見ていたらしい。お主も、魔法使いでなかったら、と言っていたが」
「僕の場合は仙術を使わなくても使えますからね」
軽く宙に突きを出す。特に速度を乗せずとも、その拳の尖端から破裂音が響いた。
詠唱なく、そして薬品などの仕掛けもなく魔術のような現象を起こすのは、魔法使いと仙術使いの専売特許だ。あとは充填魔術を扱える魔術師くらいか。
「……そんなわけで、儂からお主へ伝えたかった話は終わりじゃよ。あとはお主から、その本を添えて知り合いの魔術師に伝えてやるといいじゃろう。その魔術師がどれだけ優秀なのかもわからんがな」
「ええ。そうします」
もう一度パラパラと本を開き、パタンと閉じる。
『普通の人間は闘気を持っており、鍛えれば闘気使いとなれる』
『そしてその一部、魔力を持つ者は魔術師になり、更に魔力が強ければ魔法使いとなる』
そんな常識から外れた話。エウリューケが好きそうな話だ。
今度彼女の姿を見かけたら、話してみよう。
そして、もしそれが本当なら……。
……本当なら?
「……もし」
「ん?」
話が途切れた。そんな一瞬の静寂に僕は声を上げる。少しだけの思いつきを心に浮かべて。
「もし、本当なら、誰しもが魔術師になれることになりますが」
「そうかもしれんの」
スティーブンが頷く。それほど落ち着いていられることなのだろうか。スティーブンにとって。
これは、スティーブンにとってとても重要な話なのに。
「ならば、もし本当ならスティーブン殿も……」
「儂には、なれんかったよ」
口に出してから、これが失言だったと気づく。
その叱るような、寂しそうな声に。
スティーブンはもう三年間も仙術を学び続けて、その兆候もないのだ。
魔術師や魔法使いは、幼少期からそうであるという兆候がある。三歳を数えたときには、だいたい既に。
仮にその説が本当だとしても、魔術師や魔法使いになるためには他の要素が必要だと考えたほうがしっくりくるだろう。
「……申し訳ありません」
「なに。ま、儂には素質がなかったんじゃろ」
ハハハ、とスティーブンは笑い飛ばす。もしもの話は、ときに残酷だ。
「それよりも」
空気を切り替えるよう、明るい声でスティーブンが口火を切る。少しだけ前のめりになりながら。
「先ほどの歩法はなんじゃ? 打とうとした儂の前から、カラス殿の姿がかき消えた。魔法でもなく儂の前から姿を消すとは……本当に魔法は使ってないんじゃな?」
「私たちの見た限りでは」
スティーブンが、バーンたちに確認をとる。だが、その答えは先ほどと一緒のはずだ。
「水天流に、あのような歩法、あったかのう?」
「いえ。多分ないと思います」
僕も答える。これは言ってしまってもいいだろう。
「昔、……プリシラさんの戦っている姿を見たことがありまして。その物真似です」
「プリシラ……あのリドニックでか」
「ええ」
レイトンとプリシラの戦い。いまだにあの中には割って入れる気がしないけど。
「ならば、あの歩法は葉雨流の……?」
「習ったわけではないですけどね」
本当に、見様見真似だ。実際の足運びや呼吸の選び方とはどうしても少し違うと思う。
ふむ、とスティーブンが顎の下をさする。唇を尖らせて、悩むように。
「いまだ極め尽くさぬ身とはいえ、まだまだ学ぶことばかりじゃのう……」
「月野流に取り入れる気ですか?」
その正体を見破られていなかったということは、すぐに真似できるようなものでもないと思うが。……いや、一応エースもバーンも見ている。彼らとのすりあわせでなんとかできるのかもしれない。
だが、スティーブンは静かに首を振った。
「……いや。月野流にとっては他の技術との断絶が激しいからのう。使えるに越したことはないが、組み込むことはなかろうて」
「ならば」
何を悩む、と続けようとした僕から目を離し、スティーブンは忠弟二人を見る。
「じゃが、対応出来るようになる必要はあるのう。エース、バーン、見てたじゃろ。ものにせい」
「はい!」
スティーブンの呼びかけに、二人の声が揃う。
彼らは、プリシラという綺麗な手本なしにすぐにものに出来るだろうか。僕は教える気はないけど。
それから少しだけ世間話のようなものをし、僕は席を立った。
見送る、というスティーブンを引き連れるように、僕は廊下に出る。
相変わらず濡れた床が僕の足に触れた。
濡らした筆を振り回したような水の跡が、床のそこかしこに残っている。これだけ水滴が残っていれば木の床も傷むだろう。わざとではないとはいえ、改めてこの惨状を見て、エースの言葉に少しだけ同意した。
パタパタと足音が響く。何か物を持っていて加重されているようで、少しだけ床を震わせながら。
玄関から入ってきたその足音の主。その主と目が合い、僕は少しだけ身を固めた。
金の髪が光る。
立ち止まった僕を不審に思ったのだろう。スティーブンも廊下に出て僕の視線の先を見つめると、少しだけ息を吐いたのが聞こえた。
足音の主。……女中だろう彼女が水桶を持ったまま一瞬固まり、急ぎ廊下の端に寄る。
ゆっくりと、少しだけ足を踏み出す。その勢いでどうにか歩くと、その女中に少しずつ近くなっていく。
少し手前で軽く会釈すると、彼女も急いでそれに応えた。
何か怯えているように、唇を結んだまま。
「……似てるじゃろ!?」
後ろから声が響く。明るくしたようなスティーブンの声が。
「新しく入ったという方ですか?」
背後に視線を向けずに、僕はそう問いかける。その女中の容姿に酷い違和感を覚えながらも。
「おう。マリーヤ殿の依頼でな。なんでも、マリーヤ殿の古くからの知人だとな。しかし、その容姿が、な?」
取りなすように口にされる文句は、真実だろうか。
「昔から、メルティ殿に似ているということで、よくからかわれていたそうなんじゃが。あの処刑後も、似たような者がうろついていると問題じゃから、と預かってのう」
「……それでは、リドニックからいらっしゃったんですね」
しどろもどろになりかけているスティーブンの言葉に乗り、僕はそう女中に問いかける。女中は、声に出さず会釈だけで肯定を返した。
「そうですか」
メルティは緩やかなパーマのかかった長髪。彼女は肩より短いショートカット。髪の長短の違いはあるが、僕ですら美人だと認めるほどに整った容姿。
なるほど。たしかに、生き写しだ。まるで、メルティがあのまま二十歳を越えたらこうなるのではないかと思うほどの。
……なるほど。
僕の頬が少しだけ緩む。
「はじめまして」
僕が微笑みかけると、女中が目を開いて驚いたような仕草をする。
「まだ慣れていない仕事は大変でしょう。僕は探索者のカラスといいます。何か困ったことがあればいつでもギルドのほうへどうぞ。手が空いていれば、力になれますので」
初めは、メルティ・アレクペロフかと思った。廊下に迷い出たのかとも。
しかし彼女はもう死んでいる。ここにいる彼女は、メルティとよく似た別人。
そんな誰かに会ったときには、温かく見守ってくれというのはスティーブンの言葉だ。
「……水仕事の手荒れによく効く軟膏なども用意出来ますので、今度よかったら」
もう一度微笑みかけて、会釈をして僕は通り過ぎる。
靴を履き、スティーブンたちに挨拶をして家屋を出る。
「またいつでも来るがいいぞ」
「ええ。また」
社交辞令的な挨拶を交わし、水たまりを踏みながら僕は歩き出す。
道場の稽古終わりのかけ声が、立ち去る僕の背中を叩いた気がした。