閑話:ニコライ事件
閑話が続いて申し訳ないです。
あと一話で、しばらく主人公視点が続くようになります。
懐に入れた手に、ずしりと重みが響く。
その金属の刃の冷たさが衣服越しに胸に響き、張り付くような感触がある。
もう一度、懐剣を握りしめてニコライは唾を飲み込む。まだ十九歳の彼はその足を雪に埋めながら、じっとメルティの居宅を見つめていた。
ニコライは製塩技師だ。
リドニックの各所にある塩鉱山。その中で、岩塩層へ水を流し込み、溶塩させた溶液を釜で煮詰め、不純物を取り除き製塩する。そんな作業を繰り返す職人集団の一人である。
塩は生活の必需品である。塩分は食肉や一部の植物からも取れようが、やはり製塩された塩の結晶は保存にも使用にも便利だ。彼らの仕事は海のないこの国ではなくてはならないものだった。
成人前から、親方に倣い続けてきたこの仕事。
そんな仕事を放り出し、ここまできた。
吹雪を越え、革命の嵐を抜けて、白い波をやり過ごした。
これで国は楽になると思った。生活必需品を作る製塩技師は先王の圧政の影響をほとんど受けなかったものの、それでも生活は厳しかった。そんな王が倒れ、新しい王が立ち、これで生活は楽になると思った。新しい王が、よりよい政治をしてくれると思った。
しかし、ニコライはその後の報を聞いて愕然とした。
製塩技師である。基本的に生活は鉱山にこもり、たまに麓の鉱夫街で過ごす程度の。当然、勉学に励むこともなく、政治には疎い。それでも、その報がおかしいことはわかった。
民主化。
新王ヴォロディア・スメルティンは、国王の座を放り出し、民に政治を任せると言う。
何を言っているのだろうと思った。国の頭たる王なくして、国が立ちゆくものか。
いいや、もし立ちゆくとしても、問題はいくらでも出てくる。
もしも、選ばれるために甘言を弄しただけの輩がその中に紛れてしまえば、その時点でその制度は成り立たない。その選ばれた者が、権力を持たせるに足るだけの輩であると、誰が保証できよう。
地雪崩や灰寄雲などの災害の報を聞き、その対策を取るのは誰だ。一刻を争う中で、合議などしている暇などあるものか。
民主化とは国民が平等であるという建前の下行われると聞く。
ならばそもそも、選ばれた民だけの合議をするというのは平等なのだろうか。
そして何より、もっと直接的な問題が既にある。
ここリドニックは過酷な土地。国土の九割以上が雪に覆われ、野生の植物はままあるが、基本的には採掘された黒土の上でしか作物は育てられない。
そんな中、南に二つの大国がある。ムジカルとエッセン、その二つの大国の意向の重みに、その議会は耐えられるとでも言うのだろうか。
人は弱い生き物だ。
責任もなく、そして歩む道が苦痛であれば、すぐに歩みを止めてしまうだろう。
大国に抗う道。それは間違いなく苦痛の道だ。先王はその肩に責任を乗せて、孤高の中、この国を守り続けてくださっていたというのに。
ニコライは、涙が出そうになる。
玉座とは、軽いものではない。皆が一団となってその重い荷物を背負えるならばそれもいいかもしれない。だがしかし、伝え聞くヴォロディア王の意向はその真逆だ。
まるで、自分が背負いたくないから人に任せるというもの。その後のことは考えているのだろうか。
いいや、いない。そうニコライは断じた。
ならば、背負わされた側もそうだろう。背負わされた者たちは責任も重みも分散され、その軽さ故にすぐに投げ出してしまうようになるだろう。
所詮は民。ニコライ本人も実感はないが、同じように彼らも為政者の責務を実感したことなどないのだから。
故にニコライは民主化に反対し、仲間を募り、何度も集会を繰り返した。
これからの国を憂う仲間を募り、酒場で、集会場で意見を交わし続けた。そして、その意見に賛同する者は殊の外多かった。すぐに仲間は集まり、王党派と呼ばれる者たちの中でも一大勢力となっていった。
集まってきた仲間には、既に余命幾ばくもないであろう老人もいた。飢饉から守りきれなかった家族のために、少しでもこの国の屋台骨が緩まないように何かがしたいと。
酒場で話していると、こんな話が出る。
革命軍は先王の首を落とした。ならば、今の王の首も我らで取れるのではないだろうか、と。
ニコライは、酔い混じりの仲間の口からその話が出る度に頷き、それでも『いや』と首を振ってきた。
今、ヴォロディアは国王だ。自分たちは国を守りたいのであって、国を荒らしたいわけではない。王を失えば、少しずつ安定してきたこの国の生活がまた乱されてしまう。
それに、やはり戦力が足りない。噂では、以前の革命軍には強力な魔法使いが味方に付いたという。見えない速度の鉄塊が騎士の鎧に突き刺さり、その命を確実に奪っていったと聞く。紅血隊員と並ぶ、この国の最高戦力の一人、騎士団長の命すらその男が奪ったと。
それでも、誰かが何とかしてくれると思っていた。
王城にいる心ある誰かが、民主化などという腑抜けた考えを正し、ヴォロディア王を正しい方向に導いてくれるのだと。
仲間とともに、炊き出しや、もしもの時に備えた軍事訓練を重ねながら待ち続けた。
そうやって慰め合い、数年。
だが、一向にその心ある士は現れなかった。
白い雪が鼻先に落ちる。
空は青空だが、きっとこれからしばらくすると降ってくるだろう。雪国では『雪が舞う』と表現しているその現象に、一層体が冷えた気がした。
心ある士は現れなかった。
ならば、自らが立つしかあるまい。そうみんなが考え始めた頃。
突然だった。その転機が訪れたのは。
メルティ・アレクペロフの突然の帰国。
この国の王族は、革命時に全て絶えてしまっていた。彼女を除いて。
屋敷を襲撃し、広場へと引きずり出して首を落とす。その革命軍の――主に、そこで初めて参加した民衆の仕業なのだが――偏執ともいえる丹念な仕事で、王位継承権を持つ者は嬰児に至るまで死んでいた。
そして、彼女も亡命していった。南の大国の一つ、エッセンへ。
もう絶望的だと思っていた。かつての王族の復権は。
それが、出来るかもしれない。そう俄に王党派は沸き立った。
ニコライもその一人だ。
武器を集め、王城の襲撃計画を立てて、メルティとの連絡を図る。
王家の復権は彼女の悲願でもあるだろう。そう思い込んでいたニコライは、周囲と連携を取りながら、迷いなくその計画を進めていった。
しかしその計画は、一度も決行されなかった。
もう少しで、あと数日で。その時期になると、決まって幇会が瓦解してしまうのだ。それも、いくら警戒し、綿密に進めてもなお。
決まって、それは計画の中枢にいた参謀や、幹部から起こる。まるで初めから全て予定されていたかのように計画が立ち消えてしまう。時には衛兵や騎士の襲撃で集会が消えていく。
そして、血気に逸った人間は凶行に走り、牢獄へと送られる。それでもなお一人も処刑者が出ていないのは不幸中の幸いだとニコライは思っていた。
そんなことが幾度も繰り返され、ようやくニコライは気づく。
妨害されている。いつからかはわからないが、計画は全て察知されている。そして初期の段階で潜り込んできた鼠が、その完成しそうな計画を囓るのだ。
気づいてからは、ニコライも鼠に警戒を払った。
立案してきた襲撃計画に瑕疵がある者。親兄弟親類が王城で働いている者。急に懐に余裕が出た者。その他、誰かと隠れて連絡を取っている者など、ニコライは見張っていた。
もちろん、大半が濡れ衣だ。鼠と思わしき者の隠れての連絡が、恋人との文のやりとりだったこともある。王城で働いている兄弟と思わしき人間が、同姓同名の別人だったこともある。
それでも、調査の末ようやく見つけた。鼠の親玉。その首に首輪を巻き、鈴をつけていた人物。
元革命軍幹部。マリーヤ・アシモフ。今も王城で働く元女官である。
知ったところで、ニコライにはどうすることも出来なかった。
相手は王城にいる。衛兵も騎士も常に駐屯し、警備も万全の城の中。当然、相手がか弱い女性だろうと、武力に訴えることは出来ない。
退役した騎士や衛兵を教官に迎えて軍事訓練をしているとはいえ、それが出来ないことは自分でもわかった。
ならば、言論では?
彼女の考えを挫くことが出来れば、妨害はなくなるかもしれない。考えを変えることが出来れば、支援すら期待できるかもしれない。
そうニコライは考えた。甘い考えを、甘いとも考えずに。
結果はこのざまだ。
マリーヤ・アシモフは言論の場においても強大な存在だった。
言い返すことが出来なかった。議会に入った者に対する弾劾の取り決め、基準。災害時の命令系統の変化、強制力を持たせる法。その他の取り決めは、既に終えていた。
ニコライには気がつかないが、きっとその場で指摘できる穴もきっとあったのだろう。けれど、その場で言い返すことが出来なかった。それほど綿密に進められているのであれば、仕方ないのかもしれないとニコライすら思った。
彼女は、その民主化に対して真剣なのだ。その『民主化』が作る世界について、真剣に考え、理想を追い求めて実行している。
故に、勝てなかった。そう思った。
それに。
ニコライは、終わってから気がつく。
人は皆平等。彼女が取っているその立場からすれば、なんの官位も権力もない彼を討論の場に上げた時点で、マリーヤは彼に勝利しているのだ。彼の理想が実現した暁には、そのような場すら持てなくなるはずだった。
勝てなかった。
そう気づいたときには、涙が滴り落ちていた。
この国がなくなってしまう。王の下、国民が一致団結して守ってきたこの国が。騎士や紅血隊員が魔物と戦い、命を散らしてまで守ってきたこの国が、ついに。
王がいない。そんな国の、どこが国だろうか。
王、国民、国土、そのどれが欠けても国は成り立たない。そう彼は信じている。
王などいらないというヴォロディアは、国を滅ぼそうというのだろう。そして、それに付き従う官吏たちは、国を滅ぼすための手続きを徹底しているのだ。
その論敵マリーヤを、ニコライは羨ましく思う。
その思想に彼女は殉ずる覚悟なのだ。それ故に真剣で、自分の抗議に受けて立ち、そして勝った。
ニコライは自分の腿を叩き叱咤する。
もう、ふざけるなとは言えない。彼女はふざけてなどいない。
ならばこそ言ってやる。負けてたまるかと言ってやる。
彼女は真剣だ。それは認めよう。だが、自分も真剣だ。真剣にこの国のことを考えて、真剣にやってきた。
彼女はきっと命をかけているだろう。
そうなるはずだ。もしもこの国を民主化した暁には、ムジカルかエッセンか、その両方かに攻められてこの国は陥落する。彼女もきっと死ぬことになる。そうニコライは信じている。
ならば。
自分も命をかけている。かけてようやく同じ場所に立てる。対等になれる。
掌の中の懐剣が熱を帯びる。握り続けていた指が軋んだ。
一歩踏み出せば、メルティの邸宅だ。
その扉の両脇に立つ衛兵が、じろりとニコライの顔を眺める。
衛兵も、ニコライの顔は知っている。通達があった、王党派の中の過激派に属する人間。ここが王城ならば止めるべきだろう。だが、ここはメルティの邸宅。王党派からすれば守るべき人間の邸宅だ。
故に、通常の来客と同じ対応。威嚇はせず、誰かと誰何するだけにとどめた。
「どちらさまでしょうか?」
「ニコライ・コルニーコフと申します。何通か手紙をやりとりさせていただいているのですが、その中に、これが……」
言いながら、ニコライはゴソゴソと外套の懐を探る。そこから出てきた掌大の小包に、衛兵は首を傾げた。
「こちらは?」
「中をご覧になっていただければわかるのですが、……直接話したいので、通していただけませんか」
「それは、中を確認してからだなぁ」
仕方ない、と衛兵はため息をつき、相方を見る。受け取った小包に目を戻し、眉を顰めた。
「こらまた随分と固く……」
「ああ、申し訳ありません」
その紙のような葉で包まれた小包は固く麻紐で縛られ、容易には解けなくなっていた。
仕方なく、革の手袋を外し、紐を解きにかかる。冷える爪の先で何度も引っ張り、ようやく結び目が緩み始めてほっと一息を付いた瞬間、俯いていた衛兵の後頭部に衝撃が走った。
「っ…………!!?」
「貴様!!」
相方が吠える。しかし槍を向けたときにはもう遅く、ニコライは殴られ怯んだ衛兵を羽交い締めにし、首筋に刃を突きつけていた。
「……下がれ。大きな声を出すな。槍を置け。命令に従わなければ、刺す」
流れるような行動は、ニコライの軍事訓練の賜である。
仕方なく相方は槍を手放し、両手を挙げて空手であることを示した。
とりあえず第一段階は成功だ。そう内心安堵しながら、ニコライは顎で扉を示す。
「開けろ。ゆっくりと、だ」
一瞬の躊躇。だが、衛兵に突きつけられた刃が喉元に触れるのを見て、相方はすぐに行動に移す。玄関の扉が開かれ、そしてその扉の裏に閂があるのを確認して、よし、とニコライは頷いた。
「門の外まで下がれ。大丈夫だ、命令に従っていれば刺すことはない」
「っ! 俺に気にせず制圧し……」
「……大きな声を出すなと言った」
意を決して相方に指示を出そうとした衛兵も、喉元に微かに滴り落ちる血の滴に声が出せなくなる。不本意なことだと、ニコライも内心ため息をついた。
ここからは時間との闘いだ。ニコライは、調べていたアレクペロフ邸の見取り図を思い返す。この時間ならば、メルティは廊下の中程を右に折れて、突き当たりを左に曲がった部屋にいるはず。障害として残っているのはソーニャ・ロゴシュキンであるが、彼女は先ほど使いに出たのを確認している。
「…………!!」
相方が門に下がったのを確認し、一息に衛兵を蹴り飛ばす。
背中をしたたかに蹴られた衛兵は前につんのめりながらも、相方のもとまで弾かれた。
急ぎニコライは扉の中に滑り込み、閂を閉める。
心臓が鼓動を強める。鳴り止まない心拍音はニコライの耳まで届き、まるで扉を叩いている音のように聞こえた。
時間がない。
こんな薄い扉では、衛兵は簡単に蹴破り入ってくる。
その前に状況を完成させなければ。その前に、メルティ・アレクペロフを確保しなければ。
扉を閉めて、一息つく間もなく振り返ったニコライ。
その視線の先で、金の髪が光を弾いた。
廊下の中程で立ち止まったのは、玄関の外のわずかな騒乱の音に、何事か、と歩いてきたメルティ。
ニコライは、天意は我にあると、そう感じた。
「大きな声を出さないでいただきたい。姫様を害する気はございません」
「…………」
拘束は殊の外簡単に済んだ。椅子に座らされ、抵抗なく後ろ手に縛られるに任されたメルティを不審に思いながらも、ニコライはその前で跪く。
美しい姫だ。間近で見て、そうニコライは感じた。
年の頃は同じくらいだろう。先日見たマリーヤ・アシモフも相当な者だったが、それに勝るとも劣らぬほどの美しさがある。もっとも、あちらは美しいという言葉が似合い、こちらは可憐という言葉が似合うのだが、とニコライは付け加えた。
「……何が目的ですの?」
「以前からお送りしていた文。その中の一つを、実行していただこうと」
「文の……?」
文、と言われてメルティは以前から送られてきていた手紙の束を思い出す。
一日数枚は届くそれ。大半はメルティに対する恨み言や罵詈雑言で、ソーニャも隠そうとしていたが、メルティは自ら進んでそれに目を通していた。
その中の、どれだろうか。思い至らず、首を傾げた。
「……申し訳ありませんがー。私宛の文はとても多く頂くので……。目を通してはおりますが……」
「ええ。突然のことですので、おわかりになられなくても結構です。私は、貴方様の助けになろうと参ったのです」
深くニコライは頭を下げる。困らせているのは自分だ。そう反省していた。
玄関から音が響く。数名の手勢が増えたとニコライは感じた。準備が整ったために、突入してきたのだろうと。
だが、そこまではニコライも承知の上だ。
「申し訳ありません。しばらくは、私の話におつきあいください」
「…………?」
困惑に固まるメルティを無視し、ニコライは振り返る。廊下の曲がり角を警戒しつつ、衛兵がこちらへ向かう影が見えた。
その影に向かい、丸めた文を投げつける。
「それ以上近づくな!! こちらの要求はその紙に書いてある!!! 日没までに実行しろ!!」
声の出所から、こちらに手が届く範囲にはいないだろう。そう判断した衛兵が、曲がり角からゆっくりと姿を見せて、文を拾う。
そして、ニコライと名乗った男が、縛り上げられたメルティのすぐ前にいるのを見て警戒の度合いを上げた。
「要求は、なんですの?」
衛兵が一度下がる。それを見つめていたメルティが、ニコライに再度尋ねた。
ニコライは一歩下がり、片膝を立てる。メルティに対して失礼にならないよう、そして衛兵が何をしてもある程度対応できように。
「騎士と衛兵を、この屋敷の前に集めさせます」
「……何のために?」
やはりわからない。メルティはそう結論づける。
自分を餌に、何かを要求する。それは当然この状況を見ればすぐに読み取れる。しかし、ここに騎士や衛兵などを集めてどうするというのだろう。自らの危険を増やして、何がしたいというのだろう。
まさか、自分の命を盾に、騎士や衛兵を従えようというのだろうか。
わからない。もしそうしようとしても、その場合は自分はきっと見捨てられるだろう。今や王家の身分はなく、市井の娘と変わりない。その上、多くの人に憎まれている。
そして、もしも見捨てられないとしてもやはりわからない。拘束されているこの部屋には窓もあり、衛兵たちが本気になれば彼はすぐさま殺されてしまうだろう。昔余興で見たことがある。一人の兵士が、二十歩先の距離にある小さな的に、小刀を投げつけ突き刺すのを。
ニコライがゆっくりと口を開く。
「貴方には、この国の女王になっていただく。そのために、私は来た」
「女王……?」
聞き慣れない言葉にメルティは眉を顰める。いいや、聞いたことはある。女王とは、王となった女性のこと。
そこまで考えて、また困惑が浮かぶ。この国の女王になれと言う。つまり、目の前の青年は自分に国を統べろというのだろうか。
「……そんなもの、なれるわけありませんわ」
「いいえ、なれるのです。この国に今残っている王族は貴方ただ一人。貴方にしか出来ないことです」
なれると言い切った青年の真摯な目。その目を見つめて、メルティは何故か悲しくなった。
「何度も協力を申し出ましたが、一向に返事がいただけませんでしたので、今日はこちらから参りました。どうか私に、リドニック王への忠義を果たさせてください」
「もはや先王は身罷りました。今の王はお父様ではなくヴォロディア王。忠義を果たすのであれば、そちらにお願いいたします」
「……あれでは駄目です!」
強くニコライは首を振る。一度床に叩きつけた拳が痛んだ。
「民主化というものを推し進め、玉座を手放そうとしている王に何の価値がありましょう? 国を背負おうとすらしない王に対する忠誠など、私たち国民が向けるわけがありません」
「しかし、実際には人気です」
メルティも何度も聞いていた。ヴォロディア王の名声、人気。彼の言葉に勇気づけられたという噂話は、衛兵たちもよく話している。
「……心配はないでしょう。マリーヤもいます。この国は、きっと守られる」
もちろん守られたその国に、自分の居場所は存在しないが。そうメルティは内心自嘲した。
「……貴方、お名前はー?」
「ニコライと申します。ニコライ・コルニーコフと」
「そうー」
メルティはニコライに笑いかける。花が咲いたような、明るい笑顔を向けた。
「ニコライ。私が王に相応しいというのであればー、私の命令を聞いてくださらない?」
「なんなりと」
ニコライの態度に、以前の国を思い出して可笑しくなる。革命前では、城でも誰も彼もが自分の命令を聞いてくれたのに。
ゆっくりと桜色の唇を開く。
「どうか、信じて見守ってあげてくださいな。もう私は姫ではありません。今この国を統べるのは、ヴォロディア王。そして行く先を決めるのは王城で働く彼らですの。私が一言添えれば、大きな罪にはならないでしょう、これからは、貴方も一緒に……」
「……姫、さま……?」
メルティの言葉に愕然とし、ニコライはその言葉を遮る。
膝から崩れそうになった。
認められるわけがないのだ。この国を統べるべきはメルティ女王。そして、行く先を決めるのもメルティ女王のはずだ。そうニコライは信じている。
「……弱気なことを仰られないでください。不足があるのであれば、私たちが精一杯お支えします。貴方しかいない。この国を守るために、お願いします」
「そう言われましても、そうする気はありませんの。申し訳ありません」
笑顔が陰る。困ったように眉を寄せながらの笑顔に、ニコライは裏切られた気がした。
無言で時が過ぎる。
時を刻む鐘が鳴り響き、立てこもり開始から半刻が経つことを二人は知った。
それから少し後、外が騒がしくなる。建物の全周が取り囲まれた。そう知ったニコライは立ち上がる。俯いていたメルティも、それに応えて顔を上げた。
「集まってきたようです。騎士や衛兵、それぞれ三隊以上……この様子では、集まったようですね」
約束を違えることはなかった。もちろんそうなるだろうとニコライは思っていた。約束が履行されなければ、人質の命が危ないのだから。
「……何をしますの?」
「説得です」
ニコライは一歩踏み出す。それから逡巡し、振り返りメルティに歩み寄った。
「申し訳ありませんが、お立ちください。失礼ながら、人質とさせていただきます」
「……勝手になさいませ」
メルティの後ろ手を縛った縄を持ち、ニコライは歩く。本当はこんなことしたくないのに。その後ろ姿に、そう思った。
ふいに、メルティが口を開く。ニコライを見ずに。
「殺されるとは思いませんの?」
誰に、とは言わない。だが明白だった。これから向かう先には衛兵や騎士が大挙しており、そして皆武装しているだろう。凶悪犯として存在するニコライの命は、今や大風の前の木の葉だろうと、メルティは思った。
「殺されるかもしれません。ですが、それでも構わないのです。どうせ、私は死にます」
二人は廊下を歩く。壁にぶつからないようにしずかに。
「騎士たちが集まらなかった場合には、メルティ様を刺し、私も果てると要求文には記してあります。幸運にも、そうはならずに安堵しました」
本心だ。そんなことになれば、何もならない。ただ、これから来る結果を早めるだけのことだった。
「死ぬのはおやめなさいませ」
メルティは静かに目を細める。そうだ、自分も昔死のうとした。そのときは失敗したが、こうして生きている。きっと責任を取るというのはそういうことなのだろうと思う。
だが、ニコライは首を振った。
「いいえ。これだけのことをしたのです。責任は取らなければ」
角を曲がる。廊下の先の明るさに、ニコライも目を細めた。
「これから私は、騎士たちに向かって決起を促します。それが終わり次第、メルティ様を解放して、私は果てる」
どちらにせよ、自分は死ぬのだ。
要求を飲まれても、飲まれずとも。
「そのようなことに、どんな意味が……!」
「すぐに行動に出る者はいないかもしれません。ですが、きっと私の志は誰かに伝わる。この志を、誰かが継ぎ、そしていつか民主制を打倒してくれる。私はそう信じています」
マリーヤは命をかけてこの事業に取り組んでいる。
ならば、自らも。そう考えて、ニコライは唾を飲む。
命をかけて、この事業に取り組む。そうしてこそ、マリーヤ・アシモフと対等になれるのだろう。
見ていろ、マリーヤ・アシモフ。これがニコライ・コルニーコフの命のかけ方だ。
メルティとニコライ。
玄関から足を踏み出した二人を見た衛兵たちが、おお、とどよめきを漏らした。
玄関先には、大勢の鎧が集まっていた。
衛兵と騎士、それぞれ三隊以上。一つの隊を五人で組む以上、最低でも三十人を越える大人数であるが、屋敷の周囲に散開した分も含めるとその三倍もいるようにニコライは感じた。
実際に集まっていたのは九隊。およそ五十人だ。
「聞け!! 心あるリドニックの守護者たちよ!!」
立ち止まったメルティを通り越すように一歩踏み出し、白い鎧の群れに向けてニコライは叫ぶ。
しん、と静まりかえった邸宅前に声が響く。叫び声に近い大きな声だった。
「今こそ立ち上がるときだ! 真に守るべきものを見定め、偽りの冠を叩き割るときである!!」
変わらぬ静寂。ニコライの一挙手一投足に注意が向けられ、その視線が熱を帯びる。
ただ衛兵の鎧の立てる音がニコライの耳に響いた。
「諸君らの主は誰だ? あえて言おう、それはヴォロディア王ではない!!」
唇が切れて血の味が口内に満ちる。それでも、ニコライには心地よい。
「このままでは、諸君らの主はヴォロディア王ですらなくなる! 民主制!! 民を主にするなどという蛮行のもと、諸君らの主として民が君臨するのだ!! そんなことを許せるだろうか!!?」
開いている扉を拳で叩き、大きな音を立てる。背後でメルティが身を竦めるのも構わず。
「思い出せ! リドニックの心を! 王の下、忠実に国を守り続けた諸君らの誇りを思い出せ!」
「……異常者め……」
ぽつりと誰かが呟いた。それでも、風に紛れたように、ニコライは聞こえないふりをした。
事実、一心不乱に叫び続けるニコライは、狂人にも見えた。少なくとも、半分以上の衛兵たちには。
「諸君らの主は誰だ!? 私たちの主は誰だ!? 断言する、メルティ様以外の誰がいようか!?」
ニコライにとって、沈黙が心地よかった。皆が自分の話に耳を傾けている。そう感じた。
幾人かの騎士たちの小刀が、自分の眉間を狙っていることに気がつかず。
「メルティ様!!」
人の塊の後ろから声が響く。その聞き慣れた声にメルティが視線を向けると、騎士たちを押しのけて集団の前にソーニャが出ようと必死にもがいていた。
だが、騎士たちがそれを押し留める。邪魔をさせないためではない。ただ、不測の事態に備えてである。
突然の乱入者に舌打ちをしたニコライは、それでも演説を止めない。
大きな手振りで、注目を引き戻そうと必死になった。
「もう一度、王を戴こう! 私たちにはメルティ様がいる!! リドニックで王に相応しい唯一の方がいる!! もう一度一つになろう!! そうでなくてはこの国は守れない!! 北の魔物は消えても、南の二つの大国は、常に私たちを狙っているのだ!!」
「そんな女なんかに……!!」
思わず衛兵が叫ぶ。先の飢饉で老いた両親を亡くした一人だった。
止まらない。ニコライの叫びに、怒りが頭を支配する。
「王族を戴こうなどふざけるな!! もうこの国に王はいらないんだ!!」
ニコライの背後で、メルティが息をのむ。
耳を塞ぎたい気分だった。どうしていつも、こうなのだろう。
自分とは関係のないところで諍いが起きる。自分とは関係のないところで諍いが終わり、その火の粉は自分には届かない。
今もなお、ニコライが叫び、衛兵が応えている。
自分は。ここで、本当は自分は何をしなければいけないのか。
何をしないからこうなっているのか。
わからなかった。けれど、何かをしなければいけない気がした。
「王なくして国があるとおもうか!」
ニコライも怒りにまかせて一歩踏み出す。雪に足が深く埋まった。
「このままではこれから先、この国は間違った歴史を歩み出す!! それを止められるのは心ある諸君だけなのだ!! 立て! 目を覚ませ!!! 正しい歴史を歩み直さなければ……!」
ニコライの言葉が止まる。鋭い衝撃が肩に走り、蹈鞴を踏む。
「……っ!?」
その肩を見れば、深々と突き刺さった細い小刀。鍔もなく、白く塗られているのは投擲用故だった。
怯んだ。動きが止まった。それを確認した騎士隊長の一人が叫ぶ。
「かかれ!! 人質を最優先にし救出!!」
「く、そ……!!」
慌ててニコライも懐剣を振り回す。威嚇のために振り回し、そして隙あらば切りつけようと。
飛びかかってきた一人の衛兵。その穴だらけの鎧の隙間に刃を突き立てる。手首が抉れ、白い雪面に血飛沫が飛んだ。
返す刀でもう一人。首筋を狙ったが鎧に阻まれ、それでも滑りながら頬を切った。
しかし多勢に無勢。
もはや抵抗の意味はない。腕を押さえ込まれ、懐剣を取り上げられ、ニコライは制圧される。
両腕を抱え込むようにしてそれぞれ二人が持ち、雪に両膝をつかされていた。
「くそ、離せ!! 貴方たちは……」
「陣形五! 二隊に分かれ……!」
「自分たちの力を捧げる相手を選ぶんだ!!」
「黙れ!!」
布で猿ぐつわを噛まされ、ニコライの演説はついに止められる。
まだ抵抗を続けながらも、制圧された事実にニコライの目に涙が浮かんだ。
「ご無事ですか!!」
ソーニャもメルティに駆け寄る。そしてその後ろ手に縛られた姿に卒倒しそうになりながらも、強引にその紐を引きちぎりにかかった。
「ありがとう、ソーニャ」
礼を言いながら、自らの手首を見る。緩く縛られていたとはいえ、鬱血した後が手枷のように残っていた。
「治療師を手配します」
「……いりませんわー」
見かねたソーニャの言葉に、メルティは反応する。それでも、手首から視線を外さぬまま。
「ほら、来い!」
「…………っ!」
強制的に立たされ、引っ立てられるニコライ。その足取りはおぼつかず、ただ引きずられていくだけのように見えた。
「……待ってくださいまし」
その後ろ姿をメルティは呼び止める。
その理由は何故だか自分でもわからない。それでも、その言葉が出たのを不思議には思わなかった。
一歩歩み寄れば、衛兵は不審に思う視線で返す。
「彼は、今後どうなるのでしょうかー?」
なんだ、そんなことか、とメルティの質問に衛兵は胸を撫で下ろす。
そして視線を和らげると、衛兵は口ごもりながら答えた。
「どうするもこうするも、人質を取って立てこもり、騎士を扇動しようとした男ですからな……。怪我人も出てますし、重罪でしょう。これまでの経歴や事情によっては極刑まで届くかもしれませぬ」
安心してくれ、という意味を込めてメルティに笑いかける。
だがその笑顔を見ても、メルティの顔は晴れなかった。
「……死ぬ気だった、のでしたね」
小さな呟きのような質問。それでも、それがはっきりと耳に届いたニコライは、目の見開きで返答した。
メルティはその姿に一抹の悲しさを感じた。
彼は死ぬ気だった。死んで責任を取る気だった。その死が、無意味になることはないと信じて。
でも、違うのではないかとメルティは思う。
死が無意味になることはないかもしれない。けれど、生きていることにはきっともっと意味がある。そう考えようと努力してきた。
以前、あの妖精染みた探索者に言われたこと。
『生きて責任を取れ』
その言葉について、ずっと考えてきた。自分はこれで責任を果たしたといえるのだろうか。ただ国へ帰ってきて、そして恨み言を聞いて、それだけでいいのだろうか。
そう考えていた。
マリーヤに、『自分の頭で考えろ』と言われて、ずっと考えてきていた。
自分はこの国に何をしに来たのか。
言われるままに、ではなく、自分の頭で考えようとずっとしてきた。
そして、今少しだけわかった気がする。
生きていることに意味があるのかどうかはわからない。
けれど、意味はあった。少なくとも、あのイラインでの夜、寝台の上で死のうと考えたあのとき死ぬよりも意味はあった。
意味はある。自分の命の使うその時は、あの日ではなかった。
「死なないでください」
懇願の言葉。本心が、ようやく出た気がした。
「マリーヤの目指す国。その国には、貴方のような人もきっと必要です」
お願いします、と目で訴える。
その願いが通じたのかメルティにはわからなかったが、それでも願いが通じた気がして嬉しかった。
命令ではなく、願いごと。言葉の種類が変わったのはいつからだろうか。
衛兵に視線を向ける。
今度は何を言うのかと、衛兵は身構える。その仕草が少し可笑しくて、メルティの唇が綻んだ。
「全て、私が仕組んだことですわ。彼は、ニコライ・コルニーコフは私の命令に従っただけ」
「……メルティ様!? 何を……!?」
何を言うのか。そうソーニャが慌てて声を上げる。
「私の文箱を覗けば、私への彼の手紙が見つかることでしょう。どうぞよしなに」
ふふ、とメルティは笑う。
衛兵たちに動揺が広がり、そしてニコライが驚きの表情でメルティを見る。
見渡せば、人々の顔が見えた。
ようやく、自分の言葉がみつかった。