閑話:夜道
カラスが立ち去り、火の消えたように静かになった路地裏。
そこに乱雑に積まれた木箱に座り、その後ろ姿を見送っていたハイロは、じっと往来を見つめたまま動かなかった。
「…………」
それでもやがて、緊張の糸が切れる。貧民街で育った者が基本的に備えている危険察知能力。その察知できる範囲から、その『強大な脅威』が完全に消えたことを感じとり。
崩れるように木箱に改めて腰を落とす。浮いた重心がずれるだけで、落下したかのようにハイロは感じた。
「……あぁー! 怖かったぁー!!」
小声でそう叫ぶ。まるで権力者との会合を終えた木っ端役人のように。
相手は気のいい友人だ。怖がることはありはしないし、そうするのは失礼だろう。そうは思う。だがその解けた緊張に、今になって手のひらに汗が浮いた。
「さっきの笑いかた、あれだろ、絶対キレかけてただろ」
最後の方で、カラスが浮かべた笑みをハイロは思い返す。『理由はわかった』と口にしながら浮かべた笑顔。その後の、理解を否定する言葉の方が真実だろう。
その『気のいい友人』の弁護をするならば、たしかに彼との口論をしたこともあるし怒ったこともある。だが、それでも彼を意図的に傷つけるようなことをしたことはほぼないと言っていい。深刻な傷を残すようなものに限れば皆無だ。
しかし、ハイロも学習はしている。これまでの人生で幾度となく出会ってきた人々のうち、カラスのような人間の傾向は。
長いため息をつく。今日一番の疲れを吐き出すように。
何度か彼の、カラスの噂話は聞いたことがある。
曰く、探索者としては有能。このイラインで衛兵や騎士に権威ある月野流の剣士との野試合に無傷で勝つことのできる腕前。神話の生物に近い竜を単独撃破するという途方もない戦闘能力。ハイロの聞いている限りは人の口に上ることは少ないが、それでも上がれば大抵は褒め文句だ。
しかし、その中にも人柄に関する噂もある。そちらは褒める言葉は少ない。
いつも薄ら笑いを浮かべて、何を考えているかわからない。言動に柔軟性がない。魔物の変異種なのかもしれない。等々。
最後のものは明らかにあり得ない。カラスは間違いなく人間だ、とハイロも思う。その言葉を口にした男を殴りつけて、衛兵のお世話になりそうになったことを思い出して苦笑した。
そして最初の噂。それにも否だとハイロは思う。
たしかに、表情には乏しいのかもしれない。素直に顔に出るのは、『驚愕』の感情くらいだ。けれども、それだけではない。
楽しそうに笑う。悲しそうに眉を顰める。目の端をつり上げて怒る。悔しそうに唇を尖らせる。よく見ていれば、そんな変化はいつもあるのだ。
薄ら笑いは微笑みを浮かべているだけだろう。下手ではあるが、ハイロも最初はそうだった。
気づく者は見ている。人間としての彼の表情を。そして、気づかない者は見ていないのだ。魔法使いという対象が、人間だとは見なしていないだけだ。そうハイロは思う。
虎の表情を見破ることができるのは、虎だけ。そういうことなのだろう。
カラスは人間なのに。
そこまで、支離滅裂ながら考えて、またもう一度ハイロは背筋が凍る思いだった。
先ほどのカラス。あれは怒る寸前だった。
それも当然だと今更になってハイロは思う。
世話になった人間に死んでほしくない。そう思うのは当然だ。そして、それが理解できない人間がいるのも当然だ。見解の不一致。そこまではいい。
だがそこで、理解を示さない自分に苛つくのは当然なのだと思う。
もちろん、怒ったところで彼が何をすることもないだろう。怒りに任せて暴力を振るう人間。そんな、貧民街染みた発想をする友でもない。
だがやはり、怖かった。
その拳が、その爪が、自らの首を容易に刈り取ることが出来ることを想像すれば。
申し訳ないとは思いつつも、やはり心の奥底から消せない思いはある。
相手は、魔法使いだ。
魔術師と魔法使いの違いをハイロはわかっていない。
だが、ともに人知を越えた魔力というものを使い、超常的な現象を引き起こす存在だとは知っている。職人たちから聞いたことがある。一つの金槌で五百の剣を瞬く間に打ち上げた魔法使いや、鍛え上げられた刀剣をまるで菓子のように味わう魔法使いの逸話。
カラスは人間だ。たしかに、その通りだ。
しかしそれでも魔法使いだ。本気で怒らせたらまずい相手だと、きっと怯えている。
本当は、そんなことはない。
激怒してもカラスは何もしないだろう。嫌みを口にしたり、罵声を浴びせる程度はするかもしれないが、それでもそんな理由で自分の命を奪うことはない。その程度の信頼はある。
「……やっぱ……」
もう一度、ハイロはため息をつく。見ないようにしていた内心が、目の前に現れたのを感じ取り。
「……羨ましいよなぁ……」
自分には何もない。もしも自分に魔法の力があれば、自分も何か凄いことが出来たのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。そうすれば、もう少し人のためになるようなことをして、そして人に尊敬される生き方も出来るのかもしれない。
酒場の人の口の端に、自分の名前が上ることもあったのかもしれない。
『もしも魔法の力があれば』と、ハイロはそう考えてしまっていた。
十年後には三十歳だ。
自分に三十歳なんてものがあるなんて、あの頃は考えもしなかった。だが、今は考えなくてはいけない。三十歳になった自分がどうなっているか、どうなっていたいか。
今のままでは、確実に来るのだ。三十歳。そして、四十歳。お伽噺に近いと思っていた体験をしなければいけないのだ。
……とりあえず、もう少しどこかで飲んでいこうか。
考えるのは嫌いだ。
明日の仕事に遅れそうなことも忘れ、ハイロはそう考えた。
同時刻。
松明の明かりが途切れない通りに、二人は歩いていた。
リコとモスク。一人の魔法使いの影響で引き合わされた、それなりに気が合う仲間たちだった。
世間話もいつもは弾むが、今日はしない。
何の原因があるわけでもない。ただ、二人ともにそんな気がないだけだ。
酔いが進んでいるモスクの足取りはややおぼつかないが、それでもしっかりと歩いている。まるで酔っていないように確かな足取りで歩くリコには及ばないが。
「それにしても」
「……ん?」
やや後ろから話しかけたモスクに、リコが笑って振り返る。普段見せない種類の笑顔に、モスクは困惑が隠せなかった。
だが、その原因は『あれ』だろう。そう、先ほどの宝石を思い返す。
そしてその笑顔に、本当に話しかけようとした話題は口に出せなかった。
「……いえ。豪儀なもんですよね、あんだけでかい宝石をお土産なんて」
「カラス君は昔からそんな感じだよ。素知らぬ顔で派手なことをするんだ。昔から」
リコは思い返す。昔、ピスキスで調和水の採取を依頼したときのことを。
水平線の先で、真っ昼間にもかかわらずまばゆい光が走った。水兵たちが大騒ぎしていたことが昨日のことのように思い出される。
心配した。何が起きたのかと。何かが起きて、彼の身に何かが起きてしまったのかと。自分のせいで、大事な友人が怪我をしたのではないかと。
「自分がやってることを過小評価するんだよね、昔から」
昔から、とリコは何度も繰り返す。彼が変わっていないことを、自らの心に弁解するように。
「無頓着って言えば悪いけど、きっと、優しいんだと思うよ」
「優しい……っすか」
どちらかといえば、馬鹿なことを、とモスクは思う。自らのもらった宝石。あれだけの大きさの瑠璃といえば、金貨数枚は堅い。それだけあれば、何が出来るだろうか。
もっとも、その程度を気にしない程度の財力があることも知っている。石ころ屋の工作員から何度か聞いた。グスタフのお気に入りには、それだけの価値がある。
「……さっきは二色あったけど、モスク君はどっちをもらったの?」
「俺……は青ですけど、もう少し白っぽいやつですね」
「へえ」
昼のことを思い返し、モスクはその色を心に浮かべる。思えば、あのときは自分は選んでいないのに。
まあ、別にいいだろう。宝石という以外に、自分にはあまり価値を見いだせない。ならばどれであろうと一緒で、どれであろうともきっと身につけることもないだろう。
「薄青色の瑠璃には、『神聖な仕事』って意味があるんだ。きっと、仕事がうまくいくよ」
「そうなればいいんですけどね」
モスクはそうした力を信じない。魔力の介在する現象の存在は信じても、神や妖精などはいないと信じている。故に、リコのそんな言葉も話半分に聞いていた。
リコもそれはわかっている。そういう縁起を信じるものは少ない。故にモスクにそれを信じることも迫らない。
だが、一応モスクもそれに乗る。
「それで、紅玉には『恋愛成就』っすか。叶うといいですね」
「叶うといいよね。でもハイロの想い人って、リドニックに帰っちゃったって言うから……」
「まだあの人それ言ってるんですか」
リコが困ったように笑う。そのことをハイロに聞いたときは、さすがに諦めることを諭したものだ。
相手の『メルティ』という女性は、リドニックのご令嬢。国をまたぎ、そして身分差もある相手。もう無理だろうと誰しもが思う。
ハイロもそれには同意した。もう無理だ、諦めようと。
そして、同意しようともまだ諦めていないことはリコにはわかる。未だに残る未練。それを晴らす機会がもう絶望的なのが悲劇だったが。
その姿を間近で見てリコは、心底くだらないと思った。
その秘密は、誰にも言っていない。
通りがかった酒場から、酔っ払いが歩み出る。
それを静かに躱し、二人は歩き続けた。
「……なら、青い瑠璃はどんな意味があるんすか?」
「青い瑠璃はね……」
言いながら、手を腰の隠しの中に入れて宝石を弄ぶ。磨けばそれなりになるだろう。人に頼むのもいいが、自分でやってみてもいいかもしれない。専門の職人には劣るが、職場にも一応加工する道具は置いてある。
彫金は専門ではないが、装飾品から作ることが出来れば……。
「……リコさん?」
「ん? ああ、ごめんごめん」
宝石の感触に、少しだけ考え込んでしまったリコはモスクに謝罪する。会話の最中にもそういったことを考えてしまうことが、未だに直せない癖だった。
「酔ってるんですか?」
「はは、そんなに酔ってないよ」
少しばかり気が大きくなっているモスクがジト目でそう問いかけるが、リコは笑って受け流す。実際に、リコはほとんど酔っていない。酒の強さも、飲んだ量もモスクと変わらないはずだったが。
話題が途切れた。そう感じたモスクが視線を横に向ける。
路地の奥。松明の明かりがやや途切れた先に立っているのは、女性。
五番街でも表通りと路地で店の客層や店の種類は異なる。同じ酒場でも、通りにあるのは大人数が入れる酒場、路地には一人二人を相手にした静かな小料理屋染みた店、と分かれるものだ。
そして路地の奥にある店は、夜間でないと営業しない種の店が多い。
店先に、扇情的な衣服を纏った女性が立つその店も、また。
「……行きたければ行けば?」
「いえ、今日は遅いんで」
今度はモスクが笑い飛ばす番だ。目が奪われたというのは否定できない。だが、最初から行く気はなかった。
ましてや、そういったものを毛嫌いしている目の前の友人の前で、入る気はない。
「そう」
リコは無意識にやや足を速める。そんな店を視界に入れたくもなかった。
二人の前で、一人の酔っ払いが吸い込まれるように路地へと入っていく。
その路地の先にあるのは、賭場と娼館。そのどちらに入るか、二人にはわからないが想像はついた。その足取り、そしてにやけた顔。まして、酔った状態で賭場に入るのは娼館にもまして危険きわまりない。
「……何で、みんなああいう場所が好きなんだろうね」
「男の性っちゃ性ですからね」
見目麗しい女性がいたら、目で追ってしまう。触れたいと願ってしまう。それは、多くの男性には避けられない性だ。もちろん普段はそれを理性で抑えてもいるが、もしもそれが許されている場所であれば、その欲に忠実になるのはけして悪いことではない。
女性側であっても、魅力的な男性に目を奪われるのと同様。性別の問題ではない。それは、生き物としての性だ。
しかし。
「ま、男じゃなくちゃ、なかなかわかんない感覚でしょう」
回数制限があることもあり、そして衛生的な問題もあり、男性が接客する女性向けの娼館は少ない。故に多くの娼館は男性に向けて作られており、女性が理解できないというのもまた事実だった。
「…………」
「…………」
双方が無言になる。リコも、反論する気はない。モスクも反論を待っているわけではない。だがその話題の繊細さに、どちらも口を開きかねた。
石畳をこするような足音だけが響く。
そして先に、モスクが意を決して口を開いた。
「そろそろ、言わなくていいんですか?」
「……何を?」
リコが聞き返す。何を、とも言わないモスクの側に責任があるのだが、それでもモスクは直接口に出来なかった。
「さっき、ハイロさんも言ってましたよ。『男四人じゃ華がない』みたいなこと」
「……ああ……」
まだ気づいていないのか。そう思ったモスクは、思わず笑ってしまった。もちろん、その『華』が、『華』として扱われるのを望んでいないことも知っていたが。
「あいつは気づかないよ。……カラス君は、どうだろうね」
「気づいてないんじゃないですか?」
根拠のない言葉。だが、事実だとモスクは思っている。
そもそも、モスクも初対面では確信できなかったのだ。何度か会ううちに、わずかな違和感を増幅させて、そして冗談交じりにようやく聞けた真実。
その真実を、何故リコが黙っているのかは知らない。だがそれは、ハイロにすら秘密にしておくべきことだろうか。
「そろそろ言っておかないと、『騙された!』ってハイロさん騒ぎそう」
「モスク君には、聞かれたから答えただけ。それに、気づかないならそれでもいいんじゃない? 今まで通りで」
また足が速くなる。風景すら見ないように。
「俺は別に、気づかれようが気づかれまいがどうでもいいけどね。だけど、一応、言わないでおいてね」
「……それはわかりましたけど……」
人の秘密はむやみに暴くものではない。その秘密が、知った者、知られた者に関わらず人を殺すことがある。そういう社会にまだ幾分近いモスクは、静かに頷いた。
「男とか女とかどうでもいいじゃん。そんなに気にすることないし」
「俺もまあ、どうでもいいですけど」
それに、確かにモスクにとってもどうでもいい話だ。今まで通りの付き合いをするし、忌避感を抱く謂われもない。彼にとってその話は、『友人の体に痣がある』程度の秘密の話にしかなり得ない。
「……それにね……」
リコが足を止める。また路地の奥には、娼館があった。
「俺は、あんな奴らと同じにはなりたくない」
一歩先んじたモスクは振り返る。そしてその表情を見て、背筋が凍った。
全身の毛が怖気だつ。
笑顔の似合う、麗人とも言える友人の笑みが、怨嗟に染まっている様に心底怯えた。
まるで、昔笑い女に遭遇したときと同じか、それよりも酷い恐怖。顔の作りはいつもと同じく、表情筋の動作まで、きっと変わらない。
しかしまるで別人に変わってしまったかのようなその表情を振り払おうと、モスクは目をそらし何度も瞬きを繰り返した。
暗闇に、歩み寄る足音が響く。一瞬だが、別人と化したリコが隣に並ぶのを、モスクは感じ取っていた。
おそるおそる目を開いても、先ほど話していたときと同じ人物だ。何も恐怖を覚えない。だが、先ほどは確かに……。
「ねえ、さっきの話だけどさ」
「……さっきの?」
軽い口調で話しかけてくるリコ。それに物怖じしながらも、モスクは返す。さっきのとはどの話か、などと考えながら。
そんなモスクに、リコが宝石を示す。伸ばした人差し指と中指の間に挟まれたその宝石は、松明の明かりの下でも青く光って見えた。
「青色の瑠璃の話」
「……あ、ああ、ええ」
おまじないの話か。そう考え直したモスクは、先ほどの恐怖を忘れようと意識的にそちらに意識を向ける。眼鏡のずれがやけに気になった。
そんなモスクを気にせず、リコは先を歩く。そして、宝石を松明の明かりにかざしながら、笑顔を作った。
「青色の瑠璃はね、『永遠の誓い』って意味があるんだ」
「永遠の……?」
繰り返したモスクに、リコは頷く。その顔が、モスクには少しだけ悲しそうに見えた。
「みんな、ずっと仲良くいれたらいいよね」
ぽつりと呟かれた言葉。
その言葉に応えようと、モスクは喉の奥から声を絞り出し、「そうですね」と一言だけ返した。