もう一つの本題
「……そうですか」
メルティの遺髪を手にしたヴォロディアの演説。その概略でスティーブンの話は終わる。
静かに口を閉じた老人は目を瞑り、静かに呼吸を繰り返す。
その手の感触を思い出しているのだろうか。人の首を切り落とす感触、僕もたまにやることはあるものの、気持ちがいいものとは言い難い。もちろん、スティーブンにとってはまた違うものかもしれないが。
話を聞き終えた僕は、少しだけ体が重たくなった気がした。
床が少しだけ沈んだ気がする。明らかに気のせいなのだけれど。
肩に何かが乗った気もする。一度魂の状態になったとはいえ、霊的な何かを信じたくはない僕ですら、何かを感じる。
ヴォロディアが託されたものとは質も量も違うだろう。けれども、メルティは何かを託していった。革命を起こしたマリーヤやヴォロディア、処刑場に集まった人間たち、そしてイラインで関わった僕、その他のこの話に関わった全ての人間に対して。
マリーヤとの別れのときのメルティは、僕が知っている彼女とは違う。
僕が知っている最後の姿は、寝不足でいつでも倒れそうな弱々しい彼女だったが、もはやそうではなかった。
自分で選んだのだ。国民を助けて死ぬと。その後の、自分が死ぬことの影響までも考えて。
自棄っぱちになり死を選ぼうとしていたあのときとは違う。
この四年弱の間に、どれだけ大きな変化があったのだろう。彼女を見守る義理も筋合いも僕にはなにもないが、少しだけ見てみたかった気もする。あのとき僕が関わった影響が、どんなものになるか。
……いや。
僕は内心の考えを鼻で笑う。スティーブンたちには気づかれないように小さく。
メルティはきっと変わった。
死ぬ前に見えることが出来たのであれば、今の印象通り、きっと見違えるように変わっていたに違いない。僕が護衛をしたときと比べても、僕はあんなに苛つかなかったかもしれないし、そもそも護衛などもいらなかった気がする。
しかし、きっと間近で見ていればわからないのだろう。
きっとみんな変わっている。日々一歩ずつ、少しずつ。
今のスティーブンの話に出てきたメルティは、僕にはとてもとても変わって見えた。
しかし、それでも、昨日と今日のメルティの見分けは付かないのだろう。僕にも、本当は誰にも。
「……最後の……」
僕がゆっくりと口に出そうとした言葉に、スティーブンが目を開く。何を言うのかと待ち構えて。
「メルティ殿の、最期の顔はどういったものだったでしょうか」
「ん、それは、のう……、それは……」
「…………?」
この世界では知らないが、戦場で死んだ人間の顔は、涼やかに凜と澄ましているのが最上と聞く。そして、苦しみで顔を歪めて片目を見開いた顔が最下品だとも。
そんなことをただ聞いてみた僕の質問に、スティーブンは困ったように視線をあちこちに向かわせる。
まさか、何かマズいことを聞いたか。
「もしかして、上手く切れなかったとか……」
「な、んなわけなかろうが!! この儂が据物斬りに失敗などするものか!!」
「……でしょうが」
僕もそれはそう思う。けれど、だったら何だろうか、今の反応は。
「師父、仮に罪人とされているとしても、相手は人間。据物斬りというのは……」
「バーン、お前は黙ってろ! 師父は深い考えのもと仰っているんだ!!」
僕が不可解に思っている間に、違う声が上がる。スティーブンを責めるようにバーンが口を挟むが、さらにそれをエースが遮る。もうなんかどうでもよくなってきた。
「エース、控えい」
「は! すんません!!」
そして、スティーブンに言われると平謝りする。なんかこの三人の関係がわかってきた気がする。
それはそれとして、バーンも師父と呼ぶ相手に口応えをするとは。多分、武芸者としてはエースのほうが正しいと思う。僕的にも今のは言い過ぎだと思うけれど。
「……それと、バーン、済まんな。儂も言葉が悪かったわい」
コホン、と咳払いをしてスティーブンが謝罪する。メルティの処刑を据物斬りと言ったこと、スティーブンのいつもの印象とはだいぶ違うが……。
「しかしまあ、あの程度で失敗することもないというのも本当じゃ。そうじゃのう、いい顔をしておったよ。まるで、肩の荷が下りたような」
気をとりなおし、という感じで僕の質問にも答える。
「……その荷物を背負った気分はどうじゃ? カラス殿」
「僕が、ですか?」
その『荷物』が何か、という疑問はない。けれど、即答できずに僕は誤魔化すようにそのまま言葉を返した。
「マリーヤ殿は、あとは自国の問題じゃと言うじゃろ。じゃが、違うとも儂は思っとる。儂はメルティ殿の処刑に関わった責任が、そしてお主にはメルティ殿を生かして国に戻らせた責任がある」
そうだと思う。関わった誰しもが、本当は無関係ではいられない。無関係でいたいというのも本音だけれど。
「……。……重たい、のでしょうね」
「ふむ?」
僕は肩を一度上げて、下ろす。一ミリグラムも肩の重さは変わっていないが、少しだけほぐれた気がする。
「曖昧じゃのう」
「だってよくわかりませんし」
はは、と僕は笑って返す。無責任と罵られても仕方ないが、罵られても困る。
「僕が彼女の命を守ろうとしてから四年弱。その間、僕は知りませんが彼女にも色々とあったでしょう。でもその間は、僕には関係がなかった」
あの日、革命軍との接触を阻み、直接の死因を作らないように仕向けたのは僕だ。だが、それが何だというのだろう。
「命を一つ守った。それは、僕が知っている一つの事実です。彼女を生かした結果、誰かが死んだかもしれません。不快な思いをしたかもしれません」
というか実際している。マリーヤは激怒し、そして生国では彼女を旗印にする運動が活発になった。
その結果罪を犯した人間もいるだろう。怪我をした人間もいるだろう。
お前のせいで、と言われたらそうだと頷くかもしれない。しかし、その全ての人間に謝るべきかと言われたら僕は首を横に振る。
「けれどその先どうなるかまで、僕には責任は取れません。僕は妖精でも神様でもない人間で、その全てを予測して方策をとるなど不可能です」
責任ならあるだろう。僕が神器をマリーヤに届けさせたせいで、革命後の民主政権は国として形を保った。そこに僕がメルティを生きて戻らせたせいで、メルティは処刑された。
メルティの死の遠因は間違いなく僕だ。彼女は僕を罵る権利がある。僕も言い返すけど。
「……ならば、これからも同じような場当たり的なその場凌ぎをするというのかのう。その後誰が傷つくとも、死ぬともわからん霧の中に迷い込ませると知っても」
「何も考えずにその場凌ぎはしません。今も、そして当時も」
僕は、当時彼女を殺すためにあの場を収めたわけではない。
彼女が死ねばいいと思ったことはない。……死んでもいいとは思ったけど。
「きっと、今肩に乗った責任は重たいんです。でもその重さについてばかり考えていられない。重たいとばかり苦しんでいれば、きっとその場凌ぎも出来ないでしょう。あの日、その後について悩んで機を逸すれば、メルティ殿を生かしたままにすることも出来なかったかもしれません」
あの日、神器をメルティの手のままに残せば良かったのだろうか。そうすると、ウェイトたちが尖兵となりリドニックは侵略され、そしてマリーヤやヴォロディアは死んでいたかもしれない。
メルティを国に帰らせないように説得すべきだっただろうか。そうすると、メルティは助かったかもしれないがニコライとやらはいつか行動に出て処刑されていたかもしれない。
可能性は無限にある。その全てのうち、歴史を後から見た際の最適解を取るのはまず僕には不可能だ。
「ですから、後になった今から考えましょう。今僕の肩に乗った責任は、メルティ殿を結局死なせたこと。きっと重たくて、返せませんが」
月に渡って思い出の部屋を通り、彼女を助けにでも行けばいいだろうか。その結果起こる諸問題も、タイムパラドックスもあるかもしれないから僕としては不可能だと思ってるけど。
でも、一つだけ決めていることがある。
話を聞いて、一つだけ決めたことがある。
彼女のことは忘れない。遙か昔、僕が僕の意思で初めて殺した傭兵団団長のウスターのように。誰が忘れても、僕は。
「……潰れんようにな。お主は前科があるからのう」
「ええ。死んで責任も取りません」
前科と聞いて思い浮かんだ光景に、僕の頬が持ち上がる。
三年と少し前、僕が北壁に飲まれたことだろう。結局は何もならなかったが、死んでもおかしくはなかった。でも。
「もう僕には母親がいますからね」
もらった命だ。あの頃までは一切実感がなかったが。僕にも母がいた。肉体的な僕の母については未だにどうでもいいが、僕をこの世界に連れてきた母は、たしかに。
もらった命だ。使うならまだしも、捨てることはない。
僕の言葉に、スティーブンも口髭を持ち上げて笑う。
「ほほ、アリエル様は息災かのう」
「知りませんが、多分元気なんじゃないでしょうか。あの部屋では時間が過ぎませんし」
アリエル様のいた部屋。そこは一瞬たりとも時間が過ぎない不思議な空間だ。その代わり、部屋を出入りすると一日簡単に過ぎるらしいが。僕にとっての数時間ほどが、外では七日間になっていた。
「なんじゃ、薄情じゃの。母親なんじゃし、頻繁に会いに行ってやればよかろうに」
「見ようと思えば向こうからは見えてますしね」
時間の流れがわからないので、あそこから見えているこの世界がいつの時間軸なのか未だによくわかっていないが。
そして、そんなことは別に何の理由にもなっていない。会いたくなれば会いに行けばいいのだ。別に会いたくなったことはないので会わないだけで。
横を見れば、弟子二人の顔が疑問に染まっている。
まあ、事情を知らなければ変な言葉だとも思う。『母親がいた』ではなく『もう母親がいる』というのは。
それよりも。
「ソーニャ殿も、気落ちしていなければいいんですが」
「ま、そうじゃな」
言葉の通りならば、彼女はメルティの母親代わりだった。ならば、ソーニャにとってのメルティは娘のようなものだったのだろう。それも、箱入り娘の。置いていかれた気分はどうなのだろうか。それも、後を追うことを禁じられて。
「……心配なかろうよ。死にさえしなければ、何とかなる。いつか、きっとな」
「そうでしょうかね」
僕には子供との死別経験はないが、きっと悲しいものだと思う。親より先に死ぬ親不孝をしたくもないし、味わいたくもないものだ。
……そうすると、僕はいつまで生きればいいのだろうか。永遠に死なない母親を持ってしまった僕は。
そして仮に、僕が子供を持ったときには、子供はいつまで。
僕が少しだけ暗い気持ちになると、それを変えるようにスティーブンがポンと手を叩く。
「まあ、なんじゃ。マリーヤ殿は、きっとこれだけ話せばカラス殿ならば斟酌してくれると言うとってからに話したが、儂からも付け加えておこうかのう」
「……何です?」
何度も何度も長い顎髭をしごきながら、スティーブンは唇をもごもごと動かす。
「メルティ殿は死んだ」
「ええ」
何度も聞いた。メルティは革命後の生国に帰り、そして王党派の人間の罪を被り処刑された。
そう聞いているし、そこからの話がずっと続いていたはずだ。
「しかし、メルティ殿の夢はきっと叶うと儂は信じておる。一度死んで魂の炎の中に帰り、そしてまた火の粉として女の腹に入り、地上に生を受けてからかもしれんが」
「そうだったら素敵な話ですけどね」
この世界で主に信仰されている死後の世界。生まれ変わりの物語。
その転生が本当にあるのかどうかは知らないが、メルティが生まれ変わり、そして理想の人生を送れるというのならばそれは言祝ぐべきことだ。
「うむ。素敵じゃ。じゃから……のう……」
首の周りを忙しなく掻き、それから意を決したように息を吐き唇を結ぶ。どうにも落ち着かない様子だ。
「今後、カラス殿はメルティ殿とそっくりな顔を持つ人間とどこかで出会うかもしれん。長い人生、どこかでな」
それから、ふと笑う。まるで孫の話をする老人のように。
「……そのときは、温かく見守ってやってくれんかのう」
「ただ似ている別人なのにですか」
それも、今の言葉通りならば生まれ変わったことを期待してのこと。
こんなにもスティーブンはロマンチストだったか。死期を悟ると神秘主義に傾倒することがあると聞くけれど……。
「頼む。儂からの願いじゃてな」
少しばかり納得がいかない。けれど、……まあ、実際に生まれ変わりを経験した僕がいるのだ。
そういうこともあるのかもしれない。
僕は静かに頷く。それを見て、スティーブンは満面の笑みを強めた。
コホン、と咳払いの声が響く。スティーブンの威厳が少しだけ復活したような。
「メルティ殿のことはこれくらいにしておこうかの。元々余談のようなものじゃが、長くなってしもうたわい」
「そうですね」
長くなった原因は、主にスティーブンの話の脱線のせいだと思うが。話の本筋に関係のないものがちょこちょこと挟まれたせいで、話が倍くらいになってしまった。
あまりの長さに僕の足にも少しだけ痺れが来ている。バーンやエースも、慣れているとはいえ同じようなものだろう。落ち着かない様子で足先を動かしていた。
「カラス殿を呼んだ理由、アブラム殿の資料の記述に関してじゃった」
「そういえば、そんな話でしたか」
僕は膝の前に置いた写本に目を戻す。記述に関して、僕とエウリューケに知らせたいことがあったと聞く。
多分、スティーブン的にはこちらのほうが余談だったのだろうが。
「問題になったのはどこじゃったかのう……あれじゃ、北壁が消退する量に関しての考察じゃな」
「魔力が大きいほど、というところでしたっけ」
もう最後に読んだのは三年も前だ。おぼろげな記憶を頼りに、僕はそのページを探してパラパラと捲っていく。記憶の中の図や文字との違いか、なかなか見つからなかったが、それでも大きな見出しがついていたので見つけることは出来た。
「そうじゃ。魔力を持つ生物は、北壁を鎮めることが出来る。飲まれることにより、種族と個体によりおおよそ決まった量の白波が壁の中へと消えていく。そこは儂らの記憶と相違あるまい」
「ええ。アブラム殿や、僕が飲まれたときに、波が消えていきましたが」
そこはおおよそわかっている事実だ。経験則でも、実験でも。特に新しい情報でもなんでもない。
「重要なのは、もう一つじゃよ。グーゼル殿が気づいたんじゃがな。それも、グーゼル殿の仙術の説に違わぬことで」
「どこのことです?」
パラパラと捲りながらそれらしいところを探すが、見つからない。赤線くらい引いておいてくれても良さそうなものだが。
「儂らも不思議には思わんかった。じゃが、さすがは仙術の開祖で大家じゃ。儂らとは違う視点を持っておる」
人差し指を立てて、得意げにスティーブンは続ける。
「重要なのは、北壁に生物が飲まれたときの挙動じゃな。魔力を持つ生物が飲まれれば、波は鎮まる。じゃが、そこで一つおかしなことが起きとる」
「おかしなこと?」
「おかしなことというか、前提が変わっとる。おかしな前提があるんじゃ。アブラム殿は、最初に兎を飲ませて実験している。それがおかしくないかの?」
スティーブンの言葉に、僕はその辺りの記述を再度確認する。
兎や狐、犬などを飲ませてその種族差を測ったと、そう書いてはあるが……。
「おかしくないかのう? 魔物でもない兎も狐も、魔力なんぞもっとらんぞ」
「…………?」
僕はその言葉に、ようやく気づく。そうだ。魔力を持つ生物が飲まれれば鎮まるというのならば、どうして魔力がない生物が飲まれても鎮まるのだろう。
だが、生物ならば何でも良かった。そう考えれば上手くまとまる。
「あれは妖精を作る苗床を捕まえるための罠ですし、…………あれ?」
釈明しようとして、僕は言葉に詰まる。
ならばなおさらおかしいのだ。魔力を用いて妖精は創造される。ならば魔力を持たない生物は、何匹捕らえても無駄なはずなのに。
あの白い壁も、無尽蔵に動くわけではないと思う。何かのコストをかけて動かしているのに、成果がなくても構わないというのはおかしいことだ。
……。
言葉に詰まった僕に、スティーブンはにやりと笑う。
その答えを持っているのに、言わないことを楽しんでいる。
「まあ、仮説じゃな。グーゼル殿の仮説があるんじゃ」
「どういうことでしょうか?」
僕が尋ねるが、にやにやという笑いは止まらない。そして、意を決したようにスティーブンは膝を叩いた。
「それを説明するために、じゃな! 立ち会おう、カラス殿!! どれほど腕を上げたか、儂に見せてみい!!」
「ええぇ……?」
僕が文句の言葉を上げるのも構わず、スティーブンは立ち上がる。
わはー、と笑い、そして背中をグキグキと鳴らした。
「ま、カラス殿のことを見たいというよりはな、儂の見せたいものがあるんじゃよ。少し付き合ってくれるとありがたいんじゃがな」
「お弟子さんたちとの試合で見せてくれればいいのに」
何かを見せたいというのはわかった。だがそれは、僕との試合でなくてもいいだろう。
「それじゃつまらんじゃろ。なに、勝っても負けても恨みっこなしじゃわい」
「というかそもそも勝てるわけがないでしょう」
僕の言葉を聞かずに、スティーブンは足を踏みならす。
というか、ここでやる気か。ここは集会場でも、武道場ではあるまいに。
「三年の研鑽の結果、ここで見せてやらにゃ」
「…………」
スティーブンの雰囲気が一変する。
先ほどまでの威厳溢れる姿とは違い、少年のような若々しい雰囲気で僕の前に立つスティーブンに、僕も痺れる足を癒やしながらしぶしぶ立ち上がった。