閑話:何のための旅
白い雪に足が潜る。雪に埋もれて持ち上がらない足を懸命に叱咤し、二人の女性が雪原を歩く。
前を歩く女性の銀の髪が、雪に濡れた頬に張り付く。しかしその鬱陶しさに構わず、背後の主を振り返った。
振り返った先の少女。その金の髪の上に雪が綿菓子のように積もり溶けていく。メルティ・アレクペロフ。在りし日には、王城の至宝とまで呼ばれていた少女である。
「大丈夫でしょうか」
「え、ええ、何とか……」
銀の髪の女性、ソーニャの問いに、ハァハァと息を切らしながらメルティが答える。
鍛えられていない足、それも、ろくに使われてもいない細い宝物のような足には雪上歩行は酷く堪える。だが仕方ない。彼女らには、もう既に大国エッセンの援助はないのだから。
これはイラインへのカラス帰還からおよそ一年半前のこと。
彼女らはエッセンの庇護から外れ、ただ二人でリドニック首都スニッグを目指していた。
彼女らへの、エッセンの庇護はとうに外れている。大勢いた使用人は解雇され、今となっては世話をする人間もいなくなり、メルティの元に残ったのは手弁当で仕えるソーニャのみ。
エッセンの庇護を受けるために使った理由、神器。その不在が明確になったからである。
それでも、よく保ったほうだとソーニャは思っていた。リドニックの北にある吹雪の中、聳え立つ絶対不可侵の壁、北壁。それが膨れあがった事件の数ヶ月後、リドニックの宝物庫整理の際、神器が『発見』された。
それから二年近くの間、彼女らは世話になり続けていられたのだから。
神器が消えた。その件に関して、彼女らにはいくつもの疑問が残る。
かつての革命、リドニック脱出の際、リドニックの神器〈災い避け〉の姿はソーニャもメルティも何度も確認している。その神器がリドニックで発見されるなどあり得ない。
だが、疑問が残るまでも、その回答も二人は知っている。
ソーニャのかつての同僚。メルティのお気に入りだった女官、マリーヤ・アシモフ。
イラインへの神器の供出を拒んだのは彼女で、そして神器も彼女と一緒に姿を消している。
彼女か、それとも彼女が行方をくらますことを助けた探索者カラスの仕業か、もしくはその両方か。そうに決まっていると彼女らは考えていたし、そしてそれは真実だ。
そう考えても、メルティもソーニャもその行為を咎める気はなかった。そのどれにせよ、同じことだ。
ソーニャは心得ている。神器のなくなったリドニックは、早晩南にある二つの大国に滅ぼされてしまうと。
エッセンから聖騎士団が乗り込むか、それともムジカルから五英将が攻め込むか。
ムジカルの騎爬兵は、トカゲの生態上寒さに弱い。故に、ムジカルは寒冷な国への侵略はしないわけではないが消極的だ。それを考えると、相手はエッセンの聖騎士団が主となる、そうソーニャは考えていた。
神器の持ち出しを考えたのはソーニャだ。
それを手札に、エッセンの庇護を得る。そんな目的で。
そしてもう一つ、言語化もしていないわずかな希望として、顧みても非道な計画があった。
神器のなくなったリドニックは、南の大国に占領される。それは火を見るよりも明らかな事態だ。そしてその後、時期が来たら、正当な王国の継承者をメルティが名乗りエッセンもしくはムジカルの援助の元王国を取り戻す。そんな算段が。
その計画は自覚していたわけではない。ただ、心の片隅にあった。道筋すら明らかではない荒唐無稽な話。そうなってくれたらいいなという希望的観測からなる夢物語。
だが、神器がなくなったことを確認した直後、それを彼女ははっきりと自覚した。
これで計画が破綻した。そう気づいて、初めて。
そして自覚した直後から、幾度となくそれを思い返し自嘲していた。イラインでのメルティの世話をする日々の最中、そしてこの北への旅の途中、何度も何度も。
そんなに主が大事か。自分の愛する国家を蹂躙させてでも、主を守りたいのか。
思い返すたびに、マリーヤとの最後の会話が思い出される。
革命直前、リドニックでは大勢の人が死んだ。その人の死に一切触れさせることなく、メルティを今まで守ってきた。そのために守られた無垢な言動が、マリーヤをさらに苛つかせたのがわかっていた。
マリーヤを謀反に向かわせた一因は、間違いなく自分にもある。それはわかっていた。
それでも、ソーニャは自分の問いに迷いなく頷く。
大事だ。主を守るためであれば、この腕でも目でも耳でも、心臓でも差しだそう。
それがたとえ、メルティの臣民の国であっても。
視界の中で、メルティが足を躓かせる。
重たい雪を押しのけられず、新雪の中から足を持ち上げることが出来なかった。
「キャッ……」
だが、その体は地面の雪に塗れることはない。即座に駆け寄ったソーニャが、その肩を抱き止める。そのソーニャの腕にしがみつくようにして、メルティが体勢を立て直した。
「……ありがとう、ソーニャ」
「いいえ」
主が躓くのであれば、何度でも支えよう。盾になろう。ソーニャはそう決めている。それに、何の苦もなかった。
ただ、主を歩かせていること、それだけが今の彼女の苦痛の元だ。
「……やはり、次の街で犬ぞりを用意させましょう」
「そうしてほしいのは山々ですけれど……、路銀を節約しませんと」
このリドニックに入る直前、ミールマンまでは彼女らは餞別に用意されたイラインの馬車で移動してきた。
そこまでは、いつもと何も変わらない。貴族向けの大きな馬車。四頭立てで、道のりには何の苦もなかった。
ただ、それでも茶葉の等級が下がり、そして窮屈な思いをさせたとソーニャは忸怩たる思いだったが。
その後、最初に入った街で犬ぞりを借りることも出来た。
余裕はないが、それでも犬ぞりを借りることが出来る程度の路銀もあった。
しかしソーニャのその申し出を、メルティは固辞した。
路銀に余裕のない中、そんなものを使うことはない。
それに、スニッグには自分の足で行きたいと。
冷静になれば、馬鹿な申し出だとはソーニャも思う。
路銀に余裕はない。それはたしかだ。たしかに犬ぞりを使わなければ、その分の代金が浮く。
だがそれ以上に、犬ぞりを使わなければ日程が大幅に伸びる。犬ぞりの代金を超える宿泊代や食費がかかる。路銀の心配をするのであれば、強行軍でスニッグまで辿り着いた方が安上がりだ。
しかしそう考えても、ソーニャはメルティの意図を汲み頷くしかなかった。
自分の足で行きたい。その半分は、もちろんメルティの本心である。
もう半分に含まれていたのは、本人も自覚している、怯懦だ。
メルティは歩きながらも思う。
スニッグへは行きたくない。出来ることならば、永遠にこの地で足踏みしていたい。
誰が、好き好んで自分を嫌う集団の下へ向かおうと思うだろう。
馬車を襲撃され、殺されかけた。父も母も死んだ。その死の原因を作った者たちの下へ、今向かっている。そう考えるたびに足が重くなった。
躓く足。その原因は間違いなく雪だ。だが半分は、その足自体の重さだ。
上がる息も、半分は演技。ソーニャが『今日は次の街で泊まる』と言うことを期待しての。
メルティはソーニャに見つからぬよう、きつく目を瞑る。
情けない。そう考えて、目の端に涙が浮かんだ。
ここまで来たのは、自分の過去の清算をするためだ。過去にしたこと、そしてしてこなかったことの。
革命前。酷い吹雪の冬。当時、国民が困窮しているなんて知らなかった。ソーニャの言葉を信じ、国民が皆幸せに暮らしていると信じて疑っていなかった。
お菓子は美味しかった。国民が飢えていることを知らなかったから。一口食べて、飽きたお菓子を簡単に捨てられた。国民が飢えていることを知らなかったから。
知っていれば、自分に何か出来ていただろうか。そう考えるが、自分に何が出来ていたかもわからない。
国の法は知らない。税率も知らない。魚がどう泳いでいるのかを知らない。甘藍がどういう風に育てられるかも知らない。
国で暮らす大切なはずだった人々が、どういう生活をしているかを知らない。
一歩外に出てみればよかった。
マリーヤの話では、飢えのあまり家屋の壁を剥がし、建材まで囓る有様だったという。
その目で国民を見れば、愚鈍な自分にもきっとそれが尋常な光景でないことがわかったはずだ。そこで自分に何が出来るか考えるだけでも、それだけでも今よりずっと上等だった。
足が重い。
そんな愚鈍で愚かな自分は、まだ逃げることを考えているのだ。
スニッグに向かおうと決めたのは自分だ。その場で殺されてもいいし、罰を下されるのであれば受けよう。今更ではあるが、憎しみの声を聞かなければ。今までの自分の精算をするために、スニッグでマリーヤに会う。そう決めたのは自分なのに。
薄く目を開ければ、背が見えたのは子供の頃から自分に仕えてくれているただ一人の忠実な従者。
こんな今の自分にも、迷いなく仕えてくれている優秀な家令。
彼女に縋り付かなければ歩くことも出来ない。躓いてしまえばきっと立ち上がれないだろう。
もっとも、怖いのはスニッグだけではない。最初の街は、ただただ恐怖だった。
一歩街へ踏み込み、人々の姿を見ればそれが即ち恐怖の対象だ。
ここはもうリドニック。愛すべき故郷で、今は自分への怨嗟であふれている国だ。
当然乳飲み子を除いて、今街で生きるほぼ全ての民は、革命の空気を経験している。
この国の民は、王族の首を刈るのだ。それが理由あってのことだと今のメルティは理解している。
だが未だに恐ろしかった。
この国の寒さ故に往来で喋る者は少ないが、それでも街を歩く人々がいる。マリーヤの剣幕を思いだし、その人間が豹変して襲いかかってくるのではないかとメルティは怯えた。
すれ違う人の手に、刃物が握られておらずに安堵した。帽子を被っている人間を見るたびに、悍ましい妖精の影を感じて足が止まった。
今日はまだ歩く。宿泊できる街へはまだ遠い。
だが、前を歩くソーニャの姿を見て、少しだけ心安らいだ。
この国に舞い戻ってきたとき、初めて歩いた雪原はひたすら億劫で、ただ退屈なところだった。
しかし、今となっては。
ソーニャと自分の立てる音が響く。風の音が時折混じり、耳の横を通り抜ける。
サクサクと固まった雪を割れば、足跡の周りに亀裂が走る。
今となっては、この国で唯一安らげる空間。それがきっと、この雪原だ。
メルティの目の端が、凍り付いて痛んだ。
雪で覆われた半球状の建物が並ぶ。
煙突からは煙が上がり、そこに人が暮らしていることをありありと示している。
街、このリドニックでは一般的な。
その雪に覆われた純白の建物群に辿り着き、メルティは息を吐いた。
疲れた。足が棒のようだ。足の裏が擦れて熱を持ち、脛の筋肉が激痛を発している。
もうどこかで休みたい。そうねだろうとしてしまうのは未だに直しがたいメルティの癖だ。もっとも、今日の宿をこの街で取ろうと考えているソーニャにとってはその言葉は肯定されるべきものなのだが。
街を出る人がすれ違う。
その度に、メルティの肩が震えるのを見てソーニャは痛々しいと感じた。
実際、そんな心配をする必要はほとんどないのだ。
メルティは王城の宝物として育てられた。そして、宝という物は大事であればあるほど秘されているもの。
故に、市井の者でその顔を知るものはほとんどいない。伝えられている髪の色も、金はこの国ではありふれている。ソーニャの銀の髪は金よりも少ないが、それでもいないわけではない。
黙っている限り、すれ違う者がメルティに気がつくはずがないのだ。そうソーニャはなんどもメルティに告げたが、それでもメルティは怯え続けた。
無意識にその動作を追ってしまう。その手に握られた荷物が、自分を襲うための凶器に見えた。
もっとも、この国に満ちているメルティ・アレクペロフへの恨みも本物だ。
仮に彼女がそこにいると知れれば、一介の庶民すら何をするかわからない。
彼女は象徴。苛烈と思われる法により国民を相手に惨殺を繰り広げた、かつてのリドニック王家の。
故にソーニャも、メルティの名は口にしない。余計な詮索を防ぐため、万が一にもその名を呼ぶことを憚られた。
メルティたちは踏み固められた雪の道を歩く。
新雪ではない雪の大地は足も潜らず、土と比べても柔らかいものの、街の外よりは幾分か歩きやすかった。
「もうすぐ雪が降ります。この様子では、明日まで続くかと」
メルティはソーニャの言葉に頷く。もちろん、自分が見上げてもそこに広がるのは雲が多いが青空で、その天候を読むことは出来なかったが。
「今日の宿をこの街で決めるといたしましょう」
「わかりましたわ」
だが、ソーニャに逆らうことはない。ソーニャが自分に嘘をつくはずなどない、とメルティは信じている。それをわかっているからこそ、ソーニャはメルティに悪意ある嘘をつかない。互いに信じ、裏切らない。互いにそれは堅く守られていた。
「お腹空きましたわ……」
クウ、とメルティの腹が空腹を主張する。しばらく宿を探していた最中のことだった。
この国では人の流動は少ない。街間の移動はあるが、それも日帰りで帰れる程度の移動が主で、宿泊すること自体少ない。故に、エッセンの国民向けに営業される国境付近を除き、国内に入ってしまえば宿がない街すらままあるほどだ。
この街ではいくつかあるにはあったが、どこも少人数ながら既に部屋が埋まっており、メルティたちは途方に暮れていた。
次の街へ急ぐか、それとも聖教会の治療院の軒下を借りるか。そんな判断を迫られるほど。
「とりあえず、食事をいたしましょうか」
「そうしてくださればありがたいです……」
だが主の空腹の解消は急務だ。メルティの言葉に宿探しを中断し、即座にソーニャはその捜索対象を切り替えた。
適当な飯屋に入った二人は、席に着く。
それから路銀の残量を誰にも悟られないように、慎重に銅貨を従業員に差し出す。その従業員が、二人の顔を見て一瞬動きを止めたのに気がつかず。
「すぐお持ちしますので」
「頼んだ」
従業員の男性は、客向けの笑顔を浮かべて二人を見る。それから厨房に入っていくと、グツグツと煮立っている鍋から米粒が砕けた粥をよそう。
ソーニャはその仕草を見つめ、そしてメルティの顔色を窺った。
運ばれてきた粥を見て、メルティはため息をつく。それが旅の疲れによるものだと誤魔化しながら。
「いただきましょうか」
「……はい……」
習慣から、メルティが食べるその前に、ソーニャが自分の分の粥を匙の半分ほど口に含む。味に異常はない。舌に痺れなどはない。胃に落ちた後、痛みなどは走らない。それを確認しつつ。
ソーニャが頷くのを見て、メルティも自分の分を口に運ぶ。溶けた米粒を包む酸味が舌を刺した。
「…………」
危うく文句を口にしそうになり、懸命にメルティは口を閉ざす。ソーニャが食べている。ならばこの味はきっとおかしなものではないのだ。そう自分に言い聞かせながら。
その主の仕草に、ソーニャの胸中は複雑になる。
市井の料理と王城の料理の違いは多岐にわたる。味付けも、性状も、料理が運ばれてくる順番も、何もかもが違う。
その違いに、未だにメルティは慣れていないのだ。わずかな量で満足感を得るための特徴的な味付け。体を温めるためのとろみのある粥。それら全てに経験が浅い。温かな王城で、順々に運ばれてくる絶品の料理に舌鼓を打っていた彼女は。
けれど
「美味しい……ですわ……」
これが庶民の味。今まで自分が知らなかった。わざわざ不味いものを出す店など存在しないことはメルティもわかる。ならばこれが庶民が美味しいと感じている味なのだろう。
味はともかく、喉から腹に落ちていくにつれて体が温まるのはわかる。絢爛豪華な食事のほうが何万倍も良いものだとは思っても、メルティにはもはやこの味を否定することは出来なかった。
「……そうですね……」
ソーニャも、主の忍耐を感じて微笑む。城で暮らしていたときであれば、口をつけることもなくメルティが皿を投げていただろう粗末な皿。それが、今の自分たちにふさわしい食事なのだ。
食事を終えて席を立つ。厨房に向けてソーニャが会釈をすれば、そこから顔を覗かせた従業員が、足を速めてソーニャたちの前に立つ。
「……。何か?」
「いえ、見ない顔なので、もしかしたらお二人さん、宿を探しておいでじゃないかと」
従業員が笑いかける。ソーニャに、そしてメルティに。
「ああ。だが、この街には宿がなさそうでな」
「そういう日もありますもんね。でも、でしたらいいところが」
「ほう」
手放しに飛びつくことは出来ない話。だが、ソーニャはその言葉に耳を傾けた。宿の高望みも今はしない。それこそ、軒下を借りることになる治療院よりもましならば、メルティを宥めながらそこに決めようと思っていたほど。
ソーニャの興味ありげな反応に、従業員も顔を明るくする。
「私の妹が家族でやっている宿なんですが、私の紹介だといえば一部屋なら開けることが出来るかと思います」
「一応行ってみよう。どこだ?」
一通り、この街では探したはずだ。もしも既に訪ねたところであれば断ろう。そう考え、話の先を促す。従業員はその声に応え、飯屋の扉を少しだけ開けて道を示した。
「ここから通りを右にずっといって、鍛冶師の鍋の看板を左へ。そこから……」
「…………」
「……」
「なるほど。わかった」
聞き終えて、まだそこは行っていないと判断したソーニャ。聞けば、少し細い通りの路地の奥にあるという。客を取る気のないような立地にわずかに違和感を覚えたものの、宿というよりも農業をする傍らに部屋を貸しているような民宿で、客を取ることもあまりないと聞いて納得した。
「すまない。これは礼だ」
「いえ」
投げ渡された銅貨を握りしめ、従業員は首を振る。その震える手を横目にソーニャたちは飯屋を出る。とりあえず、宿に向かおう。言葉も交わさず二人でそう判断して。
「良いところなのでしょうか?」
「今は屋根があれば納得するしかないですね。申し訳ありませんが」
歩きながらも、やはり少しの心苦しさは残る。温かい寝台に、心置きなく暖炉が焚かれた温かい部屋。そんな場所でメルティを休ませられない力不足に。
気づかず、ソーニャも慣れきっていた。
メルティのために、力を尽くす環境に。
言われたとおりに何度も道を曲がり、確かめながら道を進む。
雪が積もり肥大化する建物に合わせてこの国の路地は広い。路地に入っても、開けた空に寒々しさを感じた。
しかし、従業員に教えられた宿を目指すうちに、その路地もだいぶ狭くなる。隣通しの雪が密着し、道がどんどんと塞がれるように。
そんな中、二人の足が止まる。
「…………?」
「どうしましたか? ソーニャ」
眉を上げる家令にメルティは問いかける。その家令が警戒し、身を固めたのを無意識に感じ取って。
視線の先には、言われたような建物。だが、その建物の扉を見てメルティも不可解さに一歩後ずさった。
手入れもされていない、半壊した扉。上部にある木窓は風に吹かれてばたばたと開閉し、寒々しい音を立てている。
煙突から煙も何もなく、どうみてもそれは……。
「…………!」
舌打ちをしながらソーニャは振り返る。
謀られた。そう瞬時に反応して。ここは袋小路。建物を越えて逃げるか、それとも来た道を戻るか。建物を越えるとしたらどちらの方向がいいだろう。
相手は、手勢はどの程度だろう。罠が張られているとしたら、どちらに。
最低限の武装はある。だが、対抗できる敵だろうか。最悪、この身を盾にメルティ様を逃がして……。
だが、その判断もそこで一時停止した。
メルティの肩越しに、袋小路の入り口が見える。そして、そこに立っている男も。
「…………さっきの……!」
ソーニャの声に反応して、メルティも振り返る。そしてそこに立っていた先ほどの飯屋の従業員を見て体を固めた。目に入っていたのは従業員の男。それに、その手に握られていた刃物だった。
ソーニャがメルティを隠すよう、背の後ろに誘導する。まずは出方を探らなければ。建物を越えた先、そこに手勢が潜んでいれば目も当てられない。
「……どういうことだ」
「すみません、少し嘘をつきました」
ため息をつきながら、男は刃物を揺らし、そして廃墟を見る。
「ここに、宿はありません。今は、もう」
「…………」
二人を見る。今度は、笑顔はなかった。
「そして、お久しぶりです。ソーニャ・ロゴシュキン様。……メルティ・アレクペロフ様」
「私たちの素性を……!」
ソーニャの反応を見て男は頷く。その顔に、わずかに悲しみを浮かべて。
「やはり、お忘れでしたか。私も昔、王城で働いていたのに」
「……?」
「まあ、当然かもしれません。革命より前、横領で罷免された下級官吏の顔など覚えてはいらっしゃらないのも」
「……申し訳ないが、その通りと言わせてもらいたい」
メルティは言わずもがな、ソーニャも王女付きの家令ということもあり、高級官吏に数えられる一人だ。関わる人間は常に百を超え、しかも常に入れ替わり続けていた。仮に王城で共に働いていた仲とはいえ、覚えていない者ももちろん多い。
それはソーニャが、明確にマリーヤに劣っていたところだ。
男は一歩近づき、廃墟を見上げる。懐かしそうに。
「ここが妹の嫁いだ先の家族がやっていた宿というのは本当です。……全員が、飢え死にしておりますが」
飢え死に。そう聞いて、メルティの顔が青ざめる。自分がそうなることを想像したわけでもない。この、今回の行動に及んだ理由を想像して。
ソーニャもすぐにそれは察した。
「……復讐か」
恐れていたこと。それが起きた。メルティを嫌う民衆の一人が、行動を起こした。それを感じてソーニャも一度周囲を見渡した。
この男以外に気配はない。ならば、単独犯か。ならば撃退は容易い。
「復讐と言ってもいいのでしょうか。私も王城で働いていた以上、事情は知っています。メルティ様におかれましては、私は罪がないと思っています。いつか優秀な次代の王に娶られるその日まで、メルティ様は安らかに暮らしていただかなければいけなかった」
「ならば、何故」
「でも私は、我慢ならない」
無表情で発せられた言葉に、ぴしりと空気が震えた。逆に、その刃物の先は動きを止めたが。
「私が横領したのは、国庫にあった穀物数袋です。もちろん、それはいけないことだとわかっていた」
「その、行き先が……」
ソーニャも廃墟を横目に見る。全て、その話の続きを察して。
「まだあの吹雪の一年前、法が苛烈になる前で、私の命は助かった。その後同じように穀物を横流ししたマリーヤ様のお父君は斬首になってしまわれましたが」
「それの何が、気に入らない……!」
彼は、彼自身が認めるとおり法を犯した。ならば、罰せられるのは当然のことで、命は助かったと喜ぶべきところであるだろう。ソーニャはそう考えた。
だが、男は首を横に振る。
「市井に降りて、どれだけ働いても彼らを養うには足りなかった。蓄えもすぐに底を尽き、妹も、その旦那も、そして、その小さな息子も……」
また一歩男が二人に近づく。ソーニャは袖の中の小刀を準備し、備えた。
「飢えると皆、浅ましくなるものですね。私たちは皆、子供よりも大人たちを優先してしまった」
男がそのときの光景を思い出す。
少ない穀物をふやかして増やし、椀によそう。そんな夕食のある日、『これだけ?』という小さな子供の目から隠すように、皆が自分の分を掻き込んだそのときを。
「全員死にました。私以外、骨と皮だけになった乾いた姿で」
自分が死ななかったのはただ幸運だっただけだろうと今でも思う。官吏だったときに、まだ栄養がある食事をしていたから。ただ、三人よりも少しだけ飢えに強かったから。
「甥はとても軽かったです。吹雪前には、『だんだんと重たくなってきたね』と抱き上げたりしていたのに」
大きくなるのが楽しみだった。時折この街にきては、既に死んだ両親の代わりに、その孫と遊ぶのが自分の役目だとも思っていた。
男が笑う。乾いた笑顔で。
「だからこれは、復讐ではありません。単なる、八つ当たりです。当時の過酷な状況の中、幸せに生きていた貴方たちが許せない。そんな、単なる、八つ当たり」
「馬鹿な!」
ソーニャが構える。戦力の調査は終わった。目の前の男を打ち倒せば追撃はない。もしくは壁を跳んで逃げてもいい。その場合は投擲に注意すればそれだけで。
「……ならば、私を殺しなさい」
「メルティ様!!」
だが、そんな逃走の考えも霧散する。ソーニャを押しのけるように、メルティが一歩踏み出す。後数歩で、刃物が刺さる距離だ。
「何故です?」
「……当然の権利だと、思うからです……」
もう一歩近づく。声も足も震えたまま。
「ごめんなさい。貴方たちのことなど、私は一切知らなかった」
「今更謝られても困ります」
男が唇を結ぶ。だがついに、その刃物がまっすぐにメルティを向いた。
「私は、自分の身すら自分で傷つけられない弱い女です。一度試して、それでも駄目だった。ならば、貴方が刺せばいい」
メルティの目に涙が滲む。自分の首に刃を突き刺す。マリーヤの本音を聞いた夜、その程度すら出来なかった。ならば、もう誰かにお願いするしかない。
「刺しなさい」
「……そんなこと!」
ソーニャがメルティの肩を止める。そのまま引きずるように身を寄せれば、そのメルティの体はとても軽かった。
「……っ!!」
「スニッグに行くのではなかったのですか! マリーヤに会うのではなかったのですか!」
「でも、私は……」
「うるさい!!」
男が叫ぶ。目の前の光景に理解が追いつかず。
「どっちでもいい! お前らが死ねばそれでいいんだ! 妹も、甥も、きっと喜んでくれる!」
「お前の事情など知るものか!!」
ソーニャも男に叫びかえす。このままこの場を長引かせるのは危険だ。命を奪いたい相手、奪われたい相手、きっと利害が一致して、ソーニャの不本意な結果に終わる。その前に終わらせなければ。
「ソーニャ!!」
「聞けません、今のメルティ様は錯乱しておられます!!」
「くそ!!」
男が刃物を手に飛びかかる。逆手に持たれた包丁の切っ先が、迷いなくメルティへと向かう。
「させぬ!」
だが、その程度の動きであればソーニャは何とでもなる。わずかに闘気を込めた手刀が男の手首を打ち、包丁が取り落とされる。
そのまま足を刈り、手首を押さえて地面へと体を投げてうつぶせに転がす。流れるような動きは警備のために培った嗜みだ。
最後に一撃、意識を刈り取るために。躊躇は出来ない。以前見た、貧民街の少年のように。
「……!」
「ソーニャ! やめて!!」
だがその掌打は後頭部へと届かない。振り下ろされる瞬間に聞こえた主の叫び声に、ソーニャの手がぴたりと止まった。
ソーニャの掲げられた手。その手首が冷たい手で包み込まれる。
「命令です。この人を、傷つけないで」
「……しかし……!!」
反駁するために見返した主の目。その目を見て、ソーニャは息を飲んだ。
「お願いですから。……お願い……」
「…………っ!」
ただの一言。命令と付け加えられてはいるが、この際そんなことは気にもしていられないはずだった。だが、ソーニャの手に添えられたメルティの冷たい手に、それを振り解く気が失せていった。
二人は立ち上がる。ソーニャは手首を固めて男を拘束しながら。
「……命拾いしたな」
「……殺せよ……。王族を狙った凶賊だ。裁判するまでもなく、死罪と決まってる」
「もう、私は王族ではありませんわ」
言い放ったメルティを男は睨む。この体が動けば噛みついてでも殺してやるのに。だが、ソーニャの点穴か、それとも何か別の要因か、雪に押しつけられた男の体は既に萎えていた。
「この街を出ましょう」
「……ええ」
「急ぎます。失礼を」
片手でメルティの体を抱き上げて、ようやく男の手首からソーニャの手が離れる。その行為を見て、メルティは何故か安堵した。
「貴様は本来許されないことをした。だが、寛大な処置に感謝しろ」
「……感謝などするものか……」
振り返らずソーニャが言い放った言葉に、男は言い返す。その掌で雪をかき集めながら。
握りしめた拳の中で雪が溶けて水に変わる。この液体が、目の前の女の血だったらどんなに温かかったことだろう。
ソーニャは路地の来た道へと走り出す。その足に闘気を込めて、足を雪に埋もれさせず、飛ぶように。
腕の中で、メルティがソーニャの冷たい顔を見つめているのを無視しながら。
「……メルティだ!! メルティ・アレクペロフがいるぞぉぉ!!!」
地に伏したまま、渾身の力で叫ぶ男。その声を聞いても、メルティは耳をふさぐ気にはなれなかった。
近くの建物の中で、反応する音がした。まずい。やはり気絶させていくべきだった。そう後悔しながらも、ソーニャの足は止まらない。
出来る限り人目につかない道を。最高速度で。今考えるべきはそれだと思考を打ち切った。
風を切る感触の中、メルティは目を瞑る。
男の声が耳に響く。許せない、そんな怨嗟がまだ残っている。
許されないことをした、そうソーニャは言った。
しかしそうではないと、心の中で反駁する。
許されないことをしたのは。
きっと、本当は私。