奇襲
柔軟運動をするように、スティーブンは腕をもう一方の腕で押さえて伸ばし、肩を伸ばし、と繰り返していく。
本気……というわけでもなさそうだが、やはりやる気のようだ。何を見せたいというのだろう。
僕は頭を掻き、その様子を見守る。
無邪気にはしゃぐスティーブンの動作が、とても若々しく見えて。
……しかし、……。
気づいてしまった。スティーブンの話を聞かずとも、僕は答えに近付けることを。
「アリエル様に、罠について確認してみますか」
「のうっ……!?」
僕が呟くと、スティーブンが弾かれたように僕を見る。
そうだ。僕は白い壁の向こうに行ける。そこでアリエル様に聞いてくればいいのだ。『何故魔力のない動物も、波を鎮める役に立つのか』と。
仮説を積み上げるよりも、答えを知っている人がいるのであればそちらの方が手っ取り早いし確実だ。そうすれば、ここで試合などする必要もないし。
横目で見れば、座ったままじろりとエースが見ている。
これは、試合をする僕に対してだろうか、それとも試合を渋る僕に対してだろうか。
スティーブンが、媚びるように笑いながら僕に一歩歩み寄る。
「しかし、そうすると時間がかかるじゃろ。今この場で済むから、な? な??」
「本当に、あまりお相手したくないんですけど……」
それでも一応は相手をしなければならないだろう。稽古としての手合わせ。本来ならば、スティーブンが格上で、僕の側から頼むようなことなのだろうから。
立ち上がり、荷物を隅に寄せる。ここでやるのだろうか、あまり広くないが。
「エース。木剣を二本持って来てくれんか」
「……は、はい……!」
スティーブンがエースに向かってそう呼びかける。木剣か。やはり剣術の手合わせというのは、僕には向いていないのだけれど。
だが、エースは動かない。元気な返事をしてから、それから一拍待った後、おそるおそる手を地面につける。立ち上がるために、そちらに重心をかけて……。
「…………!」
一瞬止まった動作のうち、ぷるぷると足が震えていた。
……まあ、わかる。
長話の間正座をしていたため、足が辛いのは僕もわかる。
スティーブンがその仕草を見てため息をつく。いや、この光景はほぼスティーブンのせいなんだけども。
「……なにやっとるんじゃ」
「あの、……足が……!!」
「んなもん気合いでなんとかせいよ。今儂が斬りかかったら避けられんじゃろ」
ほれほれ、と足先でエースのふくらはぎを突く。その猛攻をかろうじて凌ぎながら立ち上がると、一息ついて頭を下げた。
「修行が足りませんでした!!」
「おう。いいから行ってこい」
「はい!!」
もう一度頭を下げて、エースが駆け出す。
そして廊下に姿を消して……。
ドタ、と足を踏ん張る音がした。多分滑ったのだと思う。濡れた床で。
「……ゴラァ!! 雑巾はカッスカスになるまで絞れって何度言ったらわかんだテメエ!!」
「……ヒッ……」
そしてまた誰かを叱った。話の最中に、誰かが窓拭きでも始めていたらしい。
怒られているのはやはりさっき床拭いてたという女中だろう。双方の姿は見えないが、エースの剣幕が容易に想像できた。
失敗していたとはいえ気の毒に。
そんな騒動の間に、バーンも静かに立ち上がっていた。涼しい顔で。
「……元気の良い方で……」
「騒々しいと正直に言ってもいいんじゃぞ」
「いえ」
僕は首を振る。一応他流派の門人だ。悪く言えば、門派の諍いの種となる。……僕はどこにも属してないし正直どうでもいいけど。
「あれでものう……。あれで作法も身につけとりゃ、……ほんに勿体ない」
嘆くようにして呟く言葉は真に迫っている。細めた目が、エースの姿を追っていた。
しかし、そんなに嘆くほどのことだろうか。ただ少しだけ無礼な感じはしたが。
「そんなに腕が立つんですか?」
「……おう。才能では間違いなくクリス以上じゃがな。じゃがなぁ……」
「へえ」
それでも、その言い方ならば今のところはクリスのほうが上なのだろう。
才能は原石のようなもので、そのままではただの石だ。彼はまだ、石なのだろう。
バーンを見れば、少しも不満に思っている感じはしない。
きっと彼も認めているのだろう。彼の腕が、高弟の中のどこに位置するかは知らないけれど。
ドスドスという足音が聞こえる。
先ほど僕を案内したときとは違う様子だが、まず間違いなくエースだろう。この足音からすれば、少しばかりの怒気を帯びている。
多分、さっき滑ったからだろうが。
束ねた剣どうしが、澄んだ音を奏でてぶつかる。そんな音とともに、エースはまた僕らのいる部屋に足を踏み入れた。
「持って参りました!!」
「……おう」
頭を下げて差し出された木剣。スティーブンはそれを二本とも受け取り、そして一本を僕に差し出す。同じ長さの大刀だ。
僕がそれを掴むと、頷いてスティーブンが一歩下がる。ちょうど部屋の中央を中間地点として、五歩ほどの間を開けて僕らは対峙した。
壁際まで下がり、バーンたちはまた正座で僕らを見る。
スティーブンが木剣を軽く振ると、鈍く風を切る音がした。
「取り決めは……」
「クリスから聞いたけども、お主は以前バーンと手合わせしたんじゃろ。そのときと同じで構わんよ。……ああ、魔法なしでな!!」
「はあ」
魔法なし、闘気なし、有効打で決着……だっけ。
とすると、本格的に僕の勝つ手がなくなる気がするのだが。
スティーブンがやや高めの中段に構える。
剣先が僕の方を向いただけで、僕の額になにかちりちりと熱を感じた気がする。
「さあ、構えい。カラス殿は水天流じゃったな。その妙技、期待しとるぞ」
「……生兵法ですけどね」
僕も合わせて構える。半身になり、剣は両手持ち、そして下段に向けて。
「ええと、よろしくお願いします」
「参られ……いっ!?」
スティーブンが言葉を吐き終える前に僕が動く。
喉元を狙った、駆け上がるような突き。だが、奇襲に近いその剣は一歩下がったスティーブンに躱される。
反転するようにまた一歩、僕を追い詰めるようにスティーブンが踏み出すが、それには付き合えない。
剣に触れてはいけない。それが、月野流剣士に対抗するときの鉄則だ。
まだ振られていないスティーブンの剣を左に躱し、そしてそのまま回転して下段薙ぎに繋げる。水天流、風林の型の動きの一つだったか。
しかしその攻撃も、スティーブンはただ前足を跳ねさせて躱した。
「……せっかちじゃのう」
「余裕を持たせちゃいけないじゃないですか?」
僕の軽口に、スティーブンはふと笑う。
そして膝を曲げて、もう一度構え直した。
「その通りじゃな」
「……!!」
構え直した。それだけで、まるで、体が膨れあがったかのような威圧感。
その剣が動き出すのを感じ、全身の毛が怖気だった。
正中線を割るような鋭い剣撃。それを揺れるようにしてぎりぎり躱すと、バーンが感嘆の息を吐くのが聞こえた。
しかし、それだけでは終わらない。
振り切られたはずの剣が床で反転し、斜め下から僕へと迫る。
「ぬっ……!?」
かろうじて、スティーブンの剣を避ける。その『視界』の外に抜けるよう、慎重に一歩踏み出しながら。
瞬きに合わせて、振り切られた右手の後ろに回り込むように移動すれば、その脇は今がら空きだ。
間に合え。
そう願いながら、僕はその右肋骨に剣を当てようとする。だが、手首を捻っただけのスティーブンの剣に阻まれ、止められてしまった。
慌てて剣を引く。交わった剣に、何か技を使われればまずかったが……。
「……魔法はなし、といったはずじゃがの」
「使っていませんよ」
ね、とエースたちに向かって同意を求める。彼らは無反応だったが、スティーブンにもその真偽は伝わったようだ。
「なるほど。水天流ではない……。進歩したのは儂だけじゃなかったと」
「ええ。そうみたいですね」
僕が笑顔で返すと、スティーブンも笑顔を強める。
僕が使ったのは、魔法ではない。
ただの、あのリドニックで見た葉雨流の歩法の模倣。僕なりの、葉雨流だ。
幾度も練習したが、原理は意外と簡単だった。コツを掴むのにやはり苦労したが。
相手の瞬きに合わせて動く。それは第一段階。それに加えて、相手の視線から考えて、盲点に入るように。
もちろんいわゆる器質的な眼球の盲点だけでは体を隠すことなど出来はしない。だが、相手が眼球を動かし視界が動く一瞬を狙い、相手の視線の反対方向に動く。それだけでも効果はあるようだ。
加えて、腕の動き。足の向き。重心の移動。それらを操作し合わせれば、どうにか三回に一度は成功するようになった。相手に、僕の位置を見失わせることが。
「……ならば遠慮はいらんな!!」
スティーブンが剣を振る。肩慣らしが済んだように、鋭く速い一撃が迫る。
哄笑とともに迫る剣の嵐。
それらを躱しながら、そして逸らすために合わせた剣に崩されながらも懸命に耐えていく。
僕としてはもうギリギリだ。
それでもスティーブンとしてはまだまだ全力でも何でもないのだろう。ギアを上げるように動きが速くなり、それに合わせた僕の躱す動作も大きくなっていく。
「ほほ、カラス殿もなかなかやるのう!!」
「それは、どう、も!!」
連撃の中にたまに混じる大ぶりの一撃に合わせるよう、カウンターを狙うも上手くいかない。
当然のようにその剣は躱され、そしてお返しとばかりにいくつもの風切り音が僕の耳に響いた。
剣を打ち合わせる音はあまり響かない。僕が避けているからだが。
しかしその分、剣が振るわれ空気が裂ける音と、服がバサバサと揺れる音が響く。服は主に僕のものだ。
スティーブンの剣は今のところ当たらず避けているが、僕の剣も当たる気配は一切ない。
膠着状態。しかも、攻撃が少ない分僕の方が不利な。
一応、勝つ気でやらなければ。そうは思うが勝機がない。もとよりなかったと思うが、やはり実際に立ち合ってみてよくわかる。
闘気も使わない状態だが、岩をも割りそうな剛剣が小枝でも振り回しているような速度で繰り出される。そして、その剣を抑えようと合わせて触れてしまえば、剣を通じて体勢を崩す技が繰り出される。
一振りごと、一つの技ごとにどうしても生じるはずの隙もほとんどない、破綻のない剣術。
僕の似非水天流に、模倣葉雨流を加えても難しい。
……まったく、何故こんなことをしなければいけないのか。
二歩跳んで下がって、ため息をつく。
剣先を下げたまま片手で構え、警戒しつつ。
時間稼ぎのような僕の行為に、スティーブンが不敵な笑みを浮かべた。
勝機が見えない。しかし、一応勝つ気でやらなければ。
どうすればいいだろうか。目の前の難攻不落の老人を突き崩すには。
カウンターは無理。何度も試したがその隙がない。普通に打ち合っても、練度の差からして難しい。魔法が使えれば……。
まあ、今は無い物ねだりはすまい。
ルール上認められていないのだ。たとえそれがあれば全て上手くいくものだったとしても。
今ある材料で手を尽くす。それが、この場で出来る最善の行動だろう。
足をわずかに踏み出し、重心を前に乗せる。
そして、手足の動き、筋肉に至るまでを少しずつ制御し、ゆっくりと形を作る。
狙うのはフェイント、そして奇襲。
剣は微動だにさせず、後ろ手にしつつあった手を軽く振る。三年前に見たプリシラを思い浮かべながら。
「ふん!」
それだけで、スティーブンは大上段から大きく剣を振り下ろし、空気のみを斬った。
今だ。
一拍遅れて、ようやく僕は足を踏み出す。
剣先が狙うのは喉。速さを出そうと軽く握った剣でも突き刺さる箇所。振り下ろされたスティーブンの剣が戻されるまでに、その喉を突ける位置まで持っていけば僕の勝ちだ。
だが。
カン、と澄んだ音が響く。乾き水分が抜けた木材が触れあう音。
そしてその音の出所は、スティーブンの持っている剣と僕の剣。その接点だ。
「危なっ!!」
合わせられたことにスティーブンも驚いているらしい。目を見開き、僕の剣を防いだ自分の剣を信じられないというような目つきで見ていた。
失敗した。
そして、これはまずい。非常に。
一瞬だけ歯を見せてスティーブンが笑う。
刃が交わっており、そして僕はろくに剣を握っていない。月野流の本領発揮だ。
「……ほい!」
「………………!」
思った通り、次の瞬間には僕の剣が手から離れてはじき飛ばされる。天井に向けて、くるくると回りながら。
……スティーブンの持っていた剣ごと。
「……!?」
「ふっ!!」
驚きの展開に一瞬呆気にとられた僕に向けて、スティーブンが迫る。
背中をぶつけるようなタックル。慌ててガードとして挟んだ腕に衝撃が走った。
「んなっ!?」
衝撃から逃れるように身を逸らした僕に向け、小さく跳ねるように床を滑り、スティーブンが追ってくる。
それから、裏拳、崩拳、膝蹴り、とそれなりに鋭い一撃が連続で飛んできた。
コンビネーション。それも、どこかで見たことがある。
最後の足尖蹴りを後ろに宙返りしながら躱し、僕は態勢を整える。
体術? それも、徒手空拳もありだったのかと考えつつ、スティーブンの姿を捉えようと身構える。
その顔の横に、スティーブンの持つ剣がピタリと止まった。